平穏な日常に隠れた不穏
「じゃあその後、画家の彼氏さんとは上手くいってるんですね」
アユリカが、惣菜を買いに訪れたイリナにそう言った。
ショーケースを覗き込みながら近況報告をしていたイリナが顔を上げて肩を竦める。
「まぁね。私に捨てられる恐怖心から人が変わったように創作に打ち込んだり家事も率先してやってくれるようになったわ」
「雨降って地固まる、ですね」
「正直、今でもあの朝の光景が忘れられなくて胸くそ悪いけどね。だからこそ間近でネチネチと虐めて復讐してやろうと思ってるの」
「イリナさん、逞しい……!」
アユリカは惣菜を渡しながらそう言った。
今日イリナが買い求めたのは、‘’本日のオススメ、ビネガーポークソテー”である。
ポミエの特色は、パイナップルではなく林檎を玉ねぎやピーマン共に豚肉と炒めているところだ。
魔女の林檎は不思議なもので、料理によって甘さや酸味、硬さや水分量が変わるのだ。
ビネガーポークソテーのために、林檎は酸味のあるしっかりとした食感のものへと変化した。
今の惣菜屋ポミエの味を支えているのは間違いなく、魔女の林檎の木の林檎だろう。
代金を支払いながらイリナが言った。
「私の事ことはもういいのよ、それより!昨日私がこの店で見たあの若いイケメン聖騎士は誰なのよ!」
「あ、あぁ、彼は……」
イリナが言う若いイケメン聖騎士とはハイゼルのことである。
先日、初めて店を訪れてから三日。
ハイゼルは毎日のようにポミエに惣菜を買いに来る。
近くのアパートで一人暮らしを始めたというハイゼル。
料理ができない彼にとって、昔から馴染んだアユリカの味であるポミエの惣菜は暮らしを支える糧となっているようだ。
だけど店に来る度にあぅあぅと何か言いたそうにしているのはなぜだろう。
こちらから訊いてあげたくても、一番客の多い夕方の時間帯なのでそういう暇もない。
そしていつも、他の客の相手をしている間に帰ってしまっているのだ。
おかしなハイゼル。
「彼は幼馴染なんです」
きちんとそう言えたことに、アユリカは一抹の寂しさを感じながらも安堵していた。
ようやくハイゼルが望んでいた関係に戻れた。
これならもう、彼を困らせることもないだろう。
その時、ポミエのドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ。……あ、サーニャさん……」
「げ、」
小声でそう言ったイリナの声が耳に届く。
声には出さなかったが本当はアユリカも同じ気持ちだ。
セィラの平穏な暮らしを脅かす義妹であるサーニャ。
彼女がここに居るということは、また兄夫婦の家へと押しかけて来たのだろう。
警戒心を抱きながらも、そこは商売人としてそれは噯にも出さずに、アユリカはサーニャに声をかけた。
「いらっしゃいサーニャさん、何かお求めですか?」
「どうも。お兄ちゃんに美味しいものを食べさせてあげたくて。何か適当に見繕ってほしいの」
高めの声であるサーニャが楽しげにそう言ったのを受け、アユリカは彼女に尋ねた。
「……お兄さん、ラペルさんの食事の支度を?セィラさんは具合でも悪いのですか?」
「いいえ?というかよくわかんないわ。でも妊婦さんて食事の好みが偏ったりするんでしょ?それを押し付けられるお兄ちゃんがカワイソウだなと思ったの。だから私が居る時はお兄ちゃんの食事の支度は私がするわ♪」
それを聞き、イリナが堪らずといった感じで口を挟んできた。
「それって勝手に?ラペル氏は了承してるの?」
「あなたダァレ?……まぁいいわ。お兄ちゃんは私がすることはなんでも喜んでくれるんだもん」
だから大丈夫よ♪と機嫌よく返すサーニャに、アユリカもイリナも呆れてものが言えなくなった。
「これは……きっと近いうちに嵐が起こるわよ……」
イリナがぽつりと、不穏な言葉をつぶやいた。
セィラの平穏な暮らしに立ちはだかる不穏な影。
アユリカは彼女の無事を祈らずにはいられなかった。
そして不穏とまではいかなくても、
アユリカの平穏な暮らしに起こったイレギュラーな出来事。
「ア、アユリカっ……少しだけでいいから、話を聞いてくれないか……」
閉店して、そろそろ住居として借りている二階に上がろうかと思ったその時、
突然ハイゼルが訪れてそう言ったのであった。