地獄のような苦しみ
ドッドッドッドッ………
部屋に到着してから走り出していた鼓動は、彼がおでこにキスした瞬間から加速した。
まるで工事現場で使用されてるドリルのように早く細かく刻んでいく。
スローモーションのように接近して来る彼。
息が触れる度に悪魔の囁きが本領発揮していく。
恋人の第一関門のキスは二度経験した。
でも、交際3日目で次の段階なんて進展が早過ぎる。
聞いた話によると、恋人が男女の仲になるには大体3ヶ月くらいかかるとか。
でも、私達はまだ交際を始めてからたった3日目だから、3ヶ月なんてまだ全然先なのに。
……いや、待てよ。
よく考えてみたら交際を始めてから3日目じゃない。
正しくは、再スタートをきってから3日目。
私達は過去に交際してたから、二度目の今は別れた期間は短縮されてるって事?
あ〜っ、訳わかんない。
もう次の段階なんてついていけないよ。
愛里紗は既に頭がパンク状態だが、迫り来る現実にも対応しきれない。
しかも、ベッドに沈めている右手とは逆の左手は、顔を触ろうとしてゆっくり近付けてくる。
右頰を押さえてキスでもするつもりなのかな。
プロ級な迫り方からすると理玖は既に経験済みかもしれないけど、キスさえ慣れてない私はどうしたらいいのか……。
しかもキスだって理玖以外の人としてないのに。
神様……。
今すぐに子羊のような私をお助け下さい。
愛里紗は窮地に追い込まれるあまり神に祈り出したが、つい先ほど家に上がった際に理玖の母親が言ってたある言葉を思い出した。
『ごゆっくり』
考え過ぎかもしれないけどさっき言ってたのは、そういう意味だったのかな。
いや、それは絶対違う。
いくら何でも子供に向かって破廉恥な事を言うはずがない。
だけど、暴走がエスカレートの一途を辿る私の脳内は、もうどうしようもないほど病的クラスだ。
愛里紗は目を凝視させたまま胸の前で手をクロスさせているのだが、理玖の顔がググっと20センチ手前まで迫ってきた時。
必死に身を守り抜こうとしている愛里紗と、伏せ目がちで愛里紗の顔に手を近付けて来た理玖は、二人同時に別々の言葉を発した。
「愛里紗、髪にゴミがついて……」
「私っ……。じらしてるとかそんなんじゃなくて……。いっ、いま生理中だから」
愛里紗の髪に付着しているゴミをつまんだ理玖は、ガッシリ身を固めたまま訳わからない事を言い出した愛里紗に言葉を失う。
えっ……。
髪にゴミ?
ゴミって、一体何の事?
愛里紗は異なる言葉を聞き取った瞬間、頭が真っ白に……。
頻りに繰り返されていた悪魔の囁きは、現実と引き換えに消えた。
おかしいと疑っていた理玖は正常者であり、おかしくないと思っていた自分は異常者。
失態は非常に悔やまれるところだ。
よくよく考えてみると、1年以上も私だけをまっしぐらに待ち続けていてくれた理玖が、付き合って3日目に食らいつくなんて考えにくい。
一瞬理玖はオオカミの香りだと思ってしまったけど、やっぱり柔軟剤の香りしかしない。
だが、本当の地獄のような苦しみを味わうのは実にこれから。
もう取り返しはつかない……。




