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詩織ちゃんの憂鬱

作者: なつみかん

二〇二〇年四月一四日 朝七時五分

ご飯を炊く匂いが漂ってきた。窓の外は車が忙しく行き交い、遠くでは線路をはしる電車の音も聞こえる。真鍋詩織まなべしおり)はゆっくりと目を開けると、窓のカーテンに目をむけた。カーテンの隙間から入る外の光をみて少し憂鬱そうな表情を浮かべた。


(そろそろ起きなきゃ)


詩織はそろりとベッドから足を床に下ろし、上体を起こすとそのままベッドの縁に座った。

備え付けのベッドテーブルにあったヘアゴムを手に取り、髪を上に結ぶ。


「ふぅ……」


大きなため息が漏れたと思うと、再びベッドの布団に上体を投げ出した。


「今日は何しようかなぁ」


誰に聞かせるでもない言葉が口からこぼれた。。

 三月二日に始まった休校は、一か月経った今も続いている。思いがけず訪れた長い休みは、新型コロナの感染予防のための休みであることは理解していたし、喜ぶことではないことはわかっていた。しかし教室の隅で休み時間のたびに図書室から借りた本をひらき、たまに声をかけてくる同級生と二言三言の言葉を交わすだけの毎日…… それならうちでゆっくりと好きな本を読んでいたい。そう思った詩織は何の煩わしさもないであろう日々の到来を内心よろこんでいた。だが実際その休みを迎えてみると学校の宿題、学習教室の宿題、さらには母からの課題で午前中はずっと机で過ごすことになっていた。おまけにこの新型コロナのため気軽に散歩にも出かけられない。この一ヶ月半の間、殆ど自室とキッチン、トイレを行き来するだけの、入院でもしているかのような生活を送っている。


 詩織は再び上体を起こすと、立ち上がり自室のドアノブをまわした。キッチンから流れてくる空気はより匂いが強く、起きたばかりの彼女にはあまり心地よいものではなかった。ドアの向こうでは母 由美子ゆみこ)が朝食の準備をしている。


「お母さん、おはよう」


「おはよう、朝ごはんできたよ」


「うん」


詩織はパジャマ姿のままテーブルに着くと、六枚切りの食パンを袋から出して、皿の上に置いた。由美子は詩織の前にあるコップに豆乳を注ぐ。


「もうすこしでお母さん仕事いくからね。今日の課題午前中のうちに終わらせて。終わったらラインちょうだい。受験まであと八ヶ月しか無いんだからしっかりね」


「……うん」


この休みの間、何度も繰り返した平日の朝のやりとり。詩織はコップの豆乳を一口飲むと、パンにブルーベリージャムとマーガリンを塗り口へと運んだ。

由美子は詩織の前の席に座り、炊き立てのご飯を食べ始める。二人だけの家族でありながら二人の朝ごはんは別々なのだ。一枚の食パンをのんびりと食べ進める詩織に対し、由美子は時計を気にしながらいそいそと茶碗のご飯をかきこむ。詩織が食パンの半分も食べないうちに、茶碗を空にすると、食器を流しに運んで自分の部屋に駆け込んだ。それを気にする様子もなくモグモグしている。そして食パンが残り一口となった時、出勤姿と化した由美子が部屋から飛び出してきた。そしてまだ食べ終わらない詩織に目をむける。


「おやつとお昼は冷蔵庫に入っているからね。今日の帰りは七時くらいだから…… 何かあったらライン入れて。急ぎなら病院に電話して。じゃあ行ってくるね」


由美子は隣町の病院で看護師として働いている。その為仕事中は携帯に出ることができず、平日の連絡はラインでのトークで行うことになっていた。緊急の用事があるときは病院に電話する事になっているのだが、これまで一度もそんな事態になったことはなかった。

 由美子は返事を待たず『バタン!』というアパート特有の鉄扉が閉まる音とともに詩織がいるキッチンから出ていった。隣の住人も既に出かけたのか、全く人の気配を感じない。残された彼女は食べ終えた食器を流しに運ぶと、冷蔵庫脇に置いてある箱買いしたお茶のペットボトルを一本持って自室に戻った。カーテンを開け 窓に向けられた小さめの平机越しに外を眺める。眼下には出勤のためたくさんの車が行き交うも、人通りは殆どない。市内の小中高校は全て休校となり、外出も控えるように学校から言われている。それでもどこからか聞こえる鳥の鳴き声が何事もない平和な日常をの雰囲気をただよわせる。詩織はベッドに置かれたiPhoneを手に取ると、布団の上に身を投げ出し、Yahooニュースのサイトを開いた。相変わらずコロナの文字が幾つも並んでいる。国内感染者数は七五〇〇人を超えたらしい。

母親が勤める病院も新型コロナの感染者を受け入れている。そんな中にいて感染しないかと心配になりながらもブラウザを閉じると、重い腰を上げ机の椅子にすわった。机の上には由美子が準備した今日の課題が載せられていた。学校の宿題は休校になって最初の三日で終わり、その後は母親が準備した問題プリントが毎日の課題になっているのだ。


 詩織は小学三年生の夏休み前、ちょっとしたパラダイムシフトがあって中学受験を目指すこととなった。当時、詩織の成績はお世辞にも良いとは言えない。いや、それどころか最底辺にいた。そのような成績から中学受験を目指したのだ。


「まずは算数!算数で学年トップを目指すよ!」


お風呂に入っている時、唐突に母 由美子に言われた言葉。当時の現状を知っている人ならば『できるはず無い』と思っただろう。詩織もそう思っていたかもしれない。ところが宣言日から毎日三時間、算数だけに時間が費やされた。毎日 九九の百マス計算、計算ドリルで計算力を鍛え、小学ハイクラスドリルで実践力をつける。最初は上級どころか、標準問題も解けなかった詩織だが、夏休みが終わる頃には学校の授業についていけるだけの学力がついていた。

その後も由美子の追撃は続く。小学四年生になる春休みの間に四年生半分の予習を済ませ、夏休み明けには五年生の範囲に突入、十一月に受けた全統小(全国統一小学生テスト)では算数、理科は偏差値55を取るまでになっていた。そして六年生年となる今、小学校算数を終え中学一年数学も一通りやって中学受験用の問題集に取り組んでいる。理科も小学校範囲もほぼ終えていた。理系科目に関しては校内でも最上位の成績。算数だけなら県内で一桁の順位を何度もとっている。由美子の宣言は一年程で実現させたのだ。一方文系科目は平均並み…… そこで文系科目の成績を上げるべく、理系と文系科目を一日毎交互に課題をあたえられていた。

今日は理系科目の日。詩織は得意な算数のプリントを手に取り解き始める。ついさっきまでヤル気のかけらもみせなかったが問題を解き始めた刹那、息をするのを忘れるほどに一気に計算式を書き始める。部屋の中に鉛筆を走らせる音だけが響く。


『算数は問題を読んだ瞬間に、答えまでの筋道が見えなければ勉強不足』


 何度も母親に言われた言葉だ。

問題プリントの大問一つを息もつかないまま解き終えると、大きく深呼吸をして次の問題にうつる。

 次は鶴亀算を使う文章題。しかし詩織は鶴亀算を使わない…… xとyを使った連立方程式を書き出すと、それを使ってあっという間に答えを導き出した。中学受験の特有の計算方法、鶴亀算、和差算、旅人算、流水算がなかなか覚えることが出来なかった。その為一ヶ月ほど由美子は付きっきりでこの計算法を教えていたが、それでも使うことが出来なかったため中学で習う方程式を教え込んだのだった。鶴亀算や和差算などは中学受験以外でまず使う事は無い。覚えられないのなら無理して覚える必要は無いとの判断だった。約九十分、規定の時間より三十分過ぎたところで、今日の算数プリントを解き終えた。時計は九時半…… おやつの時間には早いので、漢字練習と自主勉ノートを一ページずつ書き それが終わったところで休憩に入った。


 詩織は冷蔵庫からプリンを二つ取り出すと、引き出しの紙スプーンと共に部屋に持ち帰った。一つのプリンを机におき、手に持ったほうの蓋をあけるため指に力を込める。そしてあけたプリンを窓を開けて外を眺めながら口へと運ぶ。ぷるんとした甘い味わいが口中にひろがり、疲れた頭を癒した。窓から数百メートル先に詩織の小学校が見える。そこにはグランドで一輪車で遊ぶ女の子。鬼ごっこでもしているのか、グランドの真ん中では何人かが不規則な動きで走り回っている。


(学校は休みでも学童はあるんだ……)


詩織も三年生春までは学童に通っていた。その頃を思い出しながら学校の様子をながめていた。


『宿題をしてからでないと遊んではいけない』


学童にはそのようなルールがある。だから平日は宿題の全てを学校で終わらせてきていた。しかしある時由美子が目にした詩織の宿題プリントに愕然とした。殴り書きのような字。名前もない。書いてある答えはいい加減極まりない。まさに『やればいい』的なものだった。また学校や学童内で同級生や上級生のトラブルも日常的に発生していた。そのようなことから詩織は学童をやめることにしたのだった。その代わりに母親による徹底指導と、学習教室への通塾をする事になる。学童を辞める事を決めたのは由美子だが、詩織もいい思い出の無いこの場所から離れる事に何の未練も感じていなかった。

グランドで遊ぶ子供たちをみて、数年前の自分を思い出し、同時に嫌な思い出も蘇り窓を閉めて再び机にむかった。


(あと今日は理科のプリント四枚だけ……)


今回のプリントは天体。中学受験理科で天体は計算問題としてよく出題される。でもだいたいパターンは決まっていてあとは暗記だ。暗記する星座も星の名前もそれ程多くは無い。


「青白い星は…… スピカ……と……

 太陽までの距離 1億5000万キロ? 

 黒点の温度 4500度だっけ?」


月までの距離、太陽までの距離や温度など、何度やっても自信無さげだ。その時々で書く答えは違ってしまう。

早く終わらせてスマホで動画を見たい。

そんな思いから鉛筆を走らせる音は加速して、プリントの文字も雑さを増してきた。理科のプリントを始めてから約五十分。時計は十一時二十分をさしていた。


「疲れた……」


そういって椅子から立ち上がり大きく伸びをすると、窓の外に目が向いた。するとそこには瞬きもせずにこちらに向けた視線があった。羽柴真美はしばまみ)。詩織の同級生だ。低学年の頃は凄く仲が良くて何度も家に遊びにきたことがある。家族ぐるみの付き合いもありみんなで遊びでかけたものだが、小学三年生の頃から急に関係が悪化して今では犬猿の仲だ。

 そんな真美との関係が面倒になり、詩織は彼女に関わらない様に努めているのだが、真美の方からちょっかいをだしてきて何度もトラブルにもなっていた。また学校でペアやチームを作るとき、特に仲のいい友達がいない詩織とトラブルメーカーの真美は最後まで残りペアになることが多い。すると、「詩織ちゃんとは組みたくない」と拒んで、授業の進行を遅らせることがたびたびあった。詩織は由美子に

「学校は遊びじゃないんだから、苦手な人とでもちゃんとする様に!」

と強く言われているので、嫌な顔をしつつも真美を拒まなかった。しかし、真美は全力で拒絶する。そんな二人の関係を見かねた各学年での担任は何度も関係改善を試みたが、良化の兆しは見えなかった。そんな真美が外から詩織の部屋をみているのだ。そして外を見た瞬間に目が合ってしまった。


(真美?! いつからいるの?)


(今、家にいるのは私だけ)


そう思うと詩織は急に怖くなり、すぐに目をそらして窓をしめた。カーテンの隙間からそっと外をみると真美はまだこちらを見ている。そしてまばたきをして再び真美の姿を捕らえようとしたとき、真美の姿は無くなっていた。


(……こわい)


詩織は窓から離れて、ベッドに転がるとスマホを手に取って気を紛らわそうとした。小学校に入ってから何度となくトラブルにあっているが、その半分は真美が元凶なだけに関わりたくないのだ。彼女が何故真美がちょっかいをかけてくるのかが理解できない。

 だが詩織は真美との関係が悪化し、同学年の女子間が混沌としている理由は理解していた。そしてその原因が自分である事も……


 小学校入学当時の詩織は運動も勉強も苦手で、他にも取り立て秀でたものはなかった。また他の子と積極的に遊ぶような性格ではなかった為、クラスの中でも孤立する事が多かった。そんな詩織と似たような境遇だった真美は休み時間など一緒にいることが多くなり、いつしか詩織は”大親友”というまでになった。お互いの家に遊びに行き来する様になると真美の母親と由美子も次第に仲がよくなっていき、家族ぐるみで遊びに行く事も多くなった。

 ただクラスの中での詩織の立場はあまり良くなかった。いじめられこそしなかったが、クラスの中でも比較的勉強のできる花鈴かりん)に手下のような扱いを受けていた。また学童でも佐竹柚葉さたけゆずは)に迫害を受ける事もよくあった。しかし小一年から始めた演劇で徐々に度胸と打たれ強さを身につけ、小学三年の六月から始まった由美子による算数の徹底指導のおかげで学力は急激に向上し小学三年に『二学期デビュー』を果たした。小学四年生になると児童会にも立候補して、たった一年でクラス内での立ち位置が劇的に変わったのだ。

 しかしこうなると今までは起こりえなかった事も発生する。クラス内の力関係は詩織を中心に崩れ出した。学力面でも精神面でも強くなり花梨の支配を脱すると、花梨の支配下にあった他数人もこれとばかりに花梨から離れた。そして花梨はクラス内で孤立。

真美はそんな詩織から距離を取るようになり、やがて敵視するようになる。そして情緒不安定な行動をとり幾つものトラブルをひきおこしたのだ。こんなクラスの変位の原因が詩織ではあるものの、一ミリだって彼女が悪いわけではない。しかしこの毎日のように起こるトラブル、女子間の混沌とした中にいることは大きなストレスとなっていたのだ。

そこで詩織はこの状況から脱するため由美子が提案した中学受験に乗ったのだった。


(それにしても真美ってば、何で学校が無い日までチョッカイかけてくるのよ)


詩織はスマホを眺めていても、さっきの真美の目が頭から離れない。詩織はぶつぶつと独り言を言いながら動画サイトを眺めている。


ピンポーン! 


この突然の呼び鈴に詩織の身体はビクリとした。


(何でこんな時に……)


詩織は玄関に行くと恐る恐る覗き窓から、ドアの外側を覗きみる。


(誰もいない……)


そして玄関ドアをそっと開けて顔を出してあたりを見回した。やはり誰もいなかった。


(ピンポンダッシュとか、近所の子供かな?)


そう思ってドアを閉めようとした時、ドアの前に何かが落ちているのが目に入った。


「ヒィ!」


そこにあったのは二匹のハムスターの亡骸だった。詩織は勢いよくドアを閉め鍵をかけた。


(あれは絶対真美のしわざだ。何あいつ。おかしいよ!)


何をしでかすかわからない彼女に怯えながら、まとめられた遮光カーテンの隙間から窓の外を見渡すと遠くに真美が歩いている後ろ姿がみえた。


(あいつヤバいよ)


真美とこれ以上関わりたくない。

絶対に違う中学に行かなければならない。


そう決心して再び机に向かい今日の課題をもう一度復習した。



二〇二〇年四月十六日 六時三十分

 詩織の部屋で目覚ましの音が鳴りだした。小さな音で鳴り始めたアラームは時間の経過とともに大きくなり、今はけたたましいまでの音量で鳴り響いている。その真下でそれを気にする様もなく詩織は寝息を立てていた。


「詩織!起きなさい!周りの部屋に迷惑でしょ!」


突然部屋のドアが開き、由美子の大きな声にようやく目を開いた。それでも詩織は慌てた様子もなくノソリと手を伸ばして、目覚ましのアラームを止めた。

頭は枕に埋めたままだ。


「まったくもう……」


由美子はその様子をため息混じりでみている。


「ほら。宿題とか準備したの? 遅れるわよ」


そう言われて詩織はむくりと顔を上げた。

今日は一ヶ月半ぶりの登校日。夏休みよりも長く、課題もほとんどない休みにすっかりペースが乱れている。


「ヤバい! 何も準備していない!!」


詩織はランドセルの中をあさりはじめた。準備は登校日の持ち物が書かれたプリントを探すところから始まった。由美子は呆れ顔で台所へ戻ろうとしている。


「成績上がってもこういうところはさっぱり成長しないんだから……」


そして登校する準備を終えて台所に現れたのは七時半になろうとしている時だった。詩織は既にランドセルを背負っている。


「早く朝ごはん食べなさい!」


「食べる時間無いからいらない。どうせ今日はすぐ終わるし……」


バタバタと靴を履きながら答えた。


「いってきまーす!」


そういうと勢いよくドアを開けて出て行った。この日は分散登校なので通学班はない。家を出て小走りで学校へ向かったが、二百メートル程行ったところでスピードを緩め歩き出した。

学校に近づくにつれて休校前のトラブルのことや先日のハムスター事件が頭をよぎって憂鬱な気分になってくる。


(さすがに今日は何も起こらないよね……)


詩織は力なく笑いながらぽりぽりと頬を掻いた。

そうは思っていても、校門をくぐり、昇降口を通って、階段を上り六年生教室に近づくにつれて足どりは重くなっていく。詩織はいつものように教室の後ろのドアからこの新しい学年の教室に入った。さっと辺りを見回し、真美の姿を確認したが見当たらない。詩織はホッと胸を撫で下す。だがいつもよりも教室内が騒ついているように思えた。

詩織は机に貼られた名札を探すと、机の脇にランドセルをかけた。心なしかクラスメイトからの視線を感じる。


(何? この感じ……)


違和感を感じながら席について読みかけの本を取り出した。


「ねぇ、詩織ちゃん」


「あぁ、唯ちゃんおはよー 」


クラスの数少ない友達、ゆい)が話しかけてきた。


「真美ちゃんの事聞いた?」


詩織は真美の名前を聞いてドキッとする。


「真美がどうかしたの?」


平静を装って聞いてみる。


「真美ちゃんね……」


そう唯が言いかけたとき


「真壁さん! ちょっといいかしら……」


廊下から詩織を呼ぶ女性の声がした。


「はい! 先生、何でしょうか?」


呼んだのは詩織の担任 草苅淳子くさかりじゅんこ)先生だった。詩織はそう言って先生の元へ駆け寄る。その言動にクラスメイトたちの視線が注がれ、ゴソゴソと何か言っているのが聞こえた。だがそれを聞き取る事ができない。草苅のところへ行くと、職員室隣にある会議室で話があるとのこと。道中の廊下で草苅は何も話してこない。会議室に入ると、そこには学年主任と教頭の姿があった。この様子にただならぬ予感がした。


「草苅先生、何の御用でしょうか?」


緊張感が漂うこの会議室で気力を絞って聞いてみた。


「真壁さん、えーっと……」


草苅がそう言ったとき、学年主任の先生が横から割って入ってくる。


「あぁ、草苅先生、私から話しましょう」


そう言われて草苅は一歩後ろに下がると、代わりに学年主任が一歩前に出てきた。


「真壁詩織さん、君は同じクラスの羽柴真美さんは知っているよね?」


「はい。勿論知ってます」


詩織はチラリと草苅に目線を移すと、神妙な面持ちで二人の対話をみていた。


「率直に言うと真美さんは一昨日昼に家をでてから家に帰っていないのです。君は真美さんが行きそうな所とか心当たりないかね?」


「いいえ…… でも何故私に?」


そう詩織は聞き返す。


「一昨日のお昼過ぎに、あなたの住んでいるアパートから真美さんが出てきたのをみた人がいるのよ。あなたの家に行ったんじゃないの?」


後ろに下がっていた草苅がそう聞いてきた。そう言われて、詩織は暫く口を噤んでこの先生たちにどう話すかを考えた。一昨日真美がアパート近くに来ていた事は母親にも言っていない。これ以上由美子に心配をかけたくは無かったからだ。しかしこの状況で下手に隠すのは後々面倒な事になりかねない。仕方なくあるがままに話すことにきめた。

そして大きく息を吸い話し始めた。


「草苅先生はご存知でしょうが、真美とはうちに遊びにくるような仲ではありません。一昨日は確かにうちの前で彼女の姿を見ました。真美は私の部屋をジッと見ていて、たまたま外を見た時に目が合いました。そのあと暫くした時、玄関の呼び鈴が鳴ったので覗き窓からドアの外を見たのですが、誰もいなかったのでドアを開けたら二匹のハムスターの死体がありました。これに関しては真美がやった証拠はありませんが、私は真美のしわざだと思っています。これが一昨日あった全てです」


詩織は自信を持って堂々と説明をしたが、ここまで喋ってからゴクリと唾を飲み込んだ。学年主任は腕を組んで考えている。


「先生。警察に届けはでてないのですか?」


詩織がそう聞くと、学年主任は


「届けてあるそうだ。だが君のアパートから真美さんが出るのを見たと言う話を、真美さんのお母さんが聞いてだな……」


「先生!!」


草苅は学年主任の話を遮る。

だが詩織には主任が言おうとしていた内容は大凡想像ができた。それに苛立ちを覚え拳に力が入る。


「これ以上話が無いのでしたら、私はこれで失礼します」


「ああ……」


詩織はどうしようもない怒りを抱えたまま会議室を後にした。教室に戻るとやはり詩織に視線が集まる。


(今までの真美との事を知っていれば私に疑いがかかるのはわからなくもないけど、小学生の私が同級生をどうにかできると思っているのかな?)


詩織が席についた数分後、草苅が教室に入ってきた。そして真美のことには全く触れないままホームルームが行われ下校を迎えることとなった。

帰宅の最中も苛立ちはおさまらなかった。しかし拳を握りしめて一昨日の事を思い返す。


(一昨日、私は確かに真美か遠くに歩いていく後ろ姿を見ている。少なくともうちの近辺で行方知れずになったわけではないだろう)


窓から見た真美の後ろ姿を思い出し、そこから真美の家までの経路を想像してみる。


(最後に見た場所から真美の家までは約一キロ。その間にさらわれたり、襲われたりと言う可能性は否定できない。まして今はマスクなしに外を出歩こうものなら自粛警察の餌食になりかねない。確かあの時の真美はマスクなんてしていなかった)


そう考えて、詩織は『自粛警察のせい』ということで自分の中で片付けようとしていた時、ふと学校での話を思い出した。


(うちのアパートから真美が出てきたって誰に聞いたのだろう?)


アパートには同じ小学校に通っている人はいないし、近所に今年入学の一年生がいるくらい。仮に出てくるのを見たとしても、真美の事を知っている可能性は低いように思える。この目撃談の発生源が気になり出した。


(そういえば学年主任の話だと真美のお母さんもうちのアパートから出てきたのを知っている風な言い方だった…… 一昨日の話なのに何処からそんな話を聞いたんだろう?)


そんな事を考えながら歩いているうちに自分のアパート前まできていた。部屋の鉄扉を開け、鍵を閉めると自室に入ってランドセルを置いた。そして窓を開けると、そこから一昨日真美を見た場所を確認する。


(やっぱりおかしい。真美がこのアパートにきていた事を知っているのは私と真美以外考えられない。かと言って真美が言いふらして回るわけない)


そう考えた時、一つの仮説にたどり着く。


(噂を流したのは真美のお母さんだとしたらどうだろう? 真美のお母さんは確か専業主婦だし、真美が一昨日出かけて行ったことは知っている可能性が高い)


そして真美の家の様子が気になって、由美子の部屋から双眼鏡を持ってきて彼女の家を探した。

しかしその部屋からは屋根しか見えない。詩織は実際に家の近くまで行って確認する事にした。人に見られても自分だとわからないように大きなマスクをして、深めの帽子をかぶり家を出ると真美の家の方へと歩きだした。一昨日真美の後ろ姿を確認したあたりに差しかかる。そこで辺りを見回した。


(この辺りで真美を見たとしても、うちのアパートに行ってきたなんて事はわからないだろうな)


そして再び歩き出す。相変わらず道を歩く人は殆どなく誰とも会わないまま真美の家まで来てしまった。そして物陰に隠れて真美の家の様子を窺う。

特に変わった様子もない。

……と、ちょうどその時、真美宅の玄関が開き中から真美の母親が出てきた。彼女は玄関前に停めてある車に乗り込むとどこかに出かけていった。


(真美を探しに行くのかな?)


そう思って見つからない様に注意を払い、詩織は真美の母親の車が見えなくなるまで隠れていた。


(真美のお母さん、意外と普通だったな……)


自分の一人娘が行方不明になり、取り乱している様を想像していただけに、この母の様子は予想に反するものだった。暫くその場に身を潜めていた詩織だったが、真美の母がいないこの家を見ていても仕方ないと思い、帰ろうとすると二階の窓に人影を感じた。詩織は再び身を隠して見つからないように窓の様子を窺った。


(あれは真美!?)


いないはずの真美の姿を目にして、狐につままれたような気分になった。


(真美、いるじゃん!)


この状況から、羽柴家に起きている事を想像した。


(真美が帰ってきた。もしくは見つかった。

……いや、私が先生に呼ばれたのはほんの二時間前。その間に見つかった割には真美もお母さんも平静過ぎる)


詩織は他の状況を想像する。


(真美が自分の家にいながら母親に見つからないように隠れて失踪を装っているとか?)


そう少し考えたが、すぐにその仮説を否定した。


(それはないだろう。真美のお母さんは専業主婦でずっと家にいる。その中で物音立てずに篭っているなんて無理だ。そうなると……)


もう一つの仮説が最もありそうに思えたが、それを真美達に突きつけるのは少し待つことにした。詩織はその場を後にしてアパートへと帰る。アパートに着いて時計を見ると十三時をすぎていた。だが昼食をたべる気にはならない。詩織は冷蔵庫からプリンを持ってきて机に置くと、ポケットにあるスマホが鳴り出した。画面には『お母さん』と表示されている。


「もしもし、お母さん?」


「詩織。さっき学校から電話があってね、真美ちゃんが居なくなったって! 一昨日うちのアパートから出るのをみた人いるって話だったけど、真美ちゃんうちにきたの?」


詩織は大きく溜息を吐くと由美子にコトのあらましを説明した。そして自身の仮説である、真美親娘による狂言説をさも事実であるかのように話した。


「お母さん、どうしよう。私、暫くこれに乗っちゃおうかと思ったんだけと……」


「んーっ……」


由美子は電話越しに唸り、考えているようだ。


「詩織の言う通りだとすると、真美ちゃんのやっている事にお母さんが口裏合わせているってことだよね。でも真美ちゃんにどんな意図があって……」


「意図って……」


そんなものあるはずが無い。

そう言いかけて口を閉ざした。これまで受けてきた嫌がらせの数々がそれを物語っている。

真美は母親に自分の正当性を訴え、そしてあの母親はそれを真に受けて片棒を担いだといったところだろう。真美に意図があるとすれば、失踪することで自分に注目が集まること。そして詩織がその失踪に関わっていると思わせて非難を受けること。それだけだ。

真美の意図はそうであると確信をもっている。


「お母さん、とりあえずいいよ。ちょっと考えるから」


そういうと半ば一方的に電話を切った。


(おそらく……いや、絶対に真美のお母さんは警察に捜索願いなど出してはいない。……となれば、警察に真美が見つかった事を連絡しようか?)


そんなとき突然家の電話が鳴り出した。

家電が鳴るなんてどれくらいぶりだろう。

詩織は嫌な予感を感じながら受話器を取った。


「はい」


由美子に教わった通りこちらの名前は名乗らず電話に出る。


「もっ、もしもし羽柴真美の母です。そっ、そちらに真美は、真美は行ってないでしょうか?」


真美の母の声は何度も聞いているはずなのに、あまりの慌てぶりで名乗るまでわからなかった。


「いっ、いえ。きていません」


「そうですか。ありがとうございます」


電話はすぐに切れた。

ついさっきまで真美母に対する怒りでいっぱいだったのに、詩織は毒気をぬかれたかのようになった。


(何だろう今の? ちょっと前に家にいたじゃん……)


今の電話で今朝唯が自分に話しかけてきた事を思い出した。唯は幼稚園から一緒で、同級生で唯一友達といえる子だ。スマホに登録されている彼女の番号を選んでダイヤルを押した。すると何回かのコールの後に唯がでた。


「あっ、唯ちゃん?」


「詩織ちゃん。もしかして真美ちゃんのお母さんから電話きた?」


「うん」


やはりクラスメイト全員に電話しているのだろう。詩織は聞こうと思っていた事を唯に問いかけた。


「唯ちゃん、今朝言おうとしていた事って何だったの?」


「ああ、それ? 真美ちゃんが詩織ちゃんのアパートから出てきた噂の事だったんだけど……」


「ああそれなら先生からも聞かれたよ。確かに一昨日はアパートの前にいるのは見かけた。それで……」


詩織はピンポンダッシュされた事、廊下にハムスターの死骸を置かれたことを話した。


「おそらくそのハムスターって真美ちゃんが飼ってた子じゃないかな。前にみんなに自慢してたし」


「そんな可愛がった子を何で廊下なんかに……」


そこまで言いかけて、これまでの情緒不安定な真美の行動を思い出して言葉をとめる。


「そういえばさ、今日帰ってから真美の家の前まで行ってみたんだよ。そうしたら真美のお母さんがちょうど車で出かけるところでさ、その時二階の窓のところに真美がいるのがみえたんだ。だからてっきりこの失踪自体真美とお母さんの自作自演なのだろうって思ってたの」


「……」


唯は黙ってしまった。


「もしもし? 唯ちゃん?」


「詩織ちゃんてさ、真美ちゃんの裸見たことある?」


「えっ、何? 突然……」


あまりにも唐突な質問につい聞き返してしまう。


「あっ、いや、違うくて……」


唯は自分が発した言葉に気がついて慌てている。


「いや、無いよ。私真美とは極力顔も合わせないようにしているし…… で? 真美の裸がどうしたの?」


そう答えると、唯は言いにくそうな様子で話を続けた。


「真美ちゃんさ、身体の色んなところにキズがあるの」


「へー 」


唯はその反応をみて『わかっていない』とばかりに言葉を続けた。


「腕や足、胸にカッターで切りつけたような跡が幾つも!」


「何それ!? もしかして虐待?」


「多分そうじゃ無いと思う。詩織ちゃんも知ってるでしょ。お母さんのあの異常な程の可愛がり方。大事な娘にそんな事するとは思えない。それに腕の傷は左手ばかりなのよ」


詩織はハッとする。


「リストカットってやつ?」


「多分ね。真美ちゃんの場合リストだけじゃないけど……」


詩織は言葉を失った。だとするなら初めは自作自演のはずだったのが、本当に真美がいなくなってしまった。下手をすればどこかで自殺をしかねない。そんな事から真美の母があんなにも慌てて探し回っているのではないだろうか? 詩織はそんな事を考えながら唯の話を聞いていた。


「なんかとんでもない事になっちゃったね」


詩織はポツンと呟いた。


「気をつけてね。あのお母さん、こうなったのは詩織ちゃんのせいだと思っているから。何をしてくるかわからないよ」


「うん。わかった気をつける」


そう言って電話を切ると、窓の外に目を向けた。

そこは相変わらずも春の暖かな風が吹き、いつもの街並みを呈している。そんな中であの真美母が必死に娘を探している姿を想像すると、詩織は胸が締め付けられる思いがした。



 夕方六時、外はまだ明るい中、由美子はいつもより早い帰宅をした。玄関の鉄扉が勢いよく開いたかと思うと、ノックもせずに由美子が詩織の部屋にとびこんできた。


「詩織!大丈夫?」


「ふにゃ?」


煎餅を食べながらスマホをいじっていた詩織は、その問いかけに煎餅を咥えたまま由美子の方向いて応える。


「良かった…… 無事で……」


由美子はホッとした表情で安堵の溜息を漏らした。


「どうしたの? お母さん?」


食べかけの煎餅を急いで飲み込んでそう言った。由美子はカバンから一枚の紙を取り出すと詩織の前で広げて見せた。


「真美? やっぱり行方不明なの?」


「駅前でね、真美ちゃんのお母さんが配ってたのよ。詩織がお昼に自作自演っぽいみたいな事言っていたから安心してたけど……」


詩織は真美の母親から電話がかかってきたこと、唯に聞いた事を由美子に話した。


「そんな事になっていたなんて…… でも小学生が失踪なんてちょっと考えにくいよね」


由美子はそういうと最悪のシナリオが頭をよぎったのか表情を曇らせる。


「でもお母さん。何で駅なんかでチラシ配ってだんだろう? 駅で見た人いたのかな?」


「どうなのかしらね」


『ぐぅ~っ!! 』


どこからともなくそんな音が聞こえてきた。詩織はお腹を押さえて由美子をみた。


「そういえばお昼食べてなかった……」


すると由美子は立ち上がり台所へと向かおうとした。


「とりあえずご飯にしよっか。慌てて帰ってきたから、今日はお買い物してないのよ。ありあわせだけどすぐ作るね」


部屋に残された詩織は、とりあえず母に見せられたチラシの写真を撮って唯に送った。




二〇二〇年四月十七日

 翌日、詩織は課題が終わると大きなマスクと深めの帽子というお約束の変装スタイルで駅前へと足を運んだ。すると昨日由美子に聞いたとおり、疲れた顔の真美の母がチラシを配っていた。その痛々しい姿に詩織の怒りは完全に消え失せていた。


「あの……真美ちゃんのお母さん…… 私もチラシ配るの手伝います」


「し、詩織ちゃん。ありがとう。今までごめんね」


今の真美母にこれまで詩織に悪態をついていたあの姿はなかった。二人は夕方近くまでチラシを配り、その次の日も、その次の日も詩織は真美母のチラシ配りを手伝った。




二〇二〇年四月二十日

 真美がいなくなって五日目、駅前に真美の母は姿を現さなかった。念のために真美の家にも行ってみるが、車は玄関前に停めたまま。いくら呼び鈴を鳴らしても出てこない。


(そえいえば真美ってお父さんいないんだっけ?)


そんな事を思いながらアパートに戻ることにした。詩織はスマホを取り出すと、唯の携帯に電話をした。


「もしもし唯ちゃん? ちょっと聞きたいんだけど……」


詩織は唯に真美の父のことを尋ねるが、真美にお父さんの話は聞いた事ないとの事。由美子であれば知っているかと思ったが、仕事中なのでとりあえず他の線からあたることにした。

歩きながら携帯を弄っているうちにアパートの前まできていた。このままアパートに入ろうかとも思ったが、気分が落ち着かない詩織は学校へと向かい歩き始めた。

校門をくぐると学童の子供たちが、校庭の隅で一輪車を乗っている姿が目に入った。その様子を見ていた学童の先生に挨拶をして、校舎へと入っていく。生徒のいない学校は妙な静けさをもっていて、何となく長居したくない雰囲気がある。そんな学校の廊下を足早に通り過ぎると、職員室を覗いて草苅の姿を探した。


(あっ、いた!)


職員室の扉をノックする。


「失礼します!」


詩織はそう言って職員室へと入ると、草苅の机へと向かった。そして声をかけようとしたとき、草苅は電話中であることに気がついた。先生は右手をチョコっと挙げ合図をおくる。詩織は話しかけるのをやめ数歩下がったところで電話を終えるのを待つことにした。


「はい、わかりました。それでは確認してみます。失礼します」


そう言って、草苅は何分後かに電話を切った。

そしてそんな草苅に声をかけようとしたとき


「ちょっと待ってね」


そう言い残して、先日の呼び出しで使われた会議室へと入っていった。詩織は溜息をつきつまらなそうにあたりを見回していると、会議室のドアが開き草苅が詩織を手招きしていた。招かれるがままに会議室へ入ると、またもや学年主任の姿があった。


(げっ、また?)


部屋に入るとまたこの前と同じポジションで二人は立っている。そこで話始めたのはやはり学年主任だった。


「羽柴真美さんのことなんだがね、未だに見つかっていないだ。真壁さんはやはり心当たりはないのかね?」


詩織は学年主任のいかにも上から目線な言い方にイラリとしながらも、この問いに応答した。


「無いです」


「そうか。実はさっき警察から連絡があって、昨日の夜から羽柴さんのお母さんとも連絡が取れなくなっているらしいんだ」


「えっ!!」


(昨日の夜って、駅で私と別れたあと?)


「携帯も家の電話にも出ないんで、警察官が羽柴さんの自宅に行ってみたらしいんだがやはりいなかったらしい」


この言葉で今後警察の疑いを受けかねないことに気がつき、取り敢えずここ数日の出来事を話すことにした。


「私、十七日から昨日まで真美のお母さんと駅前でチラシ配りをしてました。そして今日も真美のお母さんがくるだろうと思って駅前に行ったのですが来なくて、暫く待った後に真美の家に行ったんです。そうしたら先生がおっしゃったように誰も出なくて…… それで何かわからないかなと思ってここにきたんです」


学年主任は鼻で大きく息を吐くと


「外出禁止の中駅でチラシ配りとは感心せんが…… まぁ、事態も事態だしそれは置いておこう。だがこちらでわかっている事はこれだけだ。君は早く家に帰りなさい」


そう言って学年主任は会議室から出て行き、部屋には草苅先生と詩織だけが残された。


「あの……先生。真美ってお母さんと二人暮らしなんですか? お父さんは?」


詩織は聴きたかった事をようやく訊ねられた。


「んー 個人情報だから誰にも言わないでね」


そう言って先生が話したのは、真美の父親は三年前に離婚して家を出て行ったというものだった。それからはあの家に二人でくらしていたそうだ。


(三年前というと真美と仲が悪くなった時期と一致しているな)


詩織は何となく真美の心の闇に触れた気がして、胸の中がモヤモヤするのを感じていた。


「じゃあ、真壁さん。もうおうちに帰りなさい。不要不急の外出はダメですからね」


「わかりました」


そう念を押され学校を後にした。

その後、真美母の娘の情報は全く入ってこなかった。次の登校日にも、先生は真美の事に一切触れない。クラスメイト間での噂話さえ無かった。詩織は本当に真美親子の存在がこの世から消えように思え始めた。



二〇二〇年五月一日 十五時

 真美が失踪してから二週間が経った。

真美の母も最後のチラシ配りをした日から見ていない。親子二人が忽然と失踪するなんて、テレビのワイドショーにでも取り上げられそうな大事件のように思えるが、そのようなニュースを見ることはなかった。失踪なんて確かにありそうなことだし、このコロナ感染拡大という大ニュースの前に埋もれてしまったのだろうと思っていた。しかしローカルニュースにも取り上げられず、噂話すら無いというのも不思議な感じがする。詩織は二人の新たな情報をもとめ唯に電話をかける事にした。


「ああ、唯ちゃん。あれから真美の話って聞こえてこないかな?」


あまり期待しないままに、唯に聞いてみた。すると返ってきたのは予想もしなかった言葉だった。


「えっ? まみ? まみって?」


詩織は唯にからかわれているのかと思い、少し怒った調子で聞き返した。


「羽柴真美だよ。二週間前に行方不明になった! 唯ちゃん、真美の身体にたくさん傷があるって教えてくれたじゃない!」


「私、まみなんて子知らないよ! 誰かと勘違いしてない?」


唯は全く声の調子を変えずにそう答えた。


「あんな自己中でトラブルメーカーな子、忘れたくても忘れられないじゃない!」


「トラブルメーカー? だってうちのクラス一度だってトラブルらしいトラブルなんてないじゃない」


唯の様子はからかっているでも、とぼけているでもなさそうだ。これが本当に演技だとするなら劇団四季にでも入ってもらいたい。詩織は何がなんだかわからなくなってきた。


「唯ちゃんがアルツになった」


「ちょっと! 誰がアルツよ! 受験勉強のしすぎで頭おかしくなったんじゃないの?」


「えっ?」


詩織は唯の言葉に反応した。


「ねぇ、私が中学受験するって誰から聞いたの?」


「自分で言ってたじゃない。小笠原さんと同じ学校受けるんだって……」


「私、言ってない……」


このクラスは受験する人を応援する雰囲気で無い事から、今のところ家族間だけの秘密にしていたのだ。まだ先生にも話していない。詩織は呆然としながら唯との会話をしていた。


(何? この状況?)


「詩織ちゃん、疲れてるんじゃない。今日はもう休んだら?」


「うん、もしかしたら私、本当におかしくなったのかもしれない……」


詩織はそう言って電話を切ろうとしたが、もう一つだけ唯に聞いておく事にした。


「ねぇ、もう一個だけ教えて。五年生の時、生き物係していたのって誰?」


「えぇ? 何言ってるの? 詩織ちゃんでしょ!」


(やっぱりおかしい)


昨年生き物係をしていたのは真美だ。詩織は生き物係に立候補したところ、後から真美がしたいと言い出して、散々駄々をこねて仕方なく詩織が引いたのだった。念のため昨年の緊急連絡表を確認するが真美の名前はなかった。


(本当に真美がこの世から居なくなった…… というより最初からいないことになっているのか……)


詩織は考えていた。何かもっとインパクトのある真美絡みの出来事は無かったか? それがいまどのように変わってしまったのかを確かめたい。ベッドに腹這いになり枕に顎を乗せてスマホをいじりながらこれまでのことを思いかえした。


(あっ!そういえば林間学校!!)


 詩織は四年生の時の林間学校での出来事を思い出した。

 四年生の夏休み直前、山間にある県の施設で二泊三日の宿泊体験が行われた。その時、詩織のグループは唯と柚葉、そして不本意ながら真美と一緒だった。活動する中でメンバーは真美のわがままに振り回されながらもなんとか課題をこなしてきた。そして二日目の夜、施設と隣接している廃校のグランドでキャンプファイヤーが予定されていた。その準備のため各グループは、担当の仕事をする事になっていて、詩織たちのグループはキャンプファイヤー周りのセッティングをする担当だった。四人は使い終ったトーチを入れる箱を用意してクラスメイトが座るビニールシートなどを敷いて準備をすすめた。

辺りが薄暗くなりそろそろ始まるという時、真美はトイレに行きたいと言い出したのだった。宿泊施設に戻っている時間もないことから、その辺りの陰で用をたすように言うが真美は断固として拒否して廃校となっている校舎のトイレを使うと言い出したのだった。この校舎のトイレは昇降口を入って直ぐにあるのが見えていた。真美は嫌がる唯の手を引いて二人は廃校舎に入って行ったのだ。それから何分かして唯は真っ青な顔で詩織たちのところへ戻ってきた。

 戻ってきた唯は廃校舎に入ってからのことを話し出した。トイレに着くと真美はトイレの個室に入り、唯は扉の前で真美が出てくるのを待っていた。ところがいくら待っても出てこない。痺れを切らした唯は個室の真美に向かって呼びかけると、ようやく扉が開き真美がトイレから出てきた。早く戻ろうとする唯に、真美は屋上へ行ってみたいと言い出したというのだ。キャンプファイヤーの時間も迫っていることから、何とか真美と戻ろうとするが、真美は唯の腕を掴み校舎の奥へ行こうとする。唯は真美の掴む手を振り解き校舎を飛び出してきたというのだ。

唯が二人にそんな話をしているとき、その顔は更に青ざめた。詩織と柚葉の隣には真美の姿があったからだ。そして唯はビックリしながら、校舎での真美の行動を責める。すると真美はトイレになど行っていないという。


これは林間学校が終わってから、学年を越えて語られる話となった。


(これはどのように変わっているのだろう)


差し詰め、トイレに行ったのが自分か柚葉にでも置き換わるか、トイレには行かなかったといったところだろうか。漠然とそんな予想をしていた。そしてもう一度唯に電話をかける。


「もしもし。何度もごめんね。もう一つ教えて。小四の時、林間学校のキャンプファイヤー覚えてるでしょ。その時さ、廃校舎のトイレって誰と行ったの?」


「ん? 廃校舎のトイレ? 廃校舎って?」


「ほら、キャンプファイヤーしたグランドの隣に廃校になった校舎あったじゃん」


「えっ? 建物なんて何も無かったよ」


(あれ? どういう事?)


「詩織ちゃん。大丈夫? ホント変だよ。電話なんてしてないですぐ寝なよ」


そう言われて唯の方から電話を切った。

詩織の全身から吹き出すように汗が出てきた。


(ヤバい! ヤバい!! 本当にどうなってるの?)


腕を組み冷静になろうとするが、手足の震えが止まらない。詩織はとりあえず真美の家を確認しようと考えた。アパートを出て、この前真美がいなくなった時の足取りを追うように真美の家を目指す。あたりを見回すようにキョロキョロと挙動不審な様子で歩みを進める。だがそこは普段見慣れた風景で、特に変わった風でもない。


(ここの角を曲がると真美の家だよね)


そう思いながらT字路の歩道を右折。

そのとき目の前に現れたもの。それは数日前に見た真美宅の変わり果てた姿であった。駐車場であろう場所には枯れた草が積もり、割れたコンクリートからは雑草が生えている。家屋は所々傷んで屋根は錆が浮き出ている。ついこの間見たものとはまるでその様相は変わっていた。もう何年も放置されていると言った感じだ。


詩織は表札があると思われる部分をみてみるが、しっかりと剥がされていた。あたりを見回してもこれが誰の家なのかを知る手がかりは見当たらない。すると向かいの家からホウキとちりとりを持ったお婆さんが玄関から出てくるのが見えた。詩織は道路の左右を確認すると、小走りで横断する。


「すみませーん。ちょっとお尋ねしたいのですが……」


「はい、何か?」


おばあさんは玄関先を掃こうとする手を止め、詩織に顔を向けた。


「あの、そこの家なんですが、どなたの家なのでしょうか?」


そう訪ねる女子小学生に、不審がる様子もなく答えた。


「ああ、この家はね、羽柴さんという方のお宅ですよ。でも七年前に事故で小さな子供さんとお母さんが亡くなってね。そのあとお父さんが一人で住んでたんだけど五年前にその方も出て行って、今は空き家になっているんですのよ」


「そのお父さんは今どちらに?」


「さぁ、わからないわね」


詩織はおばあさんにお礼を言うと、もう一度廃屋を見上げて元来た道を歩き始めた。


(ここにも真美はいたんだ。でも何かの事故に会い亡くなった。しかも真美のお母さんまで…… ということは、ここはパラレルワールド的なところなのかな? でもなんで私はここにいるんだろう? いつから?)


詩織はぼっーとしながら歩いていると、目の前に由美子の歩く姿が見えた。


「あっ、お母さん!」


「あれ? 詩織、何しているの?」


「えっ、えーっと、さ、散歩?」


言い訳を考えて咄嗟に口から出た言葉に疑問符がついてしまった。


「なぁに、それ。お母さんにきいているの?」


由美子は笑いながら詩織の顔をみた。由美子の右手にはビニールの買い物袋が下がっている。


「お母さん、荷物持つよ」


そう言って由美子の手から袋を受け取ると、横に並んで歩き出した。


「ねぇ、お母さん。パラレルワールドってあると思う?」


「ん? 何それ? 並列世界?」


「そう」


「うーん……」


由美子は空を見上げながら想像している。

少しして顔を詩織に向けた。


「無いんじゃない?」


「えっ?」


詩織は何となく肯定すると思っていたため、意外そうな顔をする。


「だってさ、仮に私がここでわざと転んだとするじゃない。そうした自分としなかった自分に分岐するってことでしょ。そんな累乗的に増えていく並列世界なんてありえなくない? マンガみたいに一つや二つしかない並列世界はもっとありえないと思うけどね」


由美子のこの根拠は何となく納得はできたものの、そうするとこの今の自分や真美母娘の記憶ってどういうことなのだろう。そんなことを考えていた。


「仮にね、何らかの方法でタイムトラベルができて過去に干渉したとすればそれ以降の未来が変わっちゃう、俗に言うタイムパラドックスが起こるよね。そのつじつまあわせのため並列世界って概念を持ち込んだんじゃないかな」


「うーん…… だとするとお母さんは、仮に過去に干渉が起こったらどうなると思うの?」


「さぁね…… でも仮に未来までの道筋ができているとしたらそういう分岐も後々元の道に収束するって考えた方がしっくりくるかな」


詩織は自分で振っておきながら、この宗教的というか似非科学っぽい話についていけなくなってきた。


「でも何でそんな話を?」


そう由美子に聞かれて詩織は適当な話で誤魔化した。



その夜詩織はベッドに入ると真美母娘の事や、由美子との話を思い出していた。


「歴史の矯正力か……」


ポツリとそう呟くと、スマホを取り出して検索サイトの画面を開いた。その検索ワードに”羽柴 真美 事故”と入力して検索ボタンを押す。すると何件かの記事がヒットする。そのうち新聞社のページを開いてみた。



平成二十六年七月二十一日 

家族で県の保養施設を利用していた羽柴美加さん(32)、真美ちゃん(6)は隣接する廃校舎を散策中に建物老朽化による天井落下に会い死亡した。この事故をうけ市はこの廃校舎を取り壊すことを決定した。



(これか……)


詩織はスマホを枕元に置いた。


(これが本来の歴史なら、改変前の真美親娘が姿を消したのはこの為と考えられる。真美が何度も自分の身体を傷つけていたのは自分自身を消すためなのではなかろうか? 

何故私の記憶だけが変化に置いてけぼりされたのかはわからないけど……)


詩織はその後も暫く自分の身に起こった怪現象を調べていた。自分の記憶と現世の事実と照らし合わせる。こんなことをしても元の世界に戻るわけでない事は承知していたが、そうしないではいられなかった。

数日後、詩織は再び羽柴宅を訪れてみると建物の解体作業が行われていた。


(何で急に……)


そう思いながら、重機が建物を取り壊していくさまを眺めていた。この前真美をみた部屋の中が露わになっていき、そしてすぐに崩されてしまった。


「あれ? あなたこの前の?」


そう声をかけてきたのは、先日この家の持ち主を教えてくれたおばあさんだった。

詩織は軽く会釈する。


「先日はどうもありがとうございました」


「また見に来たの? ここ急に取り壊される事になったのよ。羽柴さんの旦那さんがね、このままにしておくと危ないからって……」


「そうなんですか」


そういうと後ろ髪ひかれながらも、おばあさんに一礼してその場を後にした。


「じゃあね、真美……」


半壊している真美宅に真美の面影を見ながらそう呟いた。

GWが終わる頃、詩織の生活は平常に戻っていた。これまでと違うのは真美が存在しないことと、トラブルの無い学校生活だ。何日か後には詩織の記憶からも真美の存在は消え、そんな日常になんの違和感も無くなっていった。

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