Sの奇跡
私が女学校に通っていた頃にはエスという文化が同級生の間で流行していた。
エスはシスターのS。つまり、姉妹ということだ。もちろん、本当の姉妹ではなく、疑似的な姉妹関係を結ぶという意味だ。
姉妹という名前ではあったが、卒業後すぐに親の決めた結婚相手と結婚することが運命づけられていた私たちにとって、エスの関係というのは、疑似恋愛的な意味合いも当然あった。懸想する相手とエスになれることは全生徒のあこがれだったのだ。
私にも千代というエスがいた。彼女の方が年上だったので、姉ということになる。彼女には少女小説を教えてもらったり、恋する気持ちとはどういうことなのかを手取り足取り教えてもらった。そして、彼女に教えてもらった恋する気持ちが彼女自身に向いていることを私ははっきりと認識していた。
そう。私は彼女に疑似恋愛ではなく、恋愛感情を持っていたのだ。
しかし、そんな関係も長くは続かなかった。
彼女は女学校を卒業後すぐに結婚してしまったし、私も一年遅れで女学校を卒業して、やはり結婚してしまった。それが当たり前の時代だったのだ。千代に対する気持ちと同じような気持ちにはなれない男性と生活を共にする生活が始まった。
彼女が卒業してからも手紙のやり取りは続けてはいたが、夫に見られて何かを感づかれるようなことは書けなかった。季節の遷ろう中、近況を報告しあって、互いの無事を知ることだけが私たちに許されるただ一つのことだった。
戦争が激しくなるうちに、二人とも疎開することになった。疎開先を互いに連絡するという約束をしていたが、ついぞ彼女からの疎開先の連絡は届かなかったのだ。空襲で郵便列車が焼けたらしいという噂はずいぶん後になって聞いた。
とにもかくにも、卒業から数年続いていたやり取りは、それで途絶えてしまったのだ。
戦後になって鉄道事情が落ち着いてから、一度だけ彼女の家があった住所を訪ねていったが、そこにかかっていた表札は彼女の名字でも、旧姓でもなかった。
私は、それであきらめてしまった。
毎日の生活、子育て、そんなことに追われているうちに、すっかりそんなことを忘れていたのだ。
それからおよそ七十四年経って、三度目の改元を迎えた。とは言え、大正から昭和への改元は物心がつく前だったから、実質的には二度目だ。昭和から平成への改元は天皇の崩御に伴ってのものだったから、あまり喜ばしいという雰囲気は無かった。喪に服している間に変わったのが平成への改元だった。
それに比べると、平成から令和への改元は厳かではあるが、みな晴れやかな気分で改元を迎えたように思った。
令和への改元からしばらくたって、夫が亡くなった。平均寿命をとうに超えての老衰だった。最後の方には介護が必要だったが、子供たちが交代で見てくれたりしたおかげで私の負担はそんなに大きくはなかった。ただ、私は子供たちの苦労を見て、自分の介護で彼らにこの苦労をさせたいとはどうしても思えなかった。
夫が残してくれたこの長年住んだ家を売却して老人ホームに入りたいという希望を伝えたのは、夫の初七日で顔を合わせた時だった。
子供たちも、自分たちが育ったこの家を手放すのには少し難色を示したが、築年数がかなり経っているこの家を建て直さずに住むことは困難であることを伝えると、彼らは考えを改めてくれた。幸いにも土地はある程度広かったので、土地を三等分し二つを子供たちに相続することにし、もう一つを売却して老人ホームへの入居資金とすることにした。二等分で相続したってどうせ相続税でそれくらいの税金は取られるのだ。老人ホームの毎月の費用は、年金と夫が残してくれた財産で賄うことにした。どうせ、そんなに先は長くはないだろう。
幸いにも、老人ホームへの入居は早々に決まった。また、土地の売却もあっさりと決まった。介護付有料老人ホームは入居費用が高いかわりに、あまり待たされることはないのだ。恋愛的な感情はついぞ持ち合わせなかったが、夫が自分が亡くなった後に私が生きていくだけの財産を残してくれたのはとても感謝している。恋する気持ちは持てなかったが尊敬できる人だったと亡くなった今でも思う。
家の物をある程度形見分けした後は、徹底的な断捨離をした。夫のことを思い出せるものは、アルバムが一つ。後はきれいさっぱり処分してしまった。どうせ老人ホームに持っていくことは出来ないのだ。生活に必要なものと、そして昔の文箱を一つ。それだけにした。
引っ越しの日、私は家に夫が残っているような気がして、一言つぶやいた。
また会う日まで、しばらくのさようなら。
引っ越しとはいえ軽トラック一台にも満たないような荷物で、長男が手伝ってくれたおかげで簡単に老人ホームへの入居は終わった。契約者は私だが、長男が保証人になってくれていて、手続き等も全部済ませてくれたのだ。しっかりしているところは、夫そっくりだ。
そして、老人ホーム最初の夜、私は寝つけなくて、老人ホーム入居者の名簿を眺めていた。そこに、竹井千代という名前を見つけたのだ。そう、エスだった彼女の名前だ。見間違いかと思って、文箱の中にあった彼女の手紙を見返した。手紙には確かに「竹井千代」という名前が書かれていた。もちろん、同姓同名の他人かもしれない。会ってみないことには分からない。
その夜は、結局、千代を見つけたことで気持ちが高ぶってしまい、ずいぶんと遅くまで寝るのに時間がかかってしまった。
老人ホームの朝は早い。
別に朝、館内に音楽が流れるわけではないのだけど、年を取ると目覚めが早くなるのは万人共通らしい。廊下で人が歩く音がしたり、外庭でラジオ体操をしている人がいる。私はというと、いつも起きる時間ではあるのだけど、昨日寝るのが遅かったせいかまだまだ布団の中でごろごろ。別に仕事をするでもないし、同居している人が居るわけでもない。私は私の都合で生活していいのだ。とは言え、千代のことを職員に聞きたくてうずうずしているのも事実だった。職員が多くなる時間に窓口に問い合わせようという気持ちでいっぱいで、二度寝するという気持ちにもならなかった。
結局、八時頃におなかが空いて布団から出てしまった。朝食べられるように、と食パンだけは買っておいたので、一枚だけトーストして紅茶を淹れて簡単な朝食を済ませた。
食事を終えた後、千代がくれた手紙をもう一度読み直した。近況報告ばかりの内容だったが、素敵なことを私と共有したいという気持ちに溢れる文章は、私の心を女学校時代に引き戻してくれた。
十時になって、私は老人ホームのサービス受付を訪ねた。竹井千代が私の知っている千代と同一人物かを確かめたかったのだ。
幸いにも、老人ホームには今の姓以外に旧姓も記録されていて、それは私が覚えている千代のそれと同じだったし、記録されている誕生日も私の記憶と同じだった。
「竹井千代さんに会わせてください」
サービス受付の女性は、あまり芳しくない表情で答えた。
「会わせることは出来ますが、あまり期待しないでください。失望するかもしれませんよ」
「それでもかまいません。少しだけでも話をしたいのです」
「そこまでおっしゃるのなら、今から竹井さんの担当につなぎますので、しばらくお待ちください」
そういうと、彼女は電話を掛けた。しばらくして、もう一人の女性がやってきた。
「竹井さんにお会いしたいという方は、こちらの方でよろしいですか?」
「はい。私です」
「竹井さんのお部屋までご案内しますね」
そう言うと、彼女は私に行く方向を指し示して、ゆっくりと歩いていった。私は彼女に会いたい一心だった。
私が住んでいる棟とは逆の建物に向かっていった。私が住んでいる棟はマンションのような雰囲気だったが、こちらはどちらかというと病室に近いような造りに見えた。
「こちらです」
そう言うと、彼女はコンコンとノックし、部屋の住人に声を掛けた。
「竹井さん、入りますね」
扉を開けると、少し豪華な病室のような部屋でベッドの上に寝て、テレビを見ていた女性がいた。白髪だらけで、しわくちゃの顔だったが、瞳は間違いなく千代のそれだった。
「あなた誰?」
千代から最初に発された言葉はそれだった。仕方がない。彼女と会わなくなってからはもう80年近い年月が経っているのだ。
「私は八重子よ。女学校で一年後輩だった」
「はて、女学校。私はまだ女学校には通ってないよ。来年、女学校に通うんだ」
千代からは予想外の答えが返ってきた。もう、学制に女学校はないし、彼女はもう九十歳をとうに超えているのだ。
「竹井さん、認知症なんです。彼女の長い人生のほとんどの記憶が斑になっていて、もう既にほとんど覚えていません」
「おばあちゃんは、どなた? 女学校の先生?」
私の予想外の言葉が彼女から飛んでくる。
なんだか、悲しくなってしまった。私は彼女のことを覚えているのに、これでは一方通行だ。
「うさぎ追いしかの山、小鮒釣りしかの川」
突然、彼女が故郷を歌い出した。私も尋常小学校で習った唱歌だ。
「夢は今も巡て、忘難き故郷」
彼女が歌うのに合わせて私も声を合わせた。それを聞いて、彼女は少し笑った。少しだけ悲しさが薄まった気がした。
「二人ともお上手」
担当の女性が私たち二人の歌を褒めてくれた。
「本当?」
「本当にお上手。まるで姉妹みたい」
姉妹、という言葉を聞いて、私は自分が彼女に会いに来た理由を思い出した。
「あの、女学校の頃の校歌を歌っても大丈夫ですかね?」
「ぜひ、歌ってあげてください。歌はね、記憶を取り戻す鍵になるって言うんですよ。ただの言葉じゃなくて、メロディと言葉が合わさっていると、記憶にマッチするらしいです。昔のことを思い出すきっかけになるかもしれません」
私と千代が一緒に歌った歌といえば、校歌位しかない。
「学びの園に集いあう」
私が歌い始めると、彼女が一緒に歌い始めた。
「姉妹のちぎり高らかに」
女学校の校歌の歌詞は覚えているらしい。この、「姉妹のちぎり高らかに」という歌詞は、私たちが最も意識しあった部分だ。
しかし、歌が続くにつれてだんだん彼女の声は小さくなっていった。おそらく記憶があいまいで自信がなくなってきたのだろう。
残念ながら彼女の女学校に関する記憶は現時点ではここまでが限界のようだ。でも、この部分だけでも、彼女が覚えていたことはすごくうれしかった。
彼女が少し疲れてしまったようだったので、今日はこれくらいにしておくことにした。
彼女の部屋から帰る時に、彼女の担当からいくらか彼女の現在の状況について聞いた。彼女は夫と死別してかなり経っているそうだ。子供はおらず、また彼女自身も一人娘だったせいか、身寄りは無いらしい。恩給でお金には苦労はしていないそうだが、認知症を発症してからはずっとあの部屋で暮らしているらしい。
そんな話を聞いてしまっては、彼女にせめて少しでも昔のことを思い出して欲しいと思った。何もかも忘れたまま、一人で死んでいくなんてとても寂しいことだと思う。身寄りはいなくても、私という「エス」がいたことを思い出してもらえれば、少しでも寂しさは紛れるんじゃないかと思う。
老人ホームに入居したら、暇な日々がずっと続くと思っていたが、日々に目的が出来ると、そんな暇な日々は続かない。
私は、毎日彼女の家に行き、担当から聞いた食べられそうなものから彼女の好物を作って持っていく毎日だった。
私が彼女に食べさせてあげられないのはとても残念だけど、こればかりは仕方がない。誤えん性肺炎で彼女が苦しむのは私も見たくないし、場合によってはそれで命を落としてしまうことがある。それでは本末転倒だ。
でも、彼女が食べさせてもらって、うれしそうな顔を眺めているのはとても幸せだった。女学校の頃に、お弁当を交換したことを思い出した。あの頃のお弁当は私ではなく母が作ってくれていたものだったが。
もちろん、それだけではなく、毎回いろんな歌を歌った。唱歌、校歌、そして彼女と見に行った映画の主題歌等。彼女の記憶は斑で、まったく歌えなかったりいっぱい歌えたり、様々だった。ただ、校歌は何度も繰り返して行くうちに徐々に歌える部分が増えていった。
そんな風にして、彼女と再会してから四ヶ月程が経った。入居したのは年末だったから、もうすぐ四月、桜が今にも咲こうとするそんな時期だった。いつもの担当が来る日だけ会えていたので、会ったのはちょうど百回程だった。彼女はもう少しで校歌を最後まで歌えるところまで、思い出していた。
いつもよりも少し暖かい日、彼女の担当から
「今日は一緒に散歩しますか。そろそろ桜がお庭で咲いてるかもしれませんし」
「いいですね。ちょっとお花見しますか」
担当は彼女を車いすに乗せてゆっくりと押していった。私は、手すりと杖を使いながら、彼女と一緒に施設の庭へ向かった。
庭へ出ると、桜が一斉に咲いていた。五分咲きくらいだろうか。満開ではないにせよ、空が桜色で染められようとしていた。
「桜、綺麗だね、千代さん」
私がそう言うと、彼女は車いすから立ち上がって、歌い始めた。
「学びの園に集いあう 姉妹のちぎり高らかに」
私も、彼女が歌い出すのに合わせて一緒に歌った。そして、私と彼女は校歌を最後まで歌いきった。
「八重子」
突然、名前を呼ばれてびっくりしてしまった。この四ヶ月、私から名乗っても、彼女から呼ばれることなんて無かったのに。
「八重子、私が卒業しても、あなたと私はずっと姉妹。死ぬまで姉妹よ」
そう言うと、彼女は私にそっとくちづけをした。
彼女が私にした笑顔は、千代が女学校を卒業した時の笑顔とそっくりだった。