幸せを探して
エピローグ
毎日が同じに見えるのは、きっと幸せな事なんだと思う。
子供の頃に聴いた事がある、そんな言葉のフレーズの歌。
題名は忘れたけど…。
特に「現在」に不満があるわけではないけど…。
最近ふと思う。
あの日…
あの時…
今と違った選択をしていたら…
私は今よりももっと幸せになれたのだろうか?
沢山の選択肢の中で、「今」に辿り着いた事が運命というか、なんと言うか…
きっと決められた私の人生だったのかもしれない。
今になって別の人生を生きてみたいと思うようになったのは、彼に出会ってしまったからだ――――。
第一章 出会い
2018年 春
毎朝6時に起床。
いつもコーヒーのいい匂いで目が覚める。
キッチンのカウンターで、毎朝私にコーヒーを入れてくれている夫、圭介に声をかける。
「おはよう」
圭介はいつも私より早く起きて、既に身支度を終えている。
通勤に時間がかかるため、いつも5時半には起きて、この時間には朝食の準備をしている。
「おはよう、よく眠れた?」
圭介はそう言ってコーヒーカップをテーブルに置いてくれた。
「ありがとう、うん、まあまあかな。」
私は圭介が入れてくれた温かいコーヒーを、手に取りながら答える。
毎朝似たような会話から始まる1日。
圭介と私、真鍋璃子が知り合ったのは7年前。
私が26歳の時だった。
短大を卒業後、派遣の仕事をしていたけど、いい加減落ち着かなきゃって思って、何か手に職をつけたくて、友人の勧めもあって介護ヘルパーの資格を取るために学校へ通うことにした。
学校の講師と生徒して出会ったのが圭介との初めての出会いだった。
体育会系で、明るくて優しい3才歳上の圭介は、大学を卒業してからずっと福祉の仕事をしている。
私は学校を卒業した後、介護ヘルパーとして働きはじめ、ある利用者さんの担当者会議(利用者のサービスを行う際に、その方に関わっている事業所全ての担当者が集まり話し合うこと)で圭介と再会した。
それから自然と顔を合わせる機会が増えていって、交際が始まり、5年前に結婚した。
結婚して5年。
私と圭介の2人暮らし。
子供はいない。
いないというか、私は子供を持つことが出来ないのだ。
―――私は生まれつき心臓が悪い。
妊娠、出産は心臓への負担が大きいため、私の心臓はそれに耐えられないという。
それでも圭介は笑って、「俺は璃子がいてくれたら、それだけで幸せだから」と言ってくれた。
日常生活の中ではあまり支障は無いけど、それでも定期的に通院が必要な状態。
普段はあまり考える事はないけど、いつか手術を受けないといけない日がやって来る。
「璃子、今日は帰りが少し遅くなりそうだから、先に夕飯食べてていいから。」
圭介は早々に食事を済ませて、出かける準備を始めた。
電車通勤を毎日続けている圭介。
いつも決まった時間に家を出る。
元々真面目な性格で人望もあついため、トントンと出世の階段を上っていった。
それに伴って仕事の量も増えて大変そうだけど、愚痴ひとつこぼさない。
同じ福祉の仕事をしている仲間としても尊敬する。
私も圭介を見習わないといけないって思う。
「あっ、私も急がなきゃ」
のんびりとしていたら、あっという間に7時前になっていた。
「おはようございます」
朝8時半。バタバタしながらも無事に会社に到着。
「あっ、真鍋さんちょうど良かった、ちょっと相談があるんだけど。」
カバンをロッカーに入れる間も無く、上司の根岸さんから声を掛けられた。
「何かありました?」
根岸さんから朝イチで声を掛けられると、いつも何かある。
「来て早々に申し訳ないんだけど、木下さんが急に休む事になってしまってね、木下さんが今日から訪問に伺う予定になっていたお宅に、代わりに真鍋さん行ってもらえるかな?」
やっぱり何かあった。
木下さんはベテランのヘルパーさん。
確かヘルパー歴20年とか。
私より知識も経験もかなりあるスーパーヘルパーさんだ。
木下さんが休むのも珍しいけど、そのスーパーヘルパーさんの代わりにって、私で大丈夫なのかな?
でも他に頼めるヘルパーがいないんだろうな。
まぁ、今日だけの代行だし。
私は軽い気持ちでスーパーヘルパーの代行を引き受けた。
根岸さんも今日は会議が入っているため、同行できないからと、訪問先の利用者の基本情報だけを私に渡すと、バタバタと車に乗り込み出かけて行った。
今日二時間、とにかくやるしかない。
私はとりあえず基本情報に目を通す事にした。
―――沖嶋 京 23歳 男性
病名 筋萎縮性側索硬化症 「ALS」
1年前に発症。
現在在宅にて療養中。
最近歩く事、自力で食事を摂ることが困難になって来た為、母親の依頼にて本日より訪問介護利用開始となる。本人は他人が家に入る事に抵抗があり、母親の介護にも拒否が見られる。
入浴はかろうじて母親が行なっている。
母親も介護疲れが見られるため、本人の身の回りのお世話と、母親の休息を兼ねての利用 ―――
大丈夫かなぁ、私で。
読み終えた瞬間、不安でいっぱいになった。
いつも高齢者の介護で、若い利用者さんも初めてだし、しかもALSって名前くらいは知っているけど、あまり詳しい知識もない。
やっぱり引き受けなければ良かったと後悔したが、訪問時間は待ってはくれない。
とりあえず今日だけ!っと、自分に言い聞かせ訪問先に向かったのだ。
沖嶋さん宅は事業所から車で20分くらいで着いた。
今日が初めての訪問サービス。
これから週二回、11時から13時の二時間入る事になっている。
主に身の回りのお世話と食事介助を行うとしか書いてないけど、今日訪問して細かい事を決めていったらいいのかな?
私の不安はピークに達した。
緊張しながらも笑顔だけは絶やさないよう注意しながら、玄関のチャイムを押した。
「はーい」
チャイムと同時に中から女性の声がした。
「あっ、訪問ステーションわかばの真鍋といいます」
私は名刺を手に握りしめ、玄関のドアが開くのを待った。
すると、中から母親だろうか?50代くらいの女性が出て来た。
「初めまして、わかばの真鍋と申します。本日は担当の木下が不在の為、私が代行で参りました。」
名刺を女性に突き出すような勢いで渡して、同時に自分が来た理由を伝えた。
すると女性は、クスッと笑いながら自分が依頼した母親だという事を私に伝え、部屋の中に案内してくれた。
2LDKの作りのアパートの一階。
玄関から入ってすぐがトイレとお風呂場になっていて、その奥がリビングとキッチンダイニング。
リビングを挟んで、右に一部屋、左に一部屋の作りになっている。
沖嶋さんは左側の部屋の前に立つと、少し表情が曇った。
「ここが息子の部屋です」
そう言ってノックをするが、部屋からの返事はなく、沖嶋さんは苦笑いをしながら部屋の扉を開けた。
「京、入るわよ」
部屋の扉を開けると、八畳程の部屋に白い壁、そしてその壁にはバスケット選手のポスターが貼られていたり、漫画がテーブルの上に無造作に置かれていた。
この部屋に似合わないであろう介護用のベットが部屋の大半を占めていた。
そして、そのベットに横になり天井を見つめていた青年が呟いた。
「誰、このおばさん」
これが、沖嶋京との初めての出会いとなる。
「京、なんて事言うの!ヘルパーさんに謝りなさい」
沖嶋さんは、私に申し訳なさそうな表情を見せた。
自分の息子の失礼な態度が許せないのだろう。
正直私もおばさんと言われていい気はしない。
だけど、相手は利用者さん、「お客様」にあたる人。
とにかく悪い印象だけは与えたくないので、笑顔で自己紹介を始めた。
「初めまして、ヘルパーの真鍋と言います。」
すると、ゆっくりとベットの頭部が上がりはじめ、さっきまで天井を見つめていた青年の顔と、私の顔が真正面で向き合った。
黒髪が似合う白い肌に、すっと通った目鼻立ち。
病気の為か、元々なのか、華奢な体格をした青年だと思った。
そして力強く開いた瞳で、私の目をしっかりと見つめ、とても気丈な態度で彼は言った。
「俺は誰の世話にもなるつもりはないから」
その瞬間、私の中で何かが流れた。
よく「初めて会った瞬間にびびっときました」なんて、運命の相手に出会った瞬間の時の表現として、びびっと電流が走ったような例えを使うが、電流と言うより懐かしい空気というか、何というか。
とにかくよく分からないが、何かが私の中に入って来たのだ。
そして、それと同時に彼の言葉が本心ではないように思え、彼としっかり向き合いたいと思った。
「私は、あなたをお世話しようと思って来てはいません。ただの話し相手でもいいですよ、何かして欲しい事や頼みたい事がある時に声を掛けて下さい」
私は彼との共通の話題になりそうなものを頭の中でぐるぐると探した。
とにかく彼との距離を少しでも近づけたくて。
すると彼は小馬鹿にするような表情を浮かべ、こう言った。
「おばさんと何話すの?」
本当、クソガキと思ってしまうくらい、憎たらしい顔で。
でもその反面、何故か気になって仕方ない自分がいた。
何故かは分からないが、話しかけてもきっとこのやり取りの繰り返しだろうと思い、黙ってベット横に置いてある椅子に座った。
先程から息子の失礼な言葉にヒヤヒヤした表情を浮かべている沖嶋さんに、ここは大丈夫なので用事を済ませて下さいと伝えた。
沖嶋さんは心配そうな表情を浮かべて、息子の部屋を後にした。
さあ、これからどうしよう。
ただただ沈黙が続いた。
その沈黙にしびれを切らして、彼に声をかけた。
「京さんはバスケが好きなんですか?」
彼の部屋の壁に貼ってある、バスケット選手のポスターを頼りに話題を作ろうとした。
しかし、彼は私に背中を向けたままベット上で携帯をいじっている。
また沈黙が続く。
私はただただ彼の部屋の中を見渡すだけ。
すると、その時。
彼の机の右横に置いている箱の中に、懐かしい漫画を見つけた。
その瞬間、私は思わずその漫画のタイトルを口にしていた。
「リアルシュート」
すると、今まで私に背中を向けていた彼がゆっくりと顔をこちらに向けて、少し驚いた表情を浮かべて言った。
「リアルシュート知ってるの?」
「えっ?知ってるも何もバスケの漫画と言えばリアルシュートでしょ?」
私は彼の質問にあっさりとそう答えた。
言ったあとになって、素で話してしまった事に後悔したが、彼はそんな事は気にする様子もなく話し始めた。
「そうだよね!めちゃくちゃ面白いよね。特にキャプテンのゴンがめっちゃいい奴だし、試合のシーンは本当毎回なにかと色々あって泣けるしさ」
さっきまでの不機嫌な顔とは一転して、まるで小学生のような幼い表情で、本当にこの漫画が好きなんだという事が伝わってきた。
なんか、可愛いや。
私はこの生意気な小学生の様な青年が、可愛いくて仕方なく思えた。
つい可愛いくて、クスッと私の口から笑いが漏れてしまった。
それに気づいた彼は、また生意気な表情に戻る。
「何?」
また強がって、そう私に問いかける。
「いえ、本当に好きなんだなって思って。」
彼はまたプイッと私に背中を向けたが、さっきまでとは明らかに違う空気が流れた。
何故か無性に、その背中が温かくて優しさが溢れている様に思えたのだった。
「筋萎縮性側索硬化症(ALS)とは、手足・のど・舌の筋肉や呼吸に必要な筋肉がだんだんやせて力がなくなっていく病気です。しかし、筋肉そのものの病気ではなく、筋肉を動かし、かつ運動をつかさどる神経(運動ニューロン)だけが障害をうけます。その結果、脳から「手足を動かせ」という命令が伝わらなくなることにより、力が弱くなり、筋肉がやせていきます。その一方で、体の感覚、視力や聴力、内臓機能などはすべて保たれることが普通です。
多くの場合は、手指の使いにくさや肘から先の力が弱くなり、筋肉がやせることで始まります。話 しにくい、食べ物がのみ込みにくいという症状で始まることもあります。いずれの場合でも、やがては呼吸の筋肉を含めて全身の筋肉がやせて力がはいらなくなり、歩けなくなります。のどの筋肉の力が入らなくなると声が出しにくくなり(構音障害)、水や食べ物ののみこみもできなくなります(嚥下障害)。またよだれや痰が増えることがあります。呼吸筋が弱まると呼吸も十分にできなくなります。進行しても通常は視力や聴力、体の感覚などは問題なく、眼球運動障害や失禁もみられにくい病気です。
この病気は常に進行性で、一度この病気にかかりますと症状が軽くなるということはありません。 体のどの部分の筋肉から始まってもやがては全身の筋肉が侵され、最後は呼吸の筋肉(呼吸筋)も働かなくなって大多数の方は呼吸不全で死亡します。人工呼吸器を使わない場合、病気になってから死亡までの期間はおおよそ2~5年ですが、中には人工呼吸器を使わないでも10数年の長期間にわたって非常にゆっくりした経過をたどる例もあります。その一方で、もっと早い経過で呼吸不全をきたす例もあります。特に高齢者で、話しにくい、食べ物がのみ込みにくいという症状で始まるタイプは進行が早いことが多いとされています。重要な点は患者さんごとに経過が大きく異なることであり、個々の患者さんに即した対応が必要となります。最近では認知症を合併する患者さんが増えていると云われています。」
ーー難病情報センターより引用ーー
ALSをインターネットで検索すると、だいたい同じような内容が書かれていた。
結局、木下さんが腰椎ヘルニアになり当分休む事になった為、私が引き継ぎ沖嶋京氏の訪問担当となった。
火曜と木曜の週に2回の訪問。
そのため、少しでもALSについて勉強しようと思い、インターネットで調べてみたけど。
治る病気ではないという事が、正直私には重くのしかかってきた。
治るなら、少しでも良くなるなら、本人も頑張ろうって気持ちになるだろう。
ーーだから、あんな風に強がってるんじゃ。
あの若さで、これからどんどん筋肉が弱って、いつか歩けなくなるんだ。
もし自分が同じ立場なら、どんな気持ちだろう。
きっと現実を受け止める事がなかなか出来ないだろう。
実際、自分自身の心臓が悪いと知った時、不安しかなくて、落ち込んだ。
現実を受け止めるまでやっぱり時間がかかったし。
これから先の未来が明るい未来じゃなく、辛い未来しかないと分かったら‥‥。
私は笑っていられるだろうか?
そんな事を考えながら、気づいたら沖島氏宅に着いていた。
本日で2回目の訪問。
彼は元気にしているだろうか?
そんな心配を心の中で抱きながら、チャイムを押した。
「失礼します。こんにちは、京さん」
私は平然とした対応を心掛けようと思いながら彼の部屋に入っていた。
彼は私を無視して、ベッドの上で天井を見つめていた。
そんな彼に対して、私は御構い無しに話しかけた。
「今日はいい天気ですね。」
しかし反応がない。
「何か頼みたいことが出来たら声を掛けてください。」
また反応がない。
「これ、うちにあった「リアルシュート」のファンブックなんですが、読みますか?」
切り札を出した瞬間、ずっと知らん顔していた彼の表情が、一気にあどけない表情に変わり、私の方を見てくれた。
「貸して!」
そして、私にキラキラした目で訴えかける。
このギャップが可愛いすぎる。
つい笑ってしまいそうになったけど、こらえながら本を彼に渡した。
彼のクールな態度は、やっぱり自分の弱さを人に見せたくないからなのかなぁ。
本当は、そんな意地悪な人じゃないのかも。
そんな想いが私の胸の中を巡った。
彼のことをもっと知りたい―――。
私はそんな風に思い始めていた。
私が、週二回の沖島さん宅への訪問へ行き始めてひと月が経った。
未だあまり会話らしい会話のないまま2時間を過ごしている。
それでもお母さんの方としては、買い物などへ息子を安心して任せて行けるので、助かっているそうだ。
それだけでも、役に立っているなら良かったと思う。
彼は相変わらず無口で、たまにとって欲しいものなどを私に頼むくらいだ。
それでも少しずつだが、彼の表情に変化を感じていた。
「京さん、一緒に外出してみませんか?」
私は思い切って声をかけた。
日焼けとは無縁な程、色白な彼。
いったいいつからずっとこのベッドで寝ているのだろう。
季節はもうすぐ桜が満開になる頃。
世間ではお花見情報が話題になっている。
いつもは、あまりお花見を意識している方ではないけ れど、今回はそれをキッカケに彼を外に連れ出そうっと思った。
「マジで言ってるの?」
私の誘いに少し驚いた様子を見せた。
「えっ、だって桜が綺麗ですよ、一緒に見に行きましょうよ」
彼は黙って、少しブスっとした表情で私を見た。
やっぱり人目が気になるのかなぁ。
そんな風に思い、彼にこう言った。
「ずっとベッドの上で寝ているより、少しでも身体を動かす方がいいと思いますよ。起きている時間を少しでも作りませんか?」
すると、彼は黙ったまま、うーん?と考えているような表情になった。
何か言ってー!っと言いたい気持ちだったが、我慢して彼の返事を待った。
すると、彼がゆっくりと口を開いた。
「今更、そんな事してもどうせ治らないから」
何となく彼の返事がいい返事ではない事は予想はしていたが、実際に言われてしまうと返す言葉に詰まってしまった。
でも今のままでいいわけがない。
どうしたらいいのか頭の中を一生懸命に回転させるが、いい言葉が浮かばない。
でもこれだけは伝えたかった。
このまま何もせず人生の終わりを迎えるのを待つだけでいいの?――――
でも今の私にはそれを上手く伝える自信がなくて、ただ黙り込むしか出来なかった。
「璃子、洗濯物ここに置いとくよ」
圭介が何か話しかけてきたのは聞こえているが、頭にしっかり入ってこない。
昼間の沖島京の言葉が頭から離れず、しかも何も返す言葉が出てこなかった事に後悔ばかりしていた。
帰って来てからずっとボーっとしているようにみえたのだろう。
圭介が心配そうに尋ねた。
「璃子、今日何かあった?」
何かあったというより、自分の無力さに愕然としたというか、自分に腹が立って仕方がない。
あんな風に言われて、どう答えたらいいのだろう。
自分が彼の立場なら、なんて言われたら少しでも前向きになれるのだろう。
それとも、そっとしておく方が彼のためなのかなぁ。
考えれば考えるほど、頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。
そんな頭の中が爆発寸前の私に、圭介が声をかけてきた。
「璃子、あのさ。」
その声で、一旦考えるのを止めようとして大きく深呼吸をした。
「どうしたの、急に」
圭介は少し戸惑った表情を見せて、そう問いかけてきた。
「何でもない、何でもないよ、ちょっと考え事してただけ」
私がそう答えると、圭介が笑いながら言った。
「なんか仕事であったんだろ?」
そう、いつもそうだ。
私は仕事を家庭に持ち帰ってしまう。
仕事は仕事って割り切れたらどんなに楽か。
そんな風にいつも、仕事の事で悩んでいる私に慣れている圭介が続けて話し始めた。
「いつも誰かの事を心配したり、考えてあげている事は、璃子の良いところだと思うけど、あんまり気負い過ぎて自分が疲れないようにな」
「ありがとう、そうだよね。」
今日はこれ以上考えない。
沖島京とは、これから当分サポートしていく中で、何か彼にとって少しでも役に立っていけばそれでいいんだ。
一旦それで私の頭の中は整理がついた。
昔から、誰かの為に何か役に立ちたいと思うタイプの性格ではなかった。
子供の頃は、どちらかと言うと、自分の事しか考えていないワガママな方だったと思う。
三姉妹の末っ子で生まれ、姉達は成績優秀でスポーツも出来て、クラスで目立つ存在だった。
私は心臓が悪い事もあって、運動は避けて過ごしていた。
かといって、勉強が出来る方でもなかった。
どちらかと言うと、クラスで目立つタイプではなく、ごく普通の子だった。
そんな普通の毎日の中で唯一楽しかった事が、漫画を読んでいる時だった。
そうやって、非現実的世界に逃げ込んでいたのかもしれない。
何もない自分が嫌いで、姉達を羨ましく思う事しか出来なかった。
そんな私が、今こうして誰かの人生に踏み込む様な仕事を選んだ事に、自分自身が一番驚いている。
自分自身を変えたくて、もがき苦しんだ13年間。
こんな私が誰かの為になっているのか…まだ分からないでいる。
―――友ちゃん。
あなたの目には、今の私はどう映っていますか?
第二章 初恋
2001年 冬
「璃子ー、今日からあんたに家庭教師の先生つける事にしたから」
朝一番、母からそう言われ何がなんやら分からない私。
その場にいた姉達は、頑張れー!って目でこちらを見ている。
「ちょっ、ちょっとお母さん、家庭教師なんかいらないから」
そんな話を勝手に決められても。
しかも何で、家庭教師なの?
確かに成績は良くない、特に数学は最悪だ。
「今キャンペーン中とかで、三回お試し体験やってるって聞いてね。ちょっと璃子勉強やってみない?あんたやれば出来るんだから。」
ポジティブというか、お試しとか無料が大好きな母。
母の中で、もう決定している事項。
今更変更はきかないだろう。
私は抵抗するのを諦めた。
「お試し期間だけね。」
18時から家庭教師が来るというので、今日は寄り道無しで帰って来るしかない。
そう思いながら学校へ向かった。
高1の12月、その日は少しいつもより暖かい1日だった。
もうすぐ冬休みが始まると言うのに、何で今頃家庭教師なんか頼んだんだろ?って思った。
とりあえずお試し期間だけ我慢しようと思い、部屋だけはざっと片付けた。
18時に家に来る先生の事には興味も湧かず、勉強から逃げたい気持ちでいっぱいだった。
そんな私が、このあと後悔するのだった。
「初めまして、家庭教師リーチから来ました、講師の
玉井友人です。よろしくお願いします。」
そう自己紹介する彼、綺麗な顔立ちにはっきりした二重瞼。
そして、少し長めの茶色い髪も清潔感があり、優しい笑顔がまた眩しくて、私は一瞬で恋に落ちた。
何でこんな部屋着でいたんだ、私!ってすごく後悔したが、もう遅い。
「さあ、先生上がって下さい」
隣にいた母も、いつもと違い声が裏返っていた。
「お邪魔します」
玉井先生はそう笑顔で答え、そして今私の部屋で私の隣に座っている。
めちゃくちゃ緊張して、勉強どころじゃない気持ちでいっぱいだった。
そんな私の胸のドキドキなんかにお構いなく、玉井先生が言った。
「璃子ちゃんは、数学が苦手だって聞いてるけど、もうすぐ期末テストだよね?」
い、今、璃子ちゃんって言った?
いちいち過剰反応してしまう。
「あっ、はい、来週からです、テスト。」
そう答えるのが精一杯だった。
「それなら、今日は数学を一緒に勉強していこう」
玉井先生はそう言うと、数学のテキストを机に置いた。
数学、ホント嫌いなんだけど。
馬鹿な私を見せないといけないと思うと、顔から火が出るくらい恥ずかしくなってきた。