第5章 P-19-1ファイル 自死
耳元で女の声がする。ベッドに入ったばかりで、其処には誰もいないというのに。
女の囁きが、うねりとなって襲ってくる。
『私は天に行って、あの人と結ばれる。あの人の愛さえあれば、命なんていらない』
クソ熱い日差しが、サイコロ課の窓に降り注ぎ、ひしめいている。
その部屋の真ん中で、神崎が紙データを見ながら口を尖らせていた。
「どうかしたの。プリンス神崎」
「麻田さん、酷い。プリンスは止めてください」
「で、どうしたの」
「いや、このデータ、どうしてまた、うちに来たのかなって」
「僕にも見せてくださいよ、神崎さん」
「俺も見るー」
「和田、スーちゃん。最初はあたし」
「鬼婆さまが最初に見るとよ」
「了解です」
「畜生が。今度こそ寝技で秒殺してやる」
「ママはそんな口利いちゃいけません」
「同感です」
そのデータとは、梅雨の氷雨が窓を濡らす季節、都内で一人の女性が命を絶ったというものだった。
左手の手首には切った跡が見受けられた。
巧く切れなかったのだろう、部屋のドアノブにロープを結び、首を吊ったのが死因だった。
その女性が残した最後のメッセージが、前述の遺書らしき殴り書きである。そのメッセージは、血文字で書かれていた。
果たして、女性はどのような思いを胸に、最後の日を迎えたのか。
女性は夫と二人暮らし。子供はいなかった。
夫は出張中で、家には女性が一人でいたと思われる。出張から戻った夫が、第一発見者だった。
遺体を前に、泣くでなく喚くでなく飄々とした夫に、警察官は違和感を抱いた。
通常、忙しい場合は兎角自死で処理されそうな案件だったが、夫の態度が余りに不自然だったため、夫が妻を計画的に殺害した線も捨てられず、捜査一課や鑑識課の登場と相成ったわけである。
事件と自死の両面から調べが進み、夫はアリバイがあったために捜査対象から外れたが、夫の態度に不信感を持ってしまえば、殺人の可能性も視野に入れたくなってくる。
しかし、殴り書きは彼女自身の筆跡で、殺人の線は一旦切り上げられ、自死で処理をする目前までいったらしい。
簡単に考えれば、不倫などしている女性が、現世では相手と結ばれないことを儚んで、自死に至ったと見るべきであろう。
ところが、携帯電話、スマホのSNSを見た捜査員は、驚きを禁じ得なかった。
と、前の一行が、サイコロ課データにその事件、いや、事故というべきか、自傷案件が回ってきた所以である。
それは、SNS上で彼女を追い込むような書き込みが見受けられたからだった。
『死ね』或いは、『殺す』などと書き込みがあれば、捜査をしない訳にもいかない。
雀たちは囀る。
データ入力後に囀ってほしい神崎は、下を向いて見えないように舌打ちをする。
「なんだか、違和感バリバリ」
「不倫で自死なら、有りでしょう」
「それならうちの課にデータ来ねえだろ」
「ということは、殺人?」
「若しくは、自死の教唆」
どうして自死で決着がつかなかったのかは不明だが、科捜研でスマホとパソコンを押収し、SNS上の書き込み等を分析したところ、夫、元恋人、大学時代の友人、SNSでの仲間達が、こぞって女性のことを批難していることが判明した。
何故なのか。
現恋人はいない。
ということは、現在進行形で不倫している相手はいない。
夫との仲は冷え切っていたようで、口も利かずSNSでやり取りしていたようだ。この夫が、モラハラ紛いに『お前のような婬奔女は死んでしまえ』とSNSで執拗に追い込むような書き込みをしていた。
夫に尋ねたところ、妻は、結婚前は一流企業に勤めながらも、こっそりと夜の商売にも手をだし、男性関係は常に複雑だった。二股どころではない。3人から4人、常に恋人がいたらしい。
夫はそれを知らされず結婚した。
結婚後、自分の友人に妻の写真を見せたところ、何とその事実が判明してしまった。
驚いて問い詰める夫に、妻は悪びれもせず、過去や現在進行形の不貞を告白した。
夫は、一時は離婚も考えたらしいが、離婚などすれば自分の将来にとって傷が付くと判断した。妻の昼の顔は、一流企業の会社員だったから。
妻は妻で、離婚の、離の字も出さない。
それならばと、子供をもうけるのは止めた。となれば、妻の奔放さは増すばかりで、手が付けられなくなった。
あくまで夫の言い分である。
元恋人は、不倫状態が終わり決別したにも関わらず、女性を追い掛け回し、ストーカーに近い生活を送っていたようだ。
夫と同様のアカウントで、この女性は堂々と不倫をしていたらしく、元恋人から近頃『こちらから殺しに行く』というメッセージが残されていた。
これまでにこのような事件も多々あり、夫婦は何度か引越までしている。
それもこれも、妻の命の危険を顧みたわけではない。巷に噂が広がり始め、夫が周囲の視線を感じるから、という理由であった。
夫は、元恋人の存在を知っていたようだが、知らぬふりをしていた。余程世間体が大事だったようで、離婚する気は毛頭なかったとみられる。その代り、何があろうが妻を助ける気も無かったということに他ならない。
『あの人と結ばれる』という遺書があるからには、過去或いは現在において、他の男性の影が見え隠れする。
それが、ストーカーの元恋人でないことは確かだ。
女性は、自死の際、左手薬指にブランド物の新しい指輪を身に付けていた。
『From Y To M』の刻印がなされた、真新しい指輪である。この指輪を販売している旗艦店や百貨店から、防犯カメラ映像の提出を受けたが、捜査は進展しなかった。
何れも、女性が発注し、受取を行っていたのである。
指輪から、新しい事実は浮かび上がってこなかった。
大学時代の友人は、独身女性である。
抑制のない性行動をいつも批難していたようだが、女性が死ぬ間際には、いつにも増して、その性行動を批判していた。
かといって、仲が悪いかと思えばそうでもない。
半年に一度、二人で旅行に行ったり、休日には二人でランチを共にしていた。
女性は、夫が家にいる休日は、決まって家を空けていたらしい。
ちなみに、この友人女性は夜の商売には関係が無く、身持ちの固い女性だと思われた。
会社時代の友人も、SNSでのやり取りがあったようだ。
男性も女性もいるが、男性は、ほぼ全員が恋人の期間があったと思われる。夫曰く、男性向けのアカウントと、女性向けのアカウントが別なのだという。
過去の恋愛が火種になる可能性は捨てきれないとのことで、男性全員に聞き込み、アリバイを確定させた。
こうなると、もはや女性が自死したのならどうでもいいや、という空気も流れてくる。
しかし、このとき、捜査一課の一角は暇だった。何がしかの仕事をせねば、周囲の目は冷たい。
自死した女性には、SNSでいつも恋愛について話している女性の仲間がいたようだ。
IDから人物を割り出し、捜査員を関東近郊においてのみ派遣した。関東以外では、時間的に犯行が難しいであろう死亡推定時刻。
その中で、捜査員は不思議な言葉を耳にした。
それは、『悪魔サイト』の存在だった。
悪魔サイトと聞き、雀の囀りは、ヒートアップする。
「なるほどね、ここから何かがあって、この人は自分で首を吊った、と」
「そもそも、悪魔サイトってなんだよ」
「えーと。悪魔の儀式を行うことで、自分の欲望を叶えるサイトですね」
「嘘。そんなサイトあんの?おー、怖い」
「実際に今もあるの?その悪魔サイト」
「事件とともに消え失せたらしいです。SNSの仲間たちによると」
「夫は知っていたのかしら」
「いえ、知らなかったようですね。女性たち向けのSNSと男性向けのそれでは、180℃態度が違っていたようですし」
「大学時代の友人だけが、尻軽さを知っていたわけか」
「それにしても、殺人ではないだろう?」
「自死の教唆はあるかもしれない」
「おう、麻田。同じ女として、どうよ」
「すーちゃん、あたしに聞かないでください。あたしは二股さえしたことありません」
「お前は二股に巻き込まれたほうだもんな」
麻田が顔を引き攣らせる。
「須藤、思い出させるな」
にやりと頬に笑みを湛えた和田がヒョイ、と麻田の斜め前から顔を出す。
「あ、そういえば、天使の呟きってなんだったんです?弥皇さんの言ってた」
「五月蝿い。お子様は黙らっしゃい」
「神崎さん、知ってるんでしょ、教えて」
「二人のかたーい約束ですから。僕は黄泉の国まで持って行きましょう、ね、麻田さん」
「あんた、余計なこと言ったら脚折るよ」
「僕はただ、話しませんって言ってるだけなのに、酷い。酷いじゃないですか」
段々と、話が逸れていく雀の集団。
悪魔サイトと呼ばれたサイト。
彼女は一体、悪魔サイトに手を伸ばしてまで、何を手に入れようとしていたのだろうか。
調べが進むうち、死ぬ寸前に、女性がある男性に触手を伸ばしていたことが判った。
女性は、手に入らない男性をみると、どういう手を使ってでも男性を落とすことが自分の女性力だと勘違いしていたらしい。
事実、この男性は奥方との仲も円満で、過去に不倫騒動も無い。
女性は、奥方のいる男に、この日に死んでくれというメッセージを残していた。無論、相手にはその気は無い。言い寄られて辟易していたことだろう。こういっては死人に酷だが、言い寄ってくる人間がこの世から居なくなって、清々しているかもしれない。
今迄黙っていた課長が、雀たちを統べる。
「この女性は、奔放に生きながら、今迄すべての男性を手に入れてきた。今回、それが叶わず悪魔に魂を売った」
「その代償が命であると?」
「そんなところだろう。サイトが見つからないんじゃ、何が目的かわからん」
麻田が手を挙げる。
「男性陣は、こういう女性でもお付き合いしたくなるの?」
「俺は御免だね。自分が独身だったとしても嫌だ」
「僕は、そうですねえ。相手を見極められないと思う。だから乗ってしまうかも」
「結構美人ですしね。鶏ガラでなければ、僕も乗せられたかも」
「課長は?」
「馬鹿言え。愛する妻がいたらこんな火遊びできない」
「課長」
「なんだ」
「ご馳走様です」
サイコロ人の見立ては、下記のとおり。
女性は、奥方のいる男を手に入れ、恋人にしたくて、意味深な遺書を書いたものと推論された。
悪魔サイト。
文字どおり、悪魔が降臨し、命と引き換えに望みを叶えるという。
その儀式が、悪魔サイトに載っていたということだろう。
女性は手首を切り、その血で何がしかを認めたに違いない。
自死を教唆し、そのとおりにすれば欲が叶う。今かなわなくても、来世では叶う。
違う場所で互いに命を絶ち、天で結ばれる、というストーリー。
しかし今、悪魔サイトは存在していない。
誰かが嘘を言っているのか、はたまた、女性の精神状態がおもわしくなく、悪魔サイトなるサイトを自分で作り上げた可能性も大いにある。
全般ではないが、自死は天に行けないと説かれている宗教もある。
彼女は、天に昇ったのだろうか。昇れずに、黄泉の国をうろうろしているのだろうか。
『ああ、耳元で女の声がする。ベッドに入ったばかりで、其処には誰もいないというのに』
『女の囁きが、うねりとなって私を襲う』
『堕落した女など、黄泉の国で、地獄で、朽ち果てるがいい』