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サイコパスの正義(仮)  作者: たま ささみ
3/12

第2章  F-15ファイル  毒親

「くーっ。この課でまた1年、修業ですか、僕」

 神崎が自分のデスクに突っ伏し、情けない声を上げている。その斜め向かいで、ケラケラと乾いた笑い声が聞こえた。

「去年華々しいデビュー飾ったからじゃないの」

 声はケラケラしているが、目が血走っている麻田の返し。

 麻田には目を向けないようにしながら、和田が向かいの神崎をじっと見る。

「ああ、清野の全裸の写真撮りましたもんね」

 ずいぶんと軽いリアクション。

 立ち上がってデスクに両手をつき、皆の行動を斜め上から見下ろす須藤が、常から低い声を尚更低くする。

「あれで、即アウトだな。ま、気長に行こうぜ」

 サイコロ課、雀たちの囀りである。


 だが今日は神崎を冷たくあしらう空気が課内に漂っている。神崎自身はもしかしたら異動できるかもしれないと思っていたらしい。そうは問屋が卸さないと皆が手ぐすね引いて待っている。

 麻田を泣かせた罪は重い。まあ、麻田が泣いたことは麻田と弥皇しか知らないし、今の麻田はそれすら認めようとしないだろうし、記憶の彼方に事実を消し去っているかもしれないが。

 

 今年は麻田以外、特に人事異動も無かった。平和な年度初めである。

 神崎は、自分は心理専門ではないのにどうするんじゃと皆に毒づいている。それでも、神崎の叫びを押さえ付けるかの如く、サイコロ課のカラーが段々身に着いて来たと周囲は口を揃えて囀りまくっている。3対1。神崎の負けが濃厚だ。

 それを物語るかのように、今日も神崎はデータ入力を主に担いながら、写真等科警研の得意分野で蘊蓄を垂れる。おまけに、和田を超える情報通だ。ソースがどこにあるのか、和田には教えてくれない。

 ならば情報合戦だ!と和田が内心叫んでいる。というわりに、神崎の面の厚さに本音を語れない和田である。


 神崎は決して、厚顔無恥というわけではない。彼は彼なりに、心理とは何ぞやと、サイコロ課の人間たちを観察している。当然、和田もその対象に入る。

 弥皇がフェミニストであるように、神崎もまた、サイコロ課の人間たちをリスペクトしているのが行動からして分かる。

 其処には、神崎独特のオーラが漂っていた。


 神崎独特のオーラ。

 仕事にせよ、プライベートにせよ、事を起こすにあたり、普段、神崎は前もって逃げ道を確保している。

 いざとなると、神崎はするりと逃げて姿を晦ます。体貌の状態からしてもITに長けているところからしても、心理面が浅いとはいえ、使い物にならない人材ではない。

 ただ、去年、清野と一緒にサイコロ課に来たということは、表面的に何らかの問題を抱えていたのは確かだ。それが元カノへの嫌がらせと見做されたのは、事実を語る上で揺るぎようのない事実になっている。

 今のところ、それがプロファイルの邪魔になるわけではない。


 元カノへの嫌がらせ。執拗なまでの品行の悪さは、神崎のスタイルからすると、ちょっと意外な面を見たように誰もが感じるだろう。この時ばかりは、目の前のことに直情径行になり過ぎ、執念を燃やしたに違いない。

 神崎は現在、このことを一番に後悔している。

 サイコロ課の面々は神崎を慰めているやら、からかっているやら、言葉の端々に重みというものが無い。

「元カノ?誰だって思い出したくない青春はあるものよ」

「麻田の場合も、あったっけな」

「黙っててくれる?スーちゃん」

「僕、その件だけは情報が不足してるんですけど。神崎さん、調べたんでしょ、教えてくださいよ」

「和田。それ以上首突っ込んだら、締め上げるよ」

「麻田さん、怖い」


 人の過去など、サイコロ課の面々は主眼を置くでも無く、ただ只管に神崎を心理合戦の中に引き込んでいく。

 なるべく多く他者のプロファイルを聞き、心理を極めて欲しいと願う和田だが、市毛課長も、姿を晦ます神崎を許容している。


 境界線の内側と外側。

 市毛課長が、何らかの理由があって神崎を泳がせているのか、それはわからない。


 市毛課長と言えば、麻田の愛息、オチビ1,2にぞっこんだ。

 あの冷静沈着な市毛課長が、ことある毎に皆の前で鼻の下を伸ばす。

「このまま辞めてベビーシッターやろうかな」

 近頃の、市毛課長の口癖になった。

 鼻の下は美女のみならず、子供でも伸びる市毛課長。


 和田は、市毛課長を傍から見ていると、冷や汗が出る。


(おいおい。この課は一体誰が纏めるんだよ)


 和田の情報網では、市毛課長が昨年末で退職願を出したとか、出さないとか。

 今年、此処にこうして座っているということは、流石に市毛課長の退職願は慰留されたらしい。

 仕方がないと言わんばかりに、己が非番の日の市毛課長は、必ず奥方とともに弥皇・麻田邸を訪問しているという。非番の前の日の課長は段々鼻の下が伸びていく。麻田と一緒になってオチビ1,2の自慢話ばかりしている。


 弥皇・麻田邸といえば、その居室は佐治や和田、須藤すらも教えてもらえない。弥皇の部屋は血だらけになったし清野が全裸になって弥皇の隣で寝ていたから麻田の性格上住まうのは無理として、麻田の旧マンションで子育てをしているのかと皆勘違いしたくらいである。

 弥皇(=の親戚)が稀に見る金持ちらしく、2人は別宅を持っているのだとか。その場所を知るのも市毛課長のみ。課長はその話題に絶対触れない。話題が出るとそそくさと何処かに消えていく。

 市毛課長の口の固さには、皆、ひれ伏すこと、この上ない。



 そんなある日のことだ。

 神崎が、データ入力しながら大声を出す。

「先日の事件です。ファイルはF-15。15歳少年の犯罪です。手当たり次第に親戚を殺傷しています。動機は、金を無心して断られたこと。2人が死亡、5人が重軽傷。一晩のうちに犯行に及んでいます」


 麻田が椅子に座り直し身を乗り出して一言発する。

「両親は?」

 神崎が呆れ果てたように、物も言わず、首を左右に振る。そして一言だけ、少年の家庭環境をデータに落としたものを見て欲しいと皆に言う。


 両親は所謂、路上生活者。

 少年に小学校時代から教育も受けさせず、何年もネグレクト状態のままだった。両親は生活費を稼ぐでもなく、少年に万引きや置き引きなどを強要しており、あろうことか金の無心さえも、小さな少年に行わせた。

 その後、両親は、少年の弟にあたる子供まで産み落とした。赤子が生まれた後は、親戚にあてた金も無心を額が大きくなったうえに、あろうことか赤子の世話をすべて少年に押し付け、自分たちはギャンブルに興じていたという。

 

 データを一番初めに読み終えたであろう須藤が、真っ先に口を開いた。

「そうか。そうなると青年期における典型的な劇場型犯罪に見えるが、こりゃ違うな」

「どうして其処まで言いきれるんですか」

 神崎は自分の見識を述べた。

 やけになった少年が、自分も遊びたくなり、親戚にあてて金の無心に走ったのではないか、と。


 それに対し、須藤の言い分は異なる。

 少年は親に対し口答えをしていなかったはずであるというのだ。

 そして、弟の育ち具合を逆に神崎に尋ねる。

 弟は、戸籍にすら名を連ねて貰えない有様だった。それでも、少年が万引きで準備したベビー用の食物を口に運び食べて飲んで、身体だけは肥え、健康優良児とまではいかないながらも栄養失調の状態には無かった。

 それどころか、栄養失調状態にあったのは、犯行に及んだ兄の方である。

 15歳と言えば育ち盛り。弟に食料を与えていたのだから、兄は栄養に齟齬を起こしても仕方のない状況だといえよう。


 麻田が、須藤の意見をフォローする。

「親が遊んで暮らしてる、ここがミソなのよ、こういったケースは。少年犯罪、サイコパス要素の有無ということでサイコロ課にデータが来るけどね。本来、児童相談所なり然るべきところと警察がデータをやり取りしないといけない案件なの」

 麻田曰く、親、特に母親に対する男子の心中は察するに余りあるものがある。親が遊ぶ金欲しさに少年に窃盗を命じたりする例は多い。悪いと分っているのに、なぜ、犯罪に手を染めるのか。


 親に褒めて欲しいからである。


 愛情に飢えている子供たちは、褒められることが愛情だと一義的に考えてしまう。それが犯罪だとしても、親の顔色の方が大事になってくる。

 一方、親はどうだろう。今回のような最低親は世の中ごまんといると考えられるが、犯罪まで子供に強要する親がいるのだろうか。

 実際問題、増えてきている。子供が言うことを聞いた場合、すなわち報酬を手にしてきた場合は、子供を褒め称える。

『良くやった』と。

 罪を犯してはいけない、ということを教えるのが親の最低条件なのに、反対に犯罪を褒め称え、褒められた子供は、また褒められたいという思いから、重ねて非行に走る。

 このような環境下の家庭では、往々にして子供への虐待も見受けられがちであるのがポイントだ。


 心理初心者、神崎は目眩の極みを何とか持ちこたえながら、声を絞り出す。

「それだったら、最悪のパターンじゃないですか」

 須藤も頷く。

「そうだな。最悪だよ」

 麻田は顔をあげ、天井の方に目をやった。

「こんな親がいるから、少年犯罪がまかりとおる世の中になるのね」

 和田はむくれている。

「これって、絶対に子供を虐待してますよね。その辺もきちんと調べて欲しかったな。でないと、サイコパスかどうかの判断がつかない」

 神崎としては、ただのネグレクトにしか思えない。

「サイコパスとは一線を画すると思うけど」

 和田はもっとむくれ、頬っぺたを風船のように膨らました。

「あんなに何人も殺しておいて?」

 麻田が二人の間に割って入った。

「殺人だけがサイコパスの定義じゃないからね」


 須藤が神崎に向かって捲し立てる。


 市毛課長ではないが、母さんが夜なべをして手袋を編んでくれた、さもなく、一杯のかけそばを子供たちと分け合って食べた時代は、もう、こない。

 そう、現代は夜なべもしなければ、子供たちの前で、親だけが、かけそばを全て食べてしまう世の中なのだ。


 日本国憲法第26条に規定するとおり、すべての国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。

 15歳の少年は、この、教育を受ける権利を奪われ、一方弟は、戸籍にも入れず基本的人権すら奪われていた。ここで少年が親を恨む、というなら納得がいく方も多かろう。

 ところが、そうではない。


 課長がやるせないように立ち上がって、珈琲を入れにいきながら、低い声で呟いた。

「これは共依存なんだよ。何も良い親と良い子だけが共依存じゃない」

 

 神崎は純粋に驚きを隠せなかった。

「共依存として、窃盗は納得がいきます。人を殺めることが共依存に繋がるんですか?」

 和田が、しんみりと寂しそうに下を向く。

 親は子供の持ってくる金をあてに、少年に向かい、親戚がお金を出さないときは、ナイフをちらつかせて脅せと言う。万が一殺しても構わない、と。

「親はもう、子供自身を金蔓くらいにしか考えていないんですよ。最低な親ですよね」

 須藤が割って入る。

「子供はどうだ。金を持って行けば親が褒めてくれる。これが万引きだけじゃ駄目なんだ。赤ちゃんのご飯では、親のギャンブル代にはならないからな」


 生活保護を申請するなり、子供だけでも一時保護して親から引き離し、更生施設で匿う方法が一般的ではないのか、と神崎が言う。

 麻田が悔しそうに吐き捨てる。

「そういう子供に限って、話を聞いても、親は悪くない、悪いのは自分だと言い張るそうよ。子供が悪いの一点張り。親からしてみれば、早く共依存の相手に戻って欲しいから、更生施設に毎日のように怒鳴り込む。これじゃ、子供の一生が台無しじゃないの」

 課長はまたしても低い声で呟く。

「共依存の典型だな」


 子供に路上生活を無理強いし、その中で更なる子供を産み、赤子の世話まで少年に強要する人生がこの世にあったとは。これが社会の底辺に当たるのか、神崎にはわからない。他の皆だってわかっていないだろうと思う。


 ところで、殺傷事件を起こした少年に、どのような処置が下されるのか。

 実際に手を染めたからには、全くのお咎めなしというわけにはいかないだろう。それなりの施設で親から隔離され、人として真っ当な道を歩むしか方法しか残されていない。

 少年法に守られる年齢なら、名を変え、住まいを変え、懺悔しながら生きることも可能だが、果たして、施設から出所したとき、彼の脳裏には何が浮かぶのか。


 今回、殺人教唆で罪を咎められるであろう、少年の両親。よしんば服役後に少年や、その弟に会ったとしても、いい親子関係に戻れるはずもない。可哀想なのは弟であろう。物覚えができるようになるころには、児童養護施設の中で一人ぼっちになるのだ。須く、両親とは引き離されて育つはずである。

 万が一、両親と一緒になることがあっていいのか。この両親が心から罪を悔い改めるとは思えない。


(それなら、そんな親なら、いない方が余程マシなのかもしれない)

少なくとも、神崎はそう考えた。

「これって、両親と一緒に暮らすことになるんですか」

 麻田はやりきれないと言った表情を浮かべ吐き捨てた。

「行政の考え方次第だと思うけど、親元に戻される危険性もあるわよ」

 須藤も同感だと言わんばかりに大きく頷く。

「そうそう。行政なんざ、自分の仕事を増やしたくねえ連中ばかりだからな」

 和田だけは、何か考えがあるような口ぶりで天井を見上げた。

「子供の未来を見据えた場合、どちらが、より子どもにとって幸せなんでしょうね」

 麻田と須藤がその言葉を受けた。

「この件に特化すれば、親から切り離した方が子供のためになると思うけど、愛情を掛けられずに成長した子は、何処かで歪みが生じると思うわけ」

「そうなると、凶悪な犯罪に手を染める可能性が無いでもない」

 神崎も、その情景を心に浮かべたのだろうか、下を向く。

「どっちに転んでも、不幸な巡り合わせですね」


 少年犯罪自体は減っているという数字も、確かにある。

 しかしそれは軽犯罪等すべての犯罪を含んだ数字であって、大麻の所持や使用、殺人など今迄無かった凶悪な犯罪は、寧ろ増えつつあるという見解を述べる学者もいるくらいだ。


 皆が皆、願い叶えて悪のカリスマになりたいわけでもなく、中には脳の器質異常が何らかの形で表れてしまう場合もある。それが総じて、サイコパスと呼ばれるものだ、と神崎は思っていた。

 犯罪心理という観点からすれば、悪のカリスマも、脳の器質異常も同義にサイコパスなのか、それが神崎にはわからない。


 今回のように、潜在的な共依存からくる犯罪が後を絶たない現状を知り、少なからず、ショックを受けた。

 神崎は、お世辞にもそういった世界を垣間見たことが無かったから。

 そう、神崎自身、良い子と良い親の芝居なら、今迄散々経験してきた。

 サイコロ課に来て、自分は母親との共依存なのではないかと悩んだ日々もある。

 もし共依存であるとするならば、その共依存関係から抜け出さなければ。そのための方策を色々と探っていた。


 そう、神崎自身、良い子と良い親の芝居なら、今迄散々経験してきた。母は教育熱心で、家の中は何から何まで綺麗にし、良妻賢母というフレーズがぴったりだった。

 母親との共依存。

 神崎は小さい頃、両親に褒められたくて、何でも頑張った。勉強、スポーツ、礼儀作法。きちんとすれば、母親は褒めてくれた。家柄の良い家庭だったこともあり、厳格な父を柱とした厳格な家庭。


 それが神崎の神経をズタズタにする事件の、いわばきっかけになった。

 母の暴言。神崎が初めて恋心を抱いた女性に対するものだった。だが神崎は女性に味方することなく、母の言いなりになった。

 その上、女性が結婚するや否や、女性宅への嫌がらせを始め、女性の実家までターゲットにした。女性の結婚相手は自分の同期警察官だったからそちらの家まではターゲットにしなかったが、その男性に呼び出され、一発殴られて目が覚めた。


 神崎が女性に選ばれなかった理由。いや、女性が神崎以外の男性を選んだ理由。

 神崎は、女性の人権を無視したのだ。

 無礼な言葉を投げつけた母親のせいにしながら、自分は庇うことすらせず、まして家を出ることすらしなかった。なのに、結婚した途端、腸が煮えくり返るという浅ましさ。

 同期の男性に自分の心の内を詳らかにされ、初めて自分の立場を知り、二人に謝った。二人とも、これ以上嫌がらせがないなら胸の内に仕舞ってくれると言ってくれた。だから今、自分は警察官でいられるのかもしれない。

 サイコロ課に来た時、同期が過去をバラしたのだと思った。また沸々と怒りがこみ上げつつあった。

 しかし、気付いた。

 違う。噂ではなく、自分の顔つきがそうだったのだろう。行動が人目についたのだろう。だから今、ここにいるのだ。

 

 神崎は都内でも有数の、敷地も広く立派な屋敷が立ち並ぶ閑静な住宅街に住んでいた。父は外交官を経て官僚としての要職にある。厳格な父は幼少の頃から神崎や母よりも仕事を選んだ。遊んでほしいとねだることは許されなかった。ねだろうとすると、母が飛んできて神崎を嗜めた。神崎は、何故自分が母から怒られるのか理由がわからなかった。月日が経ち、漸く神崎は父や母と判り合えないことに気が付いた。


 定時にサイコロ課を出て、地下鉄で帰路に就く。車窓に映った自分は、頬はこけ、目だけがギラギラしているように感じた。特段、痩せたわけではない。母とのバトルがこれから待っていると思うと、少し憂鬱になるのだった。

 科警研の時代は遅い時が多かったのもあり、定時で帰る自分を母が快く思っていないのは、その口元を見れば容易に判断できた。

 サイコロ課を出て30分。電車を降り、歩いて15分。広い敷地に立派な門構え、美しく剪定された木々に囲まれた中に平屋造りという贅沢な佇まいの自宅に着いた。門を開け、バッグから鍵を取り出し、玄関の鍵穴に差し込む。ギギギ、と鈍い音が静寂の中に響く。

 玄関はいつも明るい。父が戻ってくるまで、家の玄関は明るさを保っている。

「ただ今戻りました」

 玄関に母はいなかったが、そのように躾けられていたから、自然と言葉が出る。

 すると、台所の方からパタリパタリと優雅に歩くスリッパの音が聞こえてきた。

 姿を見せたのは、母だった。

「あら、今日も早いのね」

 母の甲高い声が嫌味のように聞こえる。実際、嫌味だ。

 いつもならやり過ごして自分の部屋に戻る神崎だが、今日は立ち止まり、大きく息を吸い込み、静かに息を吐き出した。

「お母さん。僕は一人で暮らしたいと思っています。お許し願えますか」

 そう言って、母に、一人暮らしがしたいと申し出た。勿論、答えは「NO」。

「貴方に一人暮らしは無理でしょう?どうしてこの家から出たいの?」

 親の居ぬ間になんとやら。生活が乱れるから許さない、その一語に尽きるのだった。


 26歳になってからの反抗期でもないが、成人男性が、自分の生活に対する親の意見までは聞こうとしないだろう。両親に告げず失踪するわけにはいかないと思い、聞いただけ。答えなど分かりきっている。


 母から否定の言葉を投げつけられたその夜。神崎は密かに、母の目に触れぬよう庭に出て弥皇に電話した。

「ご無沙汰してます。神崎です。大変不躾で申し訳ないんですが、弥皇さんが借りていたマンション、まだ借りていると伺ったんですが。借主を僕に変更できませんか」

 久々の弥皇登場である。

「僕はいいけど。何、家出するの?」

「実はまあ、そんなところです」

 弥皇は、何もかもすっかりお見通しのようだ。

「家具やら何やら、当時のままだよ。家具付きでもいい?」

「願ってもないことです。僕、身一つで家出しようと思っていたので」

「でもって、派手に血だらけだなって思ったでしょ。いいの?」

「はい。このことなんですが、サイコロ課だけの秘密にしてもらえますか。僕の通勤経路、総務にも言いたくないんです」

「家出だもんね。わかった。麻田さんには話しておくけど、キミの口から、課長には話さないと」

「了解です、ありがとうございます」


 神崎は安堵の溜息を吐いた。

 家具付きで紹介してもらえるとは思っても見なかった。

 家具を揃えて家賃相場を見て、自分の財布と相談して、このところ毎日のように、住まい探しにアフターファイブを使っていたのである。休日は言わずもがな。

 なかなかいい物件には巡り合えず、思い切って弥皇に連絡したという訳だ。


 此処なら、和田や以前いた佐治さんも場所を知っているはずだ。何かと都合もいいだろう。

 僕も派手な血だらけ事件の前に一度入っているが、弥皇さんのツッコミがそちらでなくて良かった。あれを恨まれていたら、今日の取引成立は無い。

 麻田さんに話されて、取引消滅の危機が無くもないが。

 此処は一発。麻田女史に正々堂々、話を通すべきである。


 翌日、少し早めに家を出た神崎は麻田が来るのを待った。灰色に細い白のストライプが入ったスーツに黒いパンプス、黒の大きめバックというキャリアな出で立ちで颯爽と廊下を歩いてくる麻田。神崎を見つけると、握りしめた手から、くいっと親指を下げる。

 まさか。怒ってる?

 神崎は真っ青になる。

 麻田が近づいてくると一歩、また一歩と後ずさる神崎。麻田は眉間に皺を寄せた顔で迫ってくる。

「なにやってんの。3階の非常階段で待ってて」

 魔の非常階段。和田が突き落とされた場所。

 やっぱり、麻田さんは許してくれないか。

 僕を心から許してくれる人間など、いやしないのだと項垂れる神崎。元カノだって許していないに違いないと思いながら、麻田に云われるがままに5階のサイコロ課から3階の非常階段に向かう。


 数分待っていると、麻田が走って非常階段のドアを開ける。5階から走ってきたのだろう、息を切らしている。SPで為らした腕前とはいえ、出産を機に衰えたのか。

「ああ、疲れた。40歳超えるとね、全力疾走無理。1年のブランクあるし」

「すみません。あれも元はと言えば僕がターゲットになっていたからで」

「でもマル被じゃなかったでしょ。大丈夫、あたしは突き落したりしないわよ。犯罪なんて真っ平」

「で、どうして非常階段なんですか。此処は情報交換の場と聞いていましたが」

「良く知ってるわね、さすが科警研のプリンス」

「止めてください。もうそんな名前で呼ばれたくないんです、だから家も出て、弥皇さんのマンション借りようかと。正直に言います。捜査の時と、清野から頼まれた時と2回入っているんです。弥皇さんは忘れてるようだけど、麻田さんが許してくれるか心配で」

「そうねえ。あれには驚いた。でもさ、あの流れがあったから今のあたしがいるわけで」

「いいんですか」

「勿論。ただし、綺麗に使ってよ。弥皇くん綺麗好きだったから。乱入も有り得るから、ワインは極上の物をセットしておくこと」

 麻田は豪快に笑う。麻田自身の昔の行いを全都道府県県警本部にばら撒かれたことなど気にしていないように見えた。気にしないはずもないのに。

 自分だったら。

 もう、人に合わす顔も無く警察を辞めるかもしれない。

 この人は、強い。

 いや、弥皇さんあっての強さか。

「でさ、SPの江本や内田が一緒に飲みたがってんの。和田くんも一緒に、どお?セッティングは任せるわ。秘境とやらがあるそうだし」

「弥皇さんのマンションの話かと思いました」

「そんなん、5階で話せば済むじゃない。この話ってスーちゃん置き去りだからさ。あそこじゃ飲みの話タブーだったの。くれぐれも、今回は誰彼相手に飲ますなよ。あんたの悪い癖みたいだから」


 麻田が先に5階に上がる。

 一連の事件で苦しみに苦しんだ麻田。それすらも、弥皇への想いの一端と吹っ切る。やはり麻田は強い人だと感じる。


(ん?セッティング?まあいい、いつものミセにしようか)


 とぼとぼと重い足取りで5階に上がる神崎。

 サイコロ課内に入ると、全員が揃っていた。まず、課長の耳元で、家を強制的に出た上で弥皇のマンションを借りることにしたと報告する。麻田には報告済だと付け加えた。

 課長が代弁してくれた。

「神崎は、弥皇が借りているマンションに引っ越す。ホントはいけないんだが、総務には内緒にしてくれ。あと、神崎邸にもな。くれぐれも、宜しく頼む」


 有難い。課長は一言伝えただけで十を知る。

 噂通りの切れ者だ。牧田夫の事件さえなければ、今頃とうに出世街道をひた走っていたはずなのに。

 でも、子守爺の時間になると、課長は本当に楽しそうな顔をする。価値観など、人それぞれなのかもしれない。

 神崎とその両親が解り合えないように。


 そんなことを一頻り考えている神崎の目の前に、分厚い紙データがドン、と和田の手によって置かれた。今日もまた、入力作業が始まった。

 データ入力しながら神崎が大声を出す。


「F-29 おれおれ詐欺事件です。なんでサイコパス扱う、うちにくるかな」

 須藤が待ってましたとばかりに講釈を垂れ流す。

「それって元を辿ればマル暴の資金源だったりするわけよ。でもって、下は中学生から高校生くらいまでかな、受け子とか出し子とか呼ばれる人間がいて、実際に現金受け取ったりカードで現金引き出したり。俺が思うに、皆自分のやってることが犯罪だ、って分かってる。なのになんで?って思うだろ。バイト感覚の子もいるだろうけど、スリルなんだろうな。昔の万引きを遥かに超えるスリルだよ。万引きなんてたかが数万だろ、普通は」

 そのスリルがどうしてサイコパスに繋がるかわからない。


 神崎は和田を見る。

 にこにこしながら須藤の講釈を耳に入れていた和田だが、須藤が一区切りつくと堰を切ったように喋り出す。

「二通りいるんですよ、その受け子出し子には」

 急遽、麻田が参戦。

「素行不良児と、普段は良い子ちゃん」

 素行不良児は、なんとなく理解できる。お金も欲しいだろう。

 普段良い子がそんな犯罪に首を突っ込むのか?と神崎は懐疑的だ。

「あ、今。あたしのいうこと疑ったでしょ」

 麻田に突っ込まれた。ボケる準備もしていない。つい、本音が。

「素行の良い家柄もしっかりした子なら、犯罪だとすぐにわかるし手を出さないんじゃないですか」

 麻田がおーっほっほっほと高笑いする。須藤も「チッチッ」と右手の一指し指を横に振って神崎の考えを誤りだと決めつける。

 そして、最後の美味しい所を和田がもっていく。

「過干渉する毒親への、せめてもの争い(あらがい)なんですよ、この場合」

「毒親?」

「過干渉、依存、子供にとって悪影響のある親を毒親と呼ぶんでしょうね。マスコミが使っている言葉です」

「それがサイコパスとどう繋がるんだい?」


 和田が続けて話し出す。

「去年の今頃だったかな、ホームレス殺傷でしたっけ、最初に動物を手にかけていた。あれがいい例なんです。一度染まったら、後は奈落の底」

 須藤はやれやれといった雰囲気で視線を宙に向ける。

「今回の場合は暴力団が介在するから、途中で引き返そうとしても無理」

 神崎は漸く思い出した。自分にもなんとなく掴めてきたような気がする、サイコパスたる者の定義。


 ホームレス殺傷。


 五芒星だ六芒星だと和田と弥皇が大騒ぎした事件だ。確か、家柄の良い中学生が決まった日の夜中に家を抜け出し云々、という流れだったのは覚えている。あの後、どういう措置が取られたのかサイコロ課への報告は無かった。同じ警察組織なら報告くらいしろよ、阿呆が。そう思った覚えがある神崎。

 特段に理由がないながらも、自分に自信のあるサイコパス達なら、事件を起こす時でも120%の仕事をしたと思い込む。

 普通の了見しか持ち得なければ、中学生や高校生がどんなに頑張っても、その仕草はおどおどしたものになってしまうだろう。

 

 中学生や高校生たちの子供が、親の過干渉から逃げたくなる気持ちは理解できる。

 ネグレクトも困るが、過干渉は厄介だ。神崎自身、過干渉の中で生き続けた。スポーツに汗を流すことでストレスを発散しながら、過干渉を受け入れ生きてきた。その過干渉は、どうやら今も続いている。そこから一歩踏み出すためには、あの家を出ることから始まるように思えた。


 幸い、家具類は揃っている。細かなものだけ購入し、神崎は弥皇のマンションを借り上げた。

 借主変更という形で弥皇が保証人になってくれて助かった。保証人欄は一つのハードルでもあったのだ。契約書に押印しながら、やっと過干渉から逃れた歓びを実感する。これから、色々な場面で歓びが舞い込んでくるのか、果たして両親がどういう態度をとるのか見ものだ。

 考えていても仕方がない。前に進むためには壁もあるだろう。

 壁は壊すしかあるまい。一度壊しても、誰にも分らないように修復すればいいのだ。

 こうして、神崎のお一人様暮らしが始まった。



 その頃、ぬいぐるみをナイフで刺し続ける人がいた。その部屋は真っ暗ながら、メールソフトを立ち上げたパソコンの青白い光がぼんやりと浮かび、異様な空間を醸し出していた。

 一方で、部屋の片隅にある椅子に腰かけ、タブレットでメールソフトを起動させる人物。

 一体誰なのか。サイコロ課に縁のある人物に違いないのだが、その姿は杳として知れない。



 神崎が弥皇のマンションに移り住んで早ひと月。季節は梅雨の真っ只中。

 家事一般、そこそこに何でもこなす神崎だが、お世辞にも料理が上手とは言えない。はっきり言えば、下手だ。

 毎日コンビニで酒とつまみを買って帰る。

 冷蔵庫にビールを入れようとして白っぽい汚れに気が付いた。外側の至る所にほぼ均等に、薄らと。はて、何の汚れだろう。

 翌日は靴の手入れと思いシューズクローゼットを開けた。冬に履くブーツが異様な光景を見せている。

 やられた。

 カビだ。

 科警研時代、様々な家に入り込んだ。カビだらけの家も多かった。

 まさか自分が。

 余りのことに、焦って足下にある椅子に躓いた。


 電話を掛ける。相手は和田だった。

「すまない。部屋のカビを失くすにはどうしたらいい?」

「あ。換気怠ってますね?1に換気、2に換気。その部屋、結構なお値段のワイン有りますから気をつけてくださいよ。弥皇さんか麻田さんに高価なワイン渡しちゃう手も考えないと。人のワインで気を遣うのも疲れるし」

「ありがとう、助かったよ」


 換気、か。

 どうして、こんな小さなことに気が付かなかったのだろう。

 神崎はあらゆる部屋の窓を開け、空気を入れ替えながらリビングの窓際に椅子を運び、ふんぞり返って座りながら、ぼんやりと考える。


 人生にも換気が必要なのかもしれない。

 今迄の人生を換気して、新しい人生を。



 それから、季節が廻った。



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