当たり前の話
「……どこだ、ここは……?」
木々に囲まれて、一人の少年はただ立ち尽くしていた。少年の名は神宮寺聖亜。どこにでもいる高校生、のはずであった。
少年はたった今まで、学校に向かっていたはずだった。いつものように友人ととりとめのない話をしていた。しかしながら今、周囲には鬱蒼と茂る森が広がっている。
「まずはここから出ないと……」
少年は目の前の光景が信じられずにいた。だが、いつまでも森の中に留まっている訳にはいかない。自分の持ち物を確認する。
携帯と財布。少年が持っていたのはそれだけだった。携帯は充電切れ、財布も残りわずか。やはりこの森の中に留まっているわけにはいかない。この森を出ないことには何も始まらない。少年は立ち上がった。
しかし、少年はあることに気づく。どこへ向かえば良いか、見当もつかないのだ。
少年がもう少し賢ければ、切り株の年輪から方角が分かったかもしれない。少年がもう少し強ければ、森の中で生きることが出来たかもしれない。しかし、少年はあくまでただの高校生であった。
「とりあえずこっちへ……」
少年は焦っていた。無理もない。さっきまではいつも通りの日常を送っていたはずなのである。それが、突然こんな状況に置かれて、冷静でいられるはずがない。少年は自分の勘に従い、適当な方向へ歩みを進めた。辺り一面を雑草が覆い、歩きやすい道などどこにもなかった。草や枝で切り傷が増えていく中、少年は歩き続けた。
「これは……」
その勘が当たったのか、森の中に、草のない、道のようなものを見つけた。この道が森の出口に繋がっているかも分からないが、少しでも歩きやすい道が見つかったのは幸いだ。道幅も広い。少年はその道を使うことにした。もしかしたら、誰かが使っている道かもしれない。誰かに会えるかもしれない、そんな希望を抱きながら少年は歩き続けた。
歩きながら、少年は自分の身に起こったことを整理する。
「確か横断歩道で信号を待っていたはずだ。やけに車の量が多かったような気もする。確か誰かに話しかけられたような……」
突如、少年は激しい頭痛に襲われる。割れるような痛みだ。思い出してはいけない、誰かに刃物を突き付けられてそう脅されているような気がした。少年は無理に思い出そうとするのを諦めた。
しかし、それでは何も解決しない。少年は何故、今森の中に一人でいるのかを考える。少なくとも登校していたことは事実。しかし通学路の周辺に、森などない。しかもこれほど広大な森となれば少年の住む地域にあるはずがない。ではここはどこだろう。少年は考えても、結局は最初の疑問に戻ってしまう。少年は答えの出ない疑問に悩んだ。
ところで、少年はこの道を、誰かが使っている道かもしれないと考えた。少年がもう少し冷静であれば、或いは不可解な点に気付けたかもしれない。人が使う道にしては何の舗装もされていないこと、森の中に造るにしては広すぎるということ。最も、それにこの異常な状況で気付けと言う方が酷なのかもしれない。さらに言えば、少年の希望的観測に近い予想も、大筋は間違っているとも言い切れないのだから。
より正確には、「誰か」ではなく、「何か」と形容すべきだっただろう。
「ッ!!」
何の前触れもなく、少年は激痛に襲われる。先ほどの頭痛ではない。背中に突き上げるような痛みが走った。少年は吹き飛ばされ、宙を舞った。全身が軋むように痛む中、少年は力を振り返り、後ろを見た。
或いは見ない方が良かったのかもしれない。ただひたすらに、走り続けたほうが良かったのかもしれない。「それ」は少年が抱いていたほんの僅かな希望さえも打ち砕いた。
獣道――少年は自分が歩いていた道がどのようにして造られたものか、実はかなり答えに近いところまで辿りついていた。最も、人と獣を近いということが出来るのかは疑問ではあるが。
少年の視界を覆い尽す「それ」は、大きいという表現では不十分なほどの、巨大で、恐ろしい「獣」であった。
少年は走り続ける。不幸中の幸いというべきか、その獣の動きは鈍重と言えるものであった。追いかけてはくるが、全力で走れば捕まらない。
「何なんだアイツは……見た事ねえぞ……!……あんなデカい癖に何で気付けなかった!?」
少年は走り続けた。追いつかれないためには、全力で走り続ける必要がある。疑問は解決するどころか増えていく一方だ。
さて、背後を巨大な獣が追っている状況で、前方がおろそかになるのは仕方ないだろう。当分は大丈夫とはいえ、少年の体力にも限界がある。少年は必死に逃げ続けている。何も分からず、混乱している中、最善を尽くしているといっても過言ではないだろう。
しかし、往々にして不幸は続くものである。
少年は三度目の痛みに襲われた。地面のぬかるみに足を取られたのだ。起きようとしても、焦ってなかなか起き上がれない。せっかく広げていた獣との距離もすぐに詰められ、二度目の突進が少年を襲う。先ほどよりも強いものだ。恐らく骨の数本は折れた事だろう。
万事休す。そう表現するのが最も的確だろう。獣はいたぶるように少年の方へゆっくりと近づいてくる。少年はすべてを諦め、ただその瞬間を待っていた。
その時、どこからか笛の音が聞こえてきた。聞いたこともない音色だが、獣はそれに反応すると、怯えたようにもと来た道へ引き返していった。
「助かった……のか……?」
少年は自分の身に何が起こったのか、理解できなかった。笛は獣と反対の方向から聞こえてきた。だがいつ戻ってくるかも分からない。少年は間に合わせの怪我の処置をし、笛の聞こえた方へ向かうことにした。体中が悲鳴を上げていたが、誰か人が居る可能性が高いと分かれば、動かないわけにはいかない。どの道このままでは力尽きて死んでしまうだろう。
重い足で歩き続けること数十分、少年はついに森を抜けることに成功した。獣道ではない、普通の道である。そこである少女を見つけた。
まさに美しいという言葉がふさわしい、耳と尻尾のついたまるで猫のような可憐な少女である。少年は自分の置かれている状況も忘れ、暫し見惚れてしまっていた。
今までの痛みや苦しみも忘れ、少年は安堵する。たった一人とはいえ、ずっと探し求めていた人間も見つけた。しかし、一方で、あることに気付く。
「何だあの文字は……?それにあの子、動物にしか見えないぞ……?」
突然森の中にいたと思えば、謎の頭痛に襲われ、さらには見たこともない獣に襲われると、少年は既に理解できないことの連続で、思考が麻痺しかけていた。意識も朦朧としている中、まともに考えることが出来たのは賞賛に値するだろう。そんな中、さらに正しい答えに辿りついたのは奇跡ともいえるだろう。
「まさか……ここは異世界か……?」
少年は、そんなことはがありえないだろうと冷静に考える一方で、そうでなければ説明がつかないとも思った。さらに言えば、少年の思考は既に冷静さをほとんど失っていたのである。ここが異世界であるという馬鹿げた考えを否定することも出来なかった。皮肉なことに、それこそが正しい答えだったのだが。
とにかく助けを求めなければ。少年の体は既に限界に近付いていた。自分と同じ位の年の少女を見つけて――最も耳に尻尾と、人と言っていいのか分からない出で立ちではあったが――話しかけた。
「――――――――――――――――――――!?」
しかし、ここに一つの問題があった。どこまでも不幸は重なるのである。少年は気づくと同時に、そこから先を考えていなかった。ここは異世界である。この少女とは、生きる環境どころか、世界そのものが違う。
そう、言葉が通じるなんて保証はどこにも無いのだ。
少女の話している言葉どころか、発音さえも理解できない。相手も焦っていることだけは表情から伝わってきたが、なんの意思疎通も取れない。
そして少年はあることに気付く。
「あ、これ詰んだわ。」
少年の意識は遠のいていく。突然の事態に取り乱している様子の少女の腕に抱かれながら、少年は静かに息を引き取った。