25 魔王は眩んで三重夢
前回のあらすじ: 魔王、騎士に導かれ扉の前に辿り着くも、鎧牛を前に体が動けなくなる。
「ハッ……ハッ!!」
呼吸が苦しい。
ただ立っているのも難しい。
全身を抑えつけられているかのように身動きができない。
足が馬鹿みたいにがくがくと震える。まともに前が見れなくなる。
「……!? ……!?」
空気が吸えない喉元を、両手で抱えみ前かがみになる。
ぜぇぜぇと浅い呼吸音を立てながら、俺はどうにか深呼吸しようと足掻く。
(なんだ、これ……パニックか? もしかして、恐怖で引き攣っている!?)
恐怖の原因は、あの鎧牛か?
あの巨大な敵は、今巧みに技を繰り出す騎士に気を取られていて、隅っこで立っているだけの俺なんか見向きもしていない。
狙われていない。だというのに、俺は金縛りに合ったように動けない。
本能的な震え、あるいは昔見た悪夢をもう一度見させられているような。
(なんだ、この恐怖! この幻覚、映像……いや記憶!?)
目の前の巨牛と騎士の闘いに、全く別のなにかが重なっていく。
血で濡れる視界。炎に揺れる視界。
手が吹き飛び、胸がひしゃげる。何かに吹き飛ばされる。何者かに燃やされる苦痛が全身を埋め尽くす。わからない。一体俺に何が起きているのか。
痛い。
なにもされていないのに、全身が痛い。
この痛みは本物か? それとも錯覚か?
ただ、震え出した全身は、明らかに恐怖から抜け出せなくなっていた。
「……ガッ、ハァッ……うあぁ!」
(おかしい……!!)
確かに、あの全身を金属に包んだ敵は恐ろしいかもしれない。
この激戦の横をすり抜けて、向こう側にある扉に辿り着こうとするのは怖いことかもしれない。
でも、俺は盗人を長く続けてきた中で、こういった危機にはよく慣れている。
兵士や盗みに入った先の追っ手に殺されかけることだってしょっちゅうだ。
それでも、こんなに動けなくなるほど体が強張ることは一度だってなかった。
(こんな、訳のわからない……俺は一体どうなってる!?)
「……ッ!?」
頭の中にぐにゃりとした感覚があった。
と、思うと腰が砕けて、俺は地面に倒れ込んだ。
頭が酸欠でぼうっとしてくる。口から泡を拭いている。
(まずい……これじゃあ歩くどころか、意識すら)
一度、あの牛の側から離れなくては。恐怖を抑え込まなくては。
歩くこともままならず、縮こまったままの腕をそれでも使いながら、亀にも負けそうな速度で這い、少しでも壁際へ寄る。
あるいは元来た曲道の、その陰へ。身を隠せるならどこでも良い。あの巨大な姿を見なくて済むなら何だっていい。
「……!? 何をしている!!」
騎士の声が聞こえる。
「どこへ行こうとしている!!」
そんなの俺だって分からない。
ただ、こんな状態では、あの正面にあるがはるか遠くにも見える扉まで、俺は進むことができない。
「……かはっ」
高熱にうなされている気分だ。手に力が入らず、全然前に進まない。
ならばやはり歩くしかないと、俺は額を抑えながら歯を食いしばり、壁に手をついて立ち上がろうとする。その指先の感覚すら麻痺している。
(畜生、この迷宮に入ってからずっと体が犯しくなってばかりだ……肝心なところで何もできず、失敗してばかりなのも……!)
なにも知らずに迷宮へ飛び込んで情けなくも餓死寸前まで彷徨うことになった。
助けようとしたはずの少女に助けられてしまった。
助けようとした少女を見捨ててきてしまった。
魔力を使いこなそうとして、失敗して死ぬ寸前の重傷を負ってしまった。
今も折角騎士の助けがあってここまで来たというのに、歩くことさえできないで、地面を色んな液で濡らしながら伏せることしかできない。
自分を奮い立たせる言葉すら一つも浮かばず、そのくせ死にたくないからと、浅ましくも逃げることだけは人並みに藻掻いている。思考することが浅ましい。生きていることが浅ましい。生き延びようとすることが浅ましい。俺という存在が浅ましい。全てが浅ましい。
(ああ、頭が痛い。俺は何を考えている? ここはどこだ? 少女はどこにいった?)
いや、少女は俺が捨てたんだ。
そして騎士が導いた道も、今から俺は捨てる。
逃げた先に何もないのに。
「……ち、くしょう」
なにも。
なにも。
なにもできない。
(俺は……俺は……!)
情けなさで言葉に詰まる。吐き出す言葉すら思いつかないクセに。
そして殺気の気配が変わったのが分かった。
騎士のいる方向に向いていた殺気が、不意にこちらへと向いた。
顔を動かさずとも分かる。鉄牛が、この情けない俺を見つけたのだ。
重量のある体は、それでいて素早い突進を繰り出せる。
(逃げな……いや、無理か)
黒鋼の牛の鼻息が聞こえる。足に力を貯めているのだろう。俺との距離は一瞬で詰められる。
こうして無駄に思考していられるのは、全ての感覚が、時間の流れをゆっくりと感じさせているからだ。
(逃げるのも、疲れたな……)
ああ、牛の影が俺を覆う。たった十歩で、鉄牛は俺を踏み潰せる間合いにまで迫っている。
(殺してくれ……)
情けなさで胸を潰していた俺は、圧倒的な破壊の化身にそう願ってしまった。
ここで助かって何になる。何もなせない俺は、どうして足掻く必要がある。
そうして。
ゆっくり目を閉じた俺を。
「起きて!」
誰かの声。
それに答える間もなく上半身を何かに突き飛ばされ、俺は横に吹き飛ばされた。
世界がスローモーションに見える中で、視界の端に赤い球体が映り込んだ。
俺は大通りの脇道へ、受け身も取れずに転がり込む。
ドンッ
倒れ込む俺の横を黒い塊が弾丸の速さで通り過ぎ、ぶわりと暴風が巻き起こる。
振り返れば、未知のはるか向こうに天井に届くほどの大きな亀裂が奔り、その下でゆっくりと瓦礫を払いのける牛を模した人型の巨体があった。
俺にぶつかった何かは、遠くまで跳ね飛ばされたのか場所がわからない。
しかし、それより驚くべきなのは。
「あ……?」
俺は、立っていた。
震えていた手足も、力の入らない腰も、全てなかったかのように。
強い衝撃で、反射で背筋が伸びてしまった、ということなのだろうか。
ポカンと口を開けて、それから今自分は呼吸困難で死にかけていたことを思い出す。
「ハッ……ハッ……あれ?」
息が少し楽になっている。俺は後ずさる。
僅かにだが、確かには呼吸は楽になっている。
丁度俺は、大通りに入るまでは後小さな通路に繋がる道の入り口に寄りかかっている。
(俺、は……)
今全力を出して、奥の扉を目指すか。それとも一旦退却して、もう一度挑むか。
(……でも、どうせ、俺は)
………そのとき、ぶれる視界の中に一つの影をみた。
俺の腰下ほどの高さで、二つのツノを生やした小さな影を。
瞬きをする。錯覚だ。影はどこにもない。
(……)
「……考えろ」
逃げるか、進むか。
しかし影を見たとき、残された気力でそれを決めるのは、どこか無意味な気がした。
考えるべきは、その答えのない二択ではなく。
「なぜ、俺がこんなにも弱腰になっているかだ」
そうだ。
何故気付かなかった。
傲慢で魔王すら名乗りすらした俺が、なぜここまで心が弱っている?
そしてなぜこんなにも弱った俺を、体内に巣食う俺の強欲の魔力は襲ってこない?
全身の力を抜き、一呼吸する。
頭を空っぽにして、湧いた疑問をゆっくり辿る。
(……俺が、この迷宮でおかしくなっていたのは、全部魔力絡みだ)
最初は、俺が宝玉に少女を導くよう頼んだときだった。
走り続けて弱りきった俺を、体内の魔力は襲い掛かり乗っ取ろうとしてきた。「
二度目は、狂気に陥った部下に襲われたときだ。
俺が気絶している間、ずっと看病していたであろう少女は、俺の言葉に動揺し、そして俺を殺そうとするほどに錯乱していた。
そして俺もまた、防御魔法を使おうとするも暴発し、部下を壁際まで吹き飛ばしたばかりか、肉体が内側から引きちぎれかけた。
それから……自分でいうのも情けないが、心が折れた状態が続いた。
防御魔法の発動が上手くいかず、
それはただの後悔かもしれない。だがもしも、それだけではないとしたら。
(俺の中の魔力は、欲望を種にしている。だから魔力が暴走すると、俺も欲望に取り憑かれてしまう)
そして暴走の後、俺はすっかり弱ってしまった。
魔力の欲望を浴びすぎた反動で、無気力になっていた。
でもあれから随分時間が経った。一度は引いた欲望も、殺してくれと思うほど人生で一番弱り切っている今の俺を前にしたら、再び襲おうとしてくるはずだ。
しかし、その兆候は一切ない。なぜだ?
なぜ俺は、部下は、迷宮でこんなにも狂いかけている?
(考えろ考えろ……)
うめきながら、鼻血をこぼしながら、俺は考える。
考え続けろ。一瞬でも休めば再びあの虚無感に襲われる。
これが俺の足掻ける、最後の時間だ。
顔を上げ、俺はここがどこかを確認する。
今まで通ってきた通路は、人が2,3人歩く幅しかない狭い場所。
それらを抜けたさきにあるここは街の大通りに匹敵するほど広く、天井は二階建ての建物以上に高く、その道の奥には巨大な扉がある。
(そうだ、ここは迷宮の最奥だ)
迷宮の奥底。
であれば、迷宮の謎に関わる何かがここには隠されている。
(いや、既に目の前にあるとしたら)
今まで通路に張り巡らされていたのは、魔族の少女だけが視認で来る魔法陣は、どこに魔力の源がある?
魔族以外の人間に見えない隠蔽の魔術が施されているが、裏を返せばあれらの魔法陣は全てどこからか魔力の供給を受けていることになる。
他には、徘徊するスライム。他の生物のいない迷宮の中で、あれが動くための食事は、魔力くらいしかない。
そうだ。この迷宮は、魔力が濃い。
その最奥ともなれば、1番高密度であっても不思議ではない。
空気に含まれる酸素だって、濃すぎれば毒となることがある。
それが魔力ともなれば、ただの人間が幻覚を見たり、異常な症状が出てもおかしくはない。
いや、古代の魔族が残した魔力だ。
その影響は、俺の中の強欲の魔力と同じく、心にまで影響を与えるものだとしたら。
俺の強欲の魔力が、俺の身体を襲う以上に、外から体内への魔力の流入が多いから、今の俺が暴れずに済んでいるとしたら。
つまり
(俺はこの迷宮の奥にいることで、魔力中毒になっている)
それが本当か確かめる方法はない。けれど確証はある。
だがもし真実であるのなら、これ以上魔力を吸う前に引き返すしかない。
どちらにせよ俺の体では、この場所に長くいることはできないのだから。
(……撤退といえば聞こえはいい。けれど、また逃げるのか?)
ここを立ち去ってどうする?
体調が良くなっても、またここに来れば、鎧牛相手に体調崩しながら進まなくちゃいけない。
むしろ迷宮にいる間、ずっと古代魔族の魔力を浴び続けているのなら、滞在時間が長ければ長いほど症状が悪化するかもしれない。
だったら今は踏ん張って進むべきだろう。どうせあの扉の先へ行かなければ、俺はこの迷宮を出られないのだから。
気合を入れて、弱った心に鞭を打って進むべきだ。
(……でも)
ああ、なんとなく気づいていた。
俺の恐怖は、先に進むのが怖いってことじゃない。
後に残してきたものを、置いていくのが怖いってものなんだ。
三重に眩む視界の中で。
俺はいつだって、一人の少女のために頑張ってきた。
けれど今目の前にある視界の中に、彼女はいない。
ツノの生えた紫色の髪、猫のような丸い目、その下にある震える手。
今この場にいなくなちゃいけないその影は、通路の中でぽっかりと空いている。
「ふ、ふはは、ふはははははッ!!!」
幻覚に俺は笑いかける。
とはいっても目は見開いて、顔中汗や鼻血まみれの、引き攣ったような気色悪い笑みだ。
(死すら受け入れながら、それでも消えなかった後悔があることに、ここまで追い込まれなきゃ分からないとはな)
できるとかできないとかそんな御託で誤魔化してただけで、本当はずっと彼女を救い続けたかったんだ。
(そうだ、俺にとって迷宮から脱出することなんて、どうでもいい)
そんな些細なことよりも、俺がしたいと願う欲望の矛先は。
誰からも守られなくても、途中で力尽きてもいいから。
何もできない俺でも、ただ一つ寄り添ってくれた少女を
その先に、彼女が俺を殺そうとしてきたとしても。
「もう一度部下を助けに行く……!」
足は動いていた。
全身が病み上がりのように熱く重い。だが気分は清々しい。
俺は大通りに背を向け、再び狭い迷宮の道の中へ戻っていく。
少しでも、俺の欲望にとってマシな死に方をするために。




