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隣の憑神さま  作者: 有瀬川辰巳
第一章
4/10

三幕 変貌する日常・午後

「あらあらまあ・・・そんなことがあったの・・・」

「そうなんです・・・あのけいぶさん、しつれいです」

「まあ、あんまり重く考えても仕方ないから・・・僕が無実だと分かる証拠が見つかるまで我慢するよ。僕が無実だっていうことは愛紗が知っているんだからね」

 昼食のチャーハンを食べながら母さんと話をする。その話題はもちろん僕が警察、あるいは久世警部に疑われている、ということだ。

「うーん・・・楽観的な気もするけれど・・・しんちゃんの言っているとおりね。疑われるのは悔しいけれど、こちらから打てる手はないし、状況的にはしんちゃんが最も疑わしいもの・・・疑われるのももっともだ、って言うくらいに」

「でしょ? 認めたくはないけれど、ね・・・致死量の血痕があって、その血痕ができたときその場にいた人間は三人で、そのなかで男だけが行方不明。誰だって男は死んでいるし、殺したのは僕だって思うよ」

「まあ・・・早く証拠が見つかることを祈りましょうか。さて、二人はもう食べ終わったのかしら? もういいなら食器片付けるけど?」

 食器にはまだ半分くらいチャーハンが残っている。だけど・・・あんな光景を見たあとでは食欲がわかない。半分食べれただけでもよしとしたいくらいだ。

「うん、僕はもういいや・・・」

「わたしも、もういいです・・・」

 それは愛紗も同じようだ。事実、愛紗の食器の上には四分の三ほどチャーハンが残っている。

「おにいちゃんは、きょうはこれからどうしますか?」

 母さんに皿をさげられながら聞いてくる愛紗。今日、これからか・・・。愛紗の心の整理がつくまで一緒にいてあげたいけど・・・僕に心配をかけないように泣くのを我慢しちゃうかもしれないよな・・・。少し、一人にさせてあげよう。

「うーん・・・なんとなく家にいる気分じゃないから・・・ちょっと出かけようかな、って思ってるよ」

「そうなんですか? じゃあ、わたしもいっしょにいっていいですか?」

 ん・・・愛紗のほうから言ってきたってことは大丈夫なのかな? でも・・・どうしよう。

「あ、愛紗ちゃん。悪いけれど~・・・ちょっとお話があるのよ~。だから、家にいてもらっていいかしら~?」

「そうなんですか? わかりましたです」

 母さんが愛紗に話? 何の話かな・・・。でもまあ、僕とは関係ないもんな。僕は言ったとおり、出かけるとするかな・・・どこに行くかは思いつかないけれど。

「じゃあ、僕はちょっとでかけてくるよ」

「はいは~い。いってらっしゃ~い」

「はいです、いってらっしゃいです」

 台所で洗い物をしながら言う母さんと、和服の袖を揺らして言う愛紗。二人の声を背に受けながら家の門を出る。

「さて、これからどこに行こうかな・・・」

 そういえば、最近は一人暮らしで忙しかったからあまり出かけていなかったな・・・。普段出かけている場所となると、本屋に、ゲームセンターに・・・よし、時間もある事だし、一通りまわろう。まずは近所の本屋からだ。

 そう考えて駅とは逆の方向へ踏み出す。駅の近くの商店街にある本屋は小さな個人商店だからちょっと品揃えが悪いんだよなぁ・・・。まあ、たまに珍しい本もあるけど。

 そんなことを考えながら歩いていくと、二又に分かれた道に差し掛かった。そういえば、ここを左に行くと本屋まで近いんだっけ。それに、昔ケンカでよく呼び出された神社もあったと思う。

 だけど、僕はここを右に曲がる。遠回りになるといっても少しだけだし、最近は運動も出来ていなかったし。それに・・・いや、あまり思い出す必要はないか。

 右に曲がって少し歩くと、見知った人影を見かけた。あの長い黒髪にやや華奢な体格は・・・。

「おーい! 里奈さーん!」

「え? あ、慎一さん!」

 やっぱり、里奈さんだった。そういえば里奈さんの家もこのあたりだったな。

「いやぁ、やっぱり里奈さんぐらいきれいな髪だと目立つね。すぐ分かったよ」

「もう、お世辞を言っても何もでませんよ。それにしても、もう動いても大丈夫なんですね」

「うん、犯人が妙な道具を使ってくれたおかげでね。小さな傷だし、浅い傷ですんだよ。ほら」

 言いながら胸元を軽く広げて見せる。うーん・・・空気が冷たい。

「もう、慎一さんったら・・・それにしても、本当に軽傷で良かったです・・・昨日は心配で、夜も眠れませんでした・・・」

 そういえば、今日の里奈さんはどこか疲れて見える。それに、クマもできているみたいだ・・・どうも、本当に眠っていないみたいだな。

「心配かけちゃったみたいだね・・・ごめん」

「謝らないでください。私が勝手に心配して勝手に眠らなかっただけなんですから」

「そうは言うけど・・・とりあえず、これからはこんなことがあったとしても僕のことなんか放っておいてゆっくり眠ってよ」

「そんなことできませんよ! だって、慎一さんは私の・・・わ、私の――」

 そこまで言うと里奈さんは顔を真っ赤にしてしまった。どうしたのかな?

「里奈さん、どうしたの?」

「な、何でもありません!」

 そういうとそっぽを向いてしまった。あれ・・・何かまずいこといったかな・・・。

「そ、そういえば・・・出歩いているということはどこかに向かう途中ですよね? どちらへ行く予定ですか?」

「うん、ちょっと本屋にね。そうだ、愛紗の喜んでくれそうな本でも買っていこうかな・・・」

「本屋ですか? 奇遇ですね、私も本屋に行くところだったんです。ところで、愛紗というのは・・・いったい誰ですか?」

 な、なんだろう。里奈さんから不穏当なオーラが発せられている気が・・・。なぜだ、こんなに素敵な笑顔なのになぜ、愛紗って誰ですか? 内容によってはただじゃおきませんよ? というオーラを感じるんだ・・・!

「え、えっと・・・愛紗って言うのはね・・・」

 なぜか下手なことをいったら殴られるどころじゃすまない感じがするので慎重に言葉を選びながら説明をする。昨日助けた女の子だということ。わけあって僕と一緒に暮らすことになったこと。そして、そのわけが家族を殺されてしまったからだということ。

「そうですか・・・そんなことに・・・」

 そういうと、里奈さんはどこかつらそうな表情を見せた。

「里奈さん、大丈夫? やっぱり疲れてるんじゃあ・・・」

「ああ・・・いえ。何でもありませんよ。今は私なんかより愛紗ちゃんのことを心配してあげてください。大切な妹、なんでしょう?」

「そうだけど・・・里奈さんだって、僕にとって大切な友達だよ」

「・・・はぁ、そんなことを言われると、喜ぶべきか悩んでしまいます」

 ・・・どういうことだろう? 何か悩むようなことをいったかな・・・。

「それよりも、もう本屋につきますよ」

「あ、うん。そうだね」

 話しながら本屋に入る。さて、来たはいいけど・・・何かいい本はあるだろうか。愛紗に何か買っていこうかとも思ったけど、よく考えてみれば愛紗ぐらいの年の子がどんな本を買えば喜んでくれるのか分からないな・・・。

「私は西洋書のコーナーに行こうと思うのですが・・・慎一さんは?」

「うーん・・・僕は適当に新刊あさりでもしてくるよ」

「わかりました。それでは、またあとで」

「うん。じゃあね」

「あ、その前に・・・ちょっといいですか? 慎一さん」

 歩き出そうとしたとき、不意に里奈さんに呼び止められた。どうしたんだろう?

「今日、帰るときは必ず私に声をかけてくださいね。そして、一緒に帰りましょう」

 なんだろう・・・いつになく真剣だな。昨日僕を止めようとした時と同じか、それ以上に真剣に感じる。それはもう、僕の周りの空気の質が変ったと思うほどに。

「いいけど・・・どうしたのさ? いつもならそのまま解散しようって言うのに」

「なんというか・・・女のカンです。いやな予感がするので・・・今日は絶対に声をかけてください。分かりましたか?」

 女のカン、か・・・どうしてこんなことをいきなり言い出したのかは分からないけど、言うとおりにしたほうがいいのかな・・・。

「わかったよ。女の人のカンってよく当たるっていうからね。声をかけるようにするよ」

「はい。しつこいようですが・・・絶対に声をかけてくださいね?」

 そういうと里奈さんは西洋書コーナーへ歩いていった。里奈さんがこれだけしつこく言うなんて、珍しいな・・・。本当にいやな予感がしているのか、昨日の事があったから神経が過敏になっているだけなのか・・・。

「まぁ、考えても仕方ないか・・・」

 でも、眠れないくらい心配してくれていたようだから、多分後者かな。そう思いながら新刊コーナーのほうへ眼をやる。何か立ち読みでもしようかな・・・。

「あれ、このタイトルって・・・」

 新刊コーナーの本のうち、一冊の漫画本が目に付いた。このタイトルって確か・・・里奈さんが昨日読んでた本と同じだよな? 漫画化もされていたのか・・・。お試し版もある事だし、一回読んでみようかな。そう思って手を伸ばす。

「っと、すいません」

 そのとき、横からも誰かが手を伸ばしてきた。手があたってしまった。謝りながらその人のほうを見る。

「いえ、こちらこそ・・・って、なんだ。慎一か。謝って損した」

 そういう人物の背中には竹刀袋と赤みがかった髪。そしてこの声は・・・。

「あ、双葉だったんだ。偶然だね」

「ああ、奇遇だな。読もうとした本まで同じなんて、偶然なんて思えねーぜ。なんてな」

 笑いながら言う双葉。確かに・・・ここまで一緒だとただの偶然とは思えないかも。

「だけど・・・この本って吸血鬼の男性と人間の女性の恋物語だよね? 双葉ってこういう本読むっけ?」

「え!? あー・・・あれだ! 確か里奈のやつもこんなタイトルの本読んでたなー、って思ってさ!」

「へぇ、理由まで僕と同じじゃないか。本当に偶然かどうかって思えてくるよ」

「そ、そうなのか・・・ほんと、偶然だな・・・はは、アハハ・・・」

 そういって、どこかぎこちない笑みを浮かべる双葉。

「って、そうだ。そんなことよりもさ、礼尾のやつ見てねーか? 剣道の稽古の帰りに参考書見に行くっつーからついてきたってのに、どっかいっちまってさ」

「そうなんだ・・・残念だけど、僕も見てないよ。僕も今里奈さんと来たところだからさ」

「お、里奈のやつも来てんのか・・・大方西洋書のコーナーにいるだろうし、礼尾のやつを探すの手伝ってもらおうかな。慎一も、ついでに探しといてくれよ」

「ん、りょうかーい。見つけたら一言言っとくよ」

 そう言って先ほどの本に手を伸ばそうとしたときだった。

「あ、そうだ、慎一・・・」

 つい先ほども言われた覚えのある一言を言われたのは。

「なんつーか、女のカン? みたいなもんだと思って聞いてほしいんだけどよ・・・いやな予感がするんだ。帰りには気をつけろよ」

 その言葉から感じるものは、先ほどの里奈さんと同じ空気で。

「え・・・ちょっと、双葉!」

 普段の冗談じみた喋り方ではない、真剣そのものの声を聞き、呼び止めたときには、既に双葉は僕の視界の中にいなかった。

「里奈さんといい・・・なんなんだよ・・・」

 一人ならば、聞き流すこともできた。だけど・・・里奈さんと、双葉。二人から言われると、不安になってくる。里奈さんは僕のことを心配していてくれたみたいだから、そのせいだと考えることもできる。だけど・・・双葉は違う。確かに、心配はしてくれているだろう。だけど、普段の双葉だったら・・・まあ、慎一だったら何とかなるだろ。そう言って僕が刺された事に関しては終わりそうなものだ。それが・・・なぜ、里奈さんと同じような・・・いや、一緒に帰るか否か、というだけで、全部一緒じゃないか。

「なんか・・・不気味だな・・・」

 不思議と、背筋をいやな汗がつたう。知り合い二人が同じことを言っただけ。だから・・・偶然だ、と思いたい。だけど、なぜかそう思えない。それだけの真剣さ、雰囲気があった。

「でも、偶然だよ、な・・・僕が刺されたから、心配してくれたんだよな・・・」

 そうだ、そうに決まっている・・・本気で心配してくれているから、あんな雰囲気があったんだ。きっと、そういうことなんだ・・・。

「むしろ、それ以外ない・・・よな。うん。気にする必要はそこまでないよね・・・」

 自分にそう言い聞かせて、先ほど読もうとした本に手を伸ばす。聖女と害虫、か・・・そういえば、人気作家の最新作としてだけでなく、インパクトのある名前ということでも有名だっけ。

 背筋の汗をごまかすように、その漫画のお試し版を読む。

 その内容は、おおむね里奈さんから聞いたシナリオどおりだった。人間のシスター、アリシアと吸血鬼の無神論者である名無しの男が出会い、恋に落ちるというところで終わっていた。ここからどうなるのか、続きが気になるところだ。今度、里奈さんに小説を借りてみようかな。

 そう考え、顔を上げる。

「あ」

 見覚えのあるぼさぼさ頭。

「お」

 全体的に茶色っぽい毛質が良いとはいえない髪。

「礼尾・・・双葉が探してたよ」

「・・・ヒトチガイデス」

 そしてこの反応。紛れもなく礼尾だ。というか、顔が見えてるんだからバレバレだよ。

「まったく、竹刀背負ってるってことは家には帰ってないんだろうけど・・・どこ行ってたのさ」

「い、いやー、実は今日が新作ゲームの発売日だって忘れてて、双葉の視線を逃れてこっそりと・・・」

「・・・それならそうと先に言えばいいだろうに、何でまたこっそり・・・」

「あのなぁ・・・エロゲーを買いに行くなんて女にいえるわけねーだろ!」

うわぁ・・・礼尾らしいというかなんと言うか・・・。

「引いてんじゃねーよ! エロゲーだって泣ける良作はあるんだぞ! むしろ十八禁だからこそできる描写もあって、全年齢版よりも深みがましてだなぁ!」

「あー、はいはい。分かった分かった。分かったから双葉に合流してきなよ。さっき西洋書のほうに里奈さんを探しに行ったから、まだいるかもしれないよ」

「ぜってーわかってねーだろ・・・まあ、これ以上怒らせる前に合流してくるとするかな・・・っと、その前に、慎一」

 この流れは・・・もしかして・・・。

「・・・礼尾までいやな予感がする、とか言い出さないだろうね?」

「ん、いや。エロゲーの良さを分からせるために良作を押し付けるからな、って言おうと思ったんだけどよ・・・なんだよ、そのいやな予感ってのは」

 良かった・・・これで礼尾まで真剣に言ってきたら不安を通り越して恐怖を感じるところだ。

「いや、実は里奈さんと双葉がさ・・・」

 先ほどの事情を話す。二人とも心配してくれていたんだろうけれど、あんなに真剣に言われると少し怖いくらいだ。

「なるほどなぁ・・・ま、あの二人なら仕方ねぇか。ま、これ貸してやるよ。そうすりゃ、あの二人も安心するだろ」

 そう言って礼尾は背負っていた竹刀袋を僕に手渡してきた。

「ありがとう、いざというときは使わせてもらうよ・・・まあ、ないと思うけどね」

「おう、使うような事態にならねーといいな。俺も竹刀、無傷で返してほしいし」

「はは、そりゃそうだよね」

「おう。それじゃあ、俺は双葉探してくるわー」

「うん、いってらっしゃーい」

 手を振って見送る。多分双葉に怒られるだろうなぁ・・・。

さて、僕はこれからどうしようかな。これといって思いつかないけど・・・うん。愛紗に買う本でも選ぼうかな。でもな・・・愛紗ぐらいの年の子はどんな本をあげれば喜んでくれるんだろう。まあ、自分で考えてみようかな。

そういえば、愛紗がお母さんの形見として持ち帰った本は難しそうだったけど・・・それ以外にも本があったよな。あの本は、確か・・・料理の本だったかな・・・。

「そうだ、ミルクセーキ!」

 料理という単語で昨日の約束を思い出す。ミルクセーキを作ってあげるって約束をしたんだった。材料はたしか、牛乳に砂糖、片栗粉にバニラエッセンス・・・それと卵黄。確か卵はなかったよな。そういえば、今日は駅の近くの商店街で安売りをしている日じゃなかったっけ? 時間的にもう売り切れてしまっているかもしれないけど・・・もしかしたらまだあるかも。急いでいけば間に合うかな?

「そうと決まったら・・・本を探している場合じゃないな。急いで行かないと」

 そう思って出口のほうへ振り返る。

『今日、帰るときは必ず私に声をかけてくださいね。そして、一緒に帰りましょう』

 そのとき、里奈さんの言葉が脳裏をよぎった。うーん・・・でも、早く行かないと売り切れちゃうかもしれないし・・・まあ、あとでメールでもしておけばいいか。

 そう判断して、本屋を後にする。急がないと・・・本当に売り切れてしまうぞ。

 軽く走りながら駅のほうへ向かう。そう距離があるわけではないけど・・・やっぱり最近出かけてなかったからかな。いつもより疲れるのが早いように感じる。これは、トレーニングでもしたほうがいいかな・・・。

 自宅の前を通り過ぎ、駅へと続く一本道を息をきらせながら駆け抜ける。

「も・・・無理・・・ちょっと休憩・・・」

 駅の近くの廃ビルにまで走ったところで、少し休憩することに決めた。もう無理・・・これ以上は続けて走れない・・・。

「そういえば、この廃ビルってこれからどうなるんだろう・・・最近は肝だめしで来る人もいるし、危ないから取り壊すなら取り壊してほしいけれど・・・」

 そういえば、この廃ビルも随分長いことたっているよな。外壁もボロボロだし・・・本当にお化けが出ても不思議じゃないかも。

「なんて、ね・・・」

 そんなくだらないことを考えている間に、体力も少しは回復した。さあ、もうひとがんばりと行こう。

 そう考えて、走り出した。


‡   ‡


「はぁ・・・さすがに、これだけ走ると疲れるな・・・」

 駅に着いたときには、額に汗が浮かび、足が棒というにふさわしい状況になってしまっていた。これで母さんが卵を買っていたら笑い話だな・・・。携帯を持っているんだから確認ぐらいしておけば良かった。

「こ、こんにちはぁ~・・・はあ、疲れた・・・」

 ため息をつきながら店に入る。

「おぅ、慎一君らっしゃい! 今日は何をお求めで?」

 そう声をかけるおじさんはこの店の主人、民也一誠(たみやいっせい)さん。この店で僕が一人暮らしのときに使う食材はそろってしまうからもう名前も覚えられている。よく、慎一君が女の子だったらたっぷりおまけするんだけどなぁ、なんて言ってくれる気さくで女好きなおじさんだ。

「卵を買いに来たのですが・・・まだありますか?」

「卵かい? 流石にねぇ・・・この時間だともう売れてしまったよ」

「あー・・・やっぱり、ないですか・・・。時間的に無理があるとは思っていたのですが・・・」

 やっぱり、無理があったよね・・・かなり安く売っているから、午前中だけで売り切れたのも無理はない。

「あぁ、でも売れたのは店の分だから・・・何個いるんだい? 個数にもよるけど、うちにあるものを分けてあげよう」

「そんな・・・いいんですか?」

「いいの、いいの! スーパーにお得意さんを取られることを考えれば卵ぐらい・・・それに、ちょうど買いすぎたところだったからね」

 これはありがたい。ミルクセーキならそんなに卵は使わないし・・・うん、この恩は今後もお得意さまでいることで返そう。

「それじゃあ、ひとつください」

「おうよ! それじゃあ、持ってくるからちょっと待っててくんな」

 そう言って一誠さんは店の奥に入って行った。さて、戻ってくるまで・・・ちょっと休ませてもらおう。走り続けたから疲れた・・・。

「待たせたね。ほら、慎一君、卵だ」

 店の中の椅子に座って待つこと数分。一誠さんが卵を持って戻ってきた。

「割れるといけないから、パックに入れておいたよ。かさばるかもしれないが・・・」

「いえいえ。何から何まで、ありがとうございます」

 受け取った卵をかばんにしまう。愛紗、喜んでくれるかなぁ・・・。

「本当に、ありがとうございます。それじゃあ、失礼します」

「おう、またきてくんな!」

 お礼を言って店を後にする。本当に、感謝しないとな・・・。

 卵が割れてしまわないように気をつけながら商店街を歩く。卵以外に買っていく物がなかったか頭の中で確認する。うん、卵があればいいよな。

 そう考えたとき、ちょうど廃ビルの前を通りかかった。

「ん・・・? 気のせいかな・・・」

 そのとき、廃ビルの中で人影が動いた気がした。また誰か肝だめしに・・・? いや、それにはまだ日が高い。こんな時間に、廃ビルの中に入るなんて・・・一体どんな目的で? 取り壊しための事前確認・・・だったら周りにそのことを示す張り紙がはってありそうなものだし・・・。

 まさか・・・昨日の男?

 こんな時間に取り壊しの業者でもない人が入るとなると、どうしても不審な人物なのでは、という考えが浮かぶ。そして、不審な人物という単語は、簡単に昨日の男のことを思わせる。

「まさかとは思う・・・けど・・・」

 万が一ということがある。僕はかばんを地面に置き、廃ビルの中へと入っていった。


第三幕 了


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