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隣の憑神さま  作者: 有瀬川辰巳
第一章
2/10

一幕 始まりの日

 僕の体調不良や里奈さんの電車酔い。普段はないトラブルに見舞われながらも僕たちは学校までたどり着いた。そして、僕たちの所属する“考世学”の教室で休憩することにした。もっとも、実際は授業の開始を待つだけのことなのだけど。

「二人とも、大丈夫か? 里奈は・・・薬でも買ってきてやろうか? 近所のコンビニに酔い止めがあったはずだし・・・俺ならそう時間もかからないだろうし」

「私は大丈夫です・・・それよりも慎一さんは大丈夫ですか?」

「うん・・・薬も飲んだし、大丈夫だよ」

 そんな会話を交わし終えたところで、教室のドアが開いた。

「いや~、みんながどたばたと入ってきたときはびっくりしたよ~。何はともあれ、みんなお~は~。イッチーとリナちんのお水、そこの水道でくんできたよ~」

 そんな癒される、というか力のぬけるような口調で喋りながら教室に入ってきた一人の女性。彼女の名前は速水凛香(はやみりんか)。僕たちの所属する考世学部の一つ上の先輩だ。セミロングに切りそろえられた栗色の髪や優しげな顔つき、それに口調があいまって年上の人なのにたまに年下に思えるほどの癒し系。それが彼女といえる・・・と、思う。正直独特の口調と性格のせいで本質が分かりにくい人だ。

「「ありがとうございます」」

 その凛香さんがくんできてくれた水を里奈さんとそろって受け取る。僕はもう大丈夫だけど・・・水無しで薬を飲むのはあまりよくないからいまからでも飲んでおきなさい、といってくんできてくれたのだ。こういう優しいところがあるからよりいっそう癒し系の人になるんだよな、凛香先輩は。口調だけだとクラゲを見るような感じの癒しだけど。

「それで~、二人はもう大丈夫なのかにゃ~? まだつらいようなら保健室に行くか早退することを先輩はオススメするわけだけども~?」

「私は大丈夫です。慎一さんも大丈夫ですよね?」

「うん、先輩がいないときに話したとおり、僕ももう大丈夫だよ。心配してくれてありがとうございます、先輩」

「そかそか~、それなら一安心だよ~。二人の体調のこともそうだけど、二人がいなくなったらわたしとレオポンとふたばんだけで授業受けることになっちゃうからね~。ただでさえ五人しかいないのにそこから二人もぬけたら寂しいもんね~。本当によかったよ~」

「しかし・・・五人しかいないのになんで考世学ってあるんですかね? 入るのは担当教授のスカウトだけって話だから人数少ないのは分かるんですけど・・・五人は少なすぎません?」

 八大の七不思議その一、“考世学部”。七不思議に挙げられるほどこの学部は外から見ても中に入ってみても不思議が多い。例えば礼尾が言ったように五人しかいなくても存続しているところとか、授業内容とか。スカウト制だから優秀な人が入るらしいという事だけが校内で語られている。でも実際に入っている人が優秀かって言われると・・・よく分からない。

 まず僕。八大入学前は荒れてたから事件を起こすような問題児。学校のテストはそれなりだと思うけど。

 次に礼尾と双葉。その問題児の僕とケンカしてたような、同じく問題児。テストは・・・礼尾はかなり問題ありのはず。双葉はそうでもないみたいだけど。

 凛香先輩。テストは優秀だけど・・・やっぱりよく分からない。

 自信を持って学業も人物面も優秀だ、といえるのは里奈さんぐらいに思える。本当になんなんだろう、この学部。

「まぁ、教授のスカウトっつってもその教授自体が変わり者だし、アタシたちが集まったのもひょっとしたら教授の好みじゃねーの?」

「いえてる~。須藤教授って変わり者だもんね~。って、私が言うなって感じかな~?」

「先輩の意見に最初から最後まで賛成です。先輩も相当変わり者です」

 そんな雑談を交わし、笑っていると、不意に扉が開いた。

「ふぇ、ふぇ、フェックション! ・・・えーっと、ひょっとして、私の噂してました?」

 扉を開けて入ってきたのは先ほどまでの話題の中心人物、須藤三成(すどうみつなり)教授。頼りないようだけど、一方でひょうひょうとしている、つかみどころがない感じの人だ。外見はひょろっとしてメガネをかけた体の弱そうな人。

「まぁ、そんなことは些細なことですね。とりあえず授業開始五分前だというのに全員集合しているあたり、優秀ですね。教授としてもいろいろやりやすいですし、ありがたいです・・・おっと、挨拶を忘れていましたね。皆さん、おはようございます」

「「おはようございます」」

 そんな感じで挨拶を済ませると、教授はうなずきながら脇に抱えていたプリントを教卓にドスンという効果音がふさわしい勢いで置いた。

「えっと・・・すいません、今日もまた自習です。プリントは作っておいたので、がんばってください・・・難易度、マックスなので」

「うげ・・・勘弁してほしいですね~、教授~」

「文句言うなって、アタシだってがんばればできそうな感じだし、お前でもできるだろ」

「そりゃ今回はオメーの得意分野だもんな! 俺にとっては苦手分野だからできそうもねーんだよ!」

 そういって騒ぐ礼尾の横を通ってプリントを手に取る・・・内容は簡単だけど、今日一日でやるにしては量が多くないか?

「あ、そうそう。明日からの休日の課題も混ざってるので。何なら帰ってやってもいいですよ」

「つまり・・・今日も教授の用事は一日コースですか?」

「ええ、一日コースです。それどころか下手をすれば徹夜コースです。勘弁してほしいですね・・・最近疲れてるのに」

「ふふ、教授も大変なんですね」

「ええ、大変なんです」

 苦笑しながら教授が言う。それにつられて僕と里奈さんもなんとなく笑ってしまう。

「まあ~、自習って言っても、手の空いてる教授がいたら聞きにいけるわけだし~、わたしは学校でやろうかな~」

「俺は家に持ち帰りたい・・・みっちり調べたりしねーとできそうもねー・・・」

「まぁ、各自の好みでやってもらってかまいませんよ・・・帰っても出席扱いにしておきますし」

「本当すか! じゃあ帰る! 今すぐ帰る!」

 そういって帰り支度を始めようとする礼尾。

「まあまあ、慎一たちに教えてもらいながら、アタシとゆっくりやって行こうじゃねーか、礼尾」

 そして礼尾を羽交い絞めにする双葉。清々しいほどいつもどおりだ。

「離せー! 俺は自分の部屋じゃねーと本気が出せねーんだよー!」

「はっはっは、そういってゲーセンに遊びに行ってたのはどこのどいつだ?」

「あ、あの時は気晴らしだって! 普段はやってるって!」

「えー、礼尾君は・・・提出物の遅れが目立つので、ペースを上げていきましょう。あとは・・・まぁ、慎一君にでも任せるとしましょうか。では」

「あ、はい。さようならー」

 双葉と礼尾のコントのようなやり取りにつっこみ(?)を入れ、教授は去っていった。


‡   ‡


 結局、礼尾は双葉の説得(物理)により、学校でプリントをやることにした。そして今現在。

「ふぃ~、今日の分は、しゅ~りょ~」

「もうですか? 早いですね、先輩」

「ふふふ~、仮にも先輩だからね~。それっぽいところはたまには見せなきゃでしょ~。リナちんより早くできてたかにゃ~?」

 そういって里奈さんのやっているプリントを覗き込む凛香先輩。

「あ、なんでしょう? プリントなら見せられませんよ? 凛香さん」

「・・・もう明日の分やってるのね~、早いにゃ~・・・さすがリナちん、早いにゃ~・・・」

「え、何で落ち込んでいるのですか? 私、何か悪いことしましたか!?」

「あはは、大丈夫だよ、里奈さんは何も悪いことしてないから」

 そんな会話の傍らで。

「おい! 慎一! コントに付き合ってないで続きを俺たちに教えて! プリーズ!」

「たちって、ひとくくりにすんな、礼尾。アタシはあんたよりできてるんだからさ」

 そんな風に騒ぐ人もいるわけで。

「はぁ、先輩として落ち込んじゃうよ~・・・リナちんにプリントの速さで勝てた覚えがないもん・・・」

「私は速読できますから・・・きっとその差ですよ! 問題を解く速さだったら凛香さんのほうが上です!」

「しーんーいーちー! ヘルプ!」

「あんたは自分でがんばるってのも考えに入れなよ・・・」

「アハハ、いつもどおり・・・騒がしくなるね」

 まるでコントのようなやりとり・・・うん、いつもどおりだ。


‡    ‡


 しばらくそんな騒ぎが続いて、昼休みになった。

「ふいー・・・疲れたぜ・・・」

「あんたは慎一に教えてもらったことをそのままかいてるだけだったろうが・・・」

「う、うるせーな! そんなことより、昼飯だ、昼飯! 食堂行くぞ! 双葉!」

「あ、悪い。アタシ、今日は弁当作ってきたんだ」

「ざんねんですが、私は今日もお弁当です」

「わたしは今日は軽食のカフェテリア気分~」

「・・・・・・!!」

「ごめん、礼尾。そんな救いを求めるような目で見られても僕も弁当作ってきたから・・・食堂には行かないよ」

「ちくしょー・・・いいよ! 一人寂しくランチタイムとしゃれ込んでやるよ!」

 そういって礼尾は食堂へ走っていった。量があるのに美味しくて安いから結構込むんだよね、食堂。きっと寂しくはないよ。むしろうるさいぐらいだよ。

「それじゃ~、わたしはカフェテリア行ってくるね~・・・女の子二人と男の娘一人かぁ・・・うーん、何か起きそうな組み合わせ! なんちゃって~。そんじゃね~」

「ええ、またあとで、先輩」

 凛香先輩はたまによく分からないことをいう。そういう時はスルーが安定だ。だからいまのもスルーする。

 凛香先輩の後姿を見送り、自分の荷物がおいてある場所まで戻る。さて、今日はどこで食べようかな。

 屋上は見晴らしがいいけど、いまは冬だ。寒いし、昨日の雨でぬれてるだろうからパス。食堂に行ったら・・・礼尾にからまれながらの昼食になりそうだ。これも無し。カフェテリアは・・・ほとんど女性しか使わないもんな。女性の中一人男、という状況は少し居にくい。やっぱりここで食べるのが妥当かな。

「二人はどこで食べる予定? 僕はもうこのまま教室で食べちゃおうと思うんだけど」

「慎一がそうするんだったらアタシもそうするかな。移動するのも面倒だし」

「私もそうします。慎一さんが作ったおかず、美味しいですから・・・少しつまませてもらってもいいですか?」

「うん、もちろんだよ」

 里奈さんと双葉。この二人と一緒に弁当を食べるのは久しぶりな気がするな。里奈さんはよく作ってくるけど双葉はめったに作らないから・・・うん、高校以来かな。

「アタシ達三人で弁当食うとなると昔思い出すな。せっかくだし輪になって食うか?」

「そうですね、そのほうがお互いのおかずをつまみあうのも楽ですからね」

「アハハ、里奈さんは結構食いしん坊だよね」

「そうだよなー・・・そのくせして腰細いし・・・食った分全部胸にいってんのか・・・?」

「あ、あの、双葉ちゃん・・・? どこを見ているんですか・・・?」

「お前のやたらでかい胸。ついでに言うならやたらくびれてる腰も見てるな。不釣合いだよな、くびれてるのにその胸は不釣合いだよな」

 確かに双葉の言うとおりかもしれない。里奈さんは本当に日本人なのか、と思うほどにスタイルがいいのは確かだし・・・。

「慎一さんまで・・・もう、そんな風に見ないでください。恥ずかしいです・・・」

「ご、ごめん! そんなつもりじゃ・・・」

「でも慎一も思うだろ? あのプロポーションの秘訣はなんなのか・・・」

「それは・・・まあ・・・」

 僕だって男なんだからこれくらい考えてもおかしくない・・・よね?

「もう・・・そんなことより早く食べましょう、休み時間が終わってしまいますよ?」

「うん、そうだね・・・ごめんね、悪気はなかったんだけど・・・」

「悪い悪い、ハハ」

「双葉ちゃん・・・本当にそう思ってますか?」

「あんま思ってないね」

「だろうね・・・」

 そんな無駄話をしながら輪になる僕たち。こうして昼食にうつるのだった。


‡   ‡


 昼食を終えて数分後。再び考世学の教室に全員がそろった。

「さて、今日はいまから何やるよ? ぶっちゃけ俺は帰りてーけど・・・まだ今日の分すら終わってねーからな・・・」

「そういやアタシもまだ終わってないな。礼尾よりは進んでるけど」

「んにゃ、それじゃ~先輩が優しく教えてあげるよ~。手取り、足取り・・・腰取り」

「あの、凛香先輩? 腰をとる必要性はあるのでしょうか?」

「里奈さん、凄くどうでもいいことだから聞かなくてもいいよ」

 そんな無駄話をする。いまからかどうするか、か・・・。

「とりあえず、僕は帰ろうかな・・・プリント提出さえできれば問題ないわけだし」

 それに今日の分はもう終わってるからね。

「私もそうしようかと・・・プリントは全部やり終わりましたし」

「だからリナちん早いよ~・・・わたし、やっと日曜日の分に手をつけたところなのに・・・」

「それじゃ・・・俺と双葉が先輩に教えてもらいながらやる感じ?」

 それに首肯する双葉。どうやら全員の行動が決まったようだ。僕と里奈さんが帰宅、礼尾と双葉と先輩が学校に残ってプリントか・・・。割とよくある形になったな。勉強が苦手な礼尾と双葉がプリントを午前中でやり切れず、先輩らしいところを見せたい先輩が一緒に残って教える。それ以外だと礼尾と先輩の二人パターン。礼尾は本当に勉強が苦手だからなぁ・・・。

「じゃあ、二人のことお願いしますね。先輩」

「おけ~。任せてよ~」

「では、皆さん、また月曜日に」

「おう、またなー」

「ハイハイ、じゃあな」

 うん、この会話・・・いつもの週末って感じだな。そんなことを考えながら教室を出て、校舎を後にし、駅への道を里奈さんと二人で歩く。ちょうどお昼時だから外を歩いている人はほとんどいない。

「しかし、いつもの事だけど変わった内容が休みの課題に出されるよね。今回は・・・吸血鬼伝承のレポートかぁ。前回は狼男だっけ? まるでオカルト研究会だよね」

「そうですね・・・多分、現代まで残っている伝承をまとめるというのも考世学の一環、ということではないでしょうか? 私の家はある意味では資料が豊富にあるので、楽で助かります」

「え、里奈さんの家にそんな資料・・・ああ、そういえばいつも読んでる本ってそういう系統のだったね。今朝のは・・・」

「吸血鬼と人間の恋愛物です。電車酔いでそれどころではありませんでしたが・・・とても泣けるお話でしたよ」

「へえ、どんな話なの?」

「生きようと思えば永遠に生きられる吸血鬼の男の人と、いたって普通の人間の女の人がある事件をきっかけに出会い、恋に落ちるんです。でも、寿命が二人の邪魔をするんです。吸血鬼は必ず自分より先に死んでしまうであろう女性に思いを告げるのをためらい、女の人もそれを感じて思いを言い出せないで・・・」

 そうして話のあらすじを語る里奈さん。だけど、僕の視線は里奈さんを通り越し、反対側の道路を見ていた。もちろん、里奈さんの話を無視しているわけではない。なら、なぜかというと・・・そこでは小学生くらいの女の子が走っていたからだ。それも、ただ走っているのではなく、怪しい男に追いかけられながら!

「結局、女の人は病気にかかってしまって死んでしまうんです。吸血鬼も、その悲しみで自ら太陽の光の元に歩み出て、灰になってしまって・・・慎一さん? どうかしましたか?」

「里奈さん、あれ・・・」

 僕が指を指すと、里奈さんもその様子に気がついたようだ。後ろからでも緊張したということが分かる。

「もしかして・・・最近テレビで言っている誘拐犯かもしれませんね・・・一体どうしたら・・・」

 誘拐犯・・・そういえば、昨日の夜テレビでやっていた気がする。だとしたら・・・あの女の子が危ない!

「里奈さん、僕はあの二人を追いかける・・・里奈さんは駅の交番まで走っておまわりさんを呼んできてほしい。頼めるよね?」

「慎一さん一人で追いかけるなんて危険です! 私も一緒に!」

「いや、だめだよ。里奈さんが一緒に来ても・・・悪いけど、守らないといけない相手が二人になるだけだと思う。だから・・・お願い!」

 そう言ってかばんを放り出し、一気に駆け出す。反対側の男に気付かれたらかえってまずいかもしれない。慎重にいかないと。そんなことを考えながら走っていると、ポケットの携帯から着信音が鳴り出した。

「もしもし!?」

 誰からの着信かも確認しないで出る。こんなときに、一体誰から?

『慎一さん! 聞こえますか!?』

「里奈さん! どうしたの!?」

『どうしたもこうしたも・・・どこに行ったのかわからないのでは、おまわりさんを呼んでも仕方ありませんから! 危ないことはしてほしくないですが・・・そのまま追いかけて、どこにいるのかを伝えてください!』

「里奈さん・・・了解! 大丈夫だよ、これでも・・・少しは鍛えてるんだから!」

 そういって携帯を耳元から離し、全力で走る。走る。走る。

 走り続けていると・・・女の子がこちらを見た。すると、女の子はますます必死になって駆け出したようだった。どうして・・・こっちにきてくれれば助けてあげられるのに!

 そんな思いもむなしく、女の子は路地に入っていき、男もそのあとを追いかけて路地に入る。

「里奈さん、二人は朝トイレを貸してもらおうって話をした喫茶店横の路地に入ったよ!」

『分かりました、すぐにおまわりさんを連れて行きますから、慎一さんはそのまま―』

「だめだ!」

 里奈さんはそのままそこでみていてください、と言おうとしたんだと思う。だけど、それじゃだめなんだ!

「だめなんだよ・・・また、あのときみたいになるのは・・・」

 もう、いやだ。あのときみたいに、自分の無力さを感じたくない。

 だから、僕は――

「・・・このまま追いかけるよ。あの路地、奥は行き止まりのはずだから・・・ここで待ってるわけにはいかないよ」

『慎一さ―』

 まだ何かを言おうとする里奈さん。里奈さんが僕を心配してくれる気持ちもよく分かる。だけど、今は危険から逃げるときじゃない。危険に立ち向かうときなんだ―そう考えながら電話を切り、携帯の電源も落とす。掛けなおされたら気付かれてしまうから。

 武器になりそうなものは―あいにく持っていない。だけど、里奈さんに言った言葉は嘘じゃない。この身一つでも、何とかしてみせる。何とかするんだ!

 そう決意して、赤信号の横断歩道を駆け抜け、路地へと飛び込んだ。

 路地は暗い。暗い道、走る女の子。僕はこんな状況だというのに、朝見た夢のことを思い出していた。まるで、あの夢のようだと。夢の中では僕はあの子を助けられたのだろうか。どっちにしても、ここは現実。なんとしても女の子を助けなくては――夢の中のように、この身を盾にしてでも。現実なのに、夢の中のようにという矛盾しているような思考。だけど、僕にとっては揺るぎなき決意。

 その決意を胸に暗い路地を慎重に、足音を立てないように進む。すると、すぐに奥へとつきあたった。そこには、追い詰められ怯えている女の子と、その腕を掴もうと手を伸ばす男の姿があった。その姿を見たとき――僕の中の一種のためらいは消え去った。

「ねえ、そこの人。こんなところで何をしているんですか?」

 そう声をかける。もう後戻りはできない。動きを止め、振り向こうとする男の背を見て決意を新たにする。

「これは―」

「お願い! 助けて!」

 男の声をさえぎって助けを求める女の子。もう男が何を言おうと無駄―だけど、この位置関係では少し危ない。

「くっ、こいつ!」

 その考えは的中した。男が女の子に再び手を伸ばす。しかし、そのおかげで最後のためらいも消えた。

「させない!」

 一気に駆け寄り、男の横っ面を殴り飛ばす。

「大丈夫だよ、君は僕が守るから!」

 殴りとばしたことで壁に手をつく男の横をすり抜け、女の子にそう声をかける。あとはこのままもう一度男の横をすり抜ければ―そう思ったときだった。目眩。視界にノイズが走り、バランスを崩すような目眩が僕を襲った。

「っ・・・こんな、時、に・・・?」

 その目眩のせいだろうか。男の姿がやけに黒く、暗い、まるで影のように見えたのは。

「え・・・」

 そして、これは幻覚だろうか。その影が、杭のようになって僕の胸を貫いている。

 遅れて、激痛。僕の胸を貫いていた影が男の元へと戻っていく。そのさまは、ありとあらゆる光を飲み込む生き物か何かのようだった。違う、こんな分析をしている場合じゃない。女の子を助けないと――頭ではそう思うけれど、体からは血が流れ出ていく。力が抜け、そのまま地面へと倒れていく。

 今、僕は何をされたのだろう。目の前の男が誘拐犯かもしれないという考えはあったから、ナイフぐらいは覚悟していた。だけど、違った。もっと異質な何か。僕の常識の外にあるもの。あの影は、きっとそういった類のものだ。

 そんな思考をめぐらせる余裕もなくなる。ひどく寒くて、意識が、遠のいていく。結局僕には何もできなかった――その悔しさと、生きることへの諦観が僕の思考を支配していく。

「また―しのせいで――」

 女の子のその声だけが、切れ切れに聞こえた。そして、僕の意識は――


‡   ‡


 白い天井。茜色の、夕暮れ時の光がその天井を染めている。体にかけられている何かからは薬品の香り。それで、僕は今病院にいるのだと理解した。しかし、ここに至る経緯は頭から抜け落ちていた。

 ――一体何があったのだろう。

 それを考えながら体を起こす。なんだろう。胸が、やけに痛む。その痛みで意識が多少正常に戻る。そうだ――女の子。あの子を助けようとして・・・それで?

「お、目、覚めた? あんたも無茶する子だよ、まったく」

「・・・えっと、小町おばさん? 一体何が・・・いたっ!?」

 頭を小突かれベッドに横にさせられる。

「まだ動くんじゃないよ。それと、ここじゃ私は院長先生だよ」

 そうだった。おばさんはここの、八重坂市立病院の院長だった。

「それで、その院長先生が何で僕の個室にいるんですか?」

 胸の痛みは取れないままでも、心配させたくは無い。できるだけ冗談っぽくそう言う。

「あんたねぇ・・・私だって人間なんだ。古くからの知り合いの息子が何者かに刺されたって聞けば、書類仕事なんざほっぽり出して様子見に来もするさね」

何者かに刺された?

「あの、おば・・・じゃなくて、院長。その話、もう少し詳しく聞かせてもらえませんか?」

「はぁ? なんだってそんなこと・・・刺された本人のあんたが一番成り行きを知ってるはずだろう?」

「・・・思い出せないんです。どうして刺されたのか・・・今の僕には、女の子を助けようとして、追いかけ出したところまでしか思い出せないんです」

 それを聞くと、小町おばさんは多少驚いたようだった。

「・・・刺されたショックで前後の記憶が飛んでるのかもしれないね・・・でも、私もそれ以上のことは知りやしないよ。紫藤さんとこの娘さんから聞いたことじゃ、最近話題の誘拐犯らしき男が女の子を追いかけているのを見て、追いかけだした。最終的に喫茶店横の路地に追いかけて入って・・・そして、駅前の交番のおまわりさんと一緒にそこに駆けつけたときにはあんたが倒れていて、男は逃げ出していたってことだけどね」

 その話を聞くうちに記憶を覆うもやが晴れていくように感じた。

「しかし、その誘拐犯らしい男も妙なもん使うね」

「妙なもの・・・と、言うと?」

「あんたを刺した凶器だよ。鉄串か何か・・・細くて長い刃物で刺されてる。そんなもんを使うくらいならナイフのほうが頼りがいがありそうなもんだけど・・・っと、もっとも犯人がそんな変ったもんを使ってくれたおかげであんたは助かったんだけどね。奇跡としか言いようが無い・・・重要な臓器だとか、血管だとか・・・一切傷がついていないんだよ。ナイフだったらこうはいかなかったろうね」

 冷静に告げる小町おばさん。その一方で僕は戸惑いを感じていた。

「それは・・・細くて長いもので刺されたというのは確かなんですか?」

 刺された前後の事は思い出せない記憶の中にある。それでも、うっすらと感じる違和感。だけど、それが何に対する違和感なのかは分からない。

「ああ、たしかだよ。あんたの胸の傷が物語ってるだろう。見にくいんなら、鏡貸そうか?」

 言われて胸を見る。確かに、縫合された、いたって小さい傷口があるのが見て取れる。

「・・・これで人間は気絶するものなんですか?」

「どうだろうね・・・個人の体力や気力によって変わるからね。それに、気絶させるような薬を塗っていたって可能性もある。それならナイフを使わない理由にもなるしねぇ」

「でも、臓器や血管は傷ついていないんでしょう? なら、薬の効果はほぼ無いはずです」

「ん・・・まぁ、そうだね・・・ま、こんなことを考えても仕方ないさね。私は仕事に戻るとするよ。あんたも養生しな・・・っと、一階の待合であんたのお友達が待ってるはずだけど、呼んでくるかい?」

「いえ・・・心配をかけないで話すほどの余裕はなさそうなので・・・寝てしまった、とでも言っておいてください。そうだ、女の子は?」

「ん、あぁ、あんたが助けようとした子か。その子なら無事だよ。だから安心して休みな」

 そういって病室から出て行こうと扉を開ける小町おばさん。しかし、おや、と声を上げその足を止めた。

「ほら、この子だよ、あんたが助けた子。何か話したいらしいから、ちょっと相手してあげな」

 そういうと小町おばさんは小さな女の子を僕の病室の中に入れ、改めて扉を開け病室から出て行った。

 病室には僕と女の子の二人だけ。どうしよう・・・何を話せばいいんだろう。何か話したいとのことだったけど・・・椅子に座ったまま女の子は口を開いてくれない。

「ねえ」

 仕方がないから自分から声をかける。かけたはいいけど・・・何を話せばいいのか分からないな・・・。

「えっと・・・あ、そうだ。名前。聞いてもいいかな?」

 自分なりに考えた末に、名前すら知らなかったことを思い出した。黙っているよりはいいだろう。

「あ・・・あいしゃ、です。神野愛紗(じんのあいしゃ)、です」

「愛紗ちゃんか・・・僕は、慎一。遠坂慎一だよ」

 愛紗ちゃんはまだ追いかけられていた恐怖が残っているのだろう。130センチ程度の小さな体は震えているし、言葉もまだ途切れ途切れだ。できるだけ今回と関係の無いことを話したほうがよさそうだな・・・。自己紹介をしながらそう考える。関係のないこと・・・本当に何を話せばいいんだろう・・・たしか、礼尾が話題に詰まったときどうすればいいかを前にいっていたような気がする・・・。そう、アレは確か・・・。

「髪、きれいだね。それに凄く長いし・・・立ったらひざくらいまであるかな? 愛紗ちゃんに似合ってるね。可愛いよ」

 外見を褒める・・・って、これナンパのときの話だった! 女顔のやつがいれば警戒緩むとか言って無理やりつれてかれたときの・・・。なにやってるんだ僕は!

「かわいい、ですか・・・? えっと、少しなら、髪、さわってもいいですよ?」

 そして予想外の方向に話が進んでる!? えっと・・・この流れだと断るのはへんだよね・・・。

「じゃあ、少しだけ・・・」

 そう言って頭をなでるような感じで髪に触る。これは・・・凄く手がかかっていそうだな。頭にはエンジェルリング・・・だったかな。髪の毛のツヤがよくないとこんな風に光の輪が浮かびはしないし。

「さらさらだね。やっぱり、手入れしてるの?」

 予想外とはいえ、話が膨らませることができそうだから髪の話を続けることにする。髪に詳しいわけじゃないから、この話題が続く間に次の話を考えておかないとな。

「とくに、してないです・・・シャンプーだけです」

「シャンプーだけ!? それでこんなにさらさらなんだ・・・凄いなぁ・・・」

「そんなこと、無いです。きっと、普通のことですから・・・」

「ううん、僕の友達に女の子がいるんだけど・・・その人も髪の長い人でね。手入れ凄く大変だって。前に言ってたよ。だから、きっと凄いことだよ」

 たしかそんなことを里奈さんが言っていたはずだ。

「そう、ですか? ・・・なら、よかった、です」

 そう言うと、愛紗ちゃんは少し笑ってくれた。よかった、少しは和んでくれたようだ。でも話題が終わっちゃったな・・・他に話題は・・・そういえば、小町おばさんが何か話したいことがあるらしい、って言っていたような・・・その話題を出そうかな・・・。

「ねえ、愛紗ちゃん。小町おばさん・・・あ、院長先生のことだよ。さっき、愛紗ちゃんを部屋に入れるときに何か話があるらしい、って言ってたけど・・・何のことかな?」

「えっと・・・それは、もういいです・・・しんいちおにいちゃんとのお話のほうが、楽しいです・・・だから、いいです」

「? そっか、よく分からないけど・・・楽しんでもらえてるなら、よかったよ」

 そこまで話すと、僕も疲れがでたらしい。眠くなってきた・・・そういえば、最近は妙な夢のせいで熟睡はできてなかったな・・・。

「ふぁ・・・ごめんね、愛紗ちゃん。少し、眠くなっちゃった・・・少しだけ、寝させてもらうね・・・」

「あの、その前に! その前に、これだけ聞かせてください!」

「んぅ・・・なに・・・かな・・・」

 だめだ・・・愛紗ちゃんが話をしてる途中だけど・・・眠気が・・・。

「どうして・・・わたしを助けてくれたんですか?」

「それは・・・夢を・・・」

 だめだ・・・もう・・・限界・・・。


‡   ‡


 ふと気がつくと、映画館の中の椅子に座っていた。だけど、不思議なことにさっきまで病院にいたんだから、これは夢だ、という冷静な思考ができる。

 そんなことを考えていると、後ろのほうでドアが開く音がした。それと同時に、映画が始まる合図のブザーが鳴り響く。しかし、スクリーンに映るのはただの砂嵐。ザーというノイズだけが静かに流れている。

「・・・。・・・?」

 声がした。内容は分からないけど、そう感じた。だから、僕は振り向いた。

 目に映るのは、今朝も見た夢よりさらに奇妙な光景。僕が、二人いる。僕の目の前に僕が二人いる。いや、正確には、僕に似た二人、だろうか。二人とも瞳の色に特徴があるようだ。一人は、青い瞳。もう一人は、赤い瞳。

「でも、まあ・・・夢なんだから、何でもありか・・・」

 夢の中と認識しているからだろうか。自分の思ったとおりに声が出せる。

「・・・夢ではありませんよ」

「夢じゃないぞ・・・現実だ」

「え?」

 目の前の二人がそう呟く。それと同時に、ノイズが大きくなり、思わず耳をふさぐ。

 すると、夢の中だというのに、意識が遠のき始める。目の前の二人の姿が、景色が歪み、そして―完全に見えなくなった。


‡   ‡


 話し声が聞こえる。二人の女性と一人の男性の声。そして、それら全てに聞き覚えがある。一人は先ほどまで話していた愛紗ちゃん。そして、残りの二人は・・・とても身近な、だけど、今はここにいないはずの二人。その声に気付いたとき、僕は自然と目を開けていた。

「おや、目が覚めたかい? 慎一」

「あらあら、おこしちゃったかしらね~。ごめんね、しんちゃん」

「・・・父さん、母さん・・・どうしてここにいるのさ・・・」

 そう、その二人とは、僕の両親。新婚旅行という名目の旅行に行っているはずの二人だった。

「どうしてって・・・小町から電話をもらったのよ~。慎一が刺されたから帰ってこーい、ってね。だから飛んで帰ってきたってわけよ~」

 小町おばさんから電話をもらった・・・それって、つまり!?

「母さん、携帯電話の電源を入れてたの!?」

 あの母さんが! 電池がすぐ切れるから、といって携帯電話の電源を自分からかけるとき以外切っている母さんが!

「正確には、幸衛じゃなくて、僕の携帯電話にかけてきたんだよ。それで、僕が驚いたのを見て何事かと思った幸衛が携帯をぶんどってね・・・」

「あらあら~、わざわざそんなことを言わなくてもいいと思うわ~、衛二さん? うふふ・・・」

「いふぁい、いふぁいよ、ゆきうぇ(いたい いたいよ ゆきえ)」

 頬を引っ張られながら話す父さんと笑顔のままで頬肉を引きちぎらんばかりに頬を引っ張る母さん。アレは痛そうだ。

「・・・と、ところで、愛紗ちゃんと何か話をしていたようだったけど、何を話してたのさ、父さん、母さん」

 父さんの頬が真っ赤になっているのを見て、あきれながらも止めるためにそんなことを聞く。

「あら~、そういえばそうだったわね~。話してもいいわよね? 衛二さん」

「いてて・・・うん、そもそも隠すようなことでもないからね、話さないと」

「じゃあ言うけれど・・・しんちゃん、今日から愛紗ちゃんはうちの子になるわよ~」

 うちの子になる。その言葉を聞いて数秒間思考が停止する。それってつまり・・・愛紗ちゃんを養子にする、ということなわけで・・・って、え?

「だからね、しんちゃんは今日からお兄ちゃんになるのよ~。がんばってね、お兄ちゃん」

「ちょ、ちょっと待って。何がどうなってそうなるのかがまるで分からない。結果だけじゃなくて過程も話してよ、母さん!」

 だって、養子だよ? そんな簡単に出来ることじゃないはずで・・・そもそも愛紗ちゃんには家族がいるはずだし・・・さっぱり分からない。

「愛紗ちゃん、のどが渇いてないかい? 僕と一緒にジュースを買いに行こうか」

「はいです、えいじさん」

 軽くパニックに陥っていると父さんが急にそんなことを言い出す。そしてそのまま愛紗ちゃんを連れて部屋の外に出て行った。どうしてこのタイミングで言い出したのだろう・・・。

「・・・さて、しんちゃん。ここからはちょっとまじめな話なのよ」

 突然真剣な顔をする母さん。話し方も大切なことを話すときの話し方だし・・・一体何事だろうか?

「実はね・・・愛紗ちゃんの家族だけれど・・・もう、この世にいらっしゃらないらしいの」

 ・・・え? この世にいない、って・・・つまり・・・死んでいる、ということ・・・?

「・・・母さん、もう少し詳しく聞かせてもらえる?」

「ええ、そのつもりよ・・・重い話になるけれど、いいわね?」

 母さんのその言葉に首肯する。

「刑事さんから聞いたことだけど・・・愛紗ちゃんを追いまわして、しんちゃんを刺した犯人・・・その男がしたことはね、それだけじゃないらしいの・・・最初に、愛紗ちゃんの家に押し入ったらしいのよ。そのときにご家族が愛紗ちゃんを守ろうとして、逃がしてくれたのね・・・そのおかげで愛紗ちゃんだけは逃げられたけど、他のご家族は・・・」

 そこまで話すと口を閉ざす母さん。だけど、そこまで話されれば十分に理解できる。つまり、愛紗ちゃんを逃がそうとして・・・みんな、殺されてしまったのだろう。僕を刺したという細長い刃物で。

 それは、愛紗ちゃんにとってどれだけの恐怖だったろう。家族を殺されるなんて・・・。もしも、僕だったら・・・。

 それを想像するだけでも恐ろしさで体が震える。それと同時に、あの男に対する怒りが、憎しみがこみ上げる。

「だからね、あなたにとってはつらい事を思い出させるかもしれないけど、あの子のお兄ちゃんになってあげてほしいの・・・」

「・・・なんでだよ・・・」

「・・・しんちゃん?」

母さんの言葉も耳に入らないほどにこみ上げたそれは、殺意といっても過言ではないほどの強さになって僕の喉まで膨れ上がり、そして、噴き出した。

「何で・・・どうしてあんなに小さな子がそんなにつらい目にあわないといけないんだよ! 許せない・・・あの男! もしまた会うようなことがあったら、そのときは絶対に、絶対に、ころ――っ!」

 あまりに激昂したためだろうか・・・胸の傷口がひどく痛み、めまいがして言葉を途切れさせてしまう。

「・・・しんちゃん、あなたの気持ちはよく分かる。だけどね、それだけは絶対にしてはだめ。復讐は何も生まない。あなたが愛紗ちゃんのご家族の仇をとったとしても、残るのは人殺しの烙印と・・・ほんの少しの自己満足なのだから」

「・・・そんなこと、分かってる・・・紫織のことで、そんなこと分かってるよ・・・」

 母さんになだめられ、ほんの少し冷静さを取り戻す。それと同時に扉が開き、父さんと愛紗ちゃんが部屋の中に入ってくる。ジュースを買って戻ってきたようだ。

「やあ、話は終わったかい?」

「・・・うん、終わったよ。事情は聞いた・・・」

 それを聞くと父さんはそうか、とだけ言って椅子に座った。愛紗ちゃんはその隣の椅子に座る。その手にはミルクセーキが握られている。

「・・・愛紗ちゃん、ミルクセーキ、好きなの?」

「はいです。甘くて美味しいです」

 最初よりは喋り方もしっかりしてきたけど・・・その小さな胸の中ではどれだけの悲しみが渦巻いているのだろう。どこか無理にしているような笑顔を見ると、そんな考えが自然と思い浮かんだ。

「そっか、じゃあ・・・近いうちにミルクセーキを作ってあげるよ」

「しんいちおにいちゃん、料理できるですか?」

「うん、男だけど料理が趣味みたいなものだから・・・きっと、缶のより美味しいと思うよ」

「ほんとですか? じゃあ、楽しみにしてます。だから、作ってください。約束ですよ?」

 そういうと愛紗ちゃんは右手の小指を立てて僕のほうに差し出してきた。その小さな指に僕の小指をからませる。いわゆるゆびきりげんまんの形だ。

「うん、約束だよ」

 そう言って微笑みかける。少しでもいい。愛紗ちゃんの悲しみを癒したい、その一心での約束だった。

「ああ、慎一。失神してたからこういう事になっているけど、傷はいたって浅いし、小さいから傷が開くようなことさえしなければ退院して大丈夫だそうだよ。どうする?」

「そっか・・・じゃあ、退院しておこうかな。入院費もかかるし、家の事もいろいろ大変になりそうだからその手伝いもしたいし」

「こらこら。けが人はおとなしくしてなさい。まったく、慎一はしっかりしすぎなんだよ」

「だって、父さんも母さんも大事なところで抜けてたりするんだもん。だったら僕がしっかりしないと・・・それに、妹もできるんだから、ね」

「それもそうか・・・ハハハ」

 そう言って軽く笑いあう。よかった・・・愛紗ちゃんも少しだけど、笑ってくれている。

「それなら、帰り支度をしましょうか~。あなた、しんちゃんの荷物もってあげて」

「ああ、分かったよ。それじゃあ、僕たちの家に帰るとしようか、愛紗ちゃん」

 『わが家』ではなく『僕たちの家』といったのはきっと父さんなりに愛紗ちゃんも家族の一員だということを感じてもらうための言い方なのだろう。そんなことを考えながらベッドから起き上がる。胸の傷はまだ痛むけど、気にしない。だって、僕はこれから妹のためにがんばらなくてはならないのだから。そう決意を固める。さあ、まずは退院手続きだ。


‡   ‡


 退院手続きを終え、帰路につく。もうすっかり暗く、12月ということもあり、とても寒い。

「母さん達がコート持ってきてくれてよかったよ。今朝は暖かかったから着るの忘れてたんだよね・・・」

「あらあら、そうだったの。でも結果的によかったわねぇ」

「うん、もしも着ていたら穴が開いて血で汚れるところだったよ・・・里奈さんが作ってくれたコートだからね。そんなことにはできないし・・・愛紗ちゃんは大丈夫? 寒くない?」

 しかし、里奈さんは器用だよな・・・コートって作るの難しいって聞くけど・・・。

「はいです。えいじさんの貸してくれた服のおかげでぽかぽかですよ?」

「そっか。ならよかった」

 そういう愛紗ちゃんは僕の手を軽く握っている。しかし、当然だけど服ぶかぶかだな。でもこれはこれでかわいいかも・・・なんて。

 そんなことを考えながら歩いているうちに、八重坂駅にたどり着いた。

「駅員さん、遠坂駅まで、えっと・・・大人2枚と子供1枚。おねがいします。僕は定期で」

「とおさかって、しんいちおにいちゃんの名字と一緒ですね。なんだかへんな気がします」

「あはは、そうだね。ひょっとしたら、ずっと昔のご先祖様はこのあたりの地主さんだったのかも」

 今まであまり考えたことは無かったけど、やっぱり住んでいる町の名前と自分の名字が同じって言うのはそうそうないよな。今度母さん達にどうしてか聞いてみるのもいいかもしれない。

 そんなことを考えながら駅のホームにとまっている電車に乗り込む。あまり人が乗っていないからみんなで並んで座ることができる。立っているのは少しつらかったから助かるな。

 座ってしばらくすると、発車の警笛が鳴り響き、電車が動き出した。ゴトン、ゴトンという定期的な振動が僕には揺りかごのように感じる。さっきまで寝ていたけどまた眠くなってきてしまった。

「ふぁ・・・んぅ・・・ねむいです・・・」

 それは愛紗ちゃんも同じようだった。大きなあくびをもうひとつすると、僕に寄りかかって寝てしまった。

「・・・やっぱり、疲れてるよね・・・肉体的にも、精神的にも・・・」

「そうね・・・刑事さんから聞かされただけとはいえ、家族がもういないって言うのは、つらいことだもの・・・早く、私たちのことを本当の家族だと感じてくれるといいわね」

「ああ・・・そして、あんなつらそうな笑顔じゃない、本当の笑顔を見たいものだね」

 そう言って父さんは愛紗ちゃんの頭を軽くなでた。

「・・・そうだね。あんな、見ているこっちまでつらくなるような笑顔・・・こんなに小さな子がしちゃいけないよ。もっと、本当の気持ちを出すべきだ・・・」

 僕も愛紗ちゃんの頭をなでる。

「んぅ・・・お父さん・・・お母さん・・・」

 愛紗ちゃんは両親と暮らした日々を夢に見ているのだろうか。そう寝言で呟いた。






第一幕 了

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