序幕 始まりの、始まり
暗い道。そこを走る少女。そして、少女を追いかける化物。僕はその後ろを走っている。前を走る少女と化物を追いかけているのだ。
暗い道は永遠には続かない。少女は道の最奥にたどり着き、立ち止まり、化物に追い詰められてしまう。化物は少女に飛び掛る。そこで、僕は少女をかばうために、少女と化物の間へと飛び込み――
『ジリリリリリリリリリリリリリリ!!』
「・・・・・・朝かぁ・・・よく寝た、かな・・・」
そこで、目覚ましの音が鳴り響き、僕は夢から現実へと引き戻された。
僕の名前は遠坂慎一。いたって普通のどこにでもいる大学二年生だけど・・・少し普通じゃないところがある。それは、奇妙な夢を見ることだ。
その夢は、暗い道で、少女が化物から逃げる、というもの。しかし、今日の夢はいつもの夢と違った。いつもの夢ならば、僕はその少女をただ見ているだけだった。なのに、今日の夢では少女をかばうために化物と少女の間に飛び込んでいった。
暗示のように見る夢の大きな変化。それは”何か”を僕に感じさせるには十分なものではあるけれど、その”何か”がなんなのかを考えているような時間はない。今、家には僕一人しかいない。両親は"新婚旅行”でどこかに出かけてしまっているのだから。もう結婚して二十年になろうかというのに何が新婚だ、と思うけれど、出かけてしまっているのだから仕方ない。今日も朝食を作って、弁当を作って、学校に行かなくてはならない。
起き抜けの寝ぼけた頭でそんなことを考えながら、僕は今日の準備へと移るのだった。
‡ ‡
朝食を作り、ついでに弁当におかずをつめる。そんな毎日することを済ませて、いつもどおり仏壇の遺影に手を合わせる。きっと、これからもずっと出かける前に遺影に手を合わせるだろう。そうしなくてはならないだけのことを”彼女”に僕はしてしまったのだから。
そして、そのあとはいつもどおりの登校路を歩く。僕の通う市立八重坂大学へは電車で向かう。だから駅へ向かうのだが、駅までの道は歩いて数分。とっくに見慣れた景色を見ながら歩いていく。
こうしてみると、僕は一人でいる間は何の変化も無い日常を送っているのだ、と感じることがよくある。朝起きて、両親がいない間は朝食、弁当を作る。いるときは完成を待ちながら新聞に目を通す。そして朝食を食べれば仏壇の遺影に手を合わせ、大学へと向かう。大学が終われば家へ帰り、与えられた課題を終わらせて眠る。そんな単調な日々を送る僕にとっては、これからの時間、大学へ行き、友達たちとくだらない話をしている時間が一番楽しい。
だから、毎日楽しみなのだ。駅に着いた瞬間の彼女達の呼び声が。
「慎一さーん! おはようございます!」
「おはよう! 慎一!」
「おはよう、二人とも」
挨拶をしてくれた二人に僕も挨拶を返す。この二人は、小学校時代からの僕の幼馴染だ。
一人は、紫藤里奈。黒く、つややかな腰まである長髪。整った顔立ち。そして何より服の上からでも分かるほどの胸やくびれたウエストなどのプロポーション。どこをとっても男の目を引くその外見は、モデルといわれても信じる人が多いことだろう。しかも、それで図に乗るようなことも無く、非常に礼儀正しい。もっとも、それは小学校以来の付き合いである僕にいまだに"さん”付けをする、という多少他人行儀な話し方をしてしまうという欠点にもつながっているのだけど。呼びかけられたときにこちらも”里奈さん”と返してしまうのも原因の一つかもしれないから、思い切って呼び方を変えてみるのもありかもしれない。
そしてもう一人は千歳双葉。"ふたば”と読む人が多いが、”ふたは”と読む。性格が男勝りなせいか、読み間違えられるたびにケンカが起こりかけたりもする。外見も性格に比例してか、どことなく少年らしい感じがしなくもない。本人はそれを気にしているらしく、できるだけ女らしくあろうとしている。確かに、セミロング程度の長さの赤い髪はつややかで手入れがされていることが見て分かるほどだし、中性的な感じが少年らしさにつながってしまうだけで、結構美人だ。しかし、そのほかの部分はというと、服装は男性が着ていてもおかしくないようなものだったり、立ち振る舞いや言葉使いも男性的だったりと、髪にかける手間を少しはまわりにかけなよ、といいたくなるような部分が何箇所もあったりする。もっとも、それを指摘したらきっと僕のことを”女顔”呼ばわりしてくることだろうから指摘しないけど。
そう、双葉が男勝りなのに対し、僕はどこか女性的な雰囲気なのだ。僕としてはせめて中性的、といいたいところだけど、二人と一緒に町を歩いていてナンパされた経験がある身ではそのような反論はとてもじゃないけどできやしない。
・・・まあ、それはどうでもいいとして。この二人と毎朝一緒に大学へと通う。その間は電車の中で雑談だ。ここからが、僕の一日のスタート、といってもいいかもしれない。
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「何だよ、里奈。今日は電車の中で本読むのか?」
「ええ、お二人との話も楽しいものですが、ちょっと読みかけだったもので・・・。いよいよラストシーン、というところで昨日は眠ってしまったもので続きが気になってしまって」
八重坂駅行きの電車に乗り、僕を真ん中にして二人が座る。いわゆる通勤、通学ラッシュの時間帯ではあるけれど、八重坂町のほうに向かう人は少ないため、いつも座ってゆっくり話ができる。そのぶん、会社やデパートなどの密集地の比良坂町のほうに向かう電車は大変なことになっているだろうな。
「それはいいけど・・・酔うんじゃないかな? 普段でさえ電車から降りたあとはちょっと酔ってるみたいだし・・・本なんて読んで大丈夫?」
「うぅ・・・でも、学校に着くまでラストが知れないなんて、私にとっては拷問です・・・」
「慎一、大丈夫だ」
「双葉・・・大丈夫って何が?」
「エチケット袋ならアタシがもってきてある!」
「最悪の事態だけを心配しても仕方がないと思うんだけど・・・?」
うん、やっと一日が始まった、と感じる会話だ。僕も調子がでてきたように感じる。
「ア、アハハ・・・最悪の事態は避けられるように、がんばりますね・・・」
そう苦笑しながら答える里奈さん。くれぐれも無理はしないでほしい。
‡ ‡
「・・・・・・・・・」
「・・・里奈さん、大丈夫? お茶飲む? 水筒に入れてきてあるけど・・・」
「とりあえず、エチケット袋な・・・吐くなよ?」
「嫌ですね、双葉さん。ちょっと気持ちが悪いだけですから、吐いたりなんか・・・うぅ」
八重坂駅についたときには里奈さんの顔はすっかり白くなっていた。やっぱり乗り物に弱いなぁ、里奈さん。
「とりあえず、お茶飲んで落ち着いて。はい」
「あ、ありがとうございます・・・あ、これ・・・」
水筒を受け取った里奈さんが驚くのを見て、何かへんなところがあったか、と僕も水筒を見る。そして気がついた。そういえば直接口をつけるタイプの水筒だったんだ。人が口をつけたものはちょっと、と思ったのかな?
「大丈夫だよ、今日はまだ口つけてないから」
「あ、そうなんですか・・・」
あれ? 何故か少し残念そうに見える。まあ、気のせいだろう・・・。
「・・・ふぅ。ありがとうございます、慎一さん。少し落ち着きました」
「うん、どういたしまして」
里奈さんから水筒を返してもらってかばんにしまう。
「さて、里奈がおちついたんならそろそろ行かないか? 遅刻する、って時間じゃねーけど早めに着いておいても損はないっしょ?」
「そうですね、そろそろ・・・うぅ・・・」
「・・・まあ、無理はしないでいこうね」
「はい・・・すみません・・・」
そして、僕たちはゆっくりと歩き出す。里奈さんが最悪の事態を起こさないように気をつけながら。それと、背後の気配にも気を配りながら。
「・・・そろそろ、かな? 二人とも、十数えたら横に飛んでね」
「・・・今日もか? 飽きないやつだよなぁ・・・」
「まぁ、日課みたいなものだし・・・この方が退屈しないですむし、ね」
そんな会話を小声でする。コツ、コツ、と後ろから聞こえる足音は徐々に近く、大きくなっていく。そろそろか・・・。
「お前らおはよう! ってうおぉぉぉぉ!?」
後ろから飛びついてきた人物をちゃんと着地できるように手加減をしながら投げる。まったく、僕のほうも楽しんでいるとはいえ、よく毎日飽きないものだ。しかし、こんな街中でこういうことはしないほうがいいんじゃないだろうか・・・いくら人通りが少ないとはいえ、周りの人も驚いてるだろうし。
「おはよう、礼尾」
「お、おう・・・おはよう、慎一。しっかし、朝から一本背負いとは、派手なことしてくれるぜ!」
「こうでもしないと礼尾のほうが技かけてくるでしょ・・・まったく」
後ろから飛びついてきて、いま僕の前で今にも倒れそうな立ち方をしているのは来栖礼尾。中学時代からの悪友というか、親友というか、そういう人物だ。礼尾とあったころの僕は少し荒れていたから、毎日のように殴り合いの喧嘩をしていたっけ・・・一方的に殴り倒していたような気がしないでもないけど。そういえば双葉とも始めてあったころはそんな感じだったっけ。そんな二人とどうしてこのような関係になったかというと、ある事件があったからだ。その一件以来僕と彼らは仲良く接するようになった。まあ、毎朝背負い投げしたりする関係が世間一般の仲がよい、に含まれるかは微妙なところだけど。
「ま、改めておはようなー、お前ら・・・で、里奈が気分悪そうなのは電車酔いか?」
「うん、乗り物に弱いのに電車の中で本を読むなんて自殺行為をするから・・・ひどいことになっちゃってるんだ」
要約して伝えるとこういう感じだよね、うん。
「自殺行為なんて・・・そこまでひどくはないで・・・うっ・・・」
「あー、はいはい。エチケット袋、エチケット袋。いっそ吐いちまったらどうだ? そうすりゃ楽になるかもしれないぞ?」
「そ、そんな・・・し・・・」
「し?」
「・・・こんな市街地でするくらいなら、死んだほうがましで・・・うぅ・・・」
僕が聞き返したとたんに様子が変わった気もするけど、やっぱり女の子だもんね・・・街中、人前で吐くなんてことはできないよね・・・。
「が、学校までは我慢します・・・そうしたら、少し・・・お花を積みに・・・」
「・・・そこの喫茶店のトイレ・・・じゃなくて、そこの喫茶店のお花畑、いかせてもらう? その隣の路地のほうにもなんか・・・お花畑、ありそうだけど」
明らかに末期な顔つきをしている里奈さんにぼかした表現で伝える。本当に一度出してしまったほうが楽そうだし・・・。
「お花畑・・・あれ、何でしょう・・・川が・・・向こう岸に亡くなったひいひいお爺様が・・・手招きをしてらっしゃって・・・」
「里奈さん!? だめだよ! その川、絶対に渡っちゃだめだよ!」
だめだ! ますます末期に! というか、電車酔いってここまでなるものなの!?
「末期だな・・・慎一、いっそ渡らせてやろう。そのほうが楽だ」
「今の電車酔いを楽にするために今後の人生全てを放り投げるの!? だめだよ! ハイリスク・ローリターンって言うレベルじゃないよ、双葉!」
「・・・とりあえず、里奈を担いでいくぜー? 急いだほうがよさそうだからなー・・・」
どたばたとした朝・・・僕の日常。そこに、愛おしさを感じている自分に気がつく。体の弱い里奈さんに、男みたいな雰囲気を持った親しみやすい双葉。そして親友の礼尾。それと、今頃学校の教室にいるであろう凛香先輩。ああ・・・なんて楽しい日常なのだろう。
──ワタシノコト、ワスレチャイソウナクライニ?
そんな声がした気がして――ゾクリ、とする。とっさにポケットの薬を取り出し水もなしに飲み込む。
「慎一!?」
「慎一・・・さん・・・?」
「・・・大丈夫、か・・・? お前も、担いでいこうか・・・?」
声色で心配してくれていることだけは分かる。だから、早く戻らないと。
十秒ほど荒い息をつく。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい・・・それだけを考えながら・・・うん、もう大丈夫だ・・・。
「大丈夫だよ。何でも・・・ない。それより、早く学校に行こう? 遅刻しちゃうよ」
なんでもないように返して、みんなの元へ向かう。随分、久しぶりだったけど・・・大丈夫だ。僕は忘れたりなんかしない。あの事件のことも、その犠牲になった”彼女”の事も。
こうして―普段と少し違う僕の日常は始まった。これがまったく別の日常の始まりになるなんて、かけらほども思わせることなく。