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CategoryⅢ『改変系Optical Isomeric D or L 』03





<鏡像:dextro-rotatory>





「ん…? 朝か」



楢崎は少しがやついてきた車両の物音に促されるように目を覚ます。向かって左側の窓から朝日が差し込んでいて、隣には昨日知り合ったばかりの金色の髪をした少女が毛布を羽織って眠っていた。


イスタンブールから出発した列車は灌木が茂る丘陵地帯から遠くに山の峰々が横たわる荒涼としたただ広い荒野を越え、時折大理石を切り出した跡が残る採石所や小さな集落などを横目に道をひた走る。


楢崎は左手首の腕時計を見る。時計の針は6時半を指していた。目的地のデニズリまではあと2時間ほどある。尿意を覚えたので席から離れようとすると、どうやら振動か物音を出してしまったせいか隣の席の少女を起こしてしまったようだ。



「ん…、ふぁ…」


「起こしてしまったか」


「…あれ? ここどこなのよ?」


「列車の中だよ」


「貴方、誰なのよ?」


「ケンゴだ。ケンゴ・ナラサキ」



どうやら少女は寝ぼけているらしく、そんな間の抜けた会話をしてしまう。楢崎は苦笑して、目をこするアリスを見下ろす。



「思い出したのよ。ケンゴ、もう着いたのよ?」


「いや、まだだよ」


「そう」


「じゃあ、私は少し席を外すから」


「分かったのよ。いってらっしゃい。ふぁ~」



楢崎はアリスの大きな欠伸に見送られながらトイレへと向かった。そしてあまり清潔とは言えないトイレで用を済まして帰ってくると、案の定、アリスは二度寝を貪っていた。


と、



「おはようさん」


「おはようっス、楢崎さん」


「おはよう」



ほか二人も起きたようで、朝のあいさつを交わす。その後、朝食の話になる。もちろん節約のために食堂車は使わない。食堂車は昨日に十分堪能できた。朝食に一人分7リラもかかるのだ。


楢崎は荷棚からバッグを下ろすと、その中からクラッカーとペットボトルに入ったミネラルウォーター、そしてイスタンブールで買っておいたリンゴを取り出す。そんなことをしているとアリスが目を覚ましてしまった。



「…ん、ケンゴ、何してるのよ?」


「朝食だ。アリスはどうするんだ」


「む~、一緒に食べるのよ」



すこし気怠げにアリスは答える。



「せやけど、どうするんや? リンゴは3つしかないで」


「ケンゴ、私のバッグとってなのよ」



アリスは荷棚にのっている、たくさんの可愛らしいワッペンのついた二輪のキャスターのついた赤色のキャリーバッグを指差す。楢崎は首をかしげる。



「(さっきまで、こんな鞄あったか?)」



先ほど自分の荷物を下ろした時にはこんな旅行鞄は無かったように思える。とはいえ今は事実目の前にあるので、見間違いだろうと楢崎は自分で解釈してアリスの指差した旅行鞄を下ろした。



「ほら。しかし、どうやって荷棚に乗せたんだこれ?」


「親切な人に手伝ってもらったのよ」



年相応にあまり背の高くないアリスがどうやって鞄を上にあげたのか楢崎は疑問に思ったが、アリスの答えに一応は納得する。


アリスは鞄の中を探ると、ビニールに包装されたサンドウィッチとオレンジジュースの入った紙容器を取り出した。


サンドウィッチはハムとレタスとチーズが挟まったオーソドックスなもので、おそらくそれらは昨日の内に買っておいただろう物で、おそらくは買ってから10数時間以上経っているものだろうが、そうは思えないほど新鮮に見えた。



「へぇ、用意ええやんか」


「もちろんなのよ」


「じゃあ、楢崎さん、僕らは席に戻るっス」


「ああ」



野口と川島は自分の分のクラッカーを持っていく。そうして楢崎は自分の鞄とアリスの鞄を荷棚の上にあげて、朝食をとることとする。


楢崎の朝食はイスタンブールで前もって買っておいたクラッカーとチーズ、そしてリンゴ一つ。アリスが小動物のようにサンドイッチに齧りついているのを横目に自分も朝餉を摂る。


リンゴを買っておいたのは正解で、クラッカーとチーズだけではボソボソとした味気ないものになっていただろうと思いつつ、日本のものより小ぶりの新鮮な汁気たっぷりの甘く、爽やかな酸味のある青リンゴを齧る。


と、アリスがじっと楢崎の持つリンゴに視線を注いでいるのに気づく。



「どうした?」


「リンゴ美味しそうなのよ」


「…一口喰うか?」


「ありがとうなのよ」



そうしてアリスが小さな口でリンゴの楢崎が齧った側とは反対側を齧る。楢崎は物怖じしない子だなとアリスについて思う。というよりはマイペース、あるいは自分に正直なのだろうか?



「美味しかったのよ」


「ああ、それは良かった」



とはいえ、そんな少女との交流に楢崎はどことなく温かな、父性的な、庇護欲をかきたてられるというか、そんな感覚を無意識ながら抱いていた。





列車は無事にデニズリへと到着すし、そのままオトガル(バスの停留所)に向かう。そこからパムッカレまでのバスが出ているからだ。駅から出るとホテルか何かの客引きに捕まりかけるが、別にデニズリで一泊する予定はないので断りをいれ、オトガルへと向かう。



「そういえば、アリスはこれからどういう予定なんだ? ここで一泊するのか?」


「ケンゴたちはどうするのよ?」


「俺たちはカラハユットで一泊する」


「カラハユット?」


「温泉街だよ」


「パムッカレにも温泉はないのよ?」


「一応あるが、水遊びぐらいしか出来ないらしい。温泉街としてならカラハユットの方が上だってこの間聞いた」


「ふうん、じゃあ私もそうするのよ」


「ん、ついてくるのか?」


「うん」



ということで、まずはカラハユットへ行くバスに乗り、一度宿をとって荷物を預け、それからパムッカレへと向かうコースをとる。バスはパムッカレを経由するので、デニズリの街の郊外を抜けてしばらくすると、バスの窓から遠くに雪が積もったような白い丘が見える。


おそらくは世界的に有名なパムッカレの石灰棚の一部だろう。麓からは見るそれは雪を被った山のように見える。それをアリスがバスの窓にかじりつくようにそれを見てはしゃいでいる。


そうして一度、パムッカレを通り過ぎて、カラハユットに到着し、宿となるペンションを探す。今はパムッカレの観光シーズンでは無いが、温泉郷としては有名なので宿がとれるか心配であったが、意外にもすんなりと宿は見つかる。


荷物を預けたらそのまま折り返すようにバスでパムッカレへと向かう。バス停はパムッカレの北の入り口にあり、台地の上にあるローマの遺跡、ヒエラポリスの入り口にあたり、ローマ時代の共同墓地ネクロポリスがまず目に入る。


期待していた光景とは異なったのか、アリスはつまらなそうに歩く。それは当然のことで、周りを見る限り見えるのは、雑然と並ぶ、黒ずんでじめじめとした冷たい印象を与える石造りの家型の墳墓ばかりだからだ。



「こっちから入ったのは失敗だったか」


「おもしろくないのよ」


「まあ、墓場やさかい、おもろいもんはないわな」



とはいえ、ネクロポリスを通過すると段々ローマらしい遺跡が目にはいるようになる。大きな石のアーチ構造や門、それに石柱が並ぶ石畳の大通りなどが見える。


ローマやギリシャ系の遺跡はいままでもヨーロッパ各地で見てきたので今更感は否めないものの、古代遺跡ならではの廃墟の美しさというものを感じることは出来る。


ヒエラポリスの大通りを過ぎると、円形劇場に向かう。この円形劇場はとても大きく立派で、保存状態も良く見栄えがあった。正面にある舞台とその後ろにそびえる壁、そしてそれをすりばち状に急勾配に取り囲む半円の観客席が見事に保存されている。



「とっても大きいのよ」


「立派な劇場ッスね。ヨーロッパでもこれだけ大きい劇場はなかなか無いっス」


「観客席数は15,000だそうだ」



ローマの円形劇場は現在のスタジアムの原型で、その基本的な形は現在も変わってはいない。しかしながら、石造りで作られたそれは思う以上に迫力があり、重厚感を感じさせる。


アリスは川島と一緒に観客席を昇って行き、舞台の上のこちらを向いて手を振ったり、石の席に座ったりする。



「写真でも撮ろうか」


「俺が撮るわ。楢崎はアリスんとこいき」


「わかった」



野口に促されアリスのいるところに向かう。そうして、川島とアリスを挟むようなかたちで野口が写真を撮る。



「はいチーズ」



カメラのシャッターが下りる。するとアリスがこちらを向き、



「なんで、日本人は写真を撮るとき『はいチーズ』って言うのよ?」


「そうっスよ。アメリカじゃなんて言うんスか?」



代わりに川島が答える。



「Say,Cheeseって言ったり、3,2,1って言ったりするのよ。チーズって撮られる方が言わなきゃ意味ないのよ」


「まあ、確かに撮られる側が言わなきゃ笑顔にならないな」



ちなみに日本語の発音でチーズと言っても笑顔にならない。英語の正式な発音で言ってこそ意味が出てくる。



「というわけでアリスちゃん、俺と一緒に写真に写らへんか? 二人っきりで」


「どういうわけだそれは」


「ケンゴ、私早くあの白いところいきたいのよ」


「じゃあ行こうか」「行くっス」


「ちょ!? お前ら俺のこと無視かいな!」



パムッカレへと向かおうとする3人にがたがた文句を言い出す空気の読めない野口。



「うるさいな、ほらそこに立て。お前1人で」


「1人は嫌やっ、アリスちゃんと写るんや!」


「しょうがないな。アリス、横に並んでやってくれ」


「わかったのよ」


「おおっ、アリスちゃんマジ天使」



というわけでカメラを構える。アリスを中心にして、野口が見切れるようにして撮ってやる。これでこいつも本望だろう。



「じゃあいくぞ、チーズって言え」


「「チーズ」」



というわけで一仕事終えたので、このまま南東にあるパムッカレ向かって道沿いに歩いていく。しばらく歩くと白い石灰岩に覆われた台地が見えるようになってくる。


パムッカレは直訳すれば『綿の城』という意味を持つ美しい風景が有名である世界遺産である。そうしてたどり着いたその場所は、一言で言えば『残念』であった。



「汚れているのよ」


「イメージとは違うっスね」



雪が降り積もったような純白の観光用の写真の姿はそこには無く、黄ばみ黒ずんだ、乾いた岩棚がそこにあった。後で聞いた話だと、温泉の乱開発のせいで湯量が減り、一部にしか湯を流していないそうな。


とはいえ、しばらく進むと黒ずみのない白い光景が広がる観光スポットにたどり着く。



「綺麗なのよ」


「せやな、これは一見の価値はあんな」



パムッカレの見せ場は丘を覆う純白の石灰の棚と、そこを流れる温泉、そして棚が作り出すプールだ。純白の棚田と表現する他なく、白に覆われた棚と、空色の浅いプールが段丘となっている姿は神秘的とも言える。


一部のエリアは立ち入ることが出来るようで、裸足になって白の世界に踏み出す。弱酸性の温泉が石灰岩を溶かし、湧き出て、石灰分を沈殿させることで、長い年月をかけて出来上がった絶景である。それはどこか、砂糖菓子やショートケーキのような純白の菓子を思わせる。


アリスは楽しそうに石灰棚の上を歩いていく。野口と川島もそれに続き、自分はその後ろをゆっくりとついて行く。



「アリス、滑るから足下に気をつけろ」


「分かってるのよ」


「のわっ」


「お前がこけてどうする」



川島が滑って転び、アリスはそんな川島を指さし腹を抱えて笑っていた。


一通り石灰棚を見て回り、記念写真などを撮った後、そういえばヒエラポリスに温泉のプールがあったことを思い出す。観光ガイドにも必ず載っている、遺跡が沈んだプールだ。


パムッカレの南側の段丘の少し上に温泉プールがある。プールを見るだけなら無料で、アリスたちと一緒にプールを見て回る。


空の色を映すプールは透き通った青色で、その水底には古代ローマの遺跡が沈んでいる。石柱が横倒しになって沈んでいたりするそれらは、どこか滅びの美学というか、不思議な美しさと魅力がある。



「プールには入れないの?」


「入れる、けど季節が良くない。冬だからな」


「ガイドブックにはプールで人が泳いでるのが写ってたっスよね」


「残念やな。(アリスたんの水着姿が見れなくて)ほんま残念やわ」


「……ふうん。ケンゴも入ってみたい?」


「まあ、ここまで来たんだから、出来ればの話だけどな。まあ、無理なものは無理-」


「大丈夫なのよ。今は『夏』なのよ」


「ん?」



次の瞬間、耳障りな耳鳴りが聞こえ、天上の太陽の天体運動が急速に加速し出す。太陽はすぐさま西に沈み、夕暮れに変わり、夜になり、月が輝き、星は瞬き、北極星を中心に星々の急速な運動が同心円の円弧を描く。しかしそれも一瞬。


加速はさらに増し昼と夜が交互に点滅するように移り変わり、周囲の草木は目視で分かるほどの成長をし、そしていつの間にか太陽は高く、夏の輝きを取り戻す。


思考が停止すする。見下ろせば冬の装いだった自分の服装はいつのまにか夏の軽装に変わっており、そしてさらに異常なのは、それを『異常』と認識していない自分に、耳鳴りが、耳鳴りが-



「あれ?」


「どうしたのよ、プールに入らないのよ?」


「あ、いや、そうだな」



遺跡の沈む温泉プールには多数の観光客が楽しげに入っていて、確か自分たちも水着を用意していたはずだ。ならば入らないでいるのももったいない気がする。





温泉プールで小一時間ほど遊んだ後は、カラハユットに向かう。そこで遅めの昼食を摂ることとする。


カラハユットはひなびた小さな温泉街で、外国人にもあまり知られていないマイナーな場所らしい。こんな所に来るのはトルコ人か、温泉好きの日本人ぐらいかもしれない。


街には温泉が湧き出ている源泉や温泉の噴水などがあり、パムッカレのものに似た小さな石灰棚が見られる場所がある。とはいえそれらはパムッカレにような純白ではなく赤褐色で、これは温泉の成分に鉄分が多く含まれているからだ。



「けっこう熱いっスよこれ」


「お、ほんまや。パムッカレのはぬるかったのにな」



見てみると源泉の周りには湯を飲む人だかりがあり、話を聞いてみると体に良いとのこと。すくって飲んでみると鉄サビの味が口に広がる。錆びた水道水のあれである。



「おいしいの?」


「飲んでみるか?」



そう言うと、アリスは周りと同じように温泉をすくって飲み、



「……、うえ、美味しくないのよ」


「だろう」



源泉の近くには浅いお湯がプールになっている場所があり、そこは足湯代わりのようで、トルコ人たちが裸足になって湯を満喫している。それに倣い、自分たちも裸足になってお湯につかる。


アリスが川島や野口と遊んでいるのを横目に、自分は岩場に腰を下ろしそれを眺める。そうしていると、トルコ人の男性が隣に座り、挨拶を交わし、何処から来たのかなどの世話話などをする。


その後、ペンションに戻る。そうして一度、一服しようとしたときに部屋割りでもめることとなった。野口はアリスと一緒の部屋になると言ってきかず、自分と川島をドン引きさせる。


犯罪者を身近から出すことは出来ないので、変態ロリコンのこの主張は断固として認めるわけにはいかず、ペンションのオーナーに話を付けると、何故か自分とアリスが同じ部屋に泊まることとなった。どうしてこうなった。



「アリス、俺と一緒の部屋でいいのか? 個室にしてもいいぞ」


「大丈夫なのよ。ケンゴは気にしすぎなのよ」


「そ、そうか」



考えすぎだっただろうか? アリスはまだ9歳とのことなので、そういう気配りはまだ早かったのかもしれない。そう思い、夕食前にひとっ風呂入ろうということを他2人と話していたので、そのことをアリスに伝える。



「私は後で入るのよ」


「そうか、じゃあ、後でな」



そういうことなので着替えなどを持ち、野口達の部屋に向かう。風呂、特に温泉は非常に久しぶりなので期待せざるをえない。そうして私は部屋を出る。



「本当に暢気なヒトたちなのよ」



部屋を出た後、アリスが何かをつぶやいたような、そんな気がした。







<鏡像:levo-rotatory>




「ねぇナナミ、あっちに行くの」


「うん、アリスちゃん」



木村洋一が妻とともにラーメン屋台で昼食を食べていた時、林先生と『アリス』という超常的な存在について話していた時、その少女は現れた。名前をアリスという、外国人の少女。奇しくも同じ名前の少女の話をしていたので、どうやら勘違いしたらしい。


そして、彼女は同い歳ぐらいである七海、洋一の幼な妻、おさなづまである、と意気投合したらしく、少しばかり引っ込み思案な七海を引っ張って市場の中を物色していく。


木村洋一としては非常に可愛らしい金髪の少女と言う存在を見ることが出来るという、目の保養になり、少し、というか結構、喜んでいる。



「ナナミはどうしてヨーイチと結婚したの? 何かきっかけとかあったりするの?」


「えっとね、言っていいのかな? アリスちゃん、ちょっと耳を貸して」



七海はアリスを呼んで耳元でささやくように何かを話す。一方アリスは好奇心いっぱいにそれを聞いて、頷いたり、「うそっ、本当なの?」など言いながらそれに付き合う。



「だからね、まだ結婚して1年もたってないんだ」


「新婚さんなの」


「うん」



木村洋一がこの世界に転生したのは2年前だ。前の世界では一応今と同じような職種につき、同じような肩書を得ていた。金銭的には余裕があり、社会的地位も安定していたが、彼は独身だった。


彼は異常性愛者だった。理由はわからないが、彼は幼い少女しか愛せなかった。筋金入りのロリコンであったのだ。しかし、彼はそれが一般的に異常であり、それが表沙汰になれば身の破滅に繋がることを理解していた。それぐらいの分別はあったのである。


だから、母親に早く身を固めるようにせっつかれ、仕方がなくお見合いをして、適当な相手と結婚した。結婚すること自体は簡単だった。何しろ彼は金銭面、社会的地位、そして容姿もそれなりという物件としては手堅い存在だったので、見合いでも相手の方が積極的だった。洋一は結婚相手の容姿を重視した。


それはもしかしたらという希望、もし娘が生まれたらという希望であったのだ。もちろん娘に手を出すことはできないが、可愛い娘が生まれたら存分に甘やかし、可愛がろう程度の希望にすがったのだ。


生まれたのは男子だった。しかも彼自身に似ているときた。常識的な数の子供を、2人をもうけたが、二人とも男の子だった。妻はそれ以上の子を望まず、彼はそれを受け入れ、希望は諦観に変わった。


だからだろうか。彼が家族に愛情を注げなかったのは。彼と妻との関係は冷却し、息子たちには興味を持てなかった。家庭には彼の居場所ではなく、かといって仕事に逃げるほどには彼はワーキングホリックにはなり切れなかった。


そうして迎えた破局は…、全ては彼自身の小心が招いた事だったが…。木村洋一は首を横に振る。全ては終わったことであり、彼には今、この世界があるからだ。



「アリスちゃんは好きな人はいるの?」


「うーん、そう、お父さんなの」


「そっか」


「ナナミのお父さんはどうなの?」


「死んじゃった」


「そうなの。ごめんなさいなの」


「ううん、いいよ別に。今は洋一さんがいるから」



ふと洋一は思う。アリス、彼女の保護者はどこなのか。七海と意気投合したが、彼女は迷子なのではないかと、洋一はその可能性に気づく。



「アリスちゃんでいいかな、君のお父さんはどこに?」


「ここにはいないの」


「ん? ここには誰ときたんだい?」


「アリスは一人で来たの」



どういうことだろうか? 市場は確かに子供にとっても魅力的ではあるが、保護者無しに来て良い場所とは言い難い。犯罪に巻き込まれる可能性もあるし、すこし不用心ではないかと洋一は思う。



「七海、どう思う?」


「ん…、アリスちゃん、他にお友達と一緒とかじゃないんだよね?」


「一人なの。おかしいの?」


「いや、しかし…」



黄金の瞳が木村洋一を見つめる。まるで宝石のような瞳。まるで万華鏡のように、万華鏡のように? その時、洋一は不快な耳鳴りを聞いたような気がして、



「まあ、問題は無いか」


「そうだよね」


「そうなの」



まあ、特に問題は無いだろうと、洋一は判断した。



「ちょろいの」


「え、何か言ったアリスちゃん?」


「うんん、何でもないの」


「そっか」


「そうなの」



そうして再び市場の散策を始める。今度は本が並ぶエリアに入りこむ。古書や自費出版物、雑誌、同人誌などが並ぶ。娯楽の乏しいこの世界で、これらは必要不可欠とも言えるだろう。また、



「ナナミ、これ何なの?」


「え? ええと、ええと、な、何だろうね?」


「はいストップ。子供が見てはいけません」



子供が見てはいけないものも少なからず出回っているのもまた事実である。二人には画集とか、童話ものが並ぶエリアが相応しく、洋一は二人をそういうものを扱う出店に誘導する。



「この絵、綺麗」


「どれ、あ、本当なの」


「気に入ったのかい?」



3人が歩いていた時、ふと立ち寄ったのが絵を売る出店だった。幻想的な絵で、光と影、色彩の表現が見事な、どこか印象派を思わせる絵が数多く並べてある。



「一枚買うかい?」


「いいの、アナタ?」


「ああ、僕もいいと思うよ。ご主人、この絵を買いたいんだが」


「ああ、それか。1万円だ」


「じゃあ」



洋一は財布から一万円札を抜き、主人に渡す。主人はどこか視点が定まらないというか、ふわふわしているというか、そんな感じの若い男性であった。



「しかし、幻想的な絵が多いね」


「ああ、こいつをやると、インスピレーションがね」



そういって、男は煙草のような物を取り出す。おそらくは大麻だろう。この世界では、大麻やLSDは合法的に購入できるようになっている。覚醒剤やヘロインは一応取り締まられているという。違いは何なのか洋一も良く分かっていない。



「兄さんも一本どうだい?」


「いや、遠慮しておく。煙草の類は苦手なんだ」



そうして、色々な店を回っていると、時刻は夕方に。



「そろそろ引き上げるか」


「はい。アリスちゃんはどうするの?」


「ん、じゃあ、途中まで一緒に帰るの」



そういうわけで三人は帰途に就く。街は夕焼けで赤く染まっていた。




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