第8章~きっと夏休み~
時は昭和五十八年四月一日、
昭吾は無事、神戸市に本社がある飲食業界に就いた。
職場は、広島市の平和公園近く。
自宅から国鉄と市電を乗り継いで、
一時間かけて通勤。
毎日が勉強。
包丁さえ握った事がない昭吾の指は、
日に日に傷だらけ。
洗剤による手あれ、
学ぶ為の残業。
先輩たちの手荒い洗礼…。
半月就いただけで気が参りそうになる。
そんな昭吾を、遠く離れた桃子が励ましてくれる。
「頑張っていれば、きっと夢が叶う。」
「ガンバレ、侵入社員昭吾くん。」
桃子がくれた言葉の中で、
昭吾にとって一番嬉しい一言だった。
だけど昭吾から、ペンを取る事はなかった。
桃子からの励ましは、凄く嬉しい。
たが、毎日始発終電の日々は、
昭吾のプライベートを奪っていた。
ゴールデンウイーク過ぎた五月中頃、
新入社員、昭吾は初めての大失敗を犯した。
仕入れの単位を間違えてしまったのだ。
社内で孤立する昭吾。
学ぶ為の残業をしなくなり、
すっかり及び腰になってしまったのだ。
早く帰宅していたので、
久々ペンを取った。
桃子に、弱腰な文章を書き始めた。
そして、文末に一言、今の心境を付け加えた。
「せめて今、桃子の声が聞きたい。」と。
毎日、出勤するのが辛い。
そんな日々が、一週間ほど続いたある日の事、
帰宅すると、母が一言。
「東京の桃子ちゃんから電話があったよ。
また後でかけますだって。」
桃子は昭吾を励まそうと、
電話をくれたのだ。
夕食を食べていたら、
再び電話のベルが鳴る。
昭吾は、心臓が張り裂けそうな感情を抑えつつ電話に出た。
「モシモシ、」
「モシモシ昭吾くん?桃子だよ。」
カセットテープの声とは違い、飾らない桃子の声。
「昭吾くん、五月病かな?」
「五月病?何それ?」
「心の病だよ、ママが言ってた。」
自分の存在を、桃子のお母さんが知っている。
緊張した。
しかし、これ以上桃子に心配はかけられない。
「五月病だったら、もう治っちゃったかな?」
「どうして?」
「だって、桃子と今日初めて、同じ時を過ごしているもん。」
「そうよね、初めてだね、話すの。
桃子も、昭吾くんの声が聞きたくって、
電話するきっかけを探していたの。」
昭吾は、率直な気持ちを伝えた。
「嬉しいよ、桃子。ありがとう。」
すると桃子が、
「いつか会いたいね。」
昭吾も、同じ気持ちだ。
「そうだね、いつになったら会えるかな?」
「夏休みに昭吾くん、東京へ来れない?」
「先輩に夏季休暇の予定を聞いてみるよ。」
旅費の心配があったが、感情が優先され、
話しの流れに乗った。
その後、毎週水曜日は、電話で会話する事を決めた二人。
「じゃあ、おやすみなさい。」
「おやすみ。」
十分あまりの、二人だけの時間だった。
昭吾はその後元気を取り戻し、
失敗を気合いで穴埋めする事が出来、
先輩たちからの信頼度が向上した。
毎週水曜日の電話のパワーは、
どんなビタミン剤よりも効いた。
六月下旬、
松本ちあきが四枚目のアルバムを出した日が水曜日。
二人の話題は当然、このアルバムだった。
「私ね、二曲目の『きっと夏休み』が好きかな?
昭吾くんが東京に来てくれそうで、」
「いい歌だよね、可愛い歌詞で…」
「私、もう鼻歌で歌ってるよ。」
「もう覚えたの?」
「うん、学校帰りにレコード屋さんに寄って、
それからはリピートで聴いているの。」
帰宅して間もない昭吾は、
まだじっくり聴いていない。
確かに、桃子の気持ちを、ちあきが歌っているようだ。
電話を切った昭吾も、桃子と同じように、
『きっと夏休み』をリピートで聴き始めた。
無性に、桃子に会いたくなり、
子守歌がわりして眠りについた。
次の朝、始発電車で広島駅に降り立った昭吾は偶然、
駅構内隣接している旅行会社のパンフレットに目をやった。
それは、
広島~東京往復九千九百円(往復)
八月二十六日夜、出発、
翌朝十時十分、東京駅着。
東京滞在時間は約十二時間、車中二泊。
『フリータイムin原宿』という、
下関~東京間に、日帰り臨時列車を走らせるプランだ。
「これなら、行ける。」
昭吾は先輩に、夏休みを打診するために、
パンフレットを一枚拝借した。
『きっと夏休み』
市電の中、ウォークマンで聴き始めた昭吾は、
心の中でつぶやいた。
「待っててくれ、桃子。」




