日本でただ一つの病院
本作は、私が埼玉県川越市にある総合病院、帯津三敬病院で2007年から2017年までの10年間、鍼灸師として働いた経験をもとに書いています。
エッセイという形式で書いてはおりますが、小説として読んでくださればと思います。
と、申しますのも、私たち鍼灸師にも生意気に守秘義務というものがありまして、職業上知り得た事実を口外することができないからです。
そのため私が病院で働いた10年間に体験した様々な生と死を巡る出来事をここに書くことは、法律に違反する恐れがあります。
もちろん登場する人物のプライバシーには最大限の配慮をしたことは言うまでもありません。また本作の目的は法を犯し、私と関わった人を不快にすることでもありません。
そこで念のため、どうぞ本作をエッセイのようなフィクションとしてお読みくだされば幸いです。
そんなに法律違反が怖いなら、最初から書かなければいいじゃないかと思われるかもしれません。
それでも私にはこのエッセイで書きたいことがあります。
たとえ法に抵触しても伝えたいことがあります。
それは希望の大切さです。
当時、帯津病院には全国から末期がんの患者さんが集まってきていました。
私が、死を宣告されたこれらの人たちから学んだことは、たとえ明日死ぬと分かっていても今日を生きるためには希望が絶対に必要だということです。
だから人は何があっても人から希望を奪ってはいけない。
それを伝えたくてこのエッセイ形式の小説を書くことにしました。
きっかけは母のがんでした。
母が検査入院していた都内の病院から呼び出され、担当医から母が末期の肺がんで、余命は3ヶ月。抗がん剤も手術も放射線も余命をほんの少し伸ばすだけで、根本的な治療法はもはや何も残されていないと深刻な顔で告げられた時、私は当時医療については完全なド素人だった上に、まだ三十代と若く、愚かにも人類の叡智を頭から信頼しきっていたこともあって、たとえ現代医学がダメでも、たとえば東洋医学とかアーユルベーダとか、地球上いたるところに存在する古今東西の人類の産み出した医学や治療法、健康法を組み合わせて駆使すれば、なんとか母の病気も治るのではと楽観的に考えていたのを覚えています。
ところが、担当医は本当に申し訳なさそうな顔で、病院には西洋医学の一種類しかない。他の医学は知らない。つまり治療法としては抗がん剤と手術と放射線の3種のみで、それらはもはや母のがんを消すには……とうつむきました。
本屋へ行けば、世界中の健康法や医学の本が並んでいるというのに、西洋現代医学しか勉強していな医者や看護師は少し不勉強のような気がしました。そうは言っても母の余命はもう3ヶ月しかありません。日本の医学の在り方について文句を言っている時間的余裕はもうありません。文句を言っているうちにも刻一刻と母の命の火は燃え尽きようとしています。急がねば。
もはやこうなったら自分自身で世界中の医療や健康法を勉強し、身につけ、母の病気を治し健康になって長生きしてもらうしかないと、当時立川にあった整体学校の門を叩きました。それが私が鍼灸師になったきっかけです。
まあ運が良かったと思います。
その頃私はフリーターで定職にもつかず、ただ楽しいからという理由だけで特に目的もなく合気道の稽古ばかりをやっていました。そのおかげもあって合気道は全国大会で三位入賞するところまでいきましたが、それだけのことです。
合気道は私に一円の収入ももたらさず未来への展望も開いてはくれませんでしたが、こうしていざとなったときにようやく合気道が役に立ってくれました。合気道という武道の性質上、道場にはカイロプラクティックやオステオパシー、マッサージやリフレクソロジーなど手を使った代替療法を勉強している人が何人かいました。なので立川に整体学校を見つけるのもそれほど探し回る必要はなかったのです。
さて、話はいったん横道にそれます。
現代西洋医学だけではなく人類が長い歴史の中で生み出した東洋医学やアーユルベーダその他古今東西のありとあらゆる治療法を駆使して、末期がんのような治癒の難しい病気と向き合おうと考えたのはこの国で私が最初ではありません。
少なくとももう一人、先人がおりました。
埼玉県は川越市、関東平野の田んぼの真ん中に帯津三敬病院を作ったO先生がその人で、O先生は日本で一番偏差値の高い国立大学の医学部を出て、医師になると同大学の大学病院に勤務し外科部長まで務めた方です。
先生は、どんなに完璧に手術をしても患者さんががんを再発させて病院に戻ってきてしまうことに西洋医学の限界を感じ、西洋医学以外の世界の医学、先生の場合は特に当時針麻酔で世界を驚かしていた中国の医学に新しい可能性を求めて東京を去りご自分の出身地の川越に帯津三敬病院を作りました。
私の調べた限り、現代西洋医学に他の民間療法や代替療法を総合的に取り入れた病院は日本ではこの帯津三敬病院しかありません。
「いやそんなことはない。日本には他にも民間療法や代替療法を扱っている病院がある」と主張する人がいるのは知っています。ただ、あえて反論させてもらいますと、それらの病院は、私の個人的な意見を言わせていただけるなら、ほとんどみんな金儲け主義の病院で、患者の健康よりも自分の財布が重くなることを大切にしている人が経営している病院です。のように見えます。ごめんなさい。
O先生は代替療法や民間療法はまだ効果が未確定だと言って、帯津病院で提供されている代替療法はほぼすべて実費をいただくだけか無料になっていました。
私が帯津病院で仕事をしている時も、帯津病院に不満を感じた患者さんから「他にも代替療法を取り入れている病院はないか?」としょっちゅう聞かれました。実は当時から今に至るまで私もそんな病院を他にずっと探していますが、まだ見つかっていません。あまりもないので最近は日本にはないのではないかと思い始めています。
金儲けのためではなく患者さんのために代替療法を取り入れている病院がこの国に帯津病院以外にあれば、私も是非とも知りたいと思っています。
話をもとに戻します。
母は余命3ヶ月と言われてから3年ののち、静かに息を引き取りました。
私は、その3年の間に母の命を救うため必死になって身につけた数多くの民間療法や代替療法とペラペラ紙の鍼灸師の免許を携え、志を同じくするO先生を帯津病院に訪ねました。O先生は快く私を迎え入れてくださり、晴れて病院の鍼灸師として採用されることになりました。
ただしすぐに問題が発生しました。
鍼灸師として採用されたと思っていたのは私とO先生だけで、事務長他病院スタッフは私をリハビリスタッフとして採用したと思っていました。
そのため、働き始めてしばらくの間私は鍼を持たせてもらえず、リハビリスタッフとして働く羽目になったのですが、一度も勉強したことがなくまた興味もないリハビリ業務をやることに、やがて我慢ができなくなり、患者さんに対しても申し訳ないこともあって、勤務を始めて半年ほど経った頃、事務長に文句を言いました。ここで初めて西洋医学に文句を言ったわけです。
私の文句は功を奏し、ようやく病院の患者さんに鍼灸その他代替療法を施術させてもらことになりました。こうして以後10年にわたって帯津病院で働くことになった次第です。
次回は、最初の患者さんについて書く予定です。




