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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

『小説家になろう』公式企画

雲の帰る山

作者: 敷知遠江守

※この話は地震および洪水の描写を含みます。

もし被災者の方でそういった描写が苦手な方は大変お手数ですが、ブラウザバックをお願いいたします。

「和尚様、白川(しらかわ)帰雲(かえりぐも)城から使者が参っております」


 小坊主が襖を開け頭を下げて報告した。


 和尚は毎日の日課としている写経の途中であった。

残りは二割ほど。

できる事なら残り二割を書き終えてから応接したい所である。

だが帰雲城といえば殿の本城、そこからの使者となれば早急の対応をせねばならない。


 静かに硯に筆を置き、和尚は膝に手を置き立ち上がった。

立ち上がって腰をぽんぽんと叩く。


 ふと窓から外を見ると、まだ陽が高いというにほんのりと空が赤い。

高く澄んだ空に細い雲がたなびいている。

その雲が流れる先、帰雲山に城がそびえ立っているのが見える。


「もう神無月だというに、なんという暑さよ。彼岸はとうに過ぎたというに……例年であればもう雪が舞う季節だろうになあ。これは来年の米は駄目かもしれぬな」


 使者の方がお待ちですと指摘する小坊主に苦笑いし、和尚は控えの間へと向かった。




「おお、誰かと思えば川尻殿ではございませぬか。いかがされたのです?」


 城からの使者というのは川尻主税助(ちからのすけ)であった。

川尻は和尚が寺を構えている椿原(つばきはら)村の領主である。

困った事があれば遠慮なく訪ねてまいり、和尚も特にそれを面倒とも思わない。

不作ともなれば嘆願して備蓄米を融通してもらったりという事もある。

そんな間柄である。


 確か漏れ聞いたところでは佐々内蔵助(くらのすけ)様に従って越中に遠征しているという事であったが、はて、いつ飛騨に戻ってきたのやら。


「実はな和尚、当家は羽柴筑前殿に降る事になったのだ」


 つい先日まで殿は越中に遠征していた。

その空き家となった白川に羽柴筑前の配下の金森五郎八(ごろはち)という者が攻めてきた。

金森軍に囲まれた向牧戸(むかいまきど)城は必死に抵抗。

結果的に落城はしなかった。

だが城主である尾上玄蕃(げんば)が金森の説得に応じ城を開城してしまったのだった。


 向牧戸城は南方からの侵攻を防ぐ最重要拠点であり、そこが陥落してしまった事で金森軍は堂々と白川へ侵攻。

空き家同然の帰雲城を陥落させてしまったのだった。


「ところがな、この羽柴筑前なる者、まこと度量の広き者でな。言って我らは敵国だ。にも関わらず所領安堵(しょりょうあんど)を約してくれたそうなのだ」


 空き巣に所領を安堵されるとは、中々に奇妙(きみょう)奇天烈(きてれつ)な話ではあるが、何にしても大戦(おおいくさ)にならずに済んだ事は何とも喜ばしき事だろう。


「織田右府(ゆうふ)様があのような形でお倒れになって、これから先どうなってしまうのかと案じておったが、どうやらあの筑前殿がどうにか治めてしまいそうだな。内ケ島(うちがしま)の家はこれで安泰だ」


 豪快に笑う主税助に、それはようございましたなと和尚は微笑んだ。



 茶をずずとすすると、主税助はやっと訪ねてきた本題に入った。


「実はな和尚、来月暮れに殿が祝賀の宴を催す事にしたのだそうだ。そこで殿が実弟である和尚にも出席をと言ってきたのだ。その時になったら迎えに来る故、出立の準備をしておいてくれ」


 断ると後が怖いぞと言って主税助は笑った。

和尚もあな恐ろしやとお道化てみせたのだった。




 月が改まって霜月に入り暑さは一気に影を潜めた。

ぱらぱらと雪舞う朝もちらほらと出始めてはいる。

そんなある日の事であった。


 どん!

 がたがたがた……


 本堂で経を読んでいると、地からの突き上げがあり、本堂がゆらゆらと揺れた。

経を読んでいた小坊主たちが錯乱しきゃあきゃあと喚き声をあげる。


「皆、慌てるでない。すぐに収まる。それより早う寺中の蝋燭の火を消せ! 倒れたら大惨事ぞ」


 実際和尚の言うように揺れはすぐに収まった。

ところが、蝋燭の火の状態を見に向かった小坊主の一人が大慌てで戻ってきたのだった。


「お、和尚様あれを! 雲が! 雲が竜のようになって帰雲城の方に真っ直ぐ昇っています!」


 小坊主は慌てて言うのだが、和尚はそれを鼻で笑った。

落ち着き払って顎髭を撫でる。


「古来から竜が昇るは瑞兆(ずいちょう)と申すぞ。もしかしたら当家に何か良き事があるのやもしれぬ。例えば新たに大きな金山が見つかるとかな。そうなれば寄進(きしん)がいただけるやもしれぬ。そうなったら新たなお堂を建てようぞ」


 そうでしたかと小坊主はほっと胸を撫でおろす。

だがそうは言ったものの、和尚も内心では何とも不吉なと感じていたのだった。

確かに竜は瑞兆ではある。

だがその一方で水害の象徴でもある。

もしかしたら洪水が起こるやもしれない。



 それからというもの、椿原村近辺では昼に夜にと頻繁に小さな地震が起こるようになった。



 こうして月の暮れを迎えた。

帰雲城へ向かう日まであと五日と迫った日の事であった。

ゆうげの炊事に小坊主たちが走り回っていると、これまでにない一層大きな地震が発生したのだった。


 和尚は厨房へ行き、すぐに火を消せと命じた。

とにかく水をかけて火を消せと。

厨房の火を全て消した小坊主たちは、寺中の蝋燭の火を消しに走った。

その中の一人が真っ青な顔で戻ってきたのだった。


「和尚様! た、た、大変です! 本堂に! 本堂にお越しください!」


 小坊主と共に大慌てで本堂に向かった和尚が見たのは、揺れによって首が落ちた憐れな本尊の姿であった。

落ちた首は本尊の手の上に転がっている。

何とも不気味な姿に和尚も絶句してしまった。


「これは……祝賀には行くなという御仏からのお達しなのかもしれぬなあ」


 和尚は小坊主に、ひとっ走りして大工の茂助を呼んでくれと命じた。



 暫くしてやってきた茂助が状態を確認すると、本尊の頭の上部が割れてしまっている事が発覚。

その部分を彫り直す必要があるので、修理には少し時間がかかるという事であった。


「これから師走に入るでな。本尊がこのような状態では年が越せぬ。だから何とか早めに頼むよ」


 そう言って和尚は頼み込んだ。

他ならぬ和尚の頼みだから、村の者たちも本尊の為ならと納得してくれるだろうと茂助は渋々本尊の修理を最優先にしてくれたのだった。



 こうして祝賀の前々日となった。

主税助が和尚を迎えに寺を訪れたのだが、さすがに無理を言って本尊を直してもらっているのに、拙僧(せっそう)が宴にのこのこ出かけるわけにはいかないと出席を断る事になった。

兄上には謝っておいてくれと和尚は申し訳なさそうに言った。

主税助も事情が事情だから殿も何も言いますまいと言って白川へと出立したのだった。




 その日の夜であった。

もう師走に入ろうというに妙に蒸し暑い気がする。

どうにも寝苦しさを感じ和尚は寝床を出た。


 水を飲もうと井戸から桶を上げたのだがいつもより水が少ない気がする。

夜風に当たろうと外に出ると、どこからともなく厠のような匂いが漂ってくる。


 何かがおかしい。

そう思った時であった。


 ずどん!

がたがたがたがたがたがた……


 和尚は思わず腰を抜かしてしりもちをついた。

立ち上がろうとするも、あまりの揺れに立ち上がれない。


 がたがたがたがたがたがた……


 なんじゃこれは?

地が! 地がひっくり返る!


 みしみし!

ずん!


 爆音と共にお堂の一つがぺしゃんこに潰れてしまった。


 小坊主たちが這いながら寝室から逃げ出して来た。

口々に和尚様と叫んでいる。


 徐々に徐々に揺れは収まっていった。


「皆無事か? 無事な者は今から読経するから本堂に参れ!」



 天井の板が落ちて怪我をしたとか、箪笥が倒れて怪我をしたといった者はいたが、幸いにも小坊主たちに大事は無かった。


 そこから和尚と小坊主たちは朝まで首の落ちた本尊を前に読経を続けた。




 空が白み始めると和尚は小坊主たちに炊き出しの準備をせよと命じた。

恐らく椿原村の者たちの中には大勢怪我人が出ているであろうから、まずは彼らに温かいものを食べてもらって落ちついてもらおう。


 和尚が思った通り、村人たちには大勢怪我人が出ていた。

中には山道の階段が昇れないという者もおり、小坊主たちになんとか境内まで担いで来てもらった。


 その村人たちが奇妙な事を言い合っていた。

村人たちは庄川という川を挟んで寺とは反対側に住んでいる。

そこには一本の橋がかかっていたはずなのだが、地震で落ちてしまっていたのだそうだ。


 はて、ではそなたたちはどうやってここに来たのか?

和尚の疑問に村人たちは庄川の水が無くなっており、普通に歩いてここまで来れたと言う。


 村人がそんな話をしていると、ぽつりぽつりと雨が降ってきたのだった。


「まずい! それはまずいぞ! 皆の者、至急村に残った者たちをこの寺まで連れて参れ! 大至急だ!」


 村人の中でも比較的元気な者が急いで村に戻り、残った者たちを全員寺へと避難させた。


 純粋に寺なら雨露がしのげる。

村人たちはその程度に考えていた。



 その日の夜であった。

またも大きな揺れが寺を襲った。


 揺れはそこそこの大きであったのだが、その後で不気味な地響きが鳴り続いた。


 ごごごごごごご……


 何事かと外に出た和尚が見たのは、恐らく庄川だと思わる川筋に尋常じゃない水量の茶色い水が濁流となって襲い来る姿であった。


 一瞬の出来事であった。

椿原村は寺だけを残し、その濁流に綺麗さっぱり飲み込まれてしまったのだった。



 村人たちは唖然としてしまった。

もしあのまま家にいたら今頃、そう言って泣き出す者もいた。

これからどうすれば良いのだと呆然となる者もいた。


「とにかく今は生き残った事に感謝し、御仏を拝もうではないか。明日の事は明日考えよう」




 こうして悪夢のような一日が終わった。



 翌朝、降りしきる雨はすっかり上がり、凛とした冷たい朝を迎えた。


 和尚は目を覚まし、顔を洗おうと井戸に向かうと、村人の中の朝の早い者が起きて顔を洗っていた。

その顔は不安で陰っており口数も極端に少なかった。


「和尚様……気のせいだろうか? 南の帰雲山に、お城が見えない気がするんだが?」


 村人の一人がそう言って帰雲山を指差した。


 和尚は愕然とした。

確かに城が無い。

本来城のあった場所が大きくえぐれて山肌が露出してしまっている。


 和尚は背中をぞくりとさせた。

今日、あの城にはほとんどの内ケ島の家の者が集っていたはず。

もしも……もしもその城が崩れてしまったのだとしたら……


 あの時、もしも本尊の首が落ちなかったら、今頃は自分もあそこに……



 空を見上げると、高い空に千切れた雲が連なるように帰雲城に向かって流れて行くのが見えた。

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余り日本史に詳しく無いので、寡聞にして存じませんでした。確かに祝宴に行けなかった人だっているわけで、それは、どんな些細な事でも、その人にとって分水嶺でしょう。 あと、土砂崩れで川が塞き止められたと覚…
[良い点] 一次史料を物語で補完し、人の目に触れられるようにするという、物書きにとってとても大事な仕事を見た気がします。ありがとうございました。
[良い点] ご本尊様が崩れて、それが天正地震の前触れだったとは。それにしても秀吉の権力猛烈さといい、当時の佐々成政、特に今でも目に見えて山奥の飛騨をいとも簡単に制圧してしまった金森長近は凄いなと思いま…
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