第3話 女子高生になった日
夕食のテーブルは俺一人だけだった。実際にはメイドの鈴花も居たが、使用人が同じテーブルで夕食を一緒に食べたりはしない。
いくら金持ちと言っても、お城のような豪邸に大家族が住んでいる訳ではない。お抱えのシェフなど居る筈もなく、家事代行サービスの女性がやって来て夕食を作り、仕事が終わるとさっさと帰って行った。
そもそも、メイドが居ること自体不自然だ。雇い主である父親は仕事人間で、毎晩帰りが遅く帰って来ない日もあるそうだ。何のためのメイドなのか。
そんな父親に嫌気が差して、母親は男を作って出て行った。ネグレクト、いわゆる育児放棄も立派な虐待だ。人格分裂症を疑われたのは、そんな生い立ちからだろう。
だから、未亜のために鈴花を雇っているとしか思えない。メイドの格好をする必然性がどこにあるのかよく分からないが、機会があったら本人に聞いてみよう。
未亜は俺の行動については、あまり口出しをするつもりはないようだ。ただし、女性特有の問題については、きっちりとアドバイスをして来る。どうやら、本気で俺を身代わりにしたいらしい。
それは生きる気力がないというだけでなく、自分のせいで俺が死んでしまったという罪悪感もあるのだと思う。
(お風呂に入る時は、髪をまとめてヘアクリップでとめて)
「面倒くさっ!」
これでは、人格分裂症と大差はない。唯一楽しいと思えるのは、美少女の全裸が見られるということだ。ただし、見たところで興奮したりはしない。生理的な現象は、身体の方に依存しているようだ。
(髪はドライヤーで乾かして)
「面倒くさっ!」
こんな調子で、まともに生活できるのだろうか。
夜はパジャマに着替えた後も、靴下とスリッパを履いていた。男の体だった時はフローリングの床でも裸足で歩いていたのに、この体は足元が冷える。これが冷え症ってやつか。
寝る時は長い髪を束ねて、体の前に持って来る。いっそのことバッサリと切ってしまいたいところだが、いつか未亜が生きる気力を取り戻した時のために、現状はキープするべきだろう。
ドレッサーの前でそんなことをしていたら、ドアの向こう側に人の気配を感じた。耳が良いのか周囲が静寂なのか、人が廊下を歩いて来る微かな物音が聞こえたのだ。
鈴花かと思って待ち構えていたが、ドアをノックするでもなく、部屋に入って来るでもなく、暫くはそのままの状態が続いた。そして、今度は遠ざかって行く足音が聞こえた。
急いで俺は部屋の外に出ると、間接照明だけの薄暗い廊下を歩いて行くスーツ姿の男性の後ろ姿が見えた。未亜の父親だ。
「お父さん!」
未亜は俺には『お父様』という言い方をするのだが、それは第三者に話しをする場合だ。本人に対しては『お父さん』と言っているそうだ。
未亜と会話をすることが出来たお陰で、彼女の口調や言い回しは理解できた。言葉遣いは丁寧だが、日常的な会話では庶民と大差はない。それでも、たまに敬語になるのが彼女の話し方の特徴だ。きっと、他人との距離感が掴めなくて、言葉を選んでいるのだろう。
父親は立ち止まると、俺に背中を向けたまま顔だけ動かした。目が合うこともなく、横顔だけが見えている。
「心配掛けて、ごめんなさい。私はもう、大丈夫だから」
俺が三日間も目が覚めなかったのは、精神的な問題だと医者から診断されたらしい。多分、鈴花から目が覚めたという報告はあっただろう。
「未亜が無事なら、それでいい」
淡々とした口調でそう言うと、父親は前を向いてそのまま廊下を歩いて行った。
(心配なんかしてないわよ。お父様は世間体の方が大事なんだから)
その場で俺は、大きな溜め息をついた。本気でそう思っているのか、単なる嫌味なのか。とにかく、親子関係はあまり宜しくはないようだ。
俺は手すりに手を掛けて吹き抜けから一階を見下ろすと、父親がスーツの上着を脱いで、それを鈴花が受け取っている様子が見えた。
家に帰って来て真っ先に娘の顔を見ようとしたのに、部屋の前まで来て躊躇してしまった。実の親子なのに、どこか人間関係が希薄だ。それが自殺の原因だとは思わないが、誰かに相談は出来なかっのだろうか。
俺は部屋へ戻ると、照明をスモールランプにしてベッドへ飛び込んだ。
(明日から学校へ行くんだから、レクチャーしなきゃいけないことがあるんだけど)
「ごめん、暫く放っといてくれないか?」
俺の気持ちを察して未亜は黙ってくれた。彼女は今、どんな状態なんだろう。背後霊みたいなものだと言っていたから、見えないだけで未亜の姿をしているのだろうか。
もう、自分や両親とも別れを告げて、踏ん切りがついたつもりだった。でもやっぱり、骨箱に入った自分の体のことを思い出すと悲しくなって来る。どうして俺をそのまま昇天させてくれなかったんだと、未亜を恨みたくもなる。
俺の瞳から涙がこぼれると、未亜の声が一言だけ聞こえた。
(ごめんなさい…)
後悔するくらいなら、初めから助けたりはしない。俺は自分に、そう言い聞かせていた。
* * *
朝はいつも未亜が起きるという時間に目覚ましをセットしていた。朝のルーティーンは人それぞれ順番が違うだろう。生活習慣は未亜に合わせるしかない。
無駄に広いダイニングで、朝食は鈴花が用意してくれていた。パン食で、この程度のことは家事代行サービスを頼まなくてもやってくれる。
「お嬢様、今日はいつにも増して寝覚めが悪そうですね」
昨日に比べると幾分、穏やかな口調で鈴花が言った。未亜は低血圧なのか、頭の中がボーッとしてすっきりしない。冷え症だし、低血圧だし、男だった俺が味わったことのない不快感だ。
「鈴花さんに、お願いがあるんだけど」
「私に出来ることなら、何でも」
「私のことは、名前で呼んでくれない?」
「そ、それは…」
「焦るようなことじゃないでしょう」
既に父親は仕事へ行った様子で、家の中には俺と鈴花しか居ない。こんな生活をしているから、必然的に二人だけの時間が長くなる。
未亜の人格が変わったことを確信を持って指摘するくらいだから、鈴花は未亜に対して並々ならぬ親近感を持っているのだろう。それにしては、二人の間に距離を感じる。父親との関係もそうだが、未亜はあまり人付き合いが上手ではないように思える。
「それでは、未亜様とお呼びしてもよろしいですか?」
「様は要らないんだけど」
「使用人ですから、そこは譲れません」
「分かりました。では、それでお願いします」
「はい、未亜様」
鈴花は未亜の名前を呼んで、何となく嬉しそうだ。まずはこうやって、少しずつ距離を詰めて行くしかない。
朝食を食べ終わると、歯を磨いてから顔を洗う。鈴花がタオルを差し出してくれるところがメイドらしい。その後は、部屋へ戻って制服に着替えた。
駅で未亜を見掛けた時のように、横髪を片側だけサイドアップにする。女子なら普通に出来ることでも、俺にとっては一苦労だ。
サイドアップにする理由は、やはりノートを取る時に髪が邪魔になるらしい。片側だけというのも、単純に利き腕の側ということだ。几帳面なのかズボラなのか、よく分からない。
「もしも未亜のことが見えてたら、今の俺と同じ顔をしてるのかな…」
鏡の前で髪を結びながら、ふとそう思った。
(私には葉月の魂が見えてるから、同じじゃないけど)
「そうか、俺の本当の姿が見えてるのか…それは光栄だな」
(大丈夫?)
「ああ、今日から女子高生だ。気合を入れないとな」
時間になるまで身嗜みを整えてから、鞄を持って部屋を出て行った。一階では鈴花が出掛ける用意をして待ち構えている。有無を言わさず車で送るつもりだろうか。
鞄の持ち方まで未亜にアドバイスをされて、もう人格が変わったと疑う余地はない筈だ。
「顔が怖いんだけど…」
決意の現れなのか、鈴花はニコリともしていない。
「まさか電車で行きたいなどと仰らないとは思いますが、そのつもりでしたら私も同行させていただきます」
「車でお願いします…」
あの日、未亜は何と言って車を断ったんだろう。まあ、鈴花の態度から察すると、聞かない方が良いのかもしれない。
前日と同じように鈴花が黒塗りのセダンを運転し、俺が後部座席に座って学校へと向かった。
俺の家と未亜の家は思ったほど距離は離れていなかったが、学校へはそれなりに時間が掛かるようだ。車でなければ電車で移動するくらいだから、当然と言えば当然か。
三十分以上掛けて学校へ到着し、裏門へ車を着けた。正門は歩いて入るための門で、車で送り迎えをしてもらう生徒は裏門から出入りするそうだ。
もっと送り迎えの車で渋滞するかと思ったのだが、この車の他にもう一台見掛けただけだ。
高校生を車で送り迎えする理由なんて、暴漢対策か身代金目的で誘拐されるのを防ぐことくらいしか思い浮かばない。いくら名門校でも、そんな可能性が低いことにお金を掛けられる家庭は希少だということか。
「未亜様、お帰りはいつもの時間でよろしいですか?」
「はい、お願いします」
俺が自分でドアを開けて車を降りると、鈴花は窓越しに頭を下げてから車をUターンさせて、来た道を帰って行った。
初めて来る学校へ裏門から入ると、未亜の指示で校舎へと向かう。共学の筈だが、女子の多さに圧倒されてしまう。
元は女子校だったが、生徒数の減少により数年前に共学へと変更されたそうだ。そのため、未だに女子校のイメージが強く、男子の受験生が少ないということだ。
二階の教室へ辿り着く前に、廊下で女子生徒に声を掛けられた。
「桐生さん、心配したよ。電車に轢かれそうになったんだって?慣れないことするから」
(クラスメイトの東條夏海さんよ。お調子者だけど、悪い人じゃないと思う…)
「心配してくれたんだ。ありがとう」
そのまま二人で教室へ入ると、俺は自分の席へ着く。未亜の席は窓側の一番後ろだ。大して背も高くないのに、黒板が見にくいだろう。目は良いから大丈夫なのか?
一つ前の席に座っていた女子が振り向いて、俺に声を掛ける。
「未亜ちゃん、三日も休んで何やってたの?」
(藤森咲良さんよ。他人に興味がない人だから、ちゃんと説明しなくても大丈夫)
「ちょっとした事故に巻き込まれて…」
俺は愛想笑いをしながら、そう答えた。
何だろう、この薄っぺらい人間関係は…。俺が想像していた女子高生とは、まるで違っている。まずは、友達作りから始めた方が良さそうだ。