第2話 俺が死んだ日②
俺とメイドの女性は、黒塗りの乗用車で移動していた。リムジンのような対面シートの車ではなく、セダンタイプの車だ。
運転手も雇ってはいるが、父親の仕事のためだそうだ。こちらはメイドの女性が運転し、後部座席に俺が座っている。二人なら助手席に座りたいのに、使用人が運転している時は主人である俺が後部座席に座るものらしい。高級車は後部座席の方が乗り心地が良いという話しを聞いたことがある。
大して遠くもない距離で、わざわざ車を出すくらいだ。学校へ通うのに車で送り迎えしてもらっているという俺の考察も多分、合っているだろう。やはりあの時は、何かしらの事情があって電車に乗ることになったんだと思う。
「先方の名前を知らないのでは失礼ですから、お伝えしておきます。式神葉月、お嬢様と同い年です」
それは知っている。一応、俺は頷いたが運転をしているメイドの女性には見えていなかった。
「罵声を浴びせられるようなことはないと思いますが、何か言われても反論せずに我慢してください」
「どうして、そう言い切れるんですか?」
「はい?」
「罵声を浴びせられるのは覚悟の上です。どうして、そんなことはないと言い切れるんですか?」
「あまり言いたくはないのですが、旦那様が多額の示談金を渡されて、訴えたりしないよう誓約書を取り付けております。先方もこれ以上は、波風を立てたくないと思われますので」
「そういうことですか…」
さすがに金持ちのやることは違うようだ。俺の命をお金に替えたみたいで、あまり気分の良いものではない。多分、両親も同じ気持ちだろう。ただ、初めから訴えるつもりなどないから、素直にお金を受け取って誓約書にもサインをしたんだと思いたい。それで両親の暮らしが今よりも豊かになるのなら、良しとするべきか。
車が見慣れた風景の場所まで来ると、路肩に停車した。俺の自宅は一戸建てだが、高級車を駐車するほどのスペースはない。幹線道路から外れた住宅街なので、短時間なら路上駐車しても大丈夫だろう。
メイドの女性と共に、俺は車を降りた。彼女が玄関のチャイムを鳴らし、家族との交渉もやってくれる。
二人で玄関まで出て来た両親は、俺の顔を見て複雑な表情をしている。特に母親の方は、小刻みに震えて拳を握り締めている。
「あ、あなたのせいで葉月は…」
「よしなさい。この子は何も悪くないんだ」
これが両親との、今生での別れだと思うと悲しくなった。いっそのこと俺が葉月だと名乗ることが出来たら、どんなに良かったことか。でも、そんなことをしても馬鹿にしていると思われるだけだし、仮に信じたとしても元の体に戻って遺体になったのでは、余計に悲しくなるだけだ。
俺とメイドの女性は家の中に通されて、一番奥の部屋まで案内された。畳の部屋で床の間があり、そこには簡易的な祭壇が作られて、遺影と共に花が飾ってある。
遺影の前に正座して、俺は愕然となった。そこには骨箱が置いてあるのだ。
(間に合わなかった…)
俺の遺体は、もう火葬されてしまった。ならば、未亜はどうなったのか。俺の代わりに天国へ行ってしまったのだろうか。
焼香をしながら、俺の目には涙が溢れていた。俺の体が灰になったのを目の当たりにしたことと、未亜が俺の代わりに死んでしまったこと。そして何よりも、未亜の体がこういう悲しみに耐性を持っていないからだろう。次から次へと涙が溢れ出て来る。
後ろからメイドの女性が、俺の肩をそっと抱き締めた。
「お嬢様、これで失礼しましょう」
「ううっ…」
言葉にならずに、俺はただ頷いた。
肩を抱かれたまま立ち上がると、メイドの女性が両親に丁寧な挨拶をして、そのまま家を出て行こうとする。玄関先までは父親が付いて来て、
「もう、息子のことは忘れてください。あなたがいつまでも気に病んでいたら、葉月も浮かばれませんからね」
そう声を掛けられた。父親だって本当は辛い筈なのに、こんなに優しい言葉を掛けてくれる。短い間だったけれど、そんな両親の子供で俺は良かったと思う。
「あ、ありがとうございます…」
俺は深々と頭を下げると、後ろ髪を引かれるような思いで自分の家を後にした。これから俺は、どうすれば良いのだろうか。
車の後部座席に乗り込み、まだ枯れていない涙をハンカチで拭きながら、俺は途方に暮れていた。
未亜の自宅の方へ戻ると、部屋の前までメイドの女性が付いて来た。
「ちょっとお話しがあるんですが、よろしいでしょうか?」
「はい、構いませんけど」
未亜の部屋へ二人で入ると、メイドの女性は背中でドアを押さえるようにして立っていた。
「あなた、誰ですか?」
「えっ?」
「私が気付いていないとでも、お思いですか?その体は間違いなくお嬢様ですが、人格はまるで別人です。ショックな出来事があったから人格分裂症を発症したと考えられなくもありません。それならそれで、対応策を考える必要があります」
やはり未亜のことを何も知らない俺が、彼女に成り済ますのは無理があったようだ。本当のことを言えば、信じてもらえるのだろうか。それとも、人格分裂症で通した方が良いのだろうか。
人格分裂症は、幼少期に虐待を受けた場合に起こりやすい症状だ。子供は苦痛から逃れるために、俯瞰的に自分を見て別の人格を作り出してしまう。そう思わせるようなことが幼少期にあったのだろうか。
人格分裂症だと認めてしまったら、それはそれで問題がありそうだ。精神科でカウンセリングを受けさせられて、人格を統合することになるだろう。
統合しようにも、人格は一つしかない。延々とカウンセリングが続き、自分が桐生未亜だと刷り込まれることになるかもしれない。そうなったら俺は、桐生未亜として生涯を終えることになるだろう。
「思い過ごしじゃないですか?」
「それでは、私の名前をフルネームで言ってもらえますか?お嬢様なら知っている筈です」
人格分裂症でも、ある程度の記憶は共有している筈だ。別人格だとしても、身近なことなら答えられる可能性はある。それを答えたとしても、もっと細かいエピソードを追求して来るだろう。
そもそも俺はメイドの女性の名前を知らないから、答えることすら出来ない。いっそのこと悪霊に取り憑かれたことにして、霊媒師にでも祓ってもらおうか。そうしたら、この体から離れて天国へ行けるかもしれない。
その時、俺の頭の中で声が聞こえた。
(安座間鈴花よ)
「えっ?」
(この声はあなたにしか聞こえてないから、返事はしなくていいわ。これから私が言うことを、そのまま繰り返せばいいから)
その声には聞き覚えがある。俺自身が発している声と同じだ。実際には自分の声は他人が聞くのとは違って聞こえるのだが、その違いがあってなお同じ人物の声だということは分かる。
良かった。未亜はまだ、この世に存在している。そう思って、俺は未亜の声に従った。
「安座間鈴花さん、二十二歳。十六歳の時に両親を亡くされて、天涯孤独ですよね。初めてこの家に来た時に、私がメイドのコスプレしてるのって聞いたら、本物のメイドですよって答えてくれましたね」
初対面の時のやり取りは、本人しか知り得ない情報なのだろう。メイドの鈴花は、目を見開いた後に深々と頭を下げた。
「申し訳ありません。三日も意識が戻らなかったせいで、一時的に人が変わったように見えただけだと思います。今の話しは聞かなかったことにしてください」
「鈴花さんが私を心配して言ってくれたことだから、気にしていませんよ」
「あ、ありがとうございます」
「これからも気掛かりなことがあったら、遠慮せずに言ってくださいね」
「は、はい。では、失礼します」
ばつが悪かったのか、鈴花はすぐにドアを開けて部屋を出て行った。閉じたドアに俺は耳を付けて外の様子を窺う。足音が遠退いて行き、廊下には誰も居ないようだ。
「未亜だろう、ここに居るのか?」
(見えてないだけで、ずっと一緒に居たわ。背後霊みたいなものね)
「そうか、良かった。俺はてっきり、あっちの世界へ行ってしまったのかと思ったよ」
(ごめんなさい。誰かを巻き込むつもりなんてなかったの。だから電車がホームへ入って来るタイミングで線路に落ちたのに、まさか助けようとする人が居るなんて)
「それは、自分の意志で線路に落ちたってことか?」
未亜が電車に乗ることになったのは、何かしらの事情というよりは意図的にそうしたということなんだろう。理由を付けて車を断り、初めから電車に飛び込むつもりだったのだろうか。
(ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。お父様が世間体を気にする人だから、事故を装って死のうとしたの)
「それじゃ、あの時は意識はあったんだな」
(目の前で人が死んで、物凄くショックで、何故かあなたの体から魂が離れて昇天して行くのが見えたの。どうせ死ぬつもりだったから、私の体をあなたに譲るわって強く念じたら、こんなことになって)
「でも、俺の代わりに魂だけになっても未亜が昇天しなかったのは、この世に未練があったからなんじゃないのか?」
(あなたが私の代わりに生きて行けるように、この世にとどまっているだけよ。用が済んだら、昇天させてもらうから)
「俺はもう、死んでるんだ。思い残すことがないと言えば嘘になるけど、未亜を助けたことを後悔はしていない。そこに居るのなら俺と入れ替わって、天国へ行くのを見送ってくれないか」
(あなたは今、生きているでしょう。そして、これからも生きて行けるようにアドバイスはしてあげるわ。私があなたの人生を奪ってしまった代償として、私の人生を全てあなたにあげる)
駄目だ、完全に生きる気力を失っている。このままじゃ俺は天国へ行けないどころか、桐生未亜として生きて行かなければならなくなってしまう。
今の状態では未亜と無理矢理入れ替わっても、また自殺をするだけだろう。少なくとも彼女が自分から生きていたいと思わなければ、俺はこの体を離れて天国へ行くことが出来ない。
そうだ。今の俺に出来ることは、未亜が生きていたいと思えるようにすること。その時こそ未亜はこの体に戻って、俺は天国へと旅立つことになるだろう。