第14話 人間関係を考え直す日
母親の会社から自宅へ帰るのに、電車の中では東條さんと手を繋いでいた。それでも調子が悪くて、途中で電車を降りて残りはタクシーで帰って来た。東條さんは俺を自宅まで送り届けるためだけにタクシーに同乗して、到着後はそこからまた電車に乗って帰って行った。
一人で行動しないことは父親が出した条件でPTSDとは関係ないのだが、一人になると未亜はどこか不安を感じてしまうようだ。実質的には俺と未亜の二人なのに、本当の意味で一人になった時に大丈夫なのかと俺の方が不安になる。
自宅の前でタクシーを降りたので、殆ど歩かずに帰って来た。
鈴花は休みでも特に出掛ける用事はなかったようで、普通に私服を着てリビングで寛いでいた。
「未亜様、大丈夫でしたか?」
「友達と一緒だったから、大丈夫」
鈴花は一度立ち上がったが、俺もソファーに腰を下ろしたので、またすぐに座った。
「モデルの報酬で貰った洋服だけど、鈴花さんに似合うのをお母様が選んでくれたから、良かったら着てくれる?」
そう言って梱包用の紙袋を渡すと、鈴花はその場で中から洋服を取り出して広げて見ていた。以前にファッションビルで買った物に比べると大人しいデザインなので、鈴花も嬉しそうだ。
「私が頂いてもよろしいんですか?」
「勿論。鈴花さんのために選んでもらったんだから」
「ありがとうございます」
「それじゃ、今日はゆっくり休んでて」
俺はリビングを後にすると、階段を上って未亜の部屋へ行く。そのまま部屋でベッドに大の字で寝そべると、すぐに未亜の小言が飛んで来た。
(着替えなさいよ。シワになるでしょう)
「はいはい」
上半身を起こしてベッドに座った状態になると、斜め掛けにしたウエストバッグの中からスマホを取り出した。バイブにしていたので着信があったことには気付いていたが、帰ってから確認すれば良いと思っていた。そしてウエストバッグの方は、取り敢えずベッドの上に置いておく。
ショートメッセージが来ていたので開いてみると、それは日向からだった。
クラスメイトで未亜の連絡先を知っている者は、それほど多くはない。東條さんに断られても、虱潰しに聞いて行ったということだろう。心臓に毛が生えているのか、未亜の顔が札束に見えるのか。
その内容は、大したことではない。久し振りに会いたいね。その程度のことだ。
「未亜はどうしたい?」
(もう、関わりたくない…)
秘書の斉藤さんとしては、連絡が来た時点でアウトだろう。あの人なら、もう次の手は用意してあると思う。
この先も俺が未亜として生きて行くなら、無視し続けた方がお互いのためだ。しかし、未亜自身がこれから未亜として生きて行くためには、きっちりと決着をつけた方が良いのかもしれない。
その前に一つ、やっておかなければならないことを思い付いた。未亜のことを助けてくれる人は現状でも居るのだが、特に事件性のない日常的なことでも頼れる人物は必要だろう。
ベッドの上に置いたウエストバッグを手に取りスマホを仕舞うと、それを再び斜め掛けにした。
(着替えるんじゃなかったの?)
「急用を思い出した」
俺は立ち上がって部屋を出て行くと、階段を下りてリビングへ向かった。しかし、そこに鈴花の姿はない。
自分の部屋に居るのだろうと思い、今度は鈴花の部屋の前まで来る。使用人としては、一階に部屋があった方が動線が楽なんだそうだ。
ドアをノックすると返事が聞こえたので、少し開けて中を覗き込んだ。先程、俺が渡した洋服をハンガーに掛けて、クローゼットに仕舞っているところだった。
「早急に買いたい物があるから、休みのところ申し訳ないけど、ちょっとだけ車を出してくれない?」
「気を使わなくても大丈夫ですよ。どうせ暇ですから」
ちょっとだけと言ったから、鈴花はそのままの服装で部屋を出て来た。これも鈴花にとっては、プライベートなことなんだろう。
* * *
学校で広瀬君に会うのは、一日二回になった。登校時に裏門で車を降りてから、そのまま待っていると彼と鉢合わせをする。そして、昼休みに屋上にある塔屋の上で昼食を食べるために梯子を登ると大概、広瀬君は先に来てパンを食べている。
朝に裏門で会った時に、今日はパンを買わずに屋上へ来るよう言っておいたので、広瀬君は何かを期待した様子で塔屋の上で待っていた。
「はいこれ。前は量が少なかったみたいだから、今度は男子用のお弁当箱を用意したから」
俺はトートバッグの中から弁当箱を二つ取り出して、大きい方を差し出した。座っていた広瀬君は、それを頭の上で受け取る。
男子高校生の食欲を満たすような弁当箱なんて家になかったから昨日、鈴花に頼んで急遽買いに行った物だ。
未亜には盛大に茶化されたが、別に俺が広瀬君に気がある訳じゃない。本来なら未亜がやるべきことを、代わりに俺がやっているだけだ。
広瀬君は期待通りの物が手に入って嬉しそうだが、すぐには弁当に手を付けようとはしない。
「どういう風の吹き回し…いや、気持ちなのかな?」
「わざと言い間違えてるでしょう」
「俺のことが大好きで、気を引こうとしてるとは思えないからね」
「広瀬君に、お願いしたいことがあるからよ。文字通りエサだから」
「そういうことなら」
安心した様子で広瀬君は弁当箱を開けると、当たり前のように食べ始めた。
「とんでもないことを要求するかもしれないのに、よく平然と食べられるね」
「俺が桐生さんの、お願いを断る訳ないだろう」
「そう、それは良かった」
いつもの位置に俺も腰を下ろすと、自分の弁当箱を開けて食べ始める。暫くは二人共、食べることに集中していた。
俺が食べ終わって弁当箱をトートバッグへ仕舞った時に、広瀬君はまだ三分の一程残っていたが、しっかり口の中の物を飲み込んでから口を開いた。
「それで、お願いって何かな?」
「縁を切りたい知人が居るんだけど、こっそり私を助けてくれてた人に、その行動を悟られたくないのよね。でも、私は一人で電車にも乗れないし、一人で行動も出来ないから」
「お嬢様だとは思ってたけど…」
「PTSDなのよ」
「あ、ごめん。PTSDって、事件とか事故の記憶がフラッシュバックしたりするやつだろ。つまり俺は、桐生さんに同行して見守ってればいいのかな?」
「私は人付き合いが苦手な世間知らずのお嬢様だと思われてるから、そんな私が脱線しないように軌道修正をしてくれる人が居るって知らしめたいのよね。例えば彼氏みたいな」
「喜んで彼氏にさせて頂きます」
「フリだけでいいわよ。本当に彼氏にならなくても」
「本物の彼氏でも、俺は全然構わないけど」
「やっぱり、他の人にお願いしようかな」
「彼氏のフリだけさせて頂きます」
「細かい話しは追々して行くから、今度の日曜日は空けといてくれる?」
「了解しました。それで、俺からもお願いがあるんだけど、聞いてくれるかな?」
「話しだけは聞くけど」
話しの合間にも食べ続けていた広瀬君は、両手で差し出すようにして、頭を下げながら弁当箱を返してくれた。それを受け取って、トートバッグへ入れる。
「桐生さんは俺に色々と問題を出してくれるけど、それらの問題の原因になってることを聞かせてもらえると嬉しいかな」
「どうかな…先生に口止めされてるから私のことは言えないけど、よく知ってる女の子の話しで良ければ」
「髪の長い、ツンデレの美少女だね」
「デレはないから」
「すみません、続けてください」
「その子はね、人付き合いがとても苦手で、クラスメイトとも浅い付き合い方しか出来なかったの。そんな時に、積極的に誘ってくれる女の子が居てね。それが嬉しくて、すぐに仲良くなった。その友達がある日、泣き付いて来たのよ。ある意地汚い大人に無理矢理、援助交際をさせられてるってね」
「援助交際って、お金を貰ってヤルあの…」
「そうよ。意地汚い大人は、人付き合いが苦手な女の子が大企業の社長の娘だと知って、援助交際をさせれば大金が手に入ると思ったみたいね。社長を蹴落としたい人が弱味を握るために買うとか、伸し上がろうとする人がコネとして買うとか、単純にいいとこのお嬢さんを買いたいドスケベな金持ちとかね。それで、人付き合いが苦手な女の子は、意地汚い大人から脅されたの。お前が援助交際しないから、その分を友達にやらせてるってね。それで友達からは、援助交際をさせられた。またやらされたって、被害者面で度々泣き付かれるようになってね。人付き合いが苦手な女の子は、何とかしたいと思いながら、次第に追い詰められて行ったのよ」
「酷い話しだな。そんなの友達じゃねーよ」
「向こうは友達だとは思ってなかったんじゃない。初めから、意地汚い大人とその友達は仲間だったみたいだからね。援助交際も望んでやってたことみたいだし」
「マジか!許せないな」
「その子の知らない間に事後処理をやってくれた人が居て、後で知ったことだけどね」
「それで桐生さん…じゃなかった、その子のことを、こっそり助けようとしてた人が居たって話しになるのか。え?どこでPTSDになったの?」
「意地汚い大人が援助交際の相手を用意した日に、自分さえ居なくなればと思って発作的に電車に飛び込んだからよ。それでどうなったかは言いたくないけど、まだ生きてることは間違いないわね」
未亜は俺に自殺の原因を話してはくれないので、細かい部分は推測に過ぎない。でも、大筋では間違ってはいないだろう。
順序立てて説明されたせいで未亜の感情が高ぶったのか、俺の目からポロポロと涙が零れ落ちた。それを見た広瀬君は、慌てた様子でコンクリートの上に土下座して頭を下げた。
「泣かせるつもりじゃなかったんだ。余計なことを詮索して申し訳ない」
「やめてよ。広瀬君のせいで泣いてるんじゃないから」
「俺はただ、笑ってる桐生さんの顔が見たいだけなんだ。少しでも役に立てればと思ったのに、真逆の結果になって情けない」
「まだチャンスはいくらでもあるから、努力はしてみたら?」
広瀬君は顔を上げたが、体制は土下座のままだ。俺はもう立ち上がっていて、彼に見えたのは足元だろう。
「事情が分かってないと、臨機応変に対処できないと思ったから話したのよ。聞いたからには、もう断れないからね」
「断るつもりなんてないよ」
土下座の体制のままの広瀬君をその場に残して、俺はハンカチで涙を拭きながら梯子の方へと歩いて行った。