第1話 俺が死んだ日①
その日、俺は初めてその少女を見掛けた。
スラリと伸びた手足に、透き通るような白い肌。そして、腰まで伸びた長い髪を片側だけサイドアップにしている。まるで人形のように綺麗な顔立ちの少女は、駅のホームに佇んで電車が来るのを待っていた。
高校へ進学してから俺は、もう一年以上も同じ駅で毎日同じ電車に乗っている。以前にもその少女を見掛けていたら、覚えていない筈がない。それほどまでに印象的な少女だった。
少女には見覚えがなくても、その制服のことは知っている。県内でも有数の名門校だ。
きっと普段は車で送り迎えをしてもらっていて、何かの都合でたまたま電車に乗らなければならなくなったのではないだろうか。そんな考察をしつつ、一日だけでも綺麗な少女と同じ電車に乗れることに小さな幸せを感じながら、俺も電車を待つ人の列に並んだ。
寝起きが悪い俺は、いつも時間ギリギリで駅に駆け込むから、すぐに電車が到着するアナウンスがホームに流れた。
列の先頭に立つ少女に目をやると、気分でも悪いのかフラフラしている。危ないなと思った次の瞬間、ホームから少女の姿が消えていた。
「線路に人が落ちたぞ!」
そんな声に驚いて、俺は列を離れて駆け出しホームから線路を覗き込んだ。そこにはレールの間に横たわる少女の姿があった。もう電車がホームに入って来る。このままでは確実に彼女は電車に轢かれてしまう。
周囲を見渡したが、誰もが立ちすくんで身動き一つしていない。駅員がホームにある非常停止ボタンを押したが、もう間に合わないだろう。
(どうして、誰も助けようとしないんだ!)
俺は鞄を放り出して、ホームから飛び降りた。そんな行動は無謀だし危険だということは充分に承知している。決して、やってはいけないことだ。でも、考えるよりも先に体の方が動いてしまった。
同時に電車の警笛が、けたたましく鳴り響く。ホームに入って来る電車は減速しているとは言え、所定の位置で停止するように速度を調整している筈だ。非常ブレーキが掛かったとしても、急に止まれるものではないだろう。
一瞬の勝負だった。線路の間に居る少女の脇の下に腕を通し、その体を捻じるようにして転がした。駅のホームは軒先のように張り出しているので、その下には僅かながら空間がある。勢いをつけて、その空間へ少女の体を放り込んだ。
その時、俺の手が少女の胸に触れてしまい、柔らかい膨らみを感じた。その感触が俺の判断を一瞬遅らせた。
激しい衝撃を感じた後に、目の前が真っ暗になる。人は耐えられない程の苦痛を感じると、二十種類以上もある脳内麻薬が分泌されて、気分が良くなるらしい。まさにその状態で、俺は幸せな気分を味わっていた。
(ああ、俺は死ぬのか…)
短い人生だったが、人助けをして死ぬのも悪くはないのかもしれない。あの世があるのかどうかは知らないが、きっと俺は天国へ行けるだろう。そうだ、あの少女は助かったのだろうか。ただ、それだけが気掛かりだった。
* * *
俺が目を覚ましたのは、見覚えのない部屋のベッドの上だった。どうやら助かったらしい。あれ程の衝撃を受けたにもかかわらず、体のどこにも痛みを感じていない。
サイボーグにされたとか、脳だけで生きているとか、そんなSFチックなことを考えながらベッドの中で手足を動かしてみる。ちゃんと手足はあって五体満足だった。
「お気付きですか?お嬢様」
声がした方に目をやると、メイドの格好をした女性が立っていた。今、物凄く気になることを言われたような気がするのだが、状況を把握する方が先決だった。
「ここは?」
発した声に自分で驚いた。それは、甲高い少女の声だった。
「お嬢様のお部屋ですよ。駅で線路に転落されて、危ないところだったそうです」
やっぱり俺のことを、お嬢様と言っている。それに、線路に転落したのは俺じゃなくて、あの少女の方だ。
慌てて上半身を起こすと、長い髪がパサッと垂れ下がる。自分の胸元を見ると、そこにはパジャマの上からでも分かる膨らみがあった。
そっと、自分で自分の胸を触ってみる。
(この感触は…)
掌に感じる曲面と大きさ、そして適度に弾力のある柔らかさは、あの時触れた少女の胸の感触だった。
部屋の中を見回して、鏡がないかを探した。壁に掛かった姿見を見付けると、ベッドから出て駆け寄り、その前に立った。
鏡に映っていたのは間違いなく俺が助けた筈の、あの髪の長い人形のように綺麗な顔立ちの少女だった。
(どうして、こんなことに…)
体が入れ替わったとすれば、俺の体に彼女が入っているということだろうか。嫌な予感がしてメイドの女性の方へ向き直ったが、何をどう話せば良いのかすぐには考えがまとまらずに、そのまま暫く静止していた。
「どうかなさいましたか?」
「あ…えーと、助けてくれた男子高校生は今どこに?」
「残念ですが、亡くなられました」
ヤバイ、ヤバイ、ヤバイ。大変なことになっている。死んだのは俺で彼女は助かった筈なのに、俺の方が生き残っている。しかも、彼女の体に俺の魂が憑依しているかのような状態でだ。
何とかして遺体が火葬される前に元に戻って、この体を彼女に返さなければならない。俺の代わりに彼女が死んでも良いと思うくらいなら、初めから助けたりはしない。
あの時、俺はもう死んでいるのだ。遺体に戻って、そのまま天国へ行けば良いだけの話しだ。
「葬儀に参列したいんですが、どうすればいいですか?」
「お嬢様が意識を失われたのは、三日前のことです。今から行かれても、もう間に合わないと思いますが」
「せ、せめて、ご焼香だけでも…」
「お言葉ですが、お嬢様がご焼香されても、あちらのご両親は快く思われないかと」
確かに、その通りだ。両親はこの少女のせいで俺が死んだと思っているだろう。しかし、俺自身はこの少女を恨んだりはしていない。
あの瞬間、少女が助かったことで俺は今迄に味わったことのない幸福感を感じていた。脳内麻薬のせいかもしれないが、天国へ行けばきっとまた幸福に満たされるに違いない。そして生まれ変わって、また人生をやり直せば良い。せっかく助けたのだから、この少女には俺の分まで生きてほしい。
「罵られても構いません。あの男子高校生の自宅へ、連れて行ってもらえませんか?」
「お嬢様がそう仰るなら、お供いたします。お車を用意しますので、お着替えをなさってください」
「お願いします」
メイドの女性は俺に一礼をすると、静かにドアを開けて部屋を出て行った。名門校の女子高生だから、なるべく丁寧な言葉使いで話したつもりだが、上手く行ったようだ。
葬儀に参列したいと言ったのには、もう一つ理由がある。俺はこの少女の名前すら知らないのだ。自分の名前も分からないのでは、まるで記憶喪失だ。いっそのこと記憶喪失を装った方が楽だったかもしれない。しかし、そうなると俺の体と入れ替わることも難しくなる。
高校生だから、祭壇の前に立つ時は制服を着て行くだろう。制服の内側に刺繍で名前が入れてあるか、或いは学生証がポケットに入っていないかと思ったのだ。
鏡とクローゼットは、当然のように近くにある。扉を開けると、すぐにハンガーに掛けてある制服が目に入った。あの時、この少女が着ていた制服だ。
ブレザーの前身頃を捲ると、思った通り桐生と刺繍がしてあった。そして、胸の前ポケットに指を入れて中を探ると、学生証が入っているのを見付けた。取り出してみると免許証タイプの学生証で、二つ折りのカバーが付けてある。そこには学校名と氏名、そしてこの少女の顔写真がプリントされていた。
名前は、桐生未亜。椿が丘学園の二年生だ。偶然にも俺と同い年だが、何かしら共通点があったから体が入れ替わったのだろうか。
俺はあの時の未亜の姿を思い出しながら、パジャマを脱いで制服に着替えた。女子のスカートは男子のズボンに比べると前後が分かりにくいのだが、俺も共学に通っていたから、ファスナーが左側に来ることは何となく知っていた。
本来なら人も羨むような美少女の下着姿を見て興奮したいところだが、そんな余裕はないし、今は自分の体だと思うと変な気持ちにもなれない。
生まれて初めて履くスカートに心許ない感覚を覚えながら、ドレッサーの前に座り腰まである長い髪をブラシで梳かした。
俺の両親に会ったら、罵られるかもしれない。多分、それが両親との最期の別れになるだろう。俺だとは分からなくても、せめて失礼のないように身嗜みだけはきちんとしようと思った。
ドレッサーの前に座ったまま少し待っていると、ドアをノックする音に続いてメイドの女性が顔を出した。
「お待たせしました。車の用意が出来ましたのでどうぞ」
俺は立ち上がってドアの方へ進むと、メイドの女性の目の前で立ち止まった。
「どこか、おかしな所はありませんか?」
メイドの女性は手を伸ばして俺の横髪を撫でるように触ると、その横髪を耳に掛けた。そう言えば駅で未亜を見た時は、片側だけサイドアップにしていた。利き腕で何かする時に横髪が邪魔になる程度のことだと思うのだが、そんな細かいことにも思い入れがあるのだろう。
「いつものように素敵ですよ」
そう言って、メイドの女性はニッコリと微笑んだ。単純な主従関係ではなく、そこには信頼や愛情があることが伝わって来る。
「ありがとうございます」
「相手様とは私が交渉しますので、お嬢様はなるべく会話を避けてください」
「お願いします」
快く思われていない所へお嬢様を行かせるのだから、彼女としては何かしらの対策が必要だと思っているのだろう。俺としてもそう言ってくれなかったら、こちらからお願いしていたところだ。
俺は未亜については、何も知らないのだ。自分だけでは対処できない状況に陥るかもしれない。少なくとも彼女は、俺よりも未亜について知っている筈だ。
彼女がドアを開けてくれているので、そのまま俺は部屋を出て廊下へ出た。ペンションのような中央に吹き抜けがある構造になっていて、廊下から一階が見下ろせる。広さや部屋数の割に人が居る気配を感じない家だ。
メイドの女性が前を歩き、俺はその後に付いて行く。さて、これから俺の遺体に会いに行くとするか。