第57話 雨
「――ハマドリュアスの姉妹よ、力を。トネロピピエイ」
アイシャが魔法の呪文を唱えると、池の水は浮かび上がり、ぱっと散ってぽちゃぽちゃと池の中に還っていった。
「う~。さすがアイシャですぅ~。なんでいつも一発なんですかぁ~? 去年はそんなことなかったのにぃ~」
「やっぱりアレだよ! ア・レ!」
「うぅ~。しょうーもないことでレベルアップしちゃったんですねぇ……」
「しょーもなくないんですけど!!」
アイシャはそう言いながら、自在に池の水を操って見せた。
水は弧を描いたり、宙にとどまったり、また池に戻ったりした。
それを見たマリィももう一度挑戦する。マリィの手から光があふれ、水面を少し覆った。水は少し浮き上がると、水面から5センチほどの高さでぽちゃんと落ちた。
「う~ん」
「できてるじゃん! もう少しだね!」
「アイシャはそんなにできるなら、授業なんてでなくてもいいんじゃないですかぁ~?」
「いやいや、ひとりだと池でこーんな練習しないしねっ! できるかできないかはやってみないとわかんないよ」
アイシャはそう言って、まわりを見た。
みんな池の水でぽちゃぽちゃと雫を散らしている。
(トリスはどこ……? って、あぁ、あそこか!)
池から離れたところの草陰に、トリスとキールの背中がちらりと見えた。
背の高い草に隠れて、かろうじて見えるだけだ。
木陰+草陰なので、見えにくい。
ふたりは池に背を向けて並んで地面に座っていた。
(……? あんなところで、なにしてるんだろう……)
アイシャは、ふたりのもとへと近付いた。
***
アイシャは、ふたりの背後にこっそりと近付いた。
キールとトリスは声を潜めて会話しているようで、だからこそアイシャは少し離れたところに身を潜めた。
「……ハマドリュアスの姉妹よ、力を。声が届く様に……こう……蔓で音を伝達して、花で音を拾って……」
拙い命令を出すと、アイシャの手からしゅるりと蔓が伸びた。蔓の先端から釣り鐘型の花が咲く。蔓は伸びてススス……とトリスらの方へと忍び寄った。花は草陰からそっと覗き、ふたりの会話を聞き取る。
要は糸電話の要領で、会話を遠くから盗み聞こうと思ったのだ。
(よしっ! これで聞き取れるね!)
糸電話……に集中すると、ふたりの話し声がはっきりと聞こえてきた。
「おっおまえ……さ」
「ん? なに、キール」
「ア、アイシャのこと……どう思ってんだよ……?」
(えぇー!? なに話してんのーっ!?)
開幕耳に入ったのがそれで、アイシャは飛び上がりそうになるのを抑えた。
「アイシャ? 優しいよね。恩人だし、感謝してる」
「そそそそーじゃなくって……! ……。お前、好きなやつは?」
「…………。昨日、思い出せないって、言ったよ」
「本当は思い出したんだろ?」
「…………んー。……。……あぁ」
(えっ!? そーなのっ!?)
アイシャはまた驚いて、ふたりの方を振り返ってしまう。
ふたりは遠く、アイシャには気付かない。
アイシャは遠くのトリスを見る。
彼の横顔が、草陰から見えて――その顔は、はにかんでいるような……そんな顔をしながら言った。
「そう。僕には王都に残してきた、大切な存在が、いたんだ。僕は彼女を愛しているし、彼女も僕を愛している。……ようやく。記憶が戻ってきて――毎日抱きしめていたぬくもりを、……思い出すことができたんだ……」
アイシャの耳に、トリスの声が響く。
頭を思いっきり殴られたかのような衝撃――それは彼女の目を白黒させた。
脳内がぐるぐるして、なにか考えたいのになにも考えられない。
ただただ、魔法で盗み聞いたトリスの告白が、――こんなにもつらいものだとは。
ぽつり――ぽつり。
雨が降ってきた。
空はいつの間にか灰色に暗くなっており、ぽつぽつと少しずつ雫を落とした。
「だっ、抱きしめっ!? お前って結構、……アレなんだな……」
「なにが? 王都では普通だよ」
「そうなのか!? やべー……」
「…………っ」
アイシャはそこで――魔法を切断した。
力を失った蔓は、だらんと一瞬垂れ下がると、霧散した。
もう、彼らの会話は聞こえない。
切断したのに――先ほどのトリスの言葉を反芻する。
(そっか……。……トリスには、……彼女が……。)
アイシャは膝を抱えた。
(私の、運命の人じゃあ、なかったんだな――……。)
(ずっと流しているボトルメールも、……手紙も、返事はないし)
「……手紙も、ちょっと、もういいかなって思ってたのに」
(――トリスと、出会えたから)
気付かないふりをしていた。
理解のある女の子になりたかった。
司祭様をかっこいいと、花祭りやマーケットできゃいきゃい取り囲む女の子とは違うのだと、そう思いたかった。
怪我をして記憶をなくしたトリスの、支えになってあげたくて。恋愛で迫ってはダメだと、そういう女の子になりたくないと思った。
でもでも。ずっと気付かないふりをしていた。
だけど
「本当に好きになっちゃう前で、良かったな……」
アイシャは胸の中で手をキュッと握った。
まだ大丈夫、まだ……好きじゃなかった……と、頭で何度も唱えるが、そのたびに目から涙がこぼれていった。
頬に、雫が落ちる。
雨は相変わらずぽたぽたと小雨で、――だから雨か涙か、分からない。
アイシャはしばらく茂みで静かに涙を流していたが、やがて誰にも気付かれないようにその場から離れた。
「……顔、洗ってこなくちゃ。こんな顔、みんなには見せられないや」
アイシャは、自分がどうしてこんなに涙が出るのか、その理由に蓋をした。
トリスは相変わらずかっこよくて、優しくて……そして司祭様なのだ。……友達として尊敬したい。
……そう、思い込むことに決めたのだった。
***
「……それにしても」
トリスが再び話し出したので、キールは顔を上げた。
「ん?」
「早く帰ってもふもふしたいな」
「……髪、か?」
「ううん。毛」
「毛っ!?」
キールは眉をひそめる。
「……お前のカノジョ、ずいぶんと毛深いんだ、な……?」
「え? ああ!」
トリスは明るく言った。
「犬だからね!」
「………………」
キールは、「えーと」と眉間に指を添えてから、
「そういう性癖で……?」
「せーへき?」
「…………」
トリスは、きょとんとしている。
キールは、「あ~?」と言ってから、
「もしかして、ペットの話してる?」
「そうだよ」
「……。深い意味のペットじゃなくて、本当のペットの話してる?犬猫鳥おけ?」
「深い意味のペットってなんだい? 犬だよ。僕の家で飼ってる」
「………………愛してるってなんだったんだよ」
「僕はペットを愛しているし、彼女も僕になついている、最高の相棒だよ!」
「…………人間のカノジョは?」
「人間の彼女?」
トリスは復唱した。
「あぁ! いないよ! 僕は教団の聖職者だからね。女神様に誓える人……結婚する人としか付き合えないんだよ」
「…………あっそう」
キールは白目を剥きそうになった。
(そーいやこいつ、なんか犬のブローチをやたら気に入ってたっけ……)
キールの肩を、雨の雫が濡らす。
先ほどからぽつぽつと振っていたそれは、徐々に雨脚を強め、ザアザア降りになっていった。
「うおっ! やべぇ!」
アイシャらの様子を見ようと、キールは慌てて池の方へ駆けようと振り返る。すると、
「うおおっ!?」
ドリアード達が走ってこちらへやってきたので、慌てて身をかわす。
村の方へ向かっているようだ。
途中、マリィがやってきた。
「解散になりましたよぅ! 家に戻りましょう~!」
「アイシャはっ!?」
「えぇっと……。あっ、アレじゃないですかぁ?」
マリィが指さした方を見ると、アイシャの後ろ姿があった。
「あいつ! いの一番に家に帰ってんのか!」
「ゴホッゴホッ」
「! 司祭様!」
「トリス! どうしたっ!?」
急に咳き込んだトリスを、キールは支えた。
「ごめん。なんか急に立ちくらみが――」
「こいつ連れてファルマコさんの家へ行ってくるから、マリィは家に帰れよっ!」
「……はぁ~いですぅ」
キールは、トリスを担いで薬師のファルマコさんの家へと向かった。
残されたマリィは、
(……なぁ~んかおかしいですねぇ)
マリィはアイシャの走って行った方を見た。
***
強まった雨が、アイシャの柔らかな頬を叩く。
(最初から、興味を持たなければ――)
走る。走って、家まで帰る。雨が降っているから、涙が隠れてちょうどいい。
アイシャはわざと天を仰いで、雨粒で顔を洗った。
アイシャは、全貌を知らない。
話を聞くのを途中で切断してしまったために。
アイシャは、トリスに恋人がいるのだと、そう信じたまま、帰宅した。
見ての通りアイシャの勘違いです。
なので大丈夫です。
続きます。