第45話 憧れの原点
アイシャが見張り台――南東にある矢倉のことだ――から矢文を放っていると、トリスがやってきた。
「なにしてるの?」
「トリス! 体はもういいの?」
「うん。今日は起きてからも、なんともなかったから。でも念のため今日もファルマコさんの家に泊まらせてもらうよ」
トリスが記憶を少し取り戻した次の日のことだ。
(顔が見られて嬉しい! ……けど、本当に大丈夫なのかな?)
キールは、今日は村にいる『人間』で会議があるから――というので、アイシャは一人でいた。
アイシャは、トリスの目線が、自分の手元にあることに気がつき、焦って魔法の弓を霧散させてしまった。
コン、と音を立て、矢だけがアイシャの足下に転がる。
「えっと、これはね……」
アイシャは、矢を拾った。今日はこれが最後の一本だ。
急いで魔法を再発動し、弓を射ってしまうと、梯子を登るトリスに手を貸した。
二人は並び立つ。
アイシャは、遠くを見た。
森は広く――人間の街がどこにあるのか、さっぱり見えない。
今日も青空が広がっている。――この地方では、春はほとんど晴れるのだ。
暖かな風が、アイシャの髪をふわふわと揺らした。
「…………」
トリスは、黙ってアイシャの言葉を待っている。
(えぇーい! ままよ!)
アイシャは話し出した。
「私、外の世界で恋愛したいと思ってるんだ。このままだと、近隣の村の男の子と結婚するのが決まってるんだって! でも通行手形がないと森の外に行けないのね。だから、こうして村の中から手紙を飛ばしてるんだ」
「……そうなんだ。アイシャは、……その人がいやなのかい?」
(その人って、近隣の村の人のことかな)
「ううん。会ったことないよ。でも、そういうのが勝手に決められてるのが嫌だしっ。自分の相手は自分で見つけたいって、思ってるんだ」
「へぇ。これが噂の」
「……えっ?」
トリスはおもしろそうに言った。
「長老やファルマコさん、……村のみんな言ってるけど、『ドリアードはドリアードと結婚するものだ』って。『アイシャは変わってる』って。言ってたよ」
「もー! みんなずっとそんなこと言う!」
「怖くないの?」
「えっ?」
「……違う種族と結婚。……怖くないの?」
「えっと……」
アイシャは少し考えたあと、元気よく言った。
「ぜーんぜん!」
「! へぇ」
「……昔お兄ちゃんが街でもらってきた本。……6歳の時だったかな。絵本じゃなくて本だったから難しかったけど、すっごく魅力的で! 人間とセイレーンの恋愛や、エルフとドワーフの恋愛や、……人間とドリアードの恋愛も載っててね! すっごくおもしろくって、すっごく夢中だった。『あぁ、私の知れない種族が世界にはたくさんいるんだなぁ、会ってみたいなぁ。……私もこんな恋がしてみたいなぁ!』って思ったの!」
「……。そうなんだ……。現実ではともかく、創作では夢があるよね。ほら、『人魚姫』とかが有名――」
「それっ!」
「……え?」
「『人魚姫』もいいよね~っ! 人間の王子様と仲良くなろうとするセイレーン姫が素敵! 私もああいうロマンチックな出会いがしたいなぁ~!」
「……」
トリスは、(もしかして……)と思って尋ねてみる。
「その本のタイトルは?」
「え? 『おとぎ話恋愛全集』っていうの!」
「…………。『おとぎ話』の意味わかる?」
「昔話ってことでしょ? あ、でもねっ! そんなに昔の話じゃないのもあって! 最近はダークエルフとエルフの恋愛の記録もあって!」
「それ、……」
それ、記録じゃなくて、創作……小説だよ、と言いたくなったのを、トリスは飲み込んだ。
アイシャはキラキラした表情を浮かべている。
(……いや、現実にも確かに……ある、と思う。)
トリスはその本自体は知らないが、『おとぎ話』が何かは分かった。
なので、なにか言った方がいいか迷い――本については触れないことにした。
現実にも、確かに異種族間の婚姻はある。……あるのだが……。
……『おとぎ話全集』については、現実の出来事をベースに、少女向けに脚色した物語だった。実際は悲恋だったことも、結ばれるように改変されている。
アイシャは言った。
「……この手紙たちは、ロマン兼実益でねっ。こういう手紙から始まる恋っていうのも、素敵かなーって」
「えっと、文通だけで結婚相手を決めてしまうのも、それはそれでいいのかな……? 一生の問題だよ……?」
「大丈夫だよ! 文通のみで結婚っていうのはするつもりないから大丈夫だよ。ちゃんと会ってから決めるもんね!」
「あぁ、そうなんだ。じゃあ、どのみち通行手形が必要だね」
そうトリスが言って、
「……あれっ?」
アイシャは、その指摘に気がついた。
村から出ずに出来ること――だと思って、今日までこの手紙作戦を取り組んできたが、
「実際に会うには通行手形が必須だもんね」
「ほ、本当だー!」
当たり前のことだったのに――最初から目指していた通行手形なのに――、アイシャにはそれが『必須』であることが抜け落ちていた。
アイシャが頬に手を当てるのを見て、トリスは「ふふふ」と笑った。
「あー、いや、えっと! 私の目標が間違ってないんだって、改めて分かってよかったよ!」
「――それに、……通行手形があれば、これからも僕と会えるね」
サア――と風が吹いて、木の葉が舞った。
「…………えっ……と……」
トリスがさらりと言ったそれは――アイシャの脳で反芻された。
トリスの黄金色の瞳が、まぶしい。
彼の瞳は、こんなにも光を放っていただろうか――……。
トリスが首をかしげた。
「……あれ、僕たちこれで終わりなの?」
「へっ!? いやっ!?」
「……僕のこと、友達だって言ってくれたじゃないか」
トリスがすねたように言うと、アイシャはぽんと手のひらを打った。
「あ、あぁ! そうだね! 確かに! 友達だよ!」
トリスがほっとしたように笑ったので、アイシャもいっしょに小さく笑った。
(そう! そうね! トリスってあと一週間しないうちに帰っちゃうんだって思ってたけど、通行手形があれば私の方からも遊びに行ったりできるってことだね!)
アイシャは、汗を拭った。
(なんかっ……なんかっ! びっくりしちゃったよー! 王都にね……っ! 遊びにねっ! うんうんっ! ……って、)
「王都ってどんな感じ?」
アイシャは、まだ見ぬ王都のことを想像しようとして――想像できなかった。
トリスは頭を掻いた。
「えぇと、街に関してはまだ少しぼんやりしてて……。石造りの家が並ぶ石畳の道ということくらいしか……」
「へぇ……! 石造り……!」
アイシャは、今度こそまだ見ぬ王都を想像した。
「石ってことは、ゴーレムが家を造るの?」
「え?」
「だって、石を操るのはゴーレムなんだよね?」
「あぁ……! そういうことか……!」
ドリアードの家は、ドリアードが魔法で大木に手を加えて造ったものだ。
……石の家はゴーレムが造ったのかと思ってしまったようだ。
「違うんだよ。人間も家を造れるんだよ。魔法じゃなくて、手作業でね」
「へぇー! あ、学校みたいなやつかな?」
「学校?」
「そう! 人間が作ったから、なんかちょっと……四角い感じなんだ!」
「四角い……」
アイシャたちの学校は、人間たちが建てたものだ。
「あっ! そうだ! 今度の学校の日、トリスもくる?」
「え? いいのかな」
「司祭様がきたら、みんな喜ぶと思うなー! 明後日なんだ」
「そうなんだ、楽しそうだね。お邪魔じゃなければ、ぜひ」
トリスは、少し思い出したことを話す。
「学校というと、教団には修道院があった……んだ」
「修道院?」
「親のいない子のうち、教団で保護している子どもたちが暮らしているんだ。僕はそこへ勉強を教えに行ってた」
「へぇ! 偉いんだ!」
「母さんと一緒に行ったりしたこともあったっけ」
アイシャは、ふと思ったことを聞いた。
「じゃあ、お父さんは?」
「…………あれ」
(父さん…………)
トリスの思考が濁る。
「僕は母さんと二人で暮らしてたから……えっと……」
その記憶は、取り出そうとしても、空振りになるような――、あるはずなのにない記憶だった。