引っ越し
春の推理2023に参加します。よろしくお願いします。
空は晴れて気持ちいい日曜日の朝だった。私はYKアパートの206号室に越してきた。そこは10室ある2階建てのありふれた古いアパートで、階段や手すりは錆だらけだった。すでに大きな荷物は引っ越し業者に頼んで運んでもらっている。あとは今、抱えているこの大きめの段ボール箱だけだ。
階段の前で大家さんのおばさんに出会った。引っ越しの様子を見に来たのかもしれない。私は段ボール箱を足元に降ろして、頭を下げてあいさつした。
「日比野です。よろしくお願いします。」
「大変だね。大丈夫かい? 手伝おうか?」
大家さんが気遣って声をかけてくれる。
「ありがとうございます。でも引っ越し屋さんがあらかた運んでくれたから、大丈夫です。」
「そうかい。何か困ったことがあったら言うのだよ。ここはね・・・」
大家さんは世話好きだが、おしゃべりな人のようだ。話はなかなか終わらなかった。
「あっ! 部屋のドアを開けっぱなしでした。またあとでごあいさつに参ります。」
そう言って大家さんの話を途中で止めた。それは上から人が降りてくる気配がしたからだ。私は足元に置いてある大きな段ボール箱を抱えて運んだ。だが階段を上がる前に思わぬ段差につまずいて転びそうになった。
「あっ!」
だが転びそうになった私を前で誰かが支えてくれた。それは階段を降りてきた小柄な男性だった。段ボール箱越しに見ると、それはさわやかな笑顔をした30前の優しそうな人だった。
「すいません。」
「だいじょうぶですか? お手伝いしましょうか?」
「いえ・・・」
「どこの部屋ですか?」
「206号室なんです。」
「じゃあ、僕の部屋の隣だ。僕が持っていきますよ。」
その男性は私が抱えていた段ボール箱を持つと、そのまま階段を上がって行った。
「すいません・・・」
私は首に巻いたタオルで額の汗を拭きながら、彼の後を上って行った。
彼はドアの開いたままになっている206号室に入った。
「ここでいいですか?」
「あっ! すいません。」
私は慌てて彼から段ボール箱を受け取って部屋の隅に置いた。私の部屋にはもう冷蔵庫やテレビやらは運び込まれている。
「ありがとうございました。」
「じゃあ、また。」
彼はニコっと笑って部屋を出て行った。耳を澄まして足音を聞いていると、彼は隣の205号室に帰ったようだ。私は玄関のドアを閉め、床に座り込んで段ボール箱を開けた。そこには様々な機器が詰まっていた。これを設置しなければならない。
私は押し入れの戸を開けた。その奥にべニア板の壁が見える。その向こうが205号室である。私は段ボール箱から出した機器をその壁に順序良く設置していく。それで隣の205号室の音が拾え、中で何をしているかがわかるのだ。
隣に住む男は林田修一郎、28歳。今は機械の修理などして日銭を稼いでいるようだが、かつては東都大学工学部の研究者だった。私は彼をマークするため、正体を隠してこの部屋に越してきたのだ。