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第一話 織田信長『長島一向一揆』

 ようやく、兄上を殺す好機が巡ってきた。

 側室の出とはいえ、長子である信広殿を、俺は尊重してきたつもりだ。

 しかし、もはや我慢ならぬ。

 殺す、ただ殺す――


 今、我が織田軍は伊勢長島城を包囲している。

 兵糧攻めだ。数か月の間、城方はろくなものを食べていないだろう。

 もはや風前の灯火――そこを利用するのだ。


「兄上。本陣の前での守りを、秀成と信成と共にお任せしてよろしいか」


 本陣にて、俺は兄上に命じた。

 すると怪訝な顔で「なにゆえ、その配置に?」と訊ねてきた。


「降伏の使者が来ているのだろう? 今更守りを固める必要があるのか?」

「油断なく守りを固めれば、たとえ降伏が偽りだとしても対処できる。また、その守りは一門衆にしかできぬ」


 秀成は弟、信成は従兄弟だ。

 二人がいなければ怪しまれてしまう――許せ。


「ふむ……承知した。すぐに向かおう」


 兄上は納得していない様子だったが、文句を言わずに従った。

 ずきりと良心が痛んだ気がしたが、無視した。

 このような痛み、慣れているはずだと己に嘘を強いた。


 兄上が何故、織田家当主になれなかったのか。

 それは前述したとおり、側室の出だったからだ。

 俺がどうして、織田家当主になれたのか。

 それは俺が正室の出だからだ。


 少し狂えば兄に従っていたと思うと背筋が凍る思いだ。

 あの無能な兄に仕えるなど、虫唾が走る。

 そもそも、兄ごときでは尾張国すら統一できない。


 正直言えば、優秀であったならば俺の右腕として活躍できただろう。

 もしくは俺から家督を奪えただろう。

 悲しいことに、無能は罪である。あるいは前世の罰である。

 だから生まれたときから、こうして俺に殺される運命だったのだ。



◆◇◆◇



 長島城から使者が来た。

 下間頼旦という事実上の指揮官の首で、城兵と避難してきた信者の助命。

 悪くない条件だと俺は言って、了承した。


 ふん。馬鹿にしおって。

 ここで信者を逃せば、別の地で兵となり織田家に仇名す。

 だからここで殺す。

 二万の一向宗を、兄上と共に、葬る。


 交渉の使者が去った後、小姓が控える本陣で、昔のことを思い出していた。

 兄上と俺は歳が離れている。

 子供のときから大人だったのだ、兄上は。

 遊んでほしいとせがんでも、兄上は拒んだ。

 それは自分には家督の相続権がなく、俺にはあったからだと推測する。


 妬まれていたのは知っていた。

 恨まれていたのもしれない。

 言葉に出さずとも、態度で分かった。



◆◇◆◇



「殿。一向宗の降伏をお許しになるのですか?」


 そう訊ねたのは、森家の当主となった森長可だった。

 俺の股肱の臣だった、森可成の息子だ。

 可成のおかげで、今の織田家がある――俺はそう信じていた。


「どうせなら根切りにしちゃいましょうよ」


 父と似つかない、物騒なことを言う。

 可成は勇猛果敢な武将であったが、そこまで過激ではなかった。

 眼球が充血している、恐ろしいほどの男ぶり。

 いずれ日の本に名を轟かすであろう、若武者。


「……で、あるか」


 それだけ答えて、俺は口を閉ざした。

 長可は不満そうであったが、仕方ないことだ。

 森家の者であっても、真意は言えぬ。


「誰ぞ、一益を呼べ」



◆◇◆◇



 兄上が今川家の人質となったとき、俺は迷わず見殺しにするべきと親父殿に進言した。

 竹千代――今は徳川家康だ――を失うのは惜しいと思ったからだ。

 あの者を育てれば、俺の優秀な部下となる。

 加えて、三河国を掌握することも可能だっただろう。


 兄上が戦に負けなければ――いや、人質にならず、討ち死にしてくれれば、織田家は三河国を得て、今と状況が変わっただろう。浅井家に市を嫁がせなくとも良かった。

 このときから、俺は兄上を不要だと思っていた。

 近い時期に、弟の信勝を殺すことになるのだが、どうせなら兄上のような無能を殺したかった。信勝は惜しい人材だった。裏切られたとはいえ、あの勝家を心服させていたのだから。



◆◇◆◇



「頼旦と一向宗を撃ち殺せ。降伏など許さん」


 滝川一益に命じると、奴は「承知」と頷いた。

 無口な仕事人。それが一益の印象だった。


「加えて命ずる。もし――」


 俺の命令に一益は眉をひそめたが、特に何も言うまでもなく黙って頷いた。

 猿と違って無口な男だ。

 沈黙は金と言う。褒美に長島城でもくれてやるか。



◆◇◆◇



 親父殿と弟のことを思うと、言葉が出てこない。

 無理を押して言おうとしても、詰まってしまうのだ。

 早死にした親父殿。

 この手で殺した弟。

 彼らに思うことは、惜しいと淋しいという寂寥感だ。


 特に信勝を殺めたときはつらかった。

 母上に酷くなじられた。

 戦国の習いとして受け止めるしかなかった。


 その古傷を、兄上は――



◆◇◆◇



 一益は期待通りの仕事をしてくれた。

 小舟に乗った下間頼旦を見事撃ち殺した。

 容赦なく、水夫と共に、撃ち殺した。


 その途端、長島城から雷のような鬨の声が上がった。

 いよいよ始まるのだ、予想していたことが。

 そして兄上の死が。


 一向宗共が一斉に本陣に向けて出撃した。

 槍や刀を持って。血走った目で。

 俺を殺さんと迫ってくる。


 しかし俺を殺すには遠すぎる。

 本陣との間に、軍勢がいる。

 一門衆が率いる、数千の兵がいる。

 兄上が、いる――



◆◇◆◇



 浅井と朝倉を滅ぼした後の、今年の正月の宴。

 目の前には薄濃にした浅井親子と朝倉義景の髑髏。

 それを馬廻りと一門衆に見せながら、酒を飲んでいた。

 もっとも、俺は下戸だから茶を飲んでいた。


「浅井と朝倉を討てたことは大戦果だったぞ」


 宴席で兄上が上機嫌ではしゃいでいた。

 こうして騒ぐのも悪くないと思っていた俺は穏やかに見ていた。


「しかし、義弟と聞くと、俺は信勝のことを思い出すな」


 兄上は悪気など無かったのだろう。

 酔っていたせいかもしれない。


「信勝も馬鹿なことをしたものよ。謀反を二度しおって。ま、俺も一度叛いたが、殿が許してくださった。もはや野心など無い」


 弟をだしにして己の忠誠を示したのだろう。


「殿も幸運だな。父が早くに死んで。おかげで天下までもうすぐだ」


 父を引き合いに出したのも、今の織田家が上手くいっている証だと言いたかったのだろう。


 俺は、それが許せなかった――


 俺は父を尊敬していた。

 位牌に抹香を投げつけたのは、長生きしていれば尾張国を統一できた悔しさからだった。

 俺は弟が好きだった。

 俺の右腕になってくれる、唯一無二の存在だ。殺したときは身が千切れる思いだった。


 その二人の死を、冒涜した兄上が、どうしても許せなかった。

 だから決意したのだ。

 兄上を必ず殺すと――



◆◇◆◇



 一向宗の信者が俺を殺しに、一心不乱に突撃してくる。

 一門衆が率いる兵、そして秀成や信成が討ち死にする。


 もし、兄が討ち死にしなくとも、手は打ってある。

 一益に命じていた。兄上を殺せと。

 理由は謀反を企んでいると一益に言っておいた。

 無論、偽りである。


「殿! 俺も出陣していいか!?」


 長可が興奮している。

 俺は目を閉じて、知らせを待った。


 兄上は動揺していることだろう。

 どうして俺が降伏の使者を殺したのか。

 危険だと分かっているところに、自分を配置したのか。

 二心などないのに、どうして――


 そこが兄上の限界だった。

 親父殿が俺を後継者に指名したのは、正室の出だから――だけではない。

 戦国の世に相応しい『悪意』を持っていたからだ。


 必ず敵を殺すという悪意。

 邪魔な者を躊躇なく排除できる悪意。

 たとえ身内でも、冷酷無比に葬れる悪意。


 だからこそ、親父殿は俺を後継者にし続けた。

 そうでなければ、俺が親父殿と後継者を殺しかねないと思ったからだ。


 そう考えると、兄上を守っていたことになる。

 不愉快な考えだった。

 本当に――苛々する、不愉快な想像だった。


 伝令が本陣に近づく物音がする。

 ああ、ようやく。

 兄上を殺せたのか、俺は――


「申し上げます! 織田信広様、討ち死に!」

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― 新着の感想 ―
[良い点] 何ともスリリングな語りですね! 語り手の胸の内が実は感情に流されまくっているあたりが「悪意ある者」という設定とせめぎ合って、こちらの心をブルンブルンと揺さぶってきました。 『駆込み訴え…
2022/06/19 13:09 退会済み
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