099話『決死』
天使の攻撃に対して錆釘は、咄嗟に腰の二振りの剣を抜く。そして顔の前で交差させると、滑らすように槍を受け流し回避した。
タブラはその様子を見て固まっているしかなかった。
人間や天使は、食べること以外でも相手の命を奪うことを何となくは知っていた。しかし感情と命を天秤にかけて、感情を取るのを理解する事はできないでいた。
それが突如、友人である錆釘の命が危険に晒されたことで理解できた。
小さくだが怒りという感情がタブラに湧いたのだ。
それを受け入れるまでの刹那に、目の前では攻防が繰り広げられるのであった。
もう一度振り上げた槍を、錆釘に向かって天使が振り下ろす。地面が抉れて、土が巻き上がる。
錆釘はそれを掻い潜ると、右の刀を振った。
なんと切りつけられた手は凍りつき、持っている槍にへばり付いたのだ。
天使もその状況に素早く対応、間髪入れずに逆の手で氷を叩き割ったが。
「うぐっ!」
顔をしかめて低く唸り声を上げる。
錆釘の左の剣が脇腹に突き刺さっていた。その切り口はジュゥゥッと音を立て、血が沸騰する音を立てていた。
素早く離れると、錆釘は構えを取り直す。
タブラには見えていた。
錆釘の持つ刀は、レイピアのように細いものだったが、左右でそれぞれ精霊の力を感じることができた。
右には氷の精霊フラウの力を。
左には炎の精霊サラマンダーの力を。
そして、刀を振るうたびに、錆釘の青い血に蓄えられた魔素が消費されている。普通の人間が使える武器ではないだろう。
その刀を右に左に、攻撃を掻い潜りながら少しづつ天使に当てて行く。
致命傷ではないものの、だんだんと天使の動きが悪くなるのがわかる。
だが天使もバカではない。
接近戦は不利だと感じたのだろう、飛び退いて距離を取ると叫んだ。
『フラムシュート!』
炎の刃が無数に飛び散り、錆釘を襲う。
『シェルインリバー!』
水の壁が錆釘の前に反り立つ。こうなることはお見通しだったのだろうか、炎の刃は水の壁へとむなしく吸い込まれるばかりだった。
それどころか、水の壁を目隠しに低い姿勢で天使に接近。そのまま攻撃を繰り出す。
そこでもタブラは衝撃を受けていた。
魔法は誰かのために使うものであり、誰かを殺したりするために使うなんて一度も考えたことがなかったからだ。
人間も天使も、生き物としては不合理で理不尽だ。しかし、それを少しづつ理解している自分に驚きながらも、今のタブラには何もできることはなかった。ただ見守ることしか。
熾烈な攻撃に、ついに天使が片膝をつく。半ば戦意を喪失しているように見えた。
「に……人間風情がっ!」
悪態をつき、羽を広げた。
「おっと、お前が始めたんだから、いちぬけはさせないぞ」
そう言うと余裕で右の刀で羽の片方を凍らせてしまった。
飛び上がろうとしていた天使は地面に引きずり落とされ、もう一方の刀で腕を燃やされて地面に転がった。
天使の絶望を、その場の誰もが感じ取った瞬間、想像しえない事が起こった。
「……ごふっ」
口から青い血を吐いた錆釘の胸に、長さ2メートルを超える剣が刺さっていた。
それは彼を串刺しにしながら、地面に深く突き刺さっている。
「天使の面汚しが」
高圧的だが、地面に転がっている天使よりももっと冷たい響きの声がする。その声とともに剣の柄を握る天使がフッと現れた。
状況が飲み込めずに固まっている間に、その新しい天使は無慈悲に剣を地面から引き抜くと、まだ貫かれている錆釘の身体を剣ごと横に振った。
剣から抜けた身体は宙を舞うと、そのまま地面に叩きつけられる。
「アルトリスよ、お前の復讐なんぞに興味はない。あとは自分で汚名を拭うが良い」
そう言いながら、タブラの方を一瞥する。
「珍しいな、卵か……」
その意味はわからなかったが、その天使は現れたときと同じようにふと消えた。
静寂の中、錆釘のうめき声と、残された天使の唸り声だけが聞こえる。
タブラは急ぎ、錆釘に回復の魔法をかける。
しかしこの世界の魔法は、一瞬で傷を治すものではない。回復は進んでいるはずだが、未だに血は流れ出している。
天使が立ち上がり、槍を杖にしながらこっちに向かってきていた。
「せめて、汚名を……貴様だけは殺す!」
そういうと、力を振り絞るように槍を高く持ち上げ、錆釘へと向ける。
タブラは、叫んだ。
『ブラスト!』
目の前に大きな爆発が起こり、天使を吹き飛ばした。
タブラは初めて何かを傷付けるために魔法を行使したのだ。しかし、それは大事な人を守るため。身体が自然と動いたように思う。
「大天使まで出張ってくるとは……ね」
回復が効いているのだろうか、錆釘が口を開いた。
「回復は、間に合わないだろう。俺はもうすぐ死ぬ……」
タブラは彼の差し出した手を握ることもできない事を歯がゆく感じながら、次の言葉を待った。
「隠れ里の地図が俺のポケットに入っている……そこに俺の最期を伝えに行ってくれないか? そこには俺の大事な人がいる。俺の嫁さんだ、しかももうすぐ子供も生まれるんだ……」
だったら尚更死ぬべきではない。
タブラは回復に回す魔力を絞り出すように注ぎ込んだ。
「俺の代わりに……頼む……あいつらを……」
急に声が小さくなる。
よく見ると、血溜まりは大きくなるばかりでいっこうに収まる気配がない。きっと回復よりも早く彼の寿命が尽きるのだろうと直感で理した。
「悔いのない……人生だった。俺の命……で里一つ守れたんだ……安いもんだ。だから、胸を……張って……」
そう言うと、彼は初めて会った時のようにニヤッと笑って見せた。
彼にとってそれがどういう意味なのか、タブラには理解しかねたが、そのまま目を開くことはなく、心臓の鼓動が完全に止まってしまった。