097話『色』
今から20年ほど前、大都市ヌーベルの近くの森の中。
タブラはその場所でひっそりと生きているだけで、近隣住民からは帰らぬの森の主だとか言われ、ちゃんとした名前すら無かった時の話だ。
当時の彼は度々酷い苦しみに耐えていた。
それは風船がはち切れる寸前のような痛みで、身体の表面全てが今にも裂けてしまいそうな激痛だった。
人ではない彼にとって、体という概念は当てはまりはしなかったが、彼の精神がそれに相当した。
精神が壊れると同時に記憶をなくしてしまう。
次に目覚めたときには、辺りが壊滅的な魔力の暴走で焼け野原になっている。
そんなことを数百年もの間ずっと繰り返して来た。
彼は孤独を愛している。
いや、愛さずにはいられなかった。
木々が芽吹き、鳥が歌い、雨が地面を叩くのが好きだった。
その水が大地に染み込み、また新たな生命へ繋がるのを見るのが好きだった。
きっとそれは、彼が「その一員ではなかった」が故の憧れのようなものだろう。
そんな彼が心を通わせた「世界」が、魔力の暴走の度にリセットされるのだ。
焼け野原になってしまった、新たな安住の地を目指すのが彼にとって憂鬱だった。
500年も繰り返すうちに、だんだんと魔力の制御は効くようになってくる。
小出しすればいいのだと。
しかし、雷を落とす、風を吹かす、雨を降らすとやっているうちに、人間が腹を立ててやってきた。
「この山の主は、家を焼き、木々をなぎ倒し、川を決壊させる」と。
「主を殺せ!」と。
もちろん殺される謂れはない。
お前らが呼吸して二酸化炭素を吐き出すように、彼は魔力を吐き出しているに過ぎないのだから。
しかし、そんなことはお構い無しに人間は彼を追い立て、平穏な場所は忙しなく奪われる。
またもやなし崩しに河岸を変え、いまたどり着いたのが、ヌーベルの町の近くの森だった。
ここは帰らぬの森という言い伝えのある森で、鬱陶しい人間が少ないのが一番良かった。
たまにストレンジャーと呼ばれる人間が、チームを組んで追い出しにかかるが、4~5回捻ってやると来なくなった。
きっと、怖くなって志願するものが居なくなったのだろう。
タブラはこの帰らぬの森に、魔力のたっぷり詰まった雨を降らせ、もっと人間が近づかないような森に変えようとしていた。
そんなことを考えている矢先。
ある男がここを訪れた。
彼は青く長い前髪で右目が隠れた優男だったが、腰には剣を2本下げていた。
「また俺の邪魔をしにきたのか!」
その剣士の頭に直接話しかけた。
大抵これをやると迷い混んできたきこり等は、青くなって転げながら逃げていくのだが……
「すまない、ここで少し休ませてくれ」
人の家の軒先を借りるかのように飄々と返してきた。
「俺を殺しにきたんじゃないのか?」
聞くまでもない雰囲気だったが、定型文のように聞く。
「いや、むしろ少し匿って欲しいくらいだ」
と返してきた。
変なやつだと爪先から頭まで眺めると、男の横っ腹に傷があるのが判った。
血もだいぶ流れているようだ。
「怪我をしているのか?」
「ああ、そうなんだ、少し休ませて欲しい」
強がってはいるようだが、その声は微かに痛みに震えていた。
タブラは戸惑った。
この500年誰かに頼りにされる経験というものが無かったからだ。
鳥も花も、彼には無関心で、自分のやりたいことをやっているだけだ。
大地や水に至っては、無反応だし。精霊たちは怖がって近寄ってこない。
人間に至っては、いつも邪魔者扱いするのだから。友好的な反応というものに慣れていなかった。
男はすまなさそうに、さらに口にする。
「こんな化け物のような俺に、慈悲をかけてくれるのか」
戸惑いの沈黙を、肯定ととったのだろうか? おめでたいやつだなとタブラは失笑する。
「何を言っている、化け物とはお前らにとっての俺だろう」
何度も人間にそう言われてきたのだ、その認識で間違っていない筈なのだが。
「はは、俺の血を見てもそんな反応なのは始めてだな」
「血くらい見たことがある、何故それで化け物扱いせればならん」
男は少し間を置いて。
「俺の青い血の色が見えていないのか?」
「……色?」
タブラには色という概念がなかった。物を物体で見ていなかった。マナの流れや、それが纏うオーラのようなものを感じ取っていただけだ。
「それがどうかしたのか?」
男はタブラの気の抜けた返事に対して乾いた笑いで返しただけだったが、同時に安心したように「ふぅー」と大きく息を吐くと、そのまま寝てしまった。
それからタブラは男にかいがいしく尽くした。
目の前の命が無為に失われるのをこれ以上見たくなかったというのもあったが、単純にこの男について興味を持ったのだ。
それから男の傷を治すために奔走した。
風の魔法で木々を揺らして木の実を落とし運んだり、飲める綺麗な水を用意したり、身体が冷えないように絶えず魔法の火を炊き続けたり、タブラにできることは全てやった。
その甲斐あってか、男は次第に生気を取り戻し、数日経つとまた話せるくらいには回復した。
タブラはその時初めて、誰かのために魔力を使うことの有意義さに目覚めた。
自分が今まで無為に雨を降らせ、雷を鳴らしたその力は、垂れ流しているだけの感覚でしかない、排便行為のようなものだと感じていた。
しかしその力が命を救い、感謝される対象になったとき『嬉しい』という感情を初めて感じることが出来た。
それはタブラにとって物凄く心踊る瞬間だった。
回復した男は『錆釘』と名乗った。
初めて会った時と同じように飄々としていて、タブラに対しても同族の人間たちのように平気で話しかけてくるような男だった。
「あの時は本当に助かったよ」
あれから数日経つが、未だに毎日のように感謝を述べる。
「俺には君たちのように手も足もないから、あのくらいしか出来なかったんだが。それでも元気になって良かったよ」
謙遜ではなく、タブラは初めて抱いた「助けたい」という気持ちを、うまく形にできない不甲斐なさに落ち込んですらいた。
「魔法は使えるのに、回復の呪文は知らないのかい?」
突如知らない単語が錆釘の口から登場し困惑する。
タブラは魔法という概念も無かった。
その場にいる精霊の力を借りて、木の実を運び、水を運んだだけだ。
「人間には魔法というものがあってだね」
錆釘は人間の魔法についてタブラに丁寧に説明した。
元々魔力の塊であるタブラは、その説明どおりにマナを動かし、魔法を発動させて見せた。
「これが、魔法……」
同じマナの消費で、多くの水や、大きな火を得ることが出来た事に驚くタブラ。またそれを楽しむ錆釘はさらにこう続けた。
「魔法の使い方次第では、俺の傷も一発で治せたかもしれないよ」
「なんだって、それがあれば君はもっと早く元気になったってことだろう? 教えてくれ、どうやるんだ!」
タブラに知識欲が生まれたのもこれが最初かもしれない。
知ること、誰かのためになること……
錆釘と話していると、新しい感情が源泉のごとくどんどん沸いてでてくる。
まるで灰色だった500年を、たったこの数日でカラフルに塗りつぶしてしまうかのような、圧倒的な『色』を感じた。
世界は色で満ち溢れていたのだ。