102話『タブラ=ラサ=タイム』
「その赤ん坊が、ラスティだったんですね」
激しい出会いを、タブラは淡々と語って聞かせてくれた。
「そうだ、ラスティはこの体の持ち主、錆釘の実の娘だ」
「錆釘さんは、その……生きてるんですか?」
俺の質問にタブラは困った表情をする。
「わからないんだ。もちろん体は生きている。だが心は……微かにそれを感じるような気もするんだが……」
タブラはその右手を自分の胸に当てて、何かを探るような仕草をするが、やはり何も感じないのだろう。手を離してしまった。
「どうしたのだろうな。この話を君にするなんて」
「本当ですよ、本来だったらラスティにしてあげるべき話でしょうに」
「全くだな」
彼の秘密を知ってしまったが、俺はこういうことを心の奥にしまうほうだ。
ラスティに俺の口から伝えることもないだろうし、知ったからといって態度が変わることもない。
しかし、この内容は彼女も知るべきだと俺は思う。
「ラスティが15歳になったら話そうと思っていた。だが実際に15になってもまるで屈託のないその笑顔を見ていると、話す時ではない気がしてな……」
珍しく弱気にそんな事を言うタブラに、なんとなく少しイラッとした。
まるで呪龍との戦いの後に感じたような、理想の彼が綻びるのを見ているようだ。
いや、誰も理想どおりな人間などいない。
弱さや葛藤を抱えながら生きているのだ。
だがそれだけではない筈だ。
「俺はもう言った方がいいと思います」
キッパリといい放つ。
人間の強い面を信じているからだ。
「そうだな、トキ君の言う通りなのだろう」
そう言うと、青く広がる空を見つめる。
「ラスティには、父親のような人間になって欲しい。誰とも分け隔てなく接して、大事なもののために力を振るえるような強い人間に……だからこそ彼から名前を貰ったんだ」
「なんとなく気付いてましたよ」
ラスティネイル、それは錆びた釘という意味。
「新品の釘で打った板はすぐに剥がれてしまう。しかし、錆びた釘は板と一体になり引き抜きにくくなるんだと、アイツが言ってたのを思いだすよ」
その釘は確かにタブラの心に刺さり、二度と抜けることはないだろう。
それは少しの痛みを伴うが、同時にその存在感を感じさせてくれる。
「そうだ、タブラさんの名前は誰が付けたんですか?」
先程の話を聞く限りでは、名前のない魔力の塊だった筈だ。
「錆釘が付けてくれたんだよ、怪我が治って帰る前に」
「タブラ=ラサ=タイム……でしたよね」
「古代のラテン語で『何も書かれていない石板』という意味だそうだ」
俺はその言葉を初めて聞いたが、錆釘が言わんとする事がなんとなく理解できた。
「いい名前を貰いましたね」
「そうだな、トキ君の名前はどう付けられたのだ?」
まさか自分に振ってくるとは思いもしなかった。
実はこの名前、あまり気に入っていないのだ……
「実は言葉遊びで……名字が八橋ってのをスマホで打つときに、そのままローマ字変換するとtimeって出るんですよ。そこから『時』って名前を取ったみたいで……」
「スマホはわからんが、古代の暗号変換器か何かか」
「今度説明します」
いや、食い付かれると思ったけど。
「で、俺が女の子だったら『時雨』と名付けようとしたらしいんですけど、男だった場合の選択肢を何も考えてなかったらしく、取り敢えず時彦と」
「安直なのだな」
「ええ、深い意味もなく……なんかスミマセン」
盛り上がるような話題ではない名前に、何故か謝ってしまう。
「その名前が時を司る守護を招いたのかもしれん、この世に意味のないことなど無いんだよ」
そう言いながら、ずいぶん大きくなった俺のクロノスを見ているようだ。
「さぁ、タブラさん。休憩は終わりでしょ」
ずいぶん長い休憩を取ってしまったものだと、あわてて腰を上げる二人。
「やることが山盛りだからな」
そういうとみんなの待っている場所へ戻り始めるタブラ。
その背中を見ながら、俺は思う。
彼はまるで人間だ。
ただ、戸惑っているのだろう。人間との違いに。
人はいつか死ぬ。
だが彼は死ぬことがない。
だからこそ、今話さなくても後で話せばいいという感覚になるのかもしれない。
錆釘や彼の奥さんが、精一杯生きて、死の間際に誰かの幸せを願う笑顔を、彼が理解する日は来ないかもしれない。
根本として『希望』という言葉を彼は理解していないのだ。
それは、推測や予知ほど確実ではなく。
もっと心の部分で明るい未来を想像する力だ。
だからこそ錆釘はタブラに名前を付けた。
『何も書かれていない石板』に、永遠の『時間』。
どんな物語がそこに紡がれるのか、楽しみにしながら。
それを『希望』と言うのだと。