100話『許容できない死』
錆釘はもうタブラの呼び掛けに答えることはない。
木や花のように、ただそこに有るだけのものになってしまった。
死とは悲しいものだ。
人間を観察するようになって、いくつかの死を見ることがあった。
死にゆく本人は最後まで抗い、のたうち回り「死にたくない」と叫ぶ。
回りのものもそれを悲しみ、どうにかお助けくださいと神に祈る。
それが当たり前だと思っていたからだ。
何故、錆釘は死ぬ前に笑ったんだ……
笑えるのは生きてこそだろう。
500年生きてきた……いや、不死であるタブラには、死を喜びで迎えるその感情が、理解できるはずがなかった。
人は、終わりがあるからこそ強く生きることが出来る。
自分の生きてきた意味を実感できたとき……死んでもいいと思える瞬間さえ持ち合わせる生き物だ。
そんなものを理解するには、タブラにはまだ時間が足りなかった。
死を許容できなかったのだ。
タブラは青い血を、錆釘の中に戻そうと試みる。
『スネイクリバー』
地面に吸い込まれかけた血液が、一つの小さなうねりになる。緻密な作業で不純物は取り除かれていた。
それをそのまま傷口から押し込む。
だが動かない。
タブラには見えていた。
血液は戻っても、蓄えられていた魔素は戻ってきていない。
魔力の塊であるタブラは、自分の体をその血液に溶かし混みはじめた。
普通の人間には無理な事だっただろうが、神を降ろせる青い血は、それを可能にさせたのだ。
魔法の力で血管を流れる血と一緒に、タブラの体が流れていく。
ついに最後の欠片までが、その青い血へと溶かされ……錆釘と一心同体になる。
この体を生かさなければ。
次に心臓を動かし、血液を送る。
五臓六腑に血が行き渡り、まるで生きている人間と同じように体が機能するのがわかった。
やったぞ! 成功だ!
錆釘の蘇生に成功した。
しかし、彼が喋る事はなかった。
タブラは彼の奥深く『心』と呼ばれる器官を探した。
どこにあるかもわからないその器官にこそ、錆釘が居るのだ。
だがいくら体の中を調べても見つかる事はなかった。
そのうち、雨が降ってきたのを肌で感じた。
今まではタブラの体は全てを素通りしていたから。雨粒の当たる感覚に酷く驚いた。寝転がる地面の感覚に初めて気付いた。
これが、体。
折角体を治したのに風邪を引いてはいけないと思い、体を起こして立ち上がる。
動きは体が覚えているが、新鮮な感覚なのは間違いない。
一つ一つの感覚に感動しながらも、錆釘の体を守るのに必死だった。
その時、虫の知らせのような小さな不安に駆られて、回りを見渡す。
天使の死体がない。
魔法で吹き飛ばしたあと、どこにいったのだろう。
小さな不安は、やがて芽を出し、大きな不安へと一気に成長した。
「あいつ、里を!!」
怒りにまかせてそう口に出した時には、地図を頼りに走り出していた。
初めて声を発した喜びがかき消える程に、怒りに満ちていた。
この世界には、死と生がある。
その天秤は、儚くも自分の価値観に委ねられている。
錆釘が天使を殺そうとしたのは、仲間の安寧のため。
天使が錆釘を殺そうとしたのは、プライドのため。
俺が天使を殺そうとしたのは、錆釘の命のため。
それぞれの勝手な価値観で相手の命を奪う。
これが心理なのだろうか?
そんな事を考えながら、丸一日走り続けた。
錆釘の体は、疲れを知らない。
溶け込んだ大量の魔素が体を動かしているだけなのだから。
走れ、走れ。
俺は大事なものを託されたんだ!
何のために錆釘は命を投げ出したんだ!
走れ!
そんな思いとは裏腹に、隠れ里は無惨な姿を晒していた。