8 落花流水
それは今より八年前に遡る。アーケイディスは十七の終わりだった。
アーケイディスの父である国王が病に倒れ、成人の十八歳を迎えた時、アーケイディスは王位を継ぐことになった。
その時、アーケイディスは戴冠の後にすぐさま婚姻が決まっていたのである。
幼い時の約定により、サーディシエントのアリステア姫を妃に迎える事が決まっていた。
「下らぬ」
ぽつりともらした言葉を、誰も聞いてはいなかった。聞かれるような不手際をアーケイディスが犯すはずが無かった。
アーケイディスは頭がよく、体術剣術に優れ、美貌で知られていたが、彼にとって不幸なのはまさにその点だった。
国王になるためにだけ生まれてきたかのような資質。
そして国王になるしかない運命。
それは自分では何も選べない運命。自分の幸せの一切を諦めねばならぬ運命。
国王になどなりたくなかった。
理想は剣士だ。そして可愛い妻を迎え、子と戯れたい。
アリステア姫には確かに会ったというのに面影が何一つ思い出せない。
そんな印象にも残らぬ女に精を放ち子を成し、そして連綿と続く王家の系譜に更なる名前を付け加える。
そんな運命にうんざりしながら、アーケイディスはそれを一切外に出さず、父母に尽くし、民に笑みを見せ、臣下を労った。
そして、今、アーケイディスは馬車に乗っていた。
これから向かう場所は紳士のための娼館。
アーケイディスに『女』を教えるために馬車は走る。
確かにアーケイディスは女を知らなかった。毎日生きる事に精一杯で、そんな余裕は無かったし、女に興味が無かったのもある。とはいえ、男に興味がある訳ではない。
そして馬車が到着した場所は、王家の離宮のような豪奢な建物だった。
アーケイディスは国王になったら早速この娼館からの税を上げようと思った程だ。この娼館はフェリシニアの王家からの手厚い保護を受けているからだ。
「王太子殿下、ようこそおいで下さいました」
女将が頭を低く低く下げる。
「破瓜姫は、既にお部屋にてお待ち申し上げております」
アーケイディスは、ぎこちなく笑んだ。
破瓜姫とは自分に女を教えるためだけにこの娼館が育て上げた娘だという。
美貌と知性に秀で、沢山の芸事を習得し、世事に長けた娘だそうだ。
しかしその事自体には興味がない。
アーケイディスが胸のむかつきを抑えながら此処に来たのはその娘を自由にする為だった。破瓜姫は生まれてこの娼館に引き渡されてから、此処より外に出た事が無いという。
まるで人の扱いを受けていない。
自分の代から破瓜姫の制度は廃止にしてやると思いながら、アーケイディスは華美を極めた娼館の中に足を踏み入れた。
その途端聞こえたのは琴の音だった。そして続く歌声にアーケイディスは脳内に迦陵頻伽とはこのように囀るものかと思った。
この不浄なる場に似つかわしくないほど澄んだ歌琴の音と歌声。
城の吟唱詩人もかくやという技量に、アーケイディスは素直に耳を澄ました。
そして。
「此方でございます」
案内された部屋は、琴の音と歌声の生まれる場所。
唐突に、琴の音は止まり、歌声も掻き消えた。
音が消えたと思ったアーケイディスは、不思議な喪失感を覚えた。
しかし、女将はそんな彼の心情に気付く事もなく、遠慮なくその扉を開ける。
中には黒髪に紫水晶の瞳の娘がいた。
黒い髪は艶々としており、瞳は幾星霜をも生き抜いたかのような深い理知的な光を宿していた。赤い唇も薔薇色の頬も、化粧ではなく彼女自身の色である事がすぐ解る。
娘は琴を壁に立てかけると、優美に礼をして見せた。
城に集う貴婦人達より余程洗練された動きであった。指先まで神経が張り詰められ、ほんの僅かな緩みも無い。
身に纏う白いドレスには一切の装飾が無い。髪には花も挿していない。
それなのに彼女は、とても高貴に見えた。
「ソニア! 今朝用意した衣装と髪飾りはどうしたんだい!? 王太子様をそんなみっともない格好でお迎えするなんて!!」
「構わぬ」
女将のわめく声は耳障りであったし、少女に飾り付ける必要はないように見えた。
「はぁ、左様でございますか? では、では、ごゆっくり……どうぞ、ごゆっくり」
アーケイディスはさっさと部屋の中へ入っていった。
大きな箪笥に、全身鏡。立てかけられた琴。下品なまでに飾りつけられた天蓋付きの寝台。その中で、明らかに少女は浮いていた。少女はまるで、神話にある美の女神のようだった。
扉が閉まる音がする。
礼をとったままの少女に、アーケイディスは顔を上げるように言った。
そっと顔を上げた少女の黒い睫毛の長さにアーケイディスはまた驚いた。そして珍しい紫水晶の瞳は遠目で見るのと間近で見るのとでは随分印象が違った。
「そなた、名はなんという?」
「ソニア、と、申します」
それは彼女のために用意された名前のようにしっくりと来た。
「私の名前は知っているか?」
「アーケイディス様。勿論存じております。自国の王太子様の名前を知らぬ民がおりましょうか」
ソニアの答えにそれもそうかとアーケイディスは思い直した。
「確かに。そうだ。さっき歌っていた歌を聞かせてくれぬか?」
「歌、でございますか? 解りました。お耳汚しでしょうが。お立ちになられたままではお疲れになるでしょうから、どうぞその寝台にお座り下さいませ」
「そなたも座るがいい」
「床で十分でございます」
言って、ソニアは立てかけてあった琴を手に取ると床に座り、それをそっと爪弾き、歌い出した。
懐かしい歌であった。
それはアーケイディスが幼い頃、母に毎夜歌われた子守唄である。
アーケイディスは油断すると全身が沈み込みそうになる寝台に座って目を瞑り、ずっと、ソニアの歌を聴いていた。
ああ、こんなにも心が優しくなれる時があるなどと。
アーケイディスのいつも張り詰めていた心が微かに緩んだ。
王太子らしく、世継ぎの君らしく。
そんな事を考えなくてよい空間をソニアという女はいともあっさり作り出したのだ。
つうっと、頬を何かが伝った。
アーケイディスは驚いてそれに手を伸ばす。
涙、であった。
俺は、泣いていているのか?
父が病に倒れた際も涙など、浮かびすらしなかったのに。
「アーケイディス様?」
歌がやみ、ソニアが心配そうにアーケイディスの顔を覗き込む。
「お気に召しませんでしたか? わたくしの歌は」
「違うのだ、違う。その反対ぞ」
慌ててアーケイディスは言った。
「我が母上が歌ってくれた歌だと懐かしく思うたまで。母上はお厳しい人ゆえ物心付くか付かぬかの内にお歌は歌ってもらえなくなった。強請ると叱られた。故に」
立ち上がったままソニアは寝台に座っているアーケイディスの頭を己の腹に当てるように抱きしめた。
それは無礼だといってもよかったかもしれない。
だが、至上の心持ちであることも間違いなかった。
今まで誰もアーケイディスに与えたことの無かった安堵感をソニアはアーケイディスに与えたのだ。
まるでソニアは、アーケイディスをどう扱えば良いか正しく知っているかのよう。
「決めた」
ぼそりとアーケイディスは呟いた。
「何でございましょう?」
聞き返すソニアに、アーケイディスは子供のように笑った。
邪気のない笑顔の中、瞳だけ輝かせて。
「そなたを妃にする」
「え?」
がばっと、アーケイディスはソニアの腕から逃れると命じた。
「思い入れのある品は急いで荷造りせよ。王宮にそなたを連れて帰る」
それは何もかも定められていると絶望していた王太子が、初めて自分で選んだ事。
「その様なこと、一瞬の心の揺らぎで決められることではありませぬ! 後悔します!!」
「誰が後悔すると?」
「お互いが、です」
真剣な表情で、ソニアは言った。
彼女のその真摯な瞳がまた愛しくて。
◆◆◆
「しかし、余は後悔したことは一度も無い。今もな。あれには後悔だらけの七年間だったやもしれぬが」
アーケイディスはそう言い、ケセルトンの銀の髪をもてあそんだ。
「それだけ、か?」
ケセルトンは言った。
「後悔だらけの七年間だったから、ソニア様は尼僧になろうとなさっておいでなのか?」
「違う」
楽園の王の寝室。内宮の王の寝室と似ていながら、全く違う。
此処には、女の影があった。
当たり前だ。此処は女を抱くための寝室なのだから。
くるぶしまで沈み込みそうな毛足の長い絨毯は、柔らかな桃色。そこに薔薇の花弁が敷き詰められていた。薔薇の香気が溢れる部屋で、金のふちの鏡を見ながら、ケセルトンは此処に通った何人もの女の事を考える。
無性に、内宮で借りていた寝室に帰りたくなった。
鏡の中に、表情を凍らせたケセルトンの髪を梳るアーケイディスが写る。
「あれは、ソニアは、男は永遠ではないといった。いつか他の女に恋をする。他の女を愛する。それなら自分は残酷でも平等な、神の花嫁になりたかったといった。だから、約束した。あの時の余はまだ若く、いや、幼かったが故にソニアの言うことが解らなかった。余の想いは永遠であると信じていた。他の女を愛するなどありえぬと思った。故に永遠を誓い、それが嘘になった時、即ち他の女を愛した時、あれを開放すると約した」
「……」
ケセルトンはその通りだと思った。
アーケイディスも、レントの男も、いや、男という種族はすべからく永遠ではない。
誓いなど、ソニアは信じてさえもいなかったかもしれない。
そんな不遜な事を考えていたのに、なのに、アーケイディスはケセルトンに言った。
「余はそなたを愛した」
単純に、たった一言。
それなのに、ケセルトンの胸は高く高く音を立てる。喜悦の心で、何も考えられそうにない。
それでも、ケセルトンは必死に言葉を紡いだ。
「……私が、ソニア様に勝るところなど一つもないのに?」
ケセルトンは胸を抑える。
心臓が爆発しそうだ。
信じたくなるではないか。
アーケイディスだけは永遠に、ケセルトンが死ぬまで、もしくは彼が死ぬまで愛してくれるのではなかろうかと。
愛などと言う言葉を、つい数ヶ月前の自分に突き付けたなら大笑いした事であろうに。
そんなケセルトンの心中も知らずアーケイディスは真面目に考えてから言った。
「体術剣術ではソニアはそなたに軍配を上げるだろうな」
「そんなもの、女の価値ではない。男の価値だ」
ケセルトンは頬を膨らませた。
「そなたは、面白い」
アーケイディスは膨らんだ頬に指を沿わせると笑った。
それは今日初めての、アーケイディスの心からの笑顔であった。
「お笑いになられたな」
「そなたも笑え」
「面白くもないのに如何にして笑えと仰る?」
ケセルトンが鏡越しに睨みつけてくるので、アーケイディスはふむと首をかしげた。
「そなたは素直よのう。余が笑えというても笑わぬ娘はそなたぐらいよ」
「素直? 私がか? 私は素直ではないといってよく殴られたぞ?」
ケセルトンはレントでの生活を思い出した。
剣で打たれて泣かぬと素直ではないと言われ、閨で抱かれて鳴かぬと素直ではないと言われ。
そんな事は、まさか婚姻の夜に言えはしないが。
「嘘をつかぬそなたに、余を愛していると言わせたい」
熱に浮かされたように、アーケイディスは言う。
「今日、生涯を共にすると言うた」
ケセルトンの答えに、アーケイディスは首を振る。
「生涯を憎みあい過ごす夫婦もいる。余は、愛しおうて過ごしたい」
「──本当に私で宜しいのか?」
あれだけ沢山の妾妃様方がおいでなのに?
ケセルトンの問いに、アーケイディスはこくりと頷いた。
「ソニアを止めようとした。だが、あれの意志が鋼より強靭なものゆえ、行かせた。その時、『幸せになれ』と言うてやる事が出来たのは、余が幸せになれる事を知っていたからだ。そなたが余を幸せにしてくれる事を知っていたからだ」
「そして貴方が私を幸せにしてくれることも、確かな事だと信じて良いのか?」
「無論」
アーケイディスはケセルトンの髪を梳くのを止めて櫛を置いた。
軽々と、アーケイディスはケセルトンを抱き寄せて自らの膝の上に載せると、そっと口づける。
優しく触れる唇。甘い唇。その唇をケセルトンは己が舌で割った。そんな事をしたのは生まれて初めてであった。
彼女の反応に驚きながらも、アーケイディスには口づけが深く熱っぽいものへと化していくのが解る。
ケセルトン自体も驚いていた。自分からそんなことをするなどと。
だが、舌という物は何と甘く、頭を痺れさせるのだろう。これが口づけ? 今まで男達と交わしてきたものと全然違う。
肉体がふるると震えた。だが如何に夜とはいえ若葉月ともなればもう寒いはずもない。
これから起こる事に戦慄しているのだ。
唇が離れ、唾液が銀の糸を引いた。
もっと、もっと欲しい。もっと、もっと、あなたを知りたい。
「人の心は移ろう……だが、余はこれを最後の恋にしたい」
アーケイディスの言葉は、ケセルトンの背筋に電流を流した。痺れる感覚が心地良い。
「私には……初恋だ」
ケセルトンの言葉に、アーケイディスは笑った。
「では余はそなたをずっと虜にするよう努力しよう。そなたが余以外を見る事がないように、させてみせよう」
「大した自信であられる。その根拠は何処から?」
「そなたの目が余以外を見たくないと語っている。そなたの紅い瞳は、饒舌だな」
「素晴らしい思い込みだ」
ケセルトンはぼそりと呟いた。
それでも悪い気はしない。
「そんな貴方が好きだ。我が夫殿」
その言葉に、アーケイディスは胸を射抜かれたような気がした。
この女の『好き』という言葉は、他の女のそれと全く意味も価値も違う、少なくともアーケイディスにとっては。
たまらずに、ひょい、とアーケイディスはケセルトンを抱き上げてみせた。
ケセルトンはどの妃よりも重かった。
筋肉質な体、長い手足。鍛え上げられているから、小鳥の軽さは望むべくもない。
ケセルトンはその腕をアーケイディスの首筋に回すと様々な思いを込め溜息を吐いた。
丹念に梳られた髪が銀のヴェールのようにアーケイディスの肩を覆う。
そしてケセルトンの身体は沈み込みそうな寝台の上に優しく横たえられた。
ケセルトンの胸は破裂しそうであった。初めて男を迎え入れたときでも心は揺れ動かなかったのに。
今はまるで処女のように震え、期待し、待ちわび、羞恥に染まる。
部屋中の蝋燭を消し、枕もとの一本だけを残して、ケセルトンの足元に座ったアーケイディスは、己の妻になったばかりの娘の小さな足を包む部屋履きを脱がせた。白い足は血管が透けて見え、まるで生まれてからこの方一度も日光に当てられた事がないようだった。
その足先にアーケイディスは口づける。
びくんっと、ケセルトンの体が跳ねた。
夜着に着替える前に、高い踵の靴のせいで浮腫んでパンパンになった足は、足湯を使わされ、香油を刷り込まれ、丁寧にマッサージされた。しかし、ケセルトンには足は汚いものだという認識がある。今まで臥所を共にした幾人もの男達も足先への口づけなどしなかった。だが、アーケイディスのその行為は今まで味わった事のない悦びをケセルトンにもたらした。それに驚きつつも理性が言葉を紡ぐ
「アーケイディス様、駄目、汚い……から」
「汚い? 香油の香りしかしない此処が、か?」
右足の親指を舐りながらアーケイディスはくつりと笑った。
快楽に飲まれそうになりながら、ケセルトンはいやいやをするように首を振った。
暴れたら、夜着の裾が捲り上がり脚が丸見えになってしまうだろう。それは出来ない。
「アーケイディス様、お願い……!!」
ぺろりと一舐めして、アーケイディスはケセルトンの右足を開放してやった。
アーケイディス自体、足先など舐められた事はあっても舐めた事はなかった。
ただ、その足の白さに溺れた。
「泣かせるつもりはなかった。すまない」
ケセルトンの目じりに涙が浮いているのを見つけ、アーケイディスは舌を寄せた。
「泣くつもりなど……なかった」
今までどんな行為でも受け入れてきたし、それで涙など流したことなどなかったのに、優しい愛撫は切なくて胸が破れそうになるものだと知る。嫌悪からではなく幸せゆえに
「……ケセルトン、余は、今、緊張している」
はっきりと、一語一語を区切るようにアーケイディスは言った。
「緊張? 何故……?」
それは私の台詞だろう、と、ケセルトンは思った。
だが、アーケイディスの顔は真剣である。
「そなたを傷つける事が怖い……硝子細工のように粉々にしてしまいそうで」
「馬鹿な人だ」
この世で最高に愛しい人という言葉と同じ意味で、ケセルトンは馬鹿だと言ってみる。
そしてアーケイディスの頭を抱きしめる。
「こんな時に怯えるなんて……大丈夫だ、アーケイディス」
ケセルトンは初めて敬称抜きでアーケイディスの名を呼んだ。
「私は貴方が思っているより、強い」
ケセルトンはアーケイディスの額に口づける。不意に護らなくてはと彼女は思う。
次にアーケイディスの体の下で身をよじり、唇を捕らえる。そうだ、護る。アーケイディスを。
重ねるだけの口付け。何度もそれを繰り返し、次にケセルトンはアーケイディスの唇を舐めた。
挑発するように、ケセルトンはアーケイディスに口づけ、そして言ったのである。
「大丈夫。貴方が怖いのだったら私が貴方を抱く」
それは宣言。
口づけながら、アーケイディスはケセルトンの夜着の紐を解く。
ケセルトンはアーケイディスの夜着の釦をはずしていく。
タガが外れたかのように、二人は求め合った。
ケセルトンは男を抱いた事がなかったし、アーケイディスは女に抱かれた事がなかった。
それでも間違えずに、互いに感じあい、声を漏らさせ、焦らしあいながら、脚を絡めた。
お互い初夜のぎこちなさもなく、ただ相手の身体を知る事に熱中し、そして、熟練者同士のように技巧の限りを尽くした。
何度も何度も、どれだけ抱き合っても足りなかった。
溺れるように何度も求めた。言葉など必要なかった。
その時、間違いなく世界は二人で完結していた。
「愛している、アーケイディス」
それは溜息が押し出した言葉。