七 消えた妃、新たな妃
アリステアは真夜中に起き出すと泣いている赤子に乳をやった。
この子を買い取った時に、まさか赤子一人を育てる事がこんなに大変だなどと思いもよらぬことであった。自分が物事を軽く考えていた事を恥じる。
乳母を雇うという事をアリステアはしなかった。
ガーゼを山羊の乳に浸しその先端を赤子の口にくわえさせる。
こんなにも幼くて稚くて可愛らしくて愛おしいものを売れる人間は鬼か悪魔かとアリステアは思っている。
せめてわたくしが大事に育ててあげる。
アリステアは歌いながら何度も何度も山羊の乳にガーゼの先端を浸す。そして赤子の口に運ぶ。
大変でも構わないわ。この子はきっとわたくしだけを愛するようになるのですもの。他の誰も見ないで。大事に大事に育ててあげる。
もし、アリステアがこの赤子にレントの戦乙女の血が流れていると知ったら……それでもアリステアはこの子供を愛おしむだろう。
アリステアは愛深き女だった。
それ故、アーケイディスを深く深く愛し、そして憎んだ。
愛の深さは憎しみの深さに通じる。
それ故、アリステアは葛藤し、迷い、心を痛め、そしてその心はいつしか壊れていた。
「ねぇ、『シャーロット』、お前だけはわたくしを裏切らないでね」
シャーリーなどという名前でアリステアが赤子を呼ぶことは決してない。
この子はいつか社交界を虜にするのだ。それなのに、シャーリーなんて、まるで厨房の床磨きじゃないの。
乳をたっぷり与えられた赤子を縦抱きにしてげっぷを出させると、アリステアは自分の寝台の隣にある赤子用の寝台に横たえる。
赤子はあっという間に眠ってしまった。
若葉月も半ば。そういえば明日は満月だったとアリステアは思い寝床に入った。
そして幸せそうに眠る。彼女は今、『シャーロット』がいるから幸せだった。
だが、明日が何の日か知れば、胸を掻き毟らんばかりの苦しみに襲われるのに違いない。
サーディシエンド王家では聞かれないことには答えない。だからアリステアが聞こうとするまで誰も何も言わない。そしてアリステアは聞きたくない言葉をわざわざ問わない。
沈黙を美徳とする王家で、『アリステア姫が魔女と共謀して隣国の妾妃を殺害せし罪、重し。余りにも重く情状酌量の余地無し──』という言葉が盛んに発せられている事など知らない。
二ヶ月前から今に至るまで、国民全てが腕を振り上げ王女を糾弾している今、彼女は気付かぬうちに崖っぷちに突っ立っていたのである。
◆◆◆
その夜、婚儀の前夜に、ソニアと、隻腕のナーレリアと彼女の姉の女官長リーンディから届けられた宝飾品を見て、ケセルトンは国王の居間で何度目かの溜息をついた。
ナーレリアはケセルトンの婚姻の後、正式に女官を辞すことが決まっていた。隻腕で務まる仕事ではないからだ。解っていても……寂しい。
ナーレリアはフェリシニアの王宮での二人目の味方だった。一人目は言わずもがな、正妃ソニアであるが、ナーレリアもケセルトンにとって大事な大事な存在だったのだ。
大切に想うものはこの手から砂のように零れ落ちていく。
ネストの次はナーレリア……か。
居間は溢れんばかりの祝いの花で彩られ、良い香りというよりは臭い匂いに溢れている。婚儀の前日という事も有り、飾りきれないほどの花々が部屋中を埋め尽くすのではないかという程に溢れかえる。
その居間で見つめるもの。極上のルビー。鳩の血色の宝飾品。
ティアラにあしらわれた一番大きな石は、赤子のこぶしほどもある。その赤い色は本当に血を凝らせたかのごとくで、鮮やかであった。しかも、小粒のルビーもそこかしこにあしらわれていて、ティアラをそっと、手袋を嵌めた腕で持ち上げてみると、ずっしりと重たい。実際、小粒といっても一番大きな石に比べると小粒というだけで、その一つ一つが金では買えない宝であった。
ソニアは国宝だといった。フェリシニアが誇る国宝だと。
それも納得がいくであろう。この豪奢さは。
しかし頭に被れば頭痛は間違い無しである。
次にリーンディが取り出したのは首飾りであった。
こちらにも鳩の血色のルビーがちりばめられている。白金の鎖が蜘蛛の巣のようにレースのように複雑に網をなし、そこに小指の爪ほどのルビーが幾つも幾つも輝いているのであった。
宝飾品はまだあった。
次にリーンディが取り出したのはピアスであった。
釣鐘式のピアスは、飴玉のように大きなルビーを三つ、つないだだけの単純なものである。これだけのルビーを左右六つ、よく見つけられたものだ。耳朶が伸びて痛いのではないかと不安になる。
「最後は此方でございます、ケセルトン様。これは国宝ではありません。つまり貴女様だけに捧げられた品にございます」
そういって、その品はナーレリアでもリーンディでもなく、ソニアから白い手袋でそっと白金の箱ごと差し出された。ケセルトンは礼を言い、やはり手袋を嵌めた手でその箱を手に取る。
開けてみると、指輪であった。
金の台に埋め込まれたルビーは、まるで花弁のように中心のルビーを幾重にも囲む。そう、それは蓮だ。ケセルトンが一生背負う紋。
ルビーの大きさとしては国宝に比ぶべきではないが、その鮮やかな色合いと、細工の見事さが、ケセルトンの目を引いた。
「アーケイディス様がケセルトン様のためだけに作らせたお品です。貴女様を淡紅色の蓮と仰って」
「アーケイディス様、が」
それは信じられない事であった。
アーケイディスとはネストの葬儀以来、会ってはいない。
あれほど頻繁に自分の部屋にやってきた若き国王は、政務も何もかもを楽園で執り行っているという。
もうじゃじゃ馬には飽いたのであろうと、ケセルトンは寂しく考えたものだった。
ネストの事を気にしているだけならば……時間が経ちすぎているように感じる。王であるあー系ディスならとっくに割り切れるだけの時間が過ぎたのではないかとケセルトンは思うのだが。
しかし、ケセルトンはもう一つ、問題を作ってしまった。
王の女官たるナーレリアに一生消えない怪我を負わせ、王宮を血で汚し、レントの使者の命を絶った事について、彼女は書をしたため、アーケイディスに詫び、自分を裁いて自分の異母妹を妃に、と、記したにも拘らず、今日にいたるまで、婚姻の前日まで……何の返事もなかった。
それが、ケセルトンにはアーケイディスの怒りの表現に思えた。
徹底した無視。
なのに、なのにだ、この美しくも愛らしい指輪はケセルトンの為だけのものだという。
彼女の為だけにアーケイディスが準備した物だという。
小鳥達は『貴女は何も悪くないのだから』と皆で何度も言っては慰めてくれたがそれがどれだけの救いになるというのか……そう、暗い心を抱えていた。
彼女はアーケイディスからの言葉を渇望していた。
彼の訪れない部屋は、居心地が悪い。
それなのに、逃げ出さなかったのは何故だろう。
逃げ出すことが恐ろしかった。
もし追いかけてもらえなければ?
鬼のいない鬼ごっこほどつまらぬものはない。……寂しいものは、ない。
そう思って、次にケセルトンは追いかけてほしいと考えている自分に愕然とするのであった。此処に来た当初は、逃げ出せば異母妹達が代わりに献上され問題は無いであろうと思っていたのに。
だが、アーケイディスは変わらず自分と婚儀を挙げるつもりらしい。そこまでは、冷静な自分が所詮自分は政治の駒だと嗤いながら予想はしていた。
しかしこの指輪の意味は?
指輪はずっしりと重かった。ティアラよりも重く感じる。その意味故にこの手ではなく心が重みを感じているのだろう。
「どうかなさいましたか? ケセルトン様」
リーンディの声に、ケセルトンははっと我に返った。
「いや、なんでもない」
逃げ出そう、と、ケセルトンは思った。
今夜中に逃げ出そうと。そうすれば、逃げた女が産んだ子の命など考えず、アーケイディスはサーディシエントに攻め込めるであろう。そしてソニアか妾妃達の誰かが子を産むであろう。
「明日はこれら総てをケセルトン様に身につけていただく事になっております。ドレスはもう見ていただいたかと思うのですが大体のイメージはつかめましたか?」
「あ、ああ。素晴らしい花嫁衣裳であった」
ケセルトンはアーケイディスへの想いと、逃げなくてはという思いで滅茶苦茶になっていた。そんな状態でドレスや宝石類を見ていても楽しくもなんともないのは当然である。
ケセルトンとて女である。王子様と暮らす姫に憧れたこともある。そしてその夢は形だけなら叶いそうなのに。
王子様で無くても良いんだ。私は一人の男として、あの男が……愛おしいのだろう。
気づくと、堪らなく辛かった。生意気な態度ばかり取るじゃじゃ馬。挙句、彼の財産たる女官を護ることも出来ず、彼の民たるレントの使節の喉を握りつぶし、殺した。
愛おしく思っていても、愛してもらえる要素がなさ過ぎてケセルトンは頑是ない子供のように泣き叫びたかった。
思い煩うケセルトンに、リーンディは話し続ける。そしておもむろにリーンディはケセルトンの眉間に触れた。唐突に、ケセルトンの意識が現に戻る。
「ですから、ケセルトン様にはこの眉間のお皺を、伸ばしてくださいましね。明日は最高に美しい花嫁として、フェリシニアを熱狂させてくださいませ」
「そうです」
ソニアが優しく言葉を添えた。
「美しいフェリシニアの花嫁に民草は恋をするでしょう。五つから上、百より下の男総て虜になさいませ。五つから上、百より下の女総てから尊敬の念を勝ち取りなさいませ。貴女様なら出来ます」
「そんな、そんな無茶な」
ケセルトンは困惑したように言った。実際、困惑していた。
「国王のお渡りも無いような女に何が出来ましょう。私はただ、レントとの絆を明確にするためだけの存在。レントの民には欠点もそれは多うございますが義を大事にし、約定を違えませぬ。私はそれだけを人々に知らしめる為の……」
「違いますわ、ケセルトン様」
優しいが、まるで芯がダイヤのごとく硬いソニアが、柔らかな言葉に断固とした響きを添えて言う。
「アーケイディス様は一人の男として貴女を求めていらっしゃるのです。ですが、よく言いますでしょう? 二兎追うものは……と。今まさにアーケイディス様はその状態なのです。こちらにお渡りが無いのも貴女に飽きたからでもなければ忘れている訳でもないのです。そうね、リーンディ、ナーレリア、お前達は少し、外しなさい」
きっぱりと命じる正妃に、二人の女官は素直に従った。
「アーケイディス様がもし私に飽きたのでも、私を忘れている訳でもないなら、きっとあのお方にはたくさんのお妃様がいて、一時期私に構いすぎた分の埋め合わせをしているのかと思いました」
ケセルトンはぽつりと言った。それは彼女の思いつく中で最大の希望的観測だった。
しかしソニアは被りを振る。唇に笑みを湛えたまま。
「違いますわ、ケセルトン様。今、一羽の小鳥が、楽園から脱出しようとしている最中なのです。それを阻止しようと足掻いていらっしゃいましたが、小鳥の、否、わたくしの勝ちですわ」
そう言ったソニアは、まるで悪戯を企む子供のようであった。
「ソニア様?」
ケセルトンは不安になりながらもソニアの名を呼んだ。理解出来ない。何なのだ?
ソニアはにっこりと笑うとケセルトンの両手を握った。
「わたくしの跡を継いでください」
「は?」
ケセルトンが間抜けな声を上げ、瞠目するもソニアは続ける。
ソニアの紫の瞳は煌々と輝き、うっすらと涙で潤んでいる。まるで感極まった者の瞳の様だとケセルトンは思う。
ソニアの声が熱を帯びた。
「……ですから、フェリシニアの正妃の座にお昇り下さい。アーシュ様の一番に。貴女様にならば可能ですわ。いえ、貴女様以外では務めきれない事です。わたくしは、あのアーケイディス様が心配。直情径行で猪突猛進を繰り返してしまうあの方の心の安らぎになって差し上げて下さいませ。わたくしがいなくなった後も、誰かがあの方を甘やかして差し上げなくてはならないのです。お願いです。レントのケセルトン様。他の妾妃様方には見せられない弱みでも貴女様になら、あの御方はお見せになるでしょう」
混乱でする余り、ケセルトンの視界がぐらりと揺れた。三日三晩飲まず食わずでいたとしてもケセルトンは目眩など覚える事がないというのに。
ふらつくケセルトンの身体をソニアは華奢な手で支えると、その紫水晶の瞳でケセルトンの紅玉の瞳をじっと見つめて微笑んだ。
「わたくしは、尼僧院に参ります。貴女様は、フェリシニアの花嫁として、どうかアーシュ様を助けて差し上げて下さい」
「私は……!!」
何かを言いかけてケセルトンは口を噤んだ。
何も言える事がないからだ。ソニアの言葉を理解する事を無意識に拒んだ所為だ。
嗚呼、この方は何を仰っているのだろう? 私には解らない。
一体何を?
◆◆◆
翌朝、まだ空が白みかけた頃に女官達が集まり、華やかな声を上げていた。
「お美しゅうございますなぁ、花嫁様」
湯浴みを済ませ、身体に香油を刷り込んでもらう時に、女官達は背中の蓮の花に見とれた。ケセルトンの身体は湯により薔薇色になっている。蓮の花に微かに赤みがさしたところは見ものであった。
「早うおし、アディル。手が止まっているではないですか。花嫁様のお支度が滞れば今日一日のスケジュールがみな遅れるのですよ」
檄を飛ばすのはリーンディであった。彼女は足に香油を擦り込んでいる。
はい、と気持ちよく答え、アディルの手がマッサージを施すようにケセルトンの身体に触れた。そして髪にも香油を擦り込まれる。
人に自分の体の世話を任せるのは、正直、ケセルトンは好かぬ。だが、今日という日は違った。
せわしなく頭を働かせ、ソニアへの言葉を考える。その間に滞りなく用意が済んでいるのはケセルトンにとっては有難かった。
昨日聞いた話が忘れられぬ。
正妃になど昇りとうて此処に来たわけではない。
では何の為ぞ?
それは……それは?
ケセルトンは右手の中指の指輪を見つめた。
アーケイディスからの贈り物の金とルビーの蓮の指輪だ。
アーケイディスは、何故指輪などを贈ってくれたのだろう? 妾妃達皆に、こうして指輪を贈ったのだろうか。
香油を塗り終わった後、ケセルトンは立たされるとドレスを着せ掛けられた。
ふんだんにレースが使われている物の、そのドレスはどちらかというとケセルトンの体のラインを強調するドレスだった。レースは極上の物を使っているが、あくまで添え物。見て感嘆の溜息を吐くのは、ケセルトンが鍛え上げた身体だった。
レドモンディア夫人は最後には泣き出したものである。
これだけの筋肉を蓄えながら筋肉達磨になるのではなく、余分な部分を絞り切ったお身体は今までドレスを作らせて頂いたどなたよりも美しく完璧ですわ!
上半身も下半身もぴったりしたラインで袖に沢山のレースをあしらってはいるものの、やはり添え物。二の腕までを覆う純白のキッドのグローブを嵌めさせられ、ケセルトンは手の違和感を必死で我慢していた。
ケセルトンの花嫁衣装は所謂マーメイドラインのドレスであったが、少しでも余分なところへの贅肉の付着を許さないそれは、驚く程ケセルトンにはぴったりである。
ウエストの後ろに大きな淡紅色の絹の花が飾ってあり、そこから魚の背びれを意識したのかレースが滝のように尾を引く。
長い裾のドレスでの歩き方を教えてくれたのはソニアだった。
ソニア様、私はまだまだ貴女に相談したい事があるのです。まだまだ教わらねばならぬ事があるのです。
白のサテン地に小粒のルビーが散りばめられた踵の高い靴を履く。
ケセルトンは靴が苦手だった。柔らかい沓や、しなやかな長靴が好きであった。
それでも祝いの席ゆえに彼女は文句をこぼさない。ヴェールを被り、ティアラでそのヴェールを固定したケセルトンは城中のどの肖像画の王妃よりも美しかった。
ヴェールの精緻な花の刺繍は、銀髪に花弁をまぶしたよう。
紅い瞳は、ルビーの紅に引き立てられ、鮮やかに輝いている。昨日の昼磨きぬかれた手の爪は桜色をしていて、大変美しい。
化粧の必要が無いほど完璧な顔の造作に、ケセルトンは紅指し指で紅を引く。合わせた貝殻を開き、片方を紅入れに、片方を蓋にするそれは丁寧な細工が施されていた。
ソニアからの贈り物だった。
──わたくしはまだ海を見た事がありませんけれども、いつか、見てみたいですわね──
うっとりとした声で囁いたソニア。
海、というものの認識について、ケセルトンは砂漠の砂が総て塩水に代わりその中を魚が泳ぐ図という捉え方しか出来ていない。
見た事が無いのだから当たり前である。
懐紙を唇の間に挟み、そして抜く。小さくて、だけれどもぽってりした唇の形が紅く懐紙に刻まれる。
この胸がもう少し大きかったら良かったのにとふととケセルトンは思う。
ミスティリカのようにとまでは言わない。ティーローゼくらいに。だが、その小さな手毬のような胸だから今日のドレスを着こなせる事も知っている。
ソニア様、私は貴女に憧れて面倒な事も沢山学んで覚えて……!
銀と紅の美しい花嫁。
「完璧ですわ、ケセルトン様!! 素敵です」
「なんとお美しいんでしょう。こんな美しい花嫁様をわたくしは見た事がございません……きっと陛下もお喜びになられますわ」
「流石は国王陛下の隣に並ばれるお方です」
美辞麗句が右から左へ通り抜け、それでもケセルトンは何とか礼を言う。
胸の事を考えている場合ではない。
本当は衣装も装飾品も投げつけてケセルトンはソニアを探したいのだ。
けれど、ソニアはそれをするとケセルトンを決して許しはしないだろうとケセルトンは知っている。
剣で戦いを望む、そんな怒り方はソニアはしない。
それよりももっと効果的な方法で……ケセルトンへの興味と愛情を心の中から消すという方法で、ソニアは断罪するだろう。
「花嫁様、神殿へ、急ぎましょう。もう花婿様が待っておいでやもしれません」
◆◆◆
「思いは変わらぬのか?」
楽園の、アーケイディスの部屋でソニアは最愛の男を着替えさせていた。
それは妃の仕事だ。女官の仕事ではない。
ソニアはにっこりと笑った。
「これはアーシュ様と最初にした約束でしたわ。初めて結ばれる前の。あの時からわたくしの気持ちは変わりませぬ」
「そなたは、余が嫌いなのか?」
「まさか。お慕いしていますとも。こう申す事が許されているのなら愛しております。ですが、それ故ですわ」
「解らん。愛しているのなら何故? 今まで妾妃を迎えてもそなたはあの時の約束を持ち出すことなど無かったではないか」
「だって、アーシュ様、貴方は他のお妃様方を好いていらしても愛してはいらせられませんでしたわ」
「余が、ケセルトンを愛していると?」
「もう堂々巡り。何日このことについて話し合いました? 女々しゅうございますよ」
「──女々しゅうと言われても、余にはそなたが必要なのだ!!」
アーケイディスは思わず大きな声を出した。
だが、ソニアは動じることなく、アーケイディスを着替えさせる手を止めない。
これが、わたくしの『妃』としての最後の仕事。
金糸と銀糸と紅糸とで刺繍が施された錦を左の胸を守るように通し、腰帯を複雑に結う。
その手を、アーケイディスは乱暴に払った。
「何故傍にいてくれぬ……」
「その様なお顔をなされてはなりませぬ。今日は善き日ではありませぬか」
「善き日……か……」
「はい、アーシュ様」
「そなたは余の心の安らぎであった。もう良い。余がそなたにしてやれる事は一つだけということか」
「祈り続けるとお約束します。アーシュ様のお幸せを」
そして二人は口づけを交わす。
これが最後だと思いながら。
◆◆◆
神殿での二人はお互いを見ていなかった。
お互いの晴れの日であるというのに、二人の心の中にはソニアしかなかった。
そのソニアは参列者の間から既に姿を消していた。
朝から夕刻までの長い長い儀式が終わって、パーティが始まる。
儀式とパーティの間にあいた僅かな隙こそがケセルトンの待ちわびた時間であった。
やる事はやった。ソニアも今自分がその姿を探すことまでは咎めまい。
ケセルトンはアーケイディスを放っておいてソニアを探そうとした。
だが、アーケイディスはケセルトンのそれを許さない。
浅黒い腕がケセルトンの腕を掴む。
「ソニアの行き先を知っているか? 我が妻よ」
「知らぬ。だが、此処を去りなさる事は知っている。貴方は御存じではなかったのか? 早く探してお止めせねば……今更だが」
今更だ。本当に今更だ。
それでも、ケセルトンは婚儀そのものを目茶苦茶には出来なかった。
ソニアはそれを悲しみ、そして許さないだろうから。
ケセルトンはアーケイディスの金の瞳を睨みつけた。
紅い瞳の光に、しかしアーケイディスは動じない。
「我らはパーティの主役だ。消えるのなら二人同時に。こちらへ」
アーケイディスの言う事も尤もだと、ケセルトンは従う。
連れて行かれたところは、パーティ会場のバルコニーであった。
昼間、儀式の合間に此処に立って民草に手を振った。そんなところに何故アーケイディスは自分を連れてきたのだろうとケセルトンは訝しむ。確かに外の様子は一望できたが。
「アーケイディス様……私はソニア様を止めなくてはならぬのだが」
「誰にもあれを止める事は出来ぬ。止める事が出来たとて、その時にはあれは死体だ」
「自害なさるとでも?」
「七年間、耐えてきたのだ。ただ一つの希望に縋って。その昔話をしよう、我が妻よ」
「……おふざけが過ぎる。『昔』話が『今』、なんの役に立つ? 『今』は一刻も早くお止めしなくては」
「もう、旅立った。とうにな」
「やはり……知っていたのなら何故お止めにならなかった?」
ケセルトンはその場に蹲った。
目眩がした。
『わたくしは尼僧院へ参ります』
ソニアの言葉。
昨日聞いた時には何の冗談かと思った。だが、その紫水晶の瞳が嘘をついていない事を知ってどれ程焦ったであろう。
だがソニアはケセルトンに約束させた。
『わたくしには叶いませんでしたけれども、貴女様はずっとアーケイディス様の許にいらしてくださいね。お約束していただかねば、わたくしは安心して旅立てませんわ』
ケセルトンはいやいやをするように首を振ったのだ。それなのに。
『約束など致しませぬ。ソニア様は私がお嫌いか? 何故突然旅立たれる? 私が気に食わぬのなら陛下に奏上なさればよい。貴女様がこの城を出て行く必要などありませぬ』
ケセルトンの言葉に、ソニアは悲しい顔をしたのだ。
とてもとても悲しい顔をしたのだ。
『お約束下さい。でないと今すぐ此処から飛び降りてしまいますわ』
たたっと、小さな足でソニアは窓際に走りよった。春の香りが気持ち良いからと開け放していた窓に。
呆気にとられるケセルトンを前に、ソニアはその窓の桟に腰掛けた。
『ソニア様!!』
あれでは、体重を後ろにかけただけで落ちてしまう。
ここは三階。ただし、天井が恐ろしく高い建物の三階。落ちれば……助からぬ。
『貴女はフェリシニアの花嫁になって、わたくしは神の花嫁になる。ケセルトン様、止めないで下さい。そしてお約束下さい。でないと、ここから天上へ向かいますわ。わたくしは死でも、尼僧院でも構わぬのです。ただ神に仕えられるのなら』
『何故、神なのです?』
ケセルトンの言葉に、ソニアは今まで見た事も無いような妖艶な笑顔を見せた。
『神なら、永遠を誓えますから』
ケセルトンは言葉を失った。
『約束してくださいますわね?』
嗚呼、何故自分は頷いてしまったのだろう。
後悔してもし足りないが、バルコニーで蹲っている自分の横に跪き、自分と目線を合わせているアーケイディスと目が合った。
煌々輝く金色の瞳。美しい男。
今日、ソニアのことで頭が一杯で忘れそうになっていた。
ケセルトンはアーケイディスに二世を誓ったのだ。
そしてその自覚は急激にケセルトンに『妃』の自覚をもたらさせた。
此処に長らくいる事は、今日を祝うてくれる者達にとってはとても寂しい事。
大体アーケイディスばかり責められようか? 頷いてしまった自分が。
それに、唐突に失踪して大騒ぎになる事を避けるためにケセルトンに尼僧院の話を持ち出したソニアの心に……応えたい。
それだけがソニアに出来るケセルトンなりの真心の返し方だ。
すっと、ケセルトンは立ち上がった。
「昔話には時間がかかるだろうか?」
「聞いてくれる気になったのか?」
不意に身に纏う雰囲気を変えたケセルトンに驚きながらも、アーケイディスは立ち上がった。すると、自然にケセルトンが彼の腕に飛び込んでくる。アーケイディスも当たり前のようにケセルトンを抱きしめていた。
──泣いている。
ケセルトンは泣いていた。誇り高きレントの民であるケセルトンが。
「一夜あれば事足りる」
「ならば、今宵、聞く。パーティには、ちゃんと出なくては」
「姫、いや、ケセルトン……」
「あと少しだけ。私はソニア様が好きだったんだ。お美しくて気高くて、こんな私にも優しくして下さって、だから本当は何処にも行って欲しくなかった。妾妃様方は皆お優しかったけれども、ソニア様は特別だったんだ」
「余にも……ソニアは特別だった」
抱きしめる腕に自然に力が入った。ケセルトンの、鍛え上げられしなやかな筋肉に守られた腰は、それでも抱けば折れそうなほど細い。
『あの方をどうか大事に』
そう言ったソニア。綺麗で優しいソニア。初恋の人。
だけれども、既に過去形で語られる女。
運命がいま一度の邂逅を用意しているとは知らず、ただ今は想いを馳せる事しか出来ず。