六 手から零れ落ちるように
「ケセルトン様……勿体のうございます」
「勿体無いかどうかは私が決める。勿体無くない」
ケセルトンは言い切る。
ケセルトンたっての願いでネストは今、ケセルトンが使っている寝台に横たえられている。つまり国王の寝台だ。
無礼であることは知っている。それでも、ネストはこれ以上動かせる状態では到底なかった。
熱いスープはナーレリアに厨房から持ってこさせた。匙にとって冷ますと、ケセルトンはそれを口に運び、何のためらいもなくネストに口づけた。口移しでしか、ネストは何も受け付けられないようであった。
パンを浸し、柔らかくし、それも口移しで与える。
「手馴れているな。風読みとは、いつもこのように衰弱するものなのか?」
見ていたアーケイディスは少し複雑そうである。あの唇はつい先程完全に征服したと思っていたのに、と。
しかし複雑な男心に気付かぬケセルトンは淡々と説明した。
「読むものによっても違うし、その場の風の動きによっても違うと聞いた。私の介護が手馴れているのは戦場に出る所為であろう。指揮官といえど女、傷病兵の手当てに当たる事もある」
そう言いながらネストに食事をさせているケセルトンは、先程とはまた違った意味で美しかった。神経がぴんと張り詰めていて、見ていて好ましい。
ケセルトンはカッティングされたルビーのようだとアーケイディスは思う。光の当たり加減で全く違う美しさをかもし出す宝石。
そうだ。ルビー、だ。『アレ』はもう出来ているのだろうか?ふと思考が飛んだ。『アレ』はケセルトンを喜ばせる事が出来るだろうか? ケセルトンの為だけの贈り物は。
アーケイディスがしばらく楽しい空想に浸っている隣で、ケセルトンはネストの食事を終えさせ、起き上がらせた。一度に沢山食べさせすぎるのは良くない。ネストは天守で食事を断っていたのだから。
「アーケイ、ディス様」
ネストが呼んで、アーケイディスはふと空想の世界から現つへと還ってくる。
「姫様と、アーケイディス様、この場には正しくお二人しかいらせられませぬな?」
風読みの老女は問いかけた。
その言葉から感じる重圧に黒竜王は驚く。
女王が紡ぐ言葉のように、その言葉は重々しい。
実際は背中にクッションを幾つもあてがい漸く身を起こした老女なのだが、仕草も声も美しく、まるで若い娘のようだった。
不思議な女だとアーケイディスは思った。だが、自然に敬意がわいてきた。
「確かに。先程スープを持ってきた女官は下がらせた。風読み殿」
「大切な事を、お伝え致しまする。盲いた老婆にはどう扱うてよいものやら解りませぬが、お二人に何より関係のある事柄で御座います故、僭越ながらネストめが読んだ風の言葉を紡ぎまする」
ゆっくりと、ネストは言った。
「アーケイディス様にはサーディシエントの第一王女、アリステア様の秘密をご存知か?」
「知らぬ、興味もない」
素気無く言い放つアーケイディスに、ネストは若さを感じた。若さ故の……無謀さ。
「かの王女は十一年前、外遊でサーディシエントを訪れたアーケイディス様に恋心を抱かれたご様子」
「十四の時か。外遊、確かにあった。父の書状を届けにサーディシエントに行った。何故お前が知っている? あれは秘密裏に行われた事だ」
「風もそう申しておりました。アリステア様は、アーケイディス様の許に嫁ぐ日が待ちきれずにおられたようです。ところが、そこでソニア様の登場となります。嫉妬に狂った姫君は、魔女に救いを求められました。魔女の返事はこうです。
『妾には恋心を曲げる事は不可能。されど、その男に呪いをかけることなら出来まする』
アリステア様は条件を飲みました。自らの子宮を捧げる事で、好いた貴方様に子が出来ぬ呪いをおかけになられたのです。ここまでは姫様が婚礼の夜、もし、婚礼を挙げても良いと判断したならば、お話しする筈でした。姫様は鎹。レントとアーケイディス様がしっかりと結びついてから引き返せないところまで話を進めて、そしてサーディシエントと戦をすると。呪いはアリステア様の首級で解け、アーケイディス様には健やかなる和子様をもうけられる事になるでしょう。ですが、此処からが大事な点なのです。ネストが風に問い続け聞き出したのは姫様のお子の行方でした」
「ネスト……!!」
その為だけにあれほど長い間天守にこもっていたのかと、ケセルトンは泣きそうになった。鼻の奥がつんとして、熱いものがこぼれそうになる。しかし今、ネストは此処からが大事な点といった。我が子に何かあったのか!? ああ、一体!
「姫様、姫様のお子は姫君でした。シャーリー様と仰せられます。黒髪に黒い瞳の美しい姫君です」
「待て、風読み殿。少し、二人で話をしよう。余にはまだなんの実感もわかぬ事だらけぞ」
慌てた様子のアーケイディスの言葉に、ネストは微かに笑んだ。
「慌てられますな。長の言葉をそのまま信じておいでか? シャーリー様は死んだと」
「な!?」
ケセルトンの瞳が、零れ落ちんばかりに見開かれる。
だが、すぐにネストは言った。
「シャーリー様は生きておいでです。シャーディーン様はアーケイディス様に、こう申しましたでしょう?
『娘がレントに未練を残さぬように殺した』
と。
実際のところは、シャーリー様におかれましてはひっそりとレントから逃がされたのです。交易船に乗せられ、世界を旅して回る娘になるはずでした。ですが、運命の悪戯、シャーリー様は様々な腕を経て、アリステア様の腕の中に飛び込みました。子宮を魔女に捧げたが為に、もう子が生めぬアリステア様の許へと」
「……!!」
「アリステア様はシャーリー様を愛しておられます。そして、シャーリー様の母親がレントの姫である事はご存じなく。戦すればシャーリー様が死に、戦せねばアーケイディス様に子は未来永劫授かりませぬ」
その時、ごふっとネストは咳をもらした。
唇を覆った手が真っ赤に染まる。
「ネスト!?」
「姫様、此処までのようでございます。ネストは禁呪を使いました。戦せずとも、アリステア様さえ死ねば良いと思い。ですがネストの身体には禁呪を行使しきる理力は残っておりませんでした……」
「ネスト! まだ余はそなたに死んでも良いというた覚えはないぞ!! 医師を連れてくるが故に……!!」
駆け出そうとしたアーケイディスの衣を、ネストは棒のような腕で掴んだ。その腕の細さからは考えられぬ強い力で。
「多くの方に醜態晒しとう御座いませぬ。ただ、眠るだけです」
そして、ネストは目を瞑る。眠るように。ただそれだけのように。
ケセルトンは声にならぬ悲鳴をあげ、気を失って倒れた。
◆◆◆
レント砂漠に住まうものがひっそりと口伝えで伝えてきた不可思議なる現象がある。
レントの魔術。レントの奇跡。
死んだ日から日付をまたぐ真夜中、死んだ人間と生きている人間の両方が心から逢いたいと願った時にだけ、ほんの数分、言葉を交わせると。
一時間ほどで意識を取り戻したケセルトンは、一人にしてくれとアーケイディスに懇願した。
アーケイディスは頷くと席を外してくれた。
「一人、いや二人だな」
ネストの遺骸と、ケセルトンの二人。
ケセルトンはまじまじとネストを見つめた。
鼻や耳や口に綿が詰められ、何故だか無性にそれらを取り外したくなる。
ネストは眠っているだけだ。綿など詰めたら呼吸が出来なくて死んでしまうではないか。
目は閉じられていた。
ただ、眠っているようにしか見えなかった。
断末魔の苦しみもなかったのであろう。
力を使い果たしたということは生命力も使い果たしたのだろう。
「ネスト……」
ケセルトンは、今度はそっと、呼んだ。
りーん、ごーん、りーん……
日付が変わる合図の鐘の音が、遠慮がちに響く。
「ネスト……逢いたい……ネスト!! お願い返事をして、お願い!!」
母を知らぬケセルトンに、物心つくかつかぬかの内から傍にいてくれたネスト。成人の儀を果たしたケセルトンに忠誠を誓ってくれたネスト。
会いたい、もうひと目だけでも。
言い伝えは嘘だったのか?
通りで、都合良過ぎると思ったんだ。
その時、風が動いた。
「なぁにー? レストなの?」
明るく弾むような声は若々しさに満ちていて一瞬誰の声かケセルトンには解らなかった。
何もないところからふっと現れたのは自分とそう歳の変わらない少女。
少女はまじまじとケセルトンを見つめた。
頭の先から爪先まで。
「レストじゃない。姫様……ね」
少女の言葉が優しくなる。嗚呼、ネストだ。
「逢いたいと望んで下さったのですね。ネストに逢いたいと望んで下さったのですね」
「当たり前ではないか。お前は私のただ一人の風読みなのだからな。お前がいなければ世界は濃霧に包まれたと同じ。幾ら風光明媚であってもこの私の心には響いてこない。お前が、あれはなんだこれはなんだと、教えてくれなければ私は……!!」
「大丈夫ですよ。姫様。次の導き手はアーケイディス様です。そして私もまた、生まれ変わります。泣けば幸せが遠のきますよ、ケセルトン様」
「だって、だって……」
「時間切れです。愛する姫様。愛しいケティ」
そっとネストはケセルトンの額に口づけると空気に溶けた。
◆◆◆
アーケイディスは久しぶりに楽園を訪れた。
ソニアが迎え、他の妾妃達が礼をとる。
楽しい場所の筈だったのに、今は色彩が色あせて見えるのは何故だろう?
ネストの葬儀が終わってから一日。
葬儀はケセルトンとアーケイディスの二人だけで行われた。
葬儀、だなどというのもおこがましい。
城の地下水道から、王都の南に広がる大河へ、ネストの遺骸が乗った小船を流した。
船が転覆するか鳥類に死体を食い散らかされるか。
アーケイディスはちゃんと葬ろうと言ったのだが、これは風読みの決まりだという。自然に還す事。それが定め。
今日から若葉月だというのに、昨日の葬儀を思い出しては心が重くなり、葬儀が終わった後、部屋にこもって出てこなくなったケセルトンを思っては心が痛む。
癒しを求めて楽園に来たが、此処には彼女がいない。
ケセルトンがいない。
「ソニア」
呼びかけると、ソニアは優しく笑って、「はい」と言った。
「膝枕を頼む」
と、アーケイディスが言うと
「耳掃除も致しましょうか?」
とソニアが答える。
「頼む」
アーケイディスの答えは短い。饒舌なアーケイディスが寡黙になる時は機嫌が悪い時だ。
ソニアは楽園の真ん中にある大きな石の長椅子に座ると、アーケイディスを待った。
アーケイディスはのんびりとやってくると、ソニアの膝に頭を乗せる。ティーローゼが黄金の耳掻きを持ってきたのでソニアは礼を言うと早速耳掃除を開始した。
耳垢は大してたまっていなかった。
多分ケセルトンがしていたのだろうとソニアは見当をつける。
エンディアが足をもみ、マジェーンが掌のツボを指圧の要領で押していく。
ミスティリカがソニアの隣に座って、アーケイディスの髪を弄んだ。
ティーローゼはお茶の準備をしているらしい。良い香りが此処まで漂ってくる。
「陛下、今日はお仕事の書類は持ち込んでらっしゃらないのですね」
ミスティリカの言葉に、アーケイディスは苦笑した。
「王といっても数年に一回くらい休みがあっても良いだろう」
アーケイディスは後悔しているのだった。シャーディーンの言葉を真に受け、ケセルトンの娘は死んだと思い込み、ろくに調査もしなかった事について。
調べていれば国外に出る前に見つけ出し、ケセルトンに抱かせてやれたかもしれない。
そうすればネストは禁呪などに手を染めずに済み、まだ生きていただろう。
何より子が出来ぬ原因を作った女などにケセルトンの子が渡る事を防げたかもしれない。
それを思うと昨日は眠れず酒が過ぎた。酒での潰しあいなどをやっていた割に悪酔いしなかったアーケイディスだが、昨夜の酒はきっと品質が落ちていたのに違いない。頭がずきずきする。
せめてシャーディーンの言葉をケセルトンに伝えていれば。
『恨まれ役には儂がなりましょうぞ』
そう言って本当は死んでいないシャーリーの死を伝える役目を負ったシャーディーン。
ああ、頭が痛い。
「アーシュ様? どうかなされたのですか?」
ソニアの甘い声に揺さぶられて、アーケイディスは閉じていた目をそっと開ける。
「何かお悩み事が?」
「悩みなど……楽園さえあれば余は頑張れる。心配するに及ばぬ」
「そう仰る割には最近、滅多にお渡りがのうて、寂しゅうございましたわ」
ミスティリカの言葉にアーケイディスは困ったように笑った。
「お渡りの音が鳴りましても、お部屋へまっしぐら。誰を呼ぶわけでもなく眠りに帰るだけ。ケセルトン様はそれほどまでに魅力的ですか?」
ミスティリカの言葉を選ばぬ問いにアーケイディスは面食らう。
「ミスティリカ様、アーケイディス様が困っていらっしゃいましてよ」
ソニアが言うのとティーローゼがお茶の支度が出来たと告げるのはほぼ同時だった。
ミスティリカにはそう言ったもののソニアとて心中は複雑である。
だが、ここは楽園。夢の世界であり続けなくてはならないのだ。
その日、アーケイディスは一切の政務を放棄し、楽園にこもった。
外宮が大混乱に陥った事はいうまでもない。
先王の時代にはよくあった事なのだが、アーケイディスが王になってからは例え妃に葡萄の皮をむかせ口に入れてもらっているような状態でもやるべきことはしっかりやっていたが為に、家臣達は何をどうすればよいのかも解らぬ状態だった。
治世七年。
アーケイディスは様々な人材を発掘していたが未だ教育段階にあった。
自ら考えて家臣達が動けるようになるまで、あと数年はかかろう。
たった一日。
しかしそのたった一日が阿鼻叫喚の絶叫地獄だった。思えばアーケイディスは風邪をひくことすら己に許さなかったのだから当然といえる。
だが、そんな喧騒も楽園にまでは響いてこない。
ここは揺籃。
傷ついた心を癒すための揺籃なのだ。
「今日はケーキを焼きましたの。陛下がいらっしゃるとは思わず簡単なパウンドケーキにしてしまいました。お口に合えばよいのですが」
ティーローゼの言葉からも、アーケイディスがどれだけ楽園を放って置いたかが良く解る。心優しい彼女は国王の訪れがない事を寂しく思っておりこそすれ、責める気持ちは全くないのだが。
「すまぬな、ティーローゼ」
シンプルなパウンドケーキは紅茶と共にするすると胃の中に入った。そして思い出す。
今日は朝食も摂らずに狸寝入りを決め込みお茶の時間まで頑張っていたのだと。つまりはティーローゼの焼いたパウンドケーキが今日初めての食事という事になる。
「美味い……な」
本当にそのパウンドケーキは美味しかった。おかわりをしてしまったくらいだ。
ちゃんと口の中でとろける。
紅茶との相性も素晴らしく良い。
そして、考える。ケセルトンはちゃんと食べているのだろうかと。
心配するくせに一緒には連れてこなかった薄情な自分。
婚儀を挙げていないケセルトンを楽園へ連れてくることが叶わぬのならば、違う手を考えるべきだった。
アーケイディスは気付いている。今の自分はケセルトンから逃げているだけだと。
せめてこのケーキをもう一切れ切り分け皿に盛り、ケセルトンのところへいけたら!!
人はアーケイディスを様々に褒め称える。
だが、気になる女の慰め方も知らない若輩者でしかないのだ
そしてその夜。
ソニアの部屋に渡りながらも、アーケイディスは彼女を抱けなかった。
◆◆◆
ケセルトンは待っていた。
王の訪いを。
彼女はアーケイディスに避けられているのを知っている。彼はシャーリーの事とネストの事で彼女に負い目を持っているのだと、賢い彼女は当に気付いている。
そんな必要はないのだとアーケイディスに言うには昨日は心が痛みすぎていた。
自分がほんの幼子の頃から付いていてくれたネスト。
下半身がばらばらになるような痛みと苦しみを経て生んだシャーリー。
大事な命だ。
だけれども、不謹慎な事に他に大切なものを見つけてしまった。
ネストもシャーリーもかけがえのないものだけれども。だけれども。
アーケイディス……!!
だから待っている。
扉が無遠慮に蹴り開けられるのを。この部屋は外からの音は殆ど聞こえないから。
蹴り開けられたその時に漸くアーケイディスに気付いて、そして。そして?
「もう、寝たほうが良い、か?」
ケセルトンは立ち上がると窓を閉め、カーテンを閉める。月が綺麗な夜だった。
寝台に身体を投げ出そうとしたその時、かちゃり、と、扉が開く音がした。
「ナーレリア?」
そんな開け方をする人間を一人しか知らないケセルトンはなんだろうと声をかける。
だが、応えはない。大体ナーレリアなら鈴を鳴らす筈だ。
嫌な予感がした。
「ナーレリア……!!」
扉の開く音と同時に部屋に侵入してきたのは胸が痞えそうな血の匂い。裸足で夜着だけを纏ったまま、ケセルトンは飛び出した。
大理石の床の上に血だまりが出来ており、中央で女が座り込んで泣いていた。
ナーレリアだ。天井を見ながら彼女はケセルトンの名を呼び続け、謝罪し続けている。
その右腕が、鋭利な刃物で切断された様に二の腕から先が失われている。
周りに兵士がいた。通りすがりなのだろうか、侍女らしき女達もいた。
彼らの顔に等しく刻み込まれたのは恐怖。
その恐怖故に一定の距離以上彼らはナーレリアの傍に近寄る事すら出来ないでいる。
「ナーレリア!!」
拷問に慣れた女ではない。腕を落とされ、何かを強要されたのだろう。だが、何を!?
「ケセルトン様!! お部屋にお戻り下さい! 危険です!!」
それが誰の叫びか、彼女は確かめもしなかった。
私が危険?
では賊は私を狙ってこの女官の腕を切り落としたと? 私が何処にいるかを確かめる為に?
その時、天井から『腕』が降ってきた。
ナーレリアの右腕だった。
天井のシャンデリアが揺れている。その上にいるのは。
「マール……!!」
兄上と呼んだ男は口の周りを朱に染めていた。女達の行う化粧では無い。恐らくナーレリアの腕を咥えていたのだろう。ぽたぽたと、今頃になってシャンデリアから血が滴る。上の金具の部分に溜まった血が溢れて零れ出していたのだが、そんな事はケセルトンにはどうでも良い事だった。
「ケセルトン、帰ろうぜ、砂漠へ。子供が欲しいなら何人でも産ませてやる。俺の、俺だけのものになれ」
笑いながらマールは言う。相当な酒精を体内に取り込んでいるのだろう。舌が回り切っていない。
「貴様はレントの民の名を地に落とすつもりか!? ふざけるな!! よくもナーレリアを……!!」
ケセルトンの咆哮に、しかしマールは笑う。
「レントなんてどうでも良い。お前さえいれば俺はそれで良いんだ」
「ケセルトン様をお守りしろ!!」
がちゃがちゃと具足の音が鳴って、衛兵達が彼女の身の周りを固める。
しかし。
彼らではだめだ。マールが皆、殺してしまう。怯えた動物の様な気配、恐らくはレントの民の名に怯えている。
ナーレリアをさっさと解放しようとすらしない者達が守る?
無理だ。
ケセルトンは冷静に判断した。
マールは、殺す。
マールがアーケイディスの配下の命を奪ってしまうよりは、その方がレントの民の為にも良い。何より、こいつはレントなどどうでも良いと言った。
がちゃり、と鎧同士が触れ合う音を聞いてケセルトンは自分の盾となってくれた衛兵達の頭上へと一気に跳躍した。
「なっ!?」
衛兵達は一瞬の事に何が起きたのか判断出来かねるようだった。
ケセルトンは普通の女性の跳躍力と言うものを全く無視していきなりシャンデリアの上まで飛んだのだ。
マールがシャンデリアの上に登った時は廊下の端まで走り、壁と壁の間に手足を添え、駆けあがった。それを見た時も衛兵達の間に戦慄が走ったが、今度はそれとは桁が違う。
一体何メートル助走なしに飛んだのか?
マールは、ケセルトンが自分の乗っているシャンデリアの隣のそれに飛び乗ったのを見て軽く口笛を吹いた。口笛は酔った時の彼の癖だ。
「こいよ、ケセルトン。可愛い雌猫。俺が最高に良くしてやるからよ」
「残念ながら……必要無い!」
言いきって、ケセルトンは飛んだ。マールの乗っているシャンデリアまで。マールも飛ぶ。その隣へと。
レントの舞踏。
闘い方を知る者達の舞踏会が、今、始まる。
「王にお知らせしろ! 我らでは手が出せん!!」
「ボウガンは!? あの使者の足を打ち抜けば……!!」
「あんなに激しく動き回る足をどうやって射抜くんだ!! 下手をしてケセルトン様に当たったらどうする!?」
衛兵達がざわめく。侍女達は気を失うか、目を奪われているかだ。
しかしケセルトンがマールを追い詰めるのにそう時はかからなかった。
廊下の一番奥のシャンデリアが盛大に揺れる。その上に、二人の影。
「そんなにカリカリするなよ、ケセルトン。あの女の腕なら返してやったじゃねーか」
「それで元通り動くとでも言いたいのか!? ふざけるな!!」
ケセルトンは次の瞬間、マールに向かって飛んだ。
マールは、避けなかった。散々挑発しても、ケセルトンの舞踏にはブレの一つも見られなかった。声を荒げている。怒っている。だが半面、彼女はこの場の誰より冷静である事を他ならぬマールが知っていた。誰より彼女を見ていた彼は、知っていた。そして冷静である彼女が如何に恐るべき手練かも。
凍てついた銀の月みたいだとマールは詩人の様に考える。最愛の者に殺されるのならむしろ本望だ。忘れ去られて、記憶の端にも残らぬ位なら殺された方がマシ。
だからマールは彼女のとどめが何の躊躇も含まぬように女官を殺さなかったのだ。レントの名を落としめ、敢えて逃げて見せたのだ。
両腕を広げて、マールは最愛の乙女を抱きしめようとしているかのようだった。
ケセルトンはその腕の中にいた。その腕の中で男の喉を潰した。骨が折れる音と感触を味わいながらこの男が子供の父であったかもしれないと思うと泣きたくなった。
そして、最期の瞳の中に自分への何かを……恐らく愛と呼ばれるであろうものを見出し、憎んでいたばかりではなかった事を知ったのである。