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フェリシニアの花嫁  作者: 古都里
第一章
6/17

五 接吻

 彼女が萎れた花のようになっているのに、アーケイディスが明らかに困惑しているのがケセルトンにも感じられた。だからだろうか? アーケイディスは唐突に話題を変える。


「そうか。ケセルトン姫、姫の名前は男名前だな」


 あくまで普通に話しかけている声音でアーケイディスが言うと、変な同情をされなかったことにケセルトンはほっとし、言葉を紡ぐ。


「最初は女の名前が付いていた。模擬戦の時うっかり成果を上げてしまってな、父上が男名前を授けて下さった。だが、私は女だ。男衆と戯れることなど出来ない」


「姫は男が憎いのか? 余のことも?」


「必ずしも──必ずしもそうではない。貴方は少し意地悪だが、嫌いではない」


「では、好きか?」


「え?」


「余が好きかと聞いている」


 真面目な声音のアーケイディスは恐らく、本気で言っているのだろう。

 いつものふざけた調子が微塵もない。


「好きか、どうか、考えたこと、なかった」


「では、こうしても?」


 つい、とアーケイディスはケセルトンの顎を持ち上げ、その唇を塞ごうとして……やめた。


「アーケイディス、様?」


「余は決めた。そなたから口づけを強請ってくるまで、口づけはお預けだ」


 ちくん、と、胸が痛んだ。


 先程のときめき。

 熱い吐息が絡まる感触。

 目を瞑ろうとした。

 唇は我知らずすぼめられていた。


 誰かからの口づけを待っていた事など一度もないのに先程のあの瞬間、ケセルトンは正にアーケイディスの唇を待っていた。

 触れるだけなのだろうか。それとも私の舌を絡めとるおつもりなのだろうか?


 そんな風に──期待、していた。

 待って、いた。


「お預け? ぼんやりしている今が好機であったのに。私から強請る事など決してないっ!」


 幾分強い口調でケセルトンが言い放つ。

 嘘はついていない。


 ケセルトンは子まで成しながら男の唇を強請ったことがなかった。

 口づけは気持ち悪く汚らしいものという認識があった為だ。相手の酒臭い息をかぎ、舌で蹂躙され、唾液を呑みこむ事を強制される行為。強請る方法など知らぬ。


 それでもアーケイディスとならば……良いかと思ったのだ。


 女の気持ちが解らぬ愚か者め。そうケセルトンは心の端で罵るがアーケイディスは余裕たっぷりとった表情で、ケセルトンは自分が良く躾けられた牝馬の気持ちになってしまう。


 実はアーケイディスも何となくすまないと思ってはいたのだが、意地を張ってしまう自分の性格を憎み、再度話題を変えた、とこの時の心情を後にケセルトンに語る事になる。そして謝る事にも。

 だが、それはまぁいい。


「ところで姫、ダンスは得意であられるか」


 急な話題転換に戸惑いつつもケセルトンは真面目に答える。


「ダンス? レントの舞踏なら私は自慢ではないがレント一といわれたぞ」


 アーケイディスは頭が痛くなった。ワルツだけでも教え込まねば。何としても。

 話題を変え聞き出して良かった、と、物語る王の表情に、ケセルトンは何がまずかったのかさっぱり解らなかったのである。




◆◆◆

 夜会でのワルツはそう心配する事もなかった。

 ケセルトン自身が元々身体を鍛え上げ、姿勢も美しい事から周囲の注目を集めてやまない。音感も生まれつき良いのであろう。


 本番では全くミスがなかった。

 練習中に嫌になるほど足を踏まれたアーケイディスだが、この成果ならよしとするかと思う。


 レント側の使者はダンスには殆ど興味を示さず、出された料理だけをひたすら詰め込んでいた。

 オアシスがあるといってもレントは貧しい。見ても良く解らないダンスなどより、美味い食べ物にありつけるかどうかというところが大事であった。


 勿論、料理はたっぷりと用意され、食べつくしたと思ったら次の皿が出てくる。

 マール含む使者達は夢中で食べた。後で胃が苦しくなろうがどうでもいいらしい。


 そういえばケセルトンも食欲旺盛だな、と、アーケイディスは思う。

 あまり太らねば良いのだが、かなり筋肉質な身体をしているケセルトンはその筋肉の維持のため食べぬわけにはいかぬのだろう。つまりは問題ないということだ。


 そんな事を考えながら何曲目かのワルツを踊っていたところ、腕の中に抱くソニアに笑われた。


「心此処にあらずといった風情ですわね」


「ソニア、その様な事は決して……」


「ケセルトン様は可愛らしいお方です」


 清楚な白百合が花開くようにソニアは笑った。


「本来なら小鳥達は平等に扱われるべきですけれども、今日はケセルトン様の為の宴でもありますのよ、アーシュ様。どうか御心のままに」


 気にならないといったら嘘になる。妾妃達と踊っている時も、他ならぬソニアと踊っている時さえも。


 ケセルトンは他の男と踊るのを悉く断っているようだった。

 噂では鬼神とまで言われていたがそこにいたのは可憐な淑女だった。


 真っ白なドレスは貝を打ち付けて作った下地に、上からレースを重ねてある。

 赤いリボンで結い上げた髪にさした白薔薇。スカートの裾から覗く小さな足を包んだ赤い沓。

 誰が見ても美しいといえるその姿は他の妃達の見立てだとの事だ。


 彼女が自分の妾妃になる。

 この曲が終わったらケセルトンを誘おうとアーケイディスは思った。


 その時である。

 酒をしこたま飲んだのか真っ赤な顔をした使者達がマールを先頭に、ケセルトンを取り囲んだ。

 ケセルトンにマール達が何を言っているのか、アーケイディスの距離からは解らないが嫌な雰囲気だった。


 だが、今は曲の途中だ。やっと三分の二が終わったというところ。曲が終わる前にケセルトンの方に行ったなら、アーケイディスは正妃を蔑ろにした事になる。


 動けない。どうあっても動けない。


 その時ケセルトンは酌をしろといわれ、断っていたところだった。


「お偉い身分になるといわれても所詮はめかけだ。酒くらい言われなくとも注ぎに来い。レントの娘ならそれ位弁えているはずだ」


「私はもう、貴方達の言う通りにならない。兄上の言葉でも」


 ケセルトンは男達を睨み返した。


 その周りでは、人だかりが出来ている。ケセルトンは見られるのが苦痛だった。

 自分の故郷の人間がこんなにも……ああ、こんなにも!!


 違うのだ。レントの民は義に厚く涙もろい、そして交わした約定は決して違えぬ、そんな民なのだ。

 決して王の妃を酌婦扱いする民ではないのだ、本来は。


 だが、私はまだ妃では無い。それでも、レントで暮らしていた時と同じようには、どうしても、どうしても……出来ない。


「生意気な雌猫め」


 流石に手を出そうとするものはいないらしい。だが、酒に飲まれた男達のねちっこい視線は未だケセルトンを捕らえている。


「一寸腕がたつからって兵の指揮までする、昔っから俺はお前が気に食わねぇんだよ!!」


 マールが唾を飛ばしながら言う。


「コロセオ谷の平定なら貴方の手柄になったはずだが? 兄上」


 ふん、と、ケセルトンが鼻を鳴らした。

 指揮権があろうがなかろうが、手柄は男のものだ。


「大体此処を何処だと思っておいでか? フェリシニア王都シニアリードの王城。言葉には気をつけられよ。酔いがさめた後恥をかくのは貴方達だ。レントの名を地に貶めるおつもりか」


 怒り故にふとすると震えそうになる声音を精一杯抑えつけながらケセルトンが言うとマールが吠えた。

 

「は! 長もとんでもない山猫を王に献上したものだ。どうせ、誰にもお前は扱いきれねぇ。ていの良い厄介払いをされただけだ!」


 びくんと、ケセルトンは震えた。


 厄介払い。お父上。お父上。


 その時、マールの背後に誰かが立ったかと思うと低い声で唸った。


「我が小鳥は酌婦ではない」


 それはようやくワルツが終わり、慌てて駆けつけたアーケイディスであった。


「大丈夫か? 姫」


「大丈夫だ、アーケイディス様。使者達は、どうも酒に酔うたらしい。レントの酒は水で薄めてある。その酒と同じように此方の酒を頂戴したのだろう。恥ずかしい話だがレントは貧しい。美食と美酒に酔うても、どうか許されよ」


 言いながら、ケセルトンは胸の高まりを抑えきれずにいた。


 我が小鳥。


 私もソニア様や他の妾妃の方々と同じく小鳥と呼ばれるとは。


「しっ、失礼を致しました!」


 マールが、続いて他の使者達が謝罪の言葉を述べる。


 アーケイディスの声に含まれていた怒気に恐れをなしたのもある。それもあるが女の身であるケセルトンに我が身を救わんとする言葉を添えられた屈辱もある。

 しかも、その時添えられた言葉に華があるのをマールは感じていた。


 戦場で雄雄しく剣を振るう様は何度も見てきた。よく通る声で全軍を指示し、神から使わされし戦乙女のように戦う白子アルビノの姫。


 シャーディーン自身もどの子供よりも──男も女も関係なくどの子供よりもケセルトンを信頼してきた。ケセルトンを妻にとアーケイディスが望んだ時、他の姫五人では足りませぬか? と聞いた事もマールは知っている。自分の気に入りの少女達まで献上してケセルトンを諦めさせようとしたシャーディーン。

 ケセルトンが真実男であればシャーディーンはケセルトンにレントの長の座を譲っただろう、今すぐにでも。


 そのケセルトンが、アーケイディスの前ではたおやかな『乙女』へとなっていた。


 ケセルトンを変えたのはアーケイディスだ。それもわずか一週間かそこらで。


「そう畏まられる必要はない。我が未来の妻に然るべき礼儀を払うなら余は何も申さぬ故に。シニアリードの酒は気に入られたか?」


 アーケイディスが語調を柔らげたので、使者たちも安堵したようだった。


「このような美酒、砂漠では祭りの日に長の食卓に並べば良い方でしょう。役得ですな」


 マールがそう答え、皆が口を合わせてそうだそうだと口を合わせる。


 そうなのだ。

 砂漠レントとシニアリードの格差。ケセルトンを差し出した理由の一つに、『それを埋めるきっかけになる事』というものがあった。


 マールが欲してやまなかったしなやかな砂漠の雌猫は。


 あの銀髪に指を通した事など幾らでもある。あの白い肌を吸うたことも。

 恐らくケセルトンの子の父親は自分だとマールは思っていた。


 ケセルトンを抱く為だけに腕を鍛えた。

 それでも時折他の男にその権利を持っていかれ、それがどんなに口惜しかったか。


 そして今、永久にケセルトンはマールの腕から去ろうとしている。


 何が役得か。マールは自分の言葉に笑う。格差があるのが嫌ならシニアリードに住めば良い。何故砂漠の至宝を差し出さねばならぬ? 彼女は砂漠の民に下された神の娘だ。


 人々が喋っている声がマールには雑音に聞こえた。

 その中で時折、鈴を振るような美しい音が交じる。ケセルトンの笑い声だ。


 ああ、砂漠でケセルトンが笑う事があっただろうか。

 唇だけの笑みならいつでも見てきた。

 どんな敵と戦うときでもその唇は笑みをたたえていたからだ。

 だが、笑い『声』は聞いた事がなかった。

 笑わせているのがアーケイディスだと思うと腸が煮えくり返りそうで。


「砂漠の民は酒に強いと聞いたが、砂漠では水で割っているのか。それでは確かに酔えぬ筈ぞ」


 そういうアーケイディスにケセルトンは優しく笑みを浮かべたまま言う。


「戦勝の祝いや子供の誕生を祝した祭事などでは割っていない酒を飲む。火酒と申すが、失礼ながらこの場に用意された酒の何倍も強い」


「シャーディーンが余に出した酒だな。あれは酷く喉をやく」


 アーケイディスがやはり笑ったまま答えると、ケセルトンはこくこくと頷いた。


「だから水で割るのです。飲みやすいように」


「成る程、合点がいったわ」


 晴れやかに笑う王に、マールは密やかに密やかに、敵意を育てつつあった。


◆◆◆

 若葉月望月の日の婚儀を見届けるまで、マールは残る事にした。


 他の使者達は帰す。

 ケセルトンの無事を長に奏上しなくてはならなかったし、その為に駱駝を何頭も乗り継ぐ彼らの帰還速度は輿を運んできた時の比ではない。


 ケセルトンの婚儀には、シャーディーンも出席する。

 これは婚儀の日が決まった時点で鳩を送ってあるので問題なかった。確実に間に合うだろう。


 マールが残る必要は、本来なら何処にもなかった。そう、何処にも。

 ただ、マールは確かめたかったのだ。

 何度も抱いて子まで成した女が自分をどう思っているのかを。


 しかし、マールが与えられたのは内宮の部屋でも客人に割り当てられる東翼の一番端であった。

 同じ内宮にケセルトンの部屋がある事は知っていた。正式には王の寝室なのだが、客人であるマールはそこまで知りようもなかった。

 そしてそこが王の寝室であるからであろう。マールをもてなす侍女や従僕の誰一人としてケセルトンの部屋の場所を漏らさなかった。

 兄だと言っても、それは変わらなかった。

 仕方なく彷徨いながらケセルトンを探すと、体よく部屋に戻された。


 唇を噛みながらマールは髪をかき上げる。

 黒い髪に、黒い瞳、浅黒い肌。ケセルトンと似通うたところが何処にもないのは母親が違う所為か?

 いっそ同母の妹なら良かった。それならば最初から結ばれる事は許されていないから。

 異母兄妹だから、悪い。


 マールが、妹の顔を見る事叶うのは正餐の時だけだった。

 しかも、ケセルトンはマールとは別の食卓を囲んでいた。正妃が司る妃達の食卓である。


 マールはアーケイディスと向かい合い、様々な事を聞かれた。

 レントのことで、思いつく限りの事を聞かれたのだが、マールは気がそぞろになっている上、武術にしか能がない男である。

 一見無秩序に見えるレントの法や習慣を理解していなかった。


 正直、アーケイディスは正直マールと食事を共にするのは面白くなかった。

 ケセルトンなら打てば響くように答えが返ってくるのに。


 それでもマールが正式な使者であり客人である以上それなりにもてなさなくてはならない。しかもケセルトンの兄という事は外戚になるという事だ。出来るなら関係はスムーズにしておきたいとアーケイディスは思うのである。


 ケセルトンがマールは好きではないというので、妃達の食卓にやったが本来なら彼女も同席したほうが自然ではないか、と、アーケイディスは思う。

 兄ではないかと言ってみたらケセルトンは泣きそうな顔で笑った。


 あの痛々しい笑顔をもう見たくないが故に、アーケイディスは二度と言わなかったが。


 そんな事を考えながら、今日もアーケイディスはケセルトンの部屋に酒瓶を持ち込んだ。

 マールとの正餐を終えた後、酒の強さを競う気にもなれなかったので、ただの飲み物として、アーケイディスは極上の秘蔵酒を持ち込んだのである。


 ケセルトンは喜んだ。

 喜びながら彼女は解らなかった。


 酒が嬉しいのか、今宵もやってきてくれた事が嬉しいのか。


 しかし、アーケイディスはゴブレットにワインを注ぐとすぐさま言い放った。


「この酒を空にしたら、今宵はソニアの許に行く故に」


 寂しい、と、思うのと猛烈な嫉妬がケセルトンを襲った。

 健康的な薔薇色の肌のソニアを浅黒い肌のアーケイディスが抱く様をまじまじと想像してしまったのだ。


 何を今更。

 自分とて誰とでも寝た女ではないか。

 アーケイディスは妃と寝るのだ。正妃と。それはごく当たり前の事だ。ケセルトンがどうこういう筋合いはない。


 しかし、一瞬にしてケセルトンの顔色が沈んだので、アーケイディスは少し心配になった。レントの娘が嫉妬深いだなどと聞いた事もない。しかし、もしケセルトンが嫉妬してくれているのなら、少し──とても嬉しい。


 ──嬉しいと思ってしまうのは何故だ?


 二人は無言でゴブレットを傾けた。


 競うように浴びるように飲んでいた時と違って、舐めるように飲む。

 まるで瓶が空になるのを恐れるように。


「アーケイディス様は何か私に言う事はないのか?」


「何か、とは?」


 アーケイディスの言葉に、ケセルトンは首を振った。

 銀の髪が踊る。その様にアーケイディスは目を奪われる。


「いや、何もないのならいい。ただ、大事な事を忘れておられるのではないかと思って、な」


「大事な事?」


 ようよう口に出したアーケイディスであったが、ケセルトンのいう大事な事に思い当たるまでの数瞬の間が必要であった。そしてそれはとても苦いもの。


「そなたの子か」


 こくりと、ケセルトンは頷く。


 昼間は乗馬の時間を増やした。身体を動かしていないと何だかやりきれなかった。

 他の妃達も乗馬に誘った。一応、敬意を払うつもりで誘っただけであって本当に乗ってくるとは思わなかったが意外や意外、皆で馬に乗る事になった。聞くと、武術の嗜みも、乗馬の嗜みも自分の身を守る程度にはあるという。他の妃達は片鞍で腰をひねり馬に乗るがそれだと安定が悪い。尤も、片鞍であろうとも落馬の心配などした事のないケセルトンであったが戦場での経験上、彼女は男のように両足で馬に跨る。

 そうやって身体を動かして、疲れてしまうまで馬の背に乗って、牝馬のベアトリスに砂糖をやって夕食を迎え、兄からの射るような視線を感じて、そうすると、子のことばかり考えてしまう。


 恐らくはあの兄の子だ。

 そう思うと胸が苦しかった。兄の事など愛してはいない。だが子は違う。


 あの兄に似て愚鈍でなければいいがとケセルトンは思う。


 しかし、彼が滞在している以上赤子の事を一瞬でも考えないで済む時間はないであろう。

 偏執的なまでにケセルトンを求めた兄、マール。


 アーケイディスがいつものように飲み比べに朝まで付き合ってくれないのなら、他の女の許に行くのならば、自分はどうやって朝まで時間を潰せばいい?


 愛し子の事を考えて。

 一体どうやって。


「返事は来た。此方についてから、そなたに直々に話すという事だ」


「連れてきてくれるわけではないのか?」


 泣きそうなケセルトンを、アーケイディスは包み込みたいと思う。

 だが子を持ったことのない身にそれは不可能である気がした。


「砂漠からの旅ぞ。式までそう日があるわけではない。赤子を連れてくるに相応しく思うか?」


「確かに……仰る通りだ。子連れで砂漠を越えようと思えばそれなりの装備も必要であろう。急ぎ、シニアリードまで向かう行程では無理、だな」


 呟くような声は自分に言い聞かせるようだった。

 そう、ケセルトンは自分に言い聞かせている。


「婚儀が終わったら、マールを、兄を、レント砂漠へ強制的にでも帰して頂けるか? 私はどうもあの男が苦手なのだ。一緒にいたくない」


「余には兄弟姉妹がおらぬ故に解らぬが、そんなに嫌なものなのか?」


 首を傾げるアーケイディスに、ケセルトンはまた寂しげに笑った。


「兄弟姉妹の総てが嫌なわけではない。実際弟達妹達など可愛くてたまらなかったし、兄上の中にも優しい方がいらした。労咳で儚くなられたが。姉上達は皆お美しかった。優しくて上品で。何故アーケイディス様は私ではなく異母姉上達や異母妹達を求められなんだのか不思議でたまらぬ。私などより余程妻としては良いものだと思うぞ」


「余は」


 アーケイディスはゆっくりといった。


「余はそなたが良い」


「じゃじゃ馬だからか?」


 頬に朱が走る感覚を覚えながらケセルトンは言う。


「違うな」


 アーケイディスはゴブレットを卓子の上に置いた。


「そなただから、良いのだ」


 とくん、とくん、ケセルトンの小さな胸が弾む。手毬のような胸の奥で雌が目覚める。


「私の、何が良い? お母上に似ているからか?」


「違う」


「ふん、信じられぬな。これから別の女の寝室へ向かおうという男の戯言など」


「何故傍に居て欲しいといわぬ? そなたは余が好きであろう? 知っておる。そなたの目を見れば解る。ならば何故ソニアの許に行くなといわぬ?」


 かっと、ケセルトンの顔が、耳が、真っ赤になった。そしてぎりりと歯を食いしばるとケセルトンはゴブレットを叩きつけるように卓子に置き、アーケイディスの頬を渾身の力をもって平手打ちした。


 すさまじい破裂音に、ケセルトンは自分がしてしまった事の重大さを知る。


 本音を言い当てられて、手傷を負わされた獣のように凶暴になった自分。

 まじまじと手を見る。本気で叩いた。


 アーケイディスは頬を撫でながら氷が欲しいと切実に思った。

 舌で歯を確かめるがどの歯も無事なようである。頬の肉は痺れているのか奇妙な心地だ。


 しかしながらこんなに痛い目を見たのは初めてであった。

 一度父の馬を無断で拝借した時に、父に平手を喰らったが、音こそ盛大であったものの歯の心配をするような事にはならなかった。


 もしかすれば自分は王という立場に酔うておったのかもしれぬと思う。

 女を本気で怒らせるとこんなにも恐ろしい。


 しかしその恐ろしい女は、ふるふると震え、まるで捨てられた仔猫か親を喪った雛鳥の様。


「申し訳ありませぬ……アーケイディス様。どんな罰でもこの身一つに受ける。レントの民へのお怒りは、どうか……」


 ケセルトンは必死で言葉を紡ぐ。


 彼女は泣き出したかった。

 これがアーケイディスとシャーディーンの不和の種になったらどうすれば良い!?


 嗚呼、私は何て愚かな!!


 しかし、返ってきたのは豪快な笑い声だった。


「姫、言うたな、どんな罰でも受けると」


 ごくんと唾を飲み干しながらケセルトンは頷く。

 アーケイディスは自らの唇を指差した。


「我が唇を強請れ。そなたが強請るまでお預けなどと馬鹿な事を言うたがばかりに、余はひどく寂しい思いをしているのだ。そなたの唇につい視線がいってしまうのにな」


 どくん! と、ケセルトンの胸が鳴った。

 そんなケセルトンに、アーケイディスは左手を広げる。


 そんな切なそうな顔をされると苛めたくなるではないか。優しくしたいのに。愛おしみたいのに。


「卓子を挟んだままというのはあまりに情緒がない。こち来や」


 ケセルトンは頷くと何故か立ち上がらずに這うようにしてアーケイディスの腕に近づいた。その腕、逞しくもしなやかな筋肉に覆われた腕。吸い寄せられるように、彼女はアーケイディスの胸元におさまる。途端、腕に力が込められた。


「ひらひら蝶々、腕の中、逃がさぬように、力を込めて、吐息絡めて、潰さぬ様に、愛しむように」


 それは今フェリシニアで流行っている戯れ歌であった。


 抱きしめられた格好のケセルトンは、そっと、アーケイディスを見やった。

 下から見上げると、喉仏がくっきり出ていて、女の自分とははっきりと違う事が解る。

 睫毛が長くて、とても綺麗な目をしている。金色の瞳は白子の母親の血のせいかも知れぬが、まさしく王者のそれだ。こうやって戯れに女を抱きしめ、戯れ歌を歌っていても。


 ──戯れ? 本当に?


「貴方は、酷い人だ、アーケイディス様」


 低い声で、ケセルトンは呟いた。痛みを我慢しているときのように震えた声音。


「余の何が酷いと?」


「期待させる。女に……所詮私はレントの後ろ盾のためだけの女で、貴方が今まで求めてきた妾妃様方とは違うのだろうけれども。それなのに、貴方に好いてもらえるかも知れぬと期待してしまう」


「余は、そなたを好いておるぞ?」


 アーケイディスはケセルトンの耳に囁く。


「それは鶏肉が好きだとか、羊肉が好きだとか、そういう好きであろう?」


 耳元で囁かれると身体が強張る。

 何かを期待して。

 その何かがわからぬほどケセルトンは馬鹿ではないが彼女はあえて気付かぬ振りをする。


 そんなケセルトンの比喩に、困ったものだとアーケイディスは彼女の髪を撫でた。


 女を鶏肉や羊肉に喩えてどうする。まぁ食えば美味いのは同じだが。


 すぅっと、アーケイディスの顔から笑みが消えた。

 それを見て、ケセルトンは怖いと思う。剣を握って戦っている時よりも、機嫌の悪い父の前にいる時よりも。


 嫌われたくない!!


 そんなケセルトンの唇に軽く唇を触れさせて、アーケイディスは言う。

 熱い唇。熱い頬。熱い耳。熱い体。


「そなたが着いてすぐ抱く事も出来た。今抱く事も出来る。何故抱かぬか解るか?」


 唐突な口づけに目眩を起こしそうになりながらケセルトンは言った。


「あんなに魅力的な妾妃様方がいらしては、私など眼中にも入るまい」


「違う」


 アーケイディスは言い切った。


「そなたを大事にしたいからだ」


「わたし、を?」


 ケセルトンの言葉はすぐに埋もれてしまった。アーケイディスが彼女の唇を再び奪ったからだ。啄ばむ様な口づけが続き、吐息が絡んだ。熱いと思った瞬間にはアーケイディスの舌はケセルトンの口の中に忍ばせられていた。


 触れた唇もひどく熱かったけれど、舌程ではなかった。

 柔らかく絡む下の熱さは、眩暈と共に狂おしい程の欲を齎す。


 不思議と嫌悪感の欠片もケセルトンは感じなかった。

 犯されたとか、蹂躙された、とかいう思いは一切なかった。

 むしろこの瞬間が永遠に続けばいいと、ケセルトンは思いさえした。


 その時、ネストが天守から降りてきたとの知らせを侍女が持ってくるまでは。



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