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フェリシニアの花嫁  作者: 古都里
第一章
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三 母というもの

 アーケイディスは公の政務を執る外宮でさらさらと筆を滑らせると、流麗な文字で自分の名をしたためた。

 内宮からその奥の楽園まで行っていたらきっと仕事にならないだろうと判断して、直接命じるのではなく、書を書くことにしたのだ。


 レント砂漠の姫が突然こちらに来るなどということがなかったなら、今頃は目の前に山積された書類を判別し、その他の立案書も作れた筈だったのに。

 今日は妃達との自堕落時間に色々と案が浮かんできていたのにと思うと本当に口惜しい。


 だが、彼女を思い出すと知らぬうちににやりとしてしまう。

 じゃじゃ馬と言うのも面白い。


 ただ、じゃじゃ馬はソニアには礼儀正しくしていたようだった。


 ソニアに全て任せたほうが良いのかも知れぬな、楽園でのケセルトンの扱いは。


 そう思って、アーケイディスは香木で作った書箱にしたためたばかりの書を入れる。

 そして誰かを呼ぼうと鈴を鳴らそうとしたところ、外の鈴が鳴った。


「誰ぞ?」


「女官長のリーンディにございます。ソニア様の書を承って参りました」


 丁度良いタイミングに、アーケイディスは再びにやりと笑った。

 本当に、ソニアは良い女だ。


「入るがいい」


 言うと、衛兵が扉を開け、リーンディが国王に礼をとった。両手で書が入った香木の透かし箱を持ち、それを捧げるように持ちながら腰を折る。


「こち来や。余の方からも書を託そうと思っていたところ。だが、先ずはそちらを読もう」


 箱を受け取ると薄紅色の組み紐を解き、中の書に目を通す。


【尊敬し奉る偉大なる我が君】


 畏まった言葉から始まる書は、簡単にケセルトンにつける侍女を選んだのだが彼女らでよいか、という事と、もう一つ──。


 ざっと目を通し、まずは侍女の事だとアーケイディスは判断した。

 リーンディの妹ナーレリアとの名があった。

 確かに彼女なら信用出来るだろう。信用出来過ぎる位だろう。

 ケセルトンのお披露目がすめば然るべき数の侍女をつけるとあり、別紙に候補者の名前が書いてあった。


 本当に、ソニアは自分には過ぎたる程の良い妃だ。


 元々、破瓜姫と呼ばわれる娘であったが、そのまま王家の妾妃と迎えられ、子を産み国母となる娘になるやも知れぬと言うことで、ソニアは厳しく躾けられていた。

 歴史上、今までに何人もソニアのような少女が妾妃となってきたのだ。


 正妃にすると断固として言い放ったのはアーケイディスが初めてらしいが、しかしアーケイディスは決めた事を翻すような人間ではなかった。


 若くして玉座に座す事になったアーケイディスは国の発展と民草の幸せの為に総てを捧げるつもりであった。しかし、『王』の義務はひたすらに重く、ソニアと言う安らぎがなければ今日までを乗り越えられなかったであろう。それ程までに彼女の存在は大きかった。


 その後、跡継ぎの為に、政治的意図の為に何人もの妃を求めたが、愛しているのはソニアだと断言できる。小鳥達を幾ら可愛がろうとも愛と好意では、余りに違う。


 アーケイディスは必要とあらば、あと百人でも妾妃を娶る気であった。


 さすればあの姫はまた余に助平と言い放つのであろうか。


 ケセルトンの事を思い出し、ふっと軽く、アーケイディスは溜息をついた。


 去年他界した母上に似ている──。


 唇が自然と笑みを刻んだ。


 アーケイディスはソニアからの書を机の一番上の引き出しに入れ、空の透かし箱を組み紐と一緒にリーンディに渡すと、自分の書箱を仕舞った。


「陛下、ソニア様への書は……」


「必要ない。余がソニアに頼みたかったことはあれが既に手を回してくれた」


「左様で御座いましたか」


 リーンディは柔和な微笑を浮かべながら言う。


「新しいお妃様は可愛らしい方のようでいらっしゃいますね」


「口の悪い女だ、だが隠し事をされているのではないかと案じる必要がない」


「それはよう御座いました」


「まぁ落ち着けば夕食のときにでも見に行く。とりあえずこの書類の山を少しでも減らさねばな」


 アーケイディスが少しうんざりだというように溜息を吐いた。

 だが、そのアーケイディスはリーンディが退出すると、即座に先程しまったソニアからの書を手にした。


 一読して、更にもう一回読む。


 そして溜息を吐いた。


 人払いをしてあって本当に良かった。この部屋の外には沢山の兵士と侍女が何かあればすぐさま応えられるよう準備している事は知っているがそんな事は今、どうでも良い。

 

 ソニアの書。


【ケセルトン様に、あの方の子供をどうか抱かせて差し上げてくださいませ……。】


 子供など、連れてこられる訳が無い。子連れの妾妃など聞いた事も無い。賢いソニアなら解っている筈だ。


 子供がいる女性を妾妃とした場合、それなりの処遇を与える。

 そして当然のごとく別々に暮らす。


 しかし、しかしである。


「乳飲み子か……」


 レントの長シャーディーンに問い合わせてみても良いかも知れぬとは、思った。


 アーケイディスは去年母を喪っている。

 ソニアの事を初めとして、否、生まれてきたその時からか、母親と言う存在をアーケイディスはどれほど泣かせ、困らせ、喜ばせ、笑わせ、怒らせ、してきた事だろう。


 母親、というものがどれ程得がたいものだかそれ故にアーケイディスはよくよく知っている。


 子は母を慕うものだ。離れ離れなのは、自然の理に反しているとアーケイディスは思う。


 適当な女官に里子として名目だけ預け、楽園で育てるのも良いかもしれないとアーケイディスは楽観的に思い直した。

 女官は町家や富農の家の出の侍女とは違い、貴族の娘の仕事である。

 親に幾ばくかの口止め料を払い……こういう不正じみたことは大嫌いなのだが……孫として認めさせれば、貴族の子として有利な縁談を結ぶことも可能であろう。


「そんなに上手くいくのか……?」


 自問自答するがそれが最善のような気がしてならない。


「ケセルトンに直接相談するか」


 他に方法が思いつかない。それに楽園で育てるのなら未来の王の良い遊び相手にもなる。

 それは勿論、誰かが子を身篭ってくれれば、の話であるが。


 子作りの事を考えるアーケイディスの溜息は次から次へと押し出される。


 先王はアーケイディス一人しか子を残さなかった。母とは完全な政略婚で、世継ぎが一人生まれたという事で睦みあう事を止めた。

 幼いアーケイディスは美しい父と母が互いに話もしないのを不思議に思ったものである。

 父も母も寡黙な性格ではなく、アーケイディスとならよく喋ったからだ。


 愛どころか情もない寂しい関係だったのだな、と、今のアーケイディスなら理解できる。


 しかし生真面目な父は母が気に入らぬからと妾妃を娶ろうとはしなかった。故に担ぎ出される王子も王女もいないのでアーケイディスを狙うもの達は少し、躊躇う。そして、結局彼は今まで生き延びてきた。それを今までは有難く思ってきたが、反対に子を作れぬと血筋が絶える。


 いとこ達が継いでくれたなら重畳。


 だが、下手をすれば内乱の火種ともなりうる、『子がいない』という事実。


 やるべき事はちゃんとやっているぞ、余は。やり方がまずいのか? 何か手順があって余はそれをすっとばしているとかなのか?

 なんにせよ、兄弟姉妹が存在していたらぶつからなかった問題だ。


 父上、母上、お恨み申し上げます……と若き黒竜王はまた溜息を吐いた。




◆◆◆

 ケセルトンはその夜、顔に軟膏をしっかりと塗られ夕食までの時間を持て余していた。。

 冷やす段階は終わったらしい。後は腫れが引くのを待つしかない。

 もう熱はないが空気に曝している肌がひりひりと痛む。

 それでもケセルトンは一言も痛いとは言わなかった。

 

 ケセルトンに就けられた侍女、ナーレリアはその芯の強さに感心する。普通の姫君なら、指に火ぶくれを作っただけで今頃大騒ぎしているであろう。ナーレリアはそういった場面を何度も見てきたし、それに対応もしてきた。だが、心中は軽蔑していた。


 痛い痛いと唸っても、耐えてみせても、傷の治りは変わらない。


 ヒステリーを起こす女が嫌いだというナーレリアにとって、出来うる限り丁寧に軟膏を塗っただけで「有難う」と心の底から言ってくれる主人はまさに神からの賜物だった。軟膏を塗るために指が触れるだけでも痛いだろうにその様を微塵も示さなかった。


 故にナーレリアは心から姉とソニアに感謝し、ケセルトンに尽くすと決めたのである。

 簡単に言えばナーレリアはケセルトンが気に入ったのであった。


 が、今日の正餐は想定の範囲外の事であった。

 正餐のためのテーブルは、この寝室続きの居間のテーブルで代用しようとナーレリアは思い、手配した。


 しかし、運ばれてきたのは二人前の料理。


「わたくしは頂きませんよ。主人と同席する女官など聞いたことがございません」


 言い切ったナーレリアは料理長に言われた言葉で唖然となったのである。


「陛下がお渡りになるそうで」


 そんなまさか。

 陛下は楽園で小鳥達に「あーん」とか言われつつ食事を取るのが常ではなかったか?


 ナーレリアはどんどん用意が進むテーブルを見て、寝室に駆け込んだ。

 ケセルトンは寝台の上で髪を編み上げている途中であった。食事時に邪魔にならないようにするためだろう。しかし着るものは絹の夜着しかない。


「ケセルトン様、一大事にございます」


「なんだ? 何かあったのか?」


「陛下がお食事をご一緒したいと……」


 ケセルトンの表情が変わった。あんな男と食べたなら食事がまずくなる。


 貧しい砂漠の暮らしでは食べられないものが一杯出てくるという食事の機会を、ケセルトンは密かに楽しみにしていたのに。


 しかし断る権限はケセルトンにはなかった。


「解った。ご一緒しよう」


「お召し物はどう致しましょう?」


 ナーレリアの泣きそうな声に、ケセルトンは笑って見せた。


「このままでいい」


 確かに毅然としたケセルトンが銀髪を結い上げ、前を向いていたら夜着も立派な衣装のようだとナーレリアは思う。

 この方には生まれついてのカリスマがある。


 だが、ナーレリアがケセルトンの心中を知ったなら仰天するだろう。


 あの男の為に何故着飾らねばならぬ? 確かに思ったより悪い男ではないが。


 その時、ケセルトンは我知らず頬の水ぶくれに触れていた。

 此処に、あの男が触れた──心配そうに。そしてガーゼを乗せてくれた。


「ケセルトン様、いけません。お顔をお触りになっては!!」


 ナーレリアの悲鳴に手を下ろすと、ケセルトンはにんまりと笑んだ。心配するなと。


 その時、扉の外の鈴が鳴らされた。


「陛下がいらっしゃいました。居間へどうぞ」


 強張った顔のナーレリアに、うっとりしてしまいそうな笑顔を向ける。そしてケセルトンはナーレリアの後に続いた。


 顔に火ぶくれを作った上、未だ陽の熱がもたらしたダメージを負うケセルトンにどんな礼儀だのをアーケイディスは求めてくるだろう。

 ケセルトンにはよく解らなかったし、解らなくてよかったのだ。

 応える心算がないから。一刻も早く自分を諦め義母妹を求めるよう仕向けなくてはならない相手に、礼儀だのなんだの、仮に解っていたとて知らぬふりをしていたに違いない。


 扉が開くと、供を連れたアーケイディスが先に席についていた。


 料理から立ち上る湯気と、美味しそうな香りにケセルトンはそれだけで空腹が満たされるのを感じた。

 レントで摂ってきた食事が如何に粗末なものだったかを一瞬で魂レベルにまで知悉させる、そんな芳香。


 しかし、この料理を二人で食べるのか? それにしては量が多くないか? それにこれは何だろう? 銀器の使い方は教わったが目の前にでーんと存在を主張する生き物の名前がケセルトンにはどうしても解らない。


「かけるがいい。皆は席を外すように」


 言われ、ケセルトンは騎士の一人が引いてくれた椅子に落ち着いた。

 その騎士は騎士の礼をとって退出する。ナーレリアも腰を折り辞去した。


 一瞬で、二人きり。


 「あの者達をどうして去らせた? 料理は皆で食べても余るほど用意されているというのに」


 ケセルトンの素直な問いに、アーケイディスは指を振った。


「残すのだ。食し切れなかった分は七箇所ある王立孤児院に毎日交代で運ばれる。だからと言って遠慮することは無い。まだまだ余分に作らせてあるからな」


「孤児達の週に一回の贅沢か」


 どうやら、王都の孤児達はレントの誰よりも、そう、長よりも豪勢な食事を週に一度は摂る様だ。


「そういうことだ。銀器の使い方は覚えたという報告書が届いている。食おう」


「アーケイディス国王、聞いてもよろしいか?」


「何だ?」


「このでーんとしたのは何なのだ?」


 ケセルトンは先刻から気になっている質問をした。この、目の大きな生き物は何だ?

 すると、アーケイディスが盛大に噴き出した。まさに抱腹絶倒と言うやつだ。


「笑わば笑え。失礼な方だ。どうせ私は砂漠育ちの無知な女だ」


「ははは、は、は。いや、失礼を。姫は魚を見ることは初めてであったか」


「魚!? これが物語の!?」


 ケセルトンが喜色を示したのを見て、何故かアーケイディスも心が微かに温まった。


「そうか、海というところを泳ぐのだな。不可思議な生き物だ。魚とはこんな生き物だったのか」


「魚がいるのは海だけではなく川も湖もだが……確かレントの水は湧き水と井戸で賄われておったな。この魚は味も良い筈だぞ。はらわたを取り出して味付けし、丁寧に煮こませたものだ」


 そういって、アーケイディスはさっと銀器を取り上げた。


「一寸お待ちあれ、待って、神への食前の祈りは?」


 ケセルトンの言葉に、アーケイディスは不敵に笑った。


「神が何をしてくれる? 飢えた腹に飯を詰め込ませてくれるのか? 治水工事に加護を与えてくれるのか? 余は神に縋るより自分で努力して総てを勝ち取ってみせる」


 子供なら与えてくれるかも知れんぞ、という言葉を、ケセルトンは飲み込んだ。

 それを言うのはあまりに酷だろう。それとも私が優しすぎるのか? 大体、アーケイディスに子が出来ぬのは神の所為ではない。


「私は祈るぞ」


 言って、ケセルトンは印を切った。


 祈る相手は神。そして最後にいつもこう付け足した。

 私の子が飢える事が無いようどうかお見守りください。


 その祈りを見た瞬間、アーケイディスは心が痛くなった。


 ただ食事を摂るという一日に三度もある事柄の中、母親は常に我が子が飢えぬよう祈るものなのか。


 祈りが終わったのを見て、アーケイディスは言った。


「シャーディーンにそなたの子を此方へ寄越すようにと、命を出そう」


「え?」


 一瞬。


 ケセルトンの大きな紅い瞳が零れ落ちそうなほど見開かれ、そしてそこから涙が溢れてきた。


「そなたは我が妾妃になる身。故に……」


 ゆっくり、噛み砕いて説明するように、アーケイディスは苦心した。ともすれば早く自分の考えを告げてしまいたいと早口になりそうなのを押さえ、ケセルトンの頭の中に染み通るように言葉を選んだ。


「抱けるのか? それは許されるのか?」


 アーケイディスの言葉が終わるのを待って、ケセルトンは言った。


 もう乳は止まってしまっている。元々乳の出やすい体質ではなかったし、子供が吸わぬのだから枯れるのも早かった。だけれども、乳を与えられなくとも。

 この、腕で、抱けるの、なら。


「神様……!!」


 呟いたケセルトンに、アーケイディスは苦笑した。


「礼なら神にではなくソニアに言え。ソニアが余に書状を寄越してきたのだ」


「ソニア様……」


 ぽろぽろと、ケセルトンは涙を零す。湧き水のように溢れて止まらない涙。


 アーケイディスの胸が鳴った。

 初めて会ったとき、こんなにも神さめた美しい人間がいる事に驚いたものだった。


 美貌で知られた母よりも恐らくは美しい。

 アーケイディスにとって誰より美しい存在であるソニアより……恐らくは美しいと人は言うだろう。


 だが、今目の前で、真っ赤な顔で所々に水ぶくれを作り泣いているケセルトンは、今まで見てきたどんなものよりも美しい、と、アーケイディスは思ったのである。

 そして、次は笑顔が見たいと思った。


 きっと陽だまりのような暖かさだろう。


 子供さえ手に入れれば、それをケセルトンに託せば、出し惜しみされることなくその笑顔を絶えず見つめ続けることが出来るだろう。


 心がひどく搔き乱されていた。


 まだアーケイディスは自分の心に生まれつつあるある感情に気付かない。



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