四 血塗れの蓮
サーディシエントが強国足り得たのは今までの王が皆、賢く強く、そして子供にその賢さ強さを受け継がせたからだ。
サーディシエントの宝は、土地でも兵力でも特産物でもなく、知力。
それ故に大国たり得たのである。
それを思えば愚かな狂女アリステアを戴くこの国を落とすのはそう難しいことではないかもしれない。
「マジェーン、ようやった」
アーケイディスの言葉に彼女は頬を染め、嬉しそうに「有難うございます」と言った。
「わたくしとエンディア様は、牢屋に行って参りました。ケセルトン様がいらっしゃるかと思って」
ティーローゼはゆっくりと言った。
「牢屋の衛生状態は、それは酷いものでした。籠められている者達は、食事も満足に取れていないようでした。とても哀れでしたわ。ケセルトン様はいらっしゃらなかったのですが、アリステアの妹がおりましたわ。クルセニア姫、御年十七歳。他の弟妹は皆鬼籍に入ったとの事です。アリステアが身内を手にかける事に全く躊躇いを持たぬ女である事は良く解りましたわ。クルセニア姫は狂いもせず聡明そうな方でした。サーディシエントの王族唯一の生き残りが愚劣でなくてようございました。少しお話しましたが可愛らしい方でしたわ。つまり何時アリステアの首が胴体から引きちぎられようとも問題はないということです」
「クルセニア姫か。覚えておこう。この国の最後の王族となれば利用価値は莫大だ」
アーケイディスの言葉にティーローゼの頬が薔薇色になる。
「クルセニア姫は色々と城の抜け道……諜報部も知らない王族しか知らない道を教えて下さいました。後で地図に記しますね。戦がもし篭城戦になった時、絶対に必要な知識だと思いますので」
エンディアの言葉にアーケイディスは笑って彼女の頬に触れる。
「ああ、それは必要な知識だ。寝首を確実にかける戦というのも滑稽な気がするが」
「わたくしは収穫がございません。申し訳ございません、アーケイディス様」
ミスティリカが悔しそうに言った。
「わたくしは地下に参りましたの。そこにケセルトン様がいらっしゃるかと思って。でもそこにいたのは、アリステアに飽きられた愛人ばかりでしたの。食べ物も与えられず犬のように鎖に繋がれて首輪を嵌めておりました。助けてくれと言われましたが鍵もありませんし……解ったのは『見目良い男達は戦場に行かなくていい』と言われたので、城に行って審査を受け、合格した男達は愛玩動物のように飽きるまで可愛がられ、飽きられたら地下につながれ、飢えて死ねば燃やされるとの事です」
「そうか……ミスティリカ、それは収穫だ。女達が不安に思っているに違いない。フェリシニアの軍が到着し、彼らを解放すれば我々は簒奪者ではなく解放者となる」
「有難うございます」
ミスティリカは少しほっとした顔をした。
小鳥達は皆帰ってきた。流石は籠軍と言ったところか。しかも、それぞれが使える情報を持って、だ。
やはり隠密事は少数精鋭で行うほうが良いらしい。量より質だ。
しかし報告を聴くだに不思議に思う。そんな滑稽な事が現実に起こりうるのだろうか?
色々と信じがたい展開だ、三文小説以下の展開と言ってよい。
ありとあらゆることが異常すぎる。
誰もアリステアの恐怖政治──これをもしも政治と言っても良いのならばだ──に疑問を抱かないのであろうか。
狂女を討とうと言う者が現れないのは何故だ?
「ん……痛っ」
微かにケセルトンがうめいた事で、これが悪夢ではなく、現実なのだとアーケイディスは気付いた。何故自分が代わりに傷を負ってやれないのだろうと千切れるような思いを味わった。唇を強く噛み締めすぎた所為で血の味がする。
何故ケセルトンがこんな目に遭わなくてはならぬ?
だが、ケセルトンはアーケイディス故に……恐らく連れ攫われたのだ。
それは彼の罪ではなかろうか?
「ケセルトン様が御無事で本当にようございました」
そう言ったマジェーンの言葉が彼の小鳥達の総意であった事が救いか。
◆◆◆
アジトに着くと、諜報部員たちはどよめいた。
彼らがケセルトンを見るのは初めてであったが、そのボロボロの身体は余りに見ていて痛々しかったのだ。
外套ですっぽり覆われていても、ほんの少し覗く皮膚は鞭の跡が痛々しく、そして何より酔いそうなほどの血臭を放っていた。
「こんな傷だらけの女を連れて行っても宿屋では拒否されるだろう。妾妃達だけを宿屋にやるのも気が進まない。すまないが二部屋空けてくれないか?」
アーケイディスの言葉に彼らは素直に従う。
「たった二部屋で良いのですか?」
「緊急時だ。我が小鳥達は雑魚寝くらいで文句を言ったりしない」
「解りました、せめてソファベッドを運びこみます」
「すまない」
てきぱきと対応するのはアルカという男だった。成績が良い事でアーケイディスはしっかりと覚えていた。彼をソシエルの後釜に据えるのも良いかもしれない。
「あの、宜しいですか? アーケイディス様」
「何だ? ミスティリカ」
言いにくそうに、ミスティリカが言う。
「新品の服などと贅沢は言いません。洗濯をしてある服を貸して下さいませぬか? 服に血の匂いがついているような気がして……それにもうこの服を着て四日目になりますから。緊急時の我儘申し訳ございません……」
「解りました。女性の諜報部員がいないわけではありませんので彼女らから服を借りてきましょう。木綿でも構いませんか?」
諜報部員が咄嗟にミスティリカに申し出ると、ぱぁっと、ミスティリカの顔が花開いたように微笑みに彩られた。他の妾妃達の顔にもほっとしたような色が浮かぶ。
「ええ! 木綿でも何でも! 洗ってあるものならば何でも!」
アーケイディスは着替えの事まで気が回らなかった事を深く深く恥じた。女である小鳥達に随分と不自由をかけていた事にも気付かない程自分の事で一杯一杯だった己を恥じた。
糧食以外殆ど何も持たずに城から飛び出してきたのだ。丹念に準備されたものと言ったら各々の武器位のものであろう。そんな自分も着たきりすずめで、しかも薄い外套はケセルトンをくるむのに使われている。殆ど裸といって構わないケセルトンの姿をこれ以上誰の目にもさらしたくなかった。
アーケイディスの外套は、紅い血でその華奢な肌にぴったりと張り付き、重い。医師の手配をした方がいいのだろうか?
「あの、国王陛下、わたくしに、陛下のお手伝いをさせて下さいませ! 侍女の仕事もやっていた事があるのでお役に立てるかと」
女性諜報部員が言ったが、アーケイディスは断った。
一瞬任せるべきだろうかという思いが心によぎらなかったわけではないが、他の小鳥とケセルトンは違う。ケセルトンは戦士として生きてきた娘だ。
だから、これ以上、ケセルトンを辱めたくない。
「気持ちだけもらっておこう」
部屋が用意出来たというので、アーケイディスは小鳥達に良く休むようにいい、ケセルトンを抱いて部屋に向かった。
「何か必要なものがあったら何でも申し付けて下さいませ」
そういって、部屋に案内したのはアルカだった。
「お湯、薬、油紙、ガーゼ、包帯、その他手当てに必要だと思ったものはこちらの卓子に勝手に運び込ませていただきました。手が必要でしたらいつでもお呼びください」
女性諜報部員の手伝いまで断ったアーケイディスの気持ちが、同じ男であるアルカには良く解った。だが、一人でやってみて出来なければ助けを呼べばいいと思っている。
命より大事なものはない。
それでも、命にかかわらぬ範囲でなら全力で誇りを護りたいと思うのも人の性。
「有難い。深夜にすまなかった。よく休むが良い」
「陛下、申し訳ございませぬ」
アルカは言った。
「ソシエル部長とヴェーゼ補佐官に任せきりでなく我らが動いていればお妃様はそこまで傷つかれなかったかもしれません」
「仕方の無い事ぞ、諜報部は縦の社会だ。上からの命令は絶対。そこをソシエルは良く知っていたであろうし、ヴェーゼはそれを忘れる程余への面会を急いだのだろうから。もう良いから下がれ」
「失礼致します」
アルカは深く深く頭を下げ、退出した。
アーケイディスは一旦ケセルトンを長椅子に寝かせた。頬が熱い。体中が熱を持っている。傷ゆえの発熱であろう。
外套を脱がせ、テーブルの上においた手桶の湯で身体を拭く。手際よく、と行きたいが中々そうは行かない。
剣の修行と違って傷を負ったものへの応急処置はほんの形しか習っていなかった。アーケイディスは王で、傷病兵の手当ては王の仕事ではないと自分に稽古をつけてくれたエンギーゼは思っていたのだろう。実際、その様な事を何度となく言われたことがある。
王は象徴。
そう口を酸っぱくして言っていた剣の師匠の事をアーケイディスは慌てて頭から追い払った。
今、小鳥達のみを連れて自分の愛する娘を助ける為だけに国を放ったらかしにして動いている、市場に流された自分をエンギーゼは後で散々説教するだろうが今はそんな事どうでもいい
手桶の水があっという間に真っ赤になった。
傷を見ていると大半の傷が鞭での傷だが、一部のそれはえげつないとしか言いようのない傷跡をケセルトンに遺していた。恐らく棘を仕込んだ鞭で嬲られたのだろう。
清めたら消毒して薬を、そう考えていたアーケイディスだが、ケセルトンの皮膚に走る傷は湯で清めてから見るとあまりにむごたらしく素人の手に負えるものではないと判断せざるを得なかった。
諜報部員の中には医官がいた筈だ、変に拘るのではなく早々にその者の手を借りねばならなかったのだ。
そう思ってアーケイディスが立ち上がった瞬間、彼が焦がれた声が名前を紡いだ。
「……アーケイディス?」
ケセルトンが目を開ける。
「ケセルトン?」
「ああ、夢、か。……アーケイディス」
「夢ではない!」
アーケイディスは再び長椅子の傍に膝をついた。乾いた唇に己の唇を押し付けてみる。かさつく唇だったが、やはりそれは焦がれた愛しい女の唇に他ならず。
やがて唇が離れると、細い腕をケセルトンは伸ばした。アーケイディスの首にそれを巻きつける。
「アーケイディス……」
「しっかりせよ! ケセルトン!!」
しかし、彼女は再び意識を失い、その体中から力が抜けた。脱力した腕が解ける。首筋に感じていた温もりが遠ざかる。
仕方なく、アーケイディスはケセルトンの身体に張り付いた布をはがす作業に戻る。下半身に辛うじて巻きついているのはペティコートの残骸。それを脱がせるのが面倒になったアーケイディスは短剣で切り裂く。
そして全身を湯で綺麗にした後、寝台に横たわらせた。
髪まで洗うのは無理だったが、次に彼は薬を塗りこんでいった。傷口が塞がりかけたものの上から、更にまた新しい傷が走っている。
シーツを身体に被せて、アーケイディスは諜報部に所属する医官に助けを求めた。
医官は、流石はプロだ。てきぱきと処置していく。
消毒して触れて軟膏を塗ろうとしたらまた血が滲んで、ということも珍しくなかった。
特に執拗に鞭が走っていたのは蓮の刺青の上だった。最早元の刺青の名残もない。それを見た瞬間アーケイディスは自分がいかにこの蓮の花を愛していたのか知った。
しかし、これは拷問のプロの仕業ではない。
筋や腱が無事なところを見ると、この拷問はアリステアのものだ。
それは医官も断言した。
処置を終えて、医官は深々とアーケイディスに頭を下げた。
「恐らく、高熱に襲われなさると思います。少しでもご容態が安定したら、しかるべき場所に移して本格的な治療を……」
そういう医官が、それが今のサーディシエントでは無理な事をよく知っていた。
そして、髭を蓄えた医官が退出するとアーケイディスは絞り出すような声で呻いた。
「あの女、殺してやる……!」
言いながら、そっと口づけた。乾いた唇に乾いた口づけ。
それは誓いのようなものだった。
アリステアは余が殺す。
そういう決意のようなものだった。
筋肉質なくせに細くて折れそうだった身体が、更に華奢になっている。あばら骨が浮いて痛々しい事この上ない。胸も小さくなってしまった。元々そう大きな胸ではなかったが。
明日、目が覚めたら飛び切り美味い物を食べさせてやろう。
そう思ってアーケイディスは首を振った。
こんなにも消耗しきっていて最初に口に出来るのは重湯くらいではなかろうか?
いや、ミルク粥はどうだろう。いきなりあれこれ口に出来ぬだろうが、栄養のあるものを取らせねば飢えて死にかねない。そんな不安が過る程ケセルトンは痩せていた。
怪我人だからあまり沢山は食えぬだろうが、そうだ、以前ケセルトンがネストにしてやったように口移しで食べさせればいい。
思っているうちに眠くなってきた。
シニアリードから三日でたどり着いて、日付けが変わって四日目、殆ど眠っていなかった。船は急流をいくから眠れなかったし、その後はひたすら馬の上だった。
アーケイディスは布団に突っ伏して、眠る。
夢も見ず、それでも、彼の手は手首に擦過傷が出来ている愛しい少女の手を握り締めて、決して放さなかったのだが。