九 狂気の向かう先は
「シャーリーが死ぬ事になっても良い、サーディシエントを落とせ」
共に初めての朝を迎えたときのケセルトンの言葉は余りに意外で、アーケイディスはぽかんとしてしまった。
あの表情を忘れない。
子を思って泣いたあの表情を忘れられる訳がない。
「シャーリーはそなたの命より大切なものではなかったか?」
「私か、他の妾妃様方のうち誰かが身篭らねば、貴方は廃嫡される事になるぞ」
「別に王位に未練などない」
「愚か!」
ケセルトンは怒りを含んだ声音で言った。
「妻がよその男との間に生んだ子供の為に王位を投げ出すのか!? 貴方が王になって、税も使役も減った。レントの民も随分地位が向上した。レント砂漠はサーディシエントとの国境線だからな。何度も小競り合いを平定してきたが貴方以前の王は褒美を与えてくれるどころか労ってもくれなかった。貴方だけだ。褒章と、熱くて優しい言葉。その言葉をもう一度と願って戦い、死んだレントの民が何人いるか解っているのか!?」
きっと、アーケイディスは唇を噛んだ。
「初夜が明けてする話ではあるまい」
ロマンのかけらもないではないか。と、アーケイディスが膨れてもそれは仕方のない事であろう。
しかし、ケセルトンはアーケイディスを睨みつけたまま、その視線の激しさは燃え盛る炎のようで。
「私の前に輿入れするはずだった姫を覚えておいでか? 華燭の典を上げるため、東からやってきたテリエル・ギエラ・シュスパード公女だ」
「シャーディーンが敵を討ち取り、余の元へ死体を清めて運んでくれたな。故国よりシニアリードのほうが近いからと言って」
「敵を倒したのは私だ。そして、その敵の正体を知っているのは私と長のみ。敵は……サーディシエンド王国第一王女、アリステア姫配下だ。貴方は余程恨まれていたのだな」
「……その様な事、シャーディーンは一度も……!!」
アーケイディスは頭を抱えた。
「漏らせば、シュスパード公国とサーディシエントは戦争になり、シュスパード公国はとられるだろう。そして、そうなれば、サーディシエントとフェリシニアの間の国境線が長くなる。レント砂漠を越えようとする者達だけを討てばフェリシニアの平和が保たれる時代は終わる。それに確実な証拠がない。賊の頭と部下の半数がアリステア姫の紋である薔薇を耳の後ろに刺青として入れていた以外はな。それ故黙っていよと私は長から厳命を受けた。『砂漠で賊に遭い、助けようとしたが、敵を倒し終わった後には公女殿下は自ら舌をかんでいた』と、半分の嘘と半分の真実を長は奏上したはずだ」
「──そこまで馬鹿にされて、何故我がフェリシニアが黙っておらねばならぬ!」
「だから、私の子の事は、気になさるな──」
アーケイディスははっとしたようにケセルトンを見る。
紅い瞳は、はっきりとした意志のみを伝えていた。
その瞳は母のものではなく戦士のものだった。
「それに、ソニア様だ。あのお方が尼僧院に入った事が解ったら、シニアリードの王城よりは暗殺も簡単なものとなる」
「その点は、大丈夫だ。ソニアは病死だと暫くしてから発表する。ソニアという名も捨てさせた。リチェルと名乗っている筈だ」
「そうか……ほっとした。貴方の母上の名を継がれたのだな」
ケセルトンは真実ほっとしたように溜息をついた。
「とにかく、なんでもいい。大義名分を作って、サーディシエントを攻められよ。レントの民は全力で貴方を支持する」
「新婚一日目で夫に戦を起こせという妻など初めて聞いたわ」
呆れたようにアーケイディスは言った。ケセルトンは顔色一つ変えず言う。
「仕方ないではないか。アリステアとか言う女は狂っている。次は何を代償に貴方に呪いをかけるか解らぬ。私は貴方を失いたくない」
「ほぉ、少しは甘い言葉の使い方も解ってきたみたいだな」
「なっ……!!」
赤くなるケセルトンに、アーケイディスは口づけた。
「褒美に願いを聞いてやろうではないか。サーディシエント、落として見せよう。非があるのは我らだと、レントの民には随分辛い思いをさせた。攻め入らず、国境だけは守りきれと。だが、テリエル公女がそのような目にあったのならこちらとて大義名分は立つ」
「もう、証拠はないぞ。賊らの死体はハゲタカに食わせてしまったからな。父と私しか知らぬ事、記録書にも残っておらぬ」
口づけでぼぉっとなる頭で必死にケセルトンは言葉を紡いだ。
口づけが如何な媚薬よりも強く女を狂わせることをアーケイディスはケセルトンに教えてくれたが、真剣な話をしている時に眩暈を伴うほどの快楽を与えるのはやめて欲しい。
しかし、アーケイディスは意に介さぬようだ。
「余の中で大義名分が出来ているのならそれで良し。アリステアとやらの首を手に入れてやる。ついでにサーディシエントを手に入れ西大陸最強の国になるのも悪くない。人には余が野心だと思わせておけばいい。子供も助ける努力をする。最初から殺す気でいたら助かるものも助からんわ」
言い切るアーケイディスが、ケセルトンには悲しかった。
「私はもう諦めている。無理はなさるな。ネストの事だ。子供を助ける方法を風に問うたに違いない。風ですら答えられなかったのだ、あれだけ問い続けても。だから」
だがアーケイディスは傲慢なまでに『王』であった。
「言ったであろう? 神が何をしてくれると。風も神の力の一部。故に気まぐれよ。余は自らの力でやると言った事はやり遂げる。必ずな……だから、シャーリーを助けたら、シャーリーに弟妹を作ってやれ。余との間に」
言葉と言葉の間にアーケイディスは口づける。唇に、頬に、瞼に、額に、喉元に。
「朝から変な気分になったらどうするんだ!? 馬鹿馬鹿!!! アーケイディスの馬鹿!!」
「うるさい、余は既にそなたのいう変な気分だ。黙っていろ」
「黙れといわれて黙るわけに、いく、か……!!」
言葉とは裏腹に、体が火照り始める。
何度も求め合ったのにもかかわらずまた欲しくなる。
アーケイディスの唇は、好き勝手にケセルトンを味わい、彼女から甘い声を引き出す。
「……!」
朝、明るいうちに声を上げるのが妙に恥ずかしくて必死で堪えようとしているのに、アーケイディスはひどく意地が悪い。
声が裏返る。完全に快楽の虜になってしまう。
心は恐れているのに、身体は正直にアーケイディスの頭を抱きかかえ、自らの肌に押し付けるように力を込める。
肉体の情というものがこれ程までに女を虜にさせるだなどとケセルトンは知らなかった。
そして遠ざかる意識の中ケセルトンは思う。
もしシャーリーがこんな快楽の中で生まれた子であったなら?
自分は殺せといえたであろうか。
私は酷い母だ。子に優劣をつけるなど。
◆◆◆
「アリステア様」
「なぁに? ジューン」
アリステアは靴下を編んでいるところであった。小さな小さなクリーム色の靴下を。
『シャーロット』の為である。赤子の足とはなんと小さなものなのであろうか。
アリステアは編んでは解きを繰り返していたが、今回はなんとか丁度良い大きさに出来上がりそうだった。
ジューンと呼ばれた男は、周囲を警戒しながらアリステアの耳元に唇を持ってこようとする。だが。
「やめて、ジューン。昼間からどういうつもり? わたくしは忙しいの。お前とじゃれている時間なんて無いわ」
かっと、ジューンの頬が赤くなった。
ここは、貴人と呼ばれる人物の幽閉殿。
アリステアは勝手に己の身の回りをする者をフェリシニアへと向かわせシュスパード公女を死に至らしめた罪をもって発覚した二月前から密かに幽閉されているのである。
アリステアの父王は戦争を望んでいない。
確実に勝てる戦のシュスパード公国との戦でさえ望んでいないのに、日に日に成長し発展を続けるフェリシニアなどとは絶対戦をしたくないと思っている。国力ではサーディシエントの方が上の筈なのだが、玉座に長くある王はそれが数字だけであることを理解していた。
実戦で、育ち盛りの若子と老いて力を失ったものが真正面から対決したとしよう。
賭けすら成立しないのではなかろうか。
だからこそ、アリステアを嫁がせ、フェリシニアとサーディシエントを深い縁で結ぶことを考えた。
もはや、どうにもならぬ事だ。繰り言を並べて国の力が増すなら百年でも二百年でも言い続けてやるが、本当に今更、もう、どうしようもない。
婚約破棄の際にフェリシニアはサーディシエント側が驚く程の賠償金をおさめ、更に金銀宝石やら錦やら、輿入れの祝いよりも多いのではないかという宝物までも献上してきた。
フェリシニアが黄金郷もかくやの富裕国ではない。
いや、確かに豊かな国だが、婚約破棄で支払われる一般的な金額、量をはるかに超過したそれらは、フェリシニアの心からの侘びだ。
アリステアは黙って全てを受け入れればよかった。
遊んで捨てられたのではなく、婚約破棄に当たっても此処まで丁寧に扱われた姫であるなら、次の縁を求める事も容易な事であった筈なのだ。
しかし、アリステアは良縁と一言でも聞くと荒れ狂った。
良縁というのならば、フェリシニアの王しかいらない!
嵐のように荒れるアリステアは父王の弱腰を殊の外憎んだ。
実の娘が、これ以上は無いほどの醜聞に塗れ、他国の王子達も彼女を求める事が無くなった今、彼女がささやかな復讐をする事に何故邪魔をするのだろう。
アリステアはそう思う。他国からの求婚の書を見せても、近づきになりたいと詩歌や装飾品などの贈り物を贈られても、アリステアはそれを認識できないでいるのだ。
アリステアの心の中では、彼女は全てに虐げられ見捨てられ、頼りになるのは唯一魔女だけ……自分自身をそんな姫だと思っているのだ。
不当に貶められた子の恥を雪ぐためにはどうしたらいいい?
仮に戦になれば、それはそれで大歓迎よ。怯えた老人であるお父様など黙らせてわたくしが立つわ! ええ! 戦になれば、わたくしが先陣を切っても良いわ!
そうすれば、きっとアリステアを馬鹿にしていた者達も見方が変わるであろう。
『先陣を切る』と一言でアリステアは表現したが、実際の重みは解っていない。
ただ、格好良さそうだと思うから、そう考えたのみである。
幼い頃より武術には触れてきた。そういった自信もあるのだろう。
『護身術』と『戦』の違いもわかっていない可哀想なアリステア。
父王は娘が不憫で仕方が無かったが、娘の前では頑なな態度を取り続けていた。
それでも、気に入りの男を侍らす事を許し、赤子を買い与え、甘やかしてしまっていたのだが、アリステアには甘やかされているという自覚は無い。
不当で、不適切な処置をされていると思うのみである。
大体気に入りの男を侍らす事を許されているといっても、見張りがちょこまかとやってくるような幽閉殿で、昼間からことに及ぶことなど無理がある。
見張りは、夜は外だけだが、昼間は時折覗きに来るのだ。
アリステアはそれが嫌で仕方が無い。
衣装の流行りも解らない。同じ年頃の女達と話す事も出来ない。そして、誰にも同情してもらえない。
可哀想な甘やかされきったアリステア。
菓子が欲しいといえば焼き立てが届けられ、衣装が欲しいといえば沢山の布地を抱え服飾師が足を運び、熱いといえば氷が届けられる。
そして夜は気に入りの男と閨を共にする。
それでもアリステアは満たされなかった。
だが今は別だ。今の彼女には『シャーロット』がいる。
その『シャーロット』の靴下を編んでいるのに邪魔をするのか。
「耳を貸せと? くだらない事ならわたくしはお前を許さないわよ?」
ごくりとジューンは唾を飲み込んだ。アリステアの狂気は彼もよく知っている。
「実は……」
見張りがいない間にそっと囁かれた言葉に、アリステアは金の編み針を落とした。
「また……なの?」
アリステアは打ちのめされた顔で呟く。
「また……新しい花嫁を……? わたくしが此処で何も知らないうちに……」
アリステアのアイスブルーの瞳が見開かれる。かと思うと、栗色の髪が唐突に広がった。
アリステアが簪を抜いたのだった。
ああ、五月蠅い。
「あひっ!!」
その簪は一分の迷いも無くジューンの喉を貫いていた。
簪を抜くと、鮮血が飛び散る。
壊れたみたい、ね。
ぼんやりとアリステアは思ったがすぐに慌てる事になる。鮮血が『シャーロット』の靴下を真っ赤に染め出したのだ。
大変だわ、と、アリステアは思った。クリーム色の毛糸を届けさせなくては。
狂気の王女は死体となったジューンの事はもはや一欠片も思い起こさなかった。