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7月18日(晴) 3日目

..小川の初体験

 

「さむっ」


 冷たい空気が上半身に触れたとたんに、一気に意識が覚醒した。

 寝返りを打った際に、布団がソファから滑り落ちてしまっていた。

 夜明け近いのだろう、窓から見える空は朝陽を受けているのか紫色に染まっていた。

 寝ている間に雨も上がったようだ。

 窓にかかるレースのカーテンはゆっくりと風をはらんでいて、適度に湿度の乗った山の清涼な空気が室内に流れてきているのがわかる。


「赤松先輩。窓もカーテンも閉めてなかったのか」


 昨日の停電騒ぎで先輩がここの窓を開けていたことを思い出し、僕は舌打ちした。どうりで雨音がやかましいと思った。

 軒が深かったのが幸いしたのか雨は降りこんでいなかった。

 時刻が知りたくてスマホを手に取り電源ボタンを押すが、モバイルバッテリをつないでいたはずのスマホは相変わらずうんともすんとも言わない。

 やはり、携帯は使えないらしい。


 蓄光塗料で浮かび上がるコテージ備え付けの壁掛け時計の文字と針は3時40分を指している。

 普段、こんなに早く起きることはない。僕も極端な夜型ではないが、それでも寝るのはたいてい夜中の0時前後だ。こんな早朝に目が覚めたのはちょっと記憶にない。

 寝たのも早かったが疲れていたから熟睡できたのか、頭はすっきりしてる。

 体を起こし、大きく伸びをすると、新鮮な空気が体全体にいきわたって細胞が活性化していくようだった。


 今更二度寝をする気にもならないので、バッグから洗面用具を取り出して明かりのつかない薄暗い洗面所へ向かう。

 蛇口をひねると、谷川から引いているらしい冷たい水が勢いよく出てくる。

 文明ってありがたいなぁと蛇口を見つめる。

 ちょっと電気が使えないだけでずいぶん不安を感じるもんだ。

 歯を磨き、顔を洗う。

 同じ蛇口から出る水でも気分の問題なのか、東京とは比べ物にならないくらい気持ちがいい。


 目の前の鏡には20年間見慣れた小柄な男が写っている。

 僕は体毛は薄いほうで、髭はほとんど生えないので剃ったことがない。笑えないのは下の毛もかなり薄く、こっちはむしろコンプレックスだ。サイズと合わせて僕的最高機密にあたるので、温泉などで他の人の目につくところでは絶対にさらさないようにしている。

 小柄で、童顔。今でも時々中学生に見間違えられることもある。坂本先輩が僕を「少年」と呼ぶ理由だ。

 子供扱いされるのはいつものことで気分がよくはないし、後輩に舐められがちになるのも困る。ひどいときは服装によっては女の子に間違えられることすらあるのだから、「少年」というのはまだ好意的なあだ名と思うことにしている。

 何せ高校までのあだ名は「やまとちゃん」だったのだから、よほどましだった。

 小学校のころから名前が見合っていないとからかわれ、中学に入るとさらに見た目とのギャップが大きくなり、からかいの度合いは激しくなった。地元を遠く離れた大学に入ったのもそういう自分をとりまく環境を変えたかったということもあった。


 リビングに戻ってもまだ他の部員は誰も起きてくる気配がない。

 することもないので散歩にでも行くか。外は気持ちよさそうだし。

 人間いつもと違う環境にいると勤勉になる典型だな。実家にいたころも、大学のアパートでも早朝から起きて散歩に行こうとか思ったことは一度もなかった。

 昨日の登山でも着ていたパーカーを手に取り、使えないと分かっているスマホをポケットに習慣的に押し込む。




「早いな少年」


 玄関を出ると思った以上に肌寒く、パーカーを羽織ったところで声をかけられた。

 片手をあげて林のほうからこちらに歩いてくる坂本先輩。

 確かユニクロで見た記憶のあるようなデザインの黒の上下のスウェット。肩のあたりまである髪は後ろで一つにくくられている。いわゆる雀のしっぽ状態だ。


「あ、おはようございます。先輩も早起きですね」


「ん、まぁな」


 普段、ジーパンに白衣の組み合わせが多いので、スウェット姿の先輩はなんだか新鮮だ。


「ジロジロ見るな。失礼なやつだな」


 僕のぶしつけな視線はモロバレだった。

 でも先輩の目は言葉と裏腹に笑っているのでセーフなのだろう。


「す、すいません。つ、つい」


「つい、なんだ?そんなに珍しいか?私が色気のない服を着ているのはいつものことだろう」


「あ、えーと、いや、そういうんじゃ」


 自分でもしどろもどろになってるのが分かるが、うまい言い訳が口から出ない。


「えーっと、先輩も散歩ですか?」


「それで、ごまかしたつもりか?まぁいいが・・・。ちょうど、戻ってきたところだ。きみもか?」


 とりあえず、許してくれたというか、こういう時、気を抜くとコテンパンにやり込められることが多いのだが、今回はめずらしく見逃してくれらしい。


「ええ、ちょっと目が覚めちゃったので。ここは東京とは空気のおいしさが桁違いですね」


「そうだな。私のようなヘビースモーカーでも肺の中心まで洗われるようだよ」


 振り返って森を見つめる先輩の表情がちょっと暗い気がする。

 いつも飄々としていて、本心を表に出すことがない。

 そんな先輩でもやはり今の状況は不安なんだろうか。


「・・・先輩?」


「少年、ちょっと歩かないか?」


 先輩は僕の返事も待たずに今来た森に向かって歩き出した。


「・・・先輩?」


 朝もやがうっすらと這う森の散策用の歩道。

 前を歩く先輩の後ろ姿はスタイルも歩き方もきれいで、ちょっとした映画のワンシーンのようだ。

 部室に来てはBL本を読みふけってる女性と同一人物とは思えない。

 噂によるとアパートには千冊の単位でBLコミックと『薄い本』が積んであるらしい。


 少し進むと歩道の脇に小さなあずまやが現れ、歩道をはさんだ小川沿いには、背もたれもなにもない、ただ丸太を半分に割って足をつけただけの無骨なベンチがおいてある。

 先輩は何も言わずにベンチに座るので、僕もその隣に座った。

 先輩は小川越しに鬱蒼と茂るブナの木々を見つめたままだ。

 何を言いたいのだろうか?

 1年ちょっとの付き合いだが、こんな口ごもったり、沈んだ表情を見た記憶はない。

 そして、先に沈黙に耐えられなくなったのは僕だった。


「・・・先輩、何かあったんですか?」


「・・・何かあった、そうだな。何かあった」


 大きく息を吐き出し、つぶやく先輩。


「どこから、話そうか。・・・昨日の停電騒ぎ。どう思う?」


 言葉を探し、選び、悩んでいるようだ。


「ただの・・・停電じゃないんですか?」


「違うな。あれは、ただの停電じゃない。・・・証拠はないし、原因もわからない。が、・・・確証はある」


 先輩の言ってる意味が分からない。

 僕は、何か担がれてるんだろうか?相手が赤松先輩であれば間違いなくドッキリを仕掛けられてると確信できる。


「昨日の下山中の変な現象は覚えてるか?」


「はい」


 あんな奇妙な体験、忘れるわけがない。


「たぶん、あれがきっかけだ。というより他に考えようがない。それともあの現象が結果なのか・・・。それでもきっと、あの瞬間に・・・・何かが起きた・・・のだと思う」


「???・・・すいません、先輩の言ってる内容が僕の頭では理解できないです」


「だろうな」


 脱力したように、先輩がふたたび息をはいた。


「で、でも、教えてください」


 先輩の言ってる意味は分からない。でも何か深刻で大事なことを言おうとしていることくらいは分かる。


「これを見ろ」


 先輩がスウェットのポケットから取り出したのは、よく見かけるちいさなスティックタイプの懐中電灯だ。でも、昨日は懐中電灯は誰ももってなくて、コテージ備え付けの非常用の懐中電灯も電池切れだったはずだ。


「私が荷物に入れてたものだ。昨日使おうとしたが、点かなかった。予備の新品の電池に換えてもだめだった」


 カチカチとテールスイッチを押すが、なんの反応もない。


「・・・はい」


「極め付けはこれだ」


 先輩の手のひらに握られていたのは文字盤にSEIKOのエンブレムのある女性用の腕時計。高級品ではなさそうだが、安物というわけでもなさそうだ。

 針が指している文字盤の時刻は3時40分。


「もう動いてない。昨日はコテージに置いてたからはっきりしないが、おそらく下山中の妙な出来事が起きたのはそれくらいの時刻だろう。リビングの時計も同じ時刻で止まっていた」


 そういわれてみると、僕のコテージの時計も3時40分を指していた。

 話の成り行きに不安感だけは募っていくが、行き着く先がわからず、どう言葉をつないでいいのかわからない。


「停電したコテージ、電池切れの携帯電話とつかない懐中電灯。エンジンのかからない車。同じ時刻で止まっている時計。すべてに共通しているのは電気を用いているということ。こういう仮説はどうだ?昨日の現象をきっかけに、電気を使った製品がなにもかも使えなくなったと」


 先輩がじっと僕を見ている。とても冗談を言っている様子にも見えない。


「・・・電気を使うものがすべて?」


「そうだ。電気や、火、水、などの事象はおおむね元素や分子など物理学をはじめとした科学で説明できるし、その解明が文明を発展させてきた。だが・・・、だが仮に・・・炎が燃焼という物理現象ではなく・・・火を司る精霊のようなものの働きによるものになったとしたら・・・」


「な・・・・」


 何をバカなことをと喉まで出かかった。そう笑い飛ばすのは簡単だったが、先輩の表情の真剣さにできなかった。

 ほんとに赤松先輩相手だったら、おちょくってるでしょ?と笑えるからよかったのに。坂本先輩がこの手のいたずらを嫌っているのを僕は知っている。

 返事に困る僕。先輩のまっすぐな視線にドキドキしてしまう。

 何か雰囲気が違うと思ったら、普段かけているセルフレームの眼鏡をかけていない。


「えっと・・・どうして、そう思われたんですか?」


「新しい法則が、私たちの体にも影響を与えたと考えたからだ。少年、ちょっとゲームをしよう」


 真剣な表情が和らぎ、フッと笑っていた。


「向こうを向いて・・・そう、私と背中合わせになってくれ」


 ベンチの上でパーカー越しでも先輩のぬくもりが伝わってくる。


「いま私の位置からは君の手元は見えない」


「はい」


 完全に背中合わせなのだから当然だ。


「そのまま指を好きな数だけ立ててくれ。それを当ててやろう」


「またまた冗談を。見えないのに無理ですよ」


「ふむ、では3回やって一度でも外れたら、君の言うことをなんでも聞いてやろう」


 思わず息を飲んだ。


「マジですか?」


「大まじめだとも。では一回目」


 とりあえず、右手を開き、左手は閉じる。つまり5だ。


「5だな」


 マジですか・・・。


「2回目だ」


 新手の手品なのか、いったいどんなタネがあるのか、鏡でも隠してあるのだろうか?。2回目も当てられてしまった。

 偶然として確率論を計算してみたいが、あいにくそこまでの頭は持ち合わせていない。

 まるでキツネにつままれたみたいだ。


「次がラストだ。最後はサービスでどの指を立ててるかまで当ててやろう。そういえば私が勝った時の条件を決めてなかったな」


「わかりました。僕もなんでも言うこと聞きますよ」


 とっさにそう答えてしまう。


「本当にいいのか?」


 背中越しに面白がっている雰囲気が伝わってくる。


「男に二言はありません!さぁどうぞ」


 偶然にしてはできすぎだが、手品にしてもタネがまったくわからない。

 なんだか悔しいので当てれるもんなら、当ててみろという気分で左手で親指と人差し指、右手では中指を立ててやった。


「はー、君も存外下品だな。右手で中指おったてるとは。それにその左手の親指と人差し指の銃は誰を狙うつもりだ?」


「・・・・」


 背中に感じていた先輩の体温が氷点下に逆転したみたいだった。


「えーっと、いえ、あの、その、まさか、うー・・・」


「はっはっは、つまりそういうことだ。・・・今の私には見えるんだよ。なぜだかわからんがな」


 先輩の言葉は後半には寂しげだった。


「昨日のあの現象のあとからだ・・・私には見える世界が変わった」


 先輩はぽつぽつと僕に語ってくれた。

 あの後、視覚できる範囲が飛躍的に広がったこと。特に5m程度の範囲であれば、視野外でも直接見ているように認識できるようになったこと。どうして見えるのかわからないが、見ようと思った場所の光景が頭の中に映し出されるようなイメージらしい。この能力を使えば後ろにいる自分が何をしていようが筒抜けだったわけだ。

 遠い場所に意識を向けた場合は、なんと1km離れている場所でもなんとなくは分かるらしい。

 視力もメガネがあってもなくても関係なく普通に--おそらく3.0近くは見れるようになったとも。


 突拍子もない告白だが、さっきの指あてゲームで完敗した僕は疑う言葉もでない。

 ここでドッキリでしたーとか言って、バカ笑いしながら赤松先輩でも出てきてくれればまだ気が楽なのに。


「人間とは思えないだろ・・・?」


 背中合わせのまましゃべる先輩の声はなんだか自虐的な響きを含んでいて、辛そうだ。

 普通の人生を歩んでいたと思ったら、ある日突然訳の分からない状況に巻き込まれ、人間離れした能力が突然降ってわいたのだから当然かもしれない。

 人間とは思えない。自分はいったい何者なのか。

 戸惑うのも当たり前だ。


「ヒャッハー!オレサマスゲー、とでも思えれば楽なんだろうが、さすがにな」


 背中合わせのまま、先輩は言葉を続ける。


「この現象は我々のいるエリアだけなのか、はたまた日本全体なのか、それとも全世界なのか。おかしな能力は私だけなのか、みんな当たり前に持っているのか?」


「少なくとも僕にはそんな見えたりはしないですよ」


 きっと単純な僕にそんな能力が芽生えたらヒャッハー!になってる気がする。


「よくある転生モノの主人公みたいに先輩にチート能力が芽生えたとか」


「それはないな」


 こんな時にもっと気の利いたセリフの一つでもでればよかったのに何も思いつかない。

 そのままの体勢の先輩が口を開いたのは10分も経ってからだろうか。

 僕は背中から伝わってくる体温に悶々としつつも、かろうじて衝動のセービングロールに成功していた。なにせ異性とこんなに密着したのは生まれてこの方初めてのことだ。


「今、はっきりしていることは、このキャンプサイトの電気に係わるものがすべて使えなくなっているということだ。ここだけならいい。だが、この現象がどこまで広がっているのか?そして、電気が使えなくなった瞬間、現代文明はどうなると思う?飛んでいる飛行機は墜落し、動力を失った船は漂流するしかない。走っている車や電車だって、無事止まれるかどうか。医療機関だってただじゃ済まない。海外からの輸入は途絶え、輸入だのみの食料品も不足する。国内で取れる農作物も機械が使えなければ生産性は著しく落ちるだろう。食料品を巡って暴動が起きるかもしれない。通信の壊滅はいうに及ばず、輸送手段も江戸時代に逆戻りだ。電気を必要としない生活基盤など何一つないからな。原発だってどうなっていることやら。それに、私たちとて無事にここから帰れる保証なんてない」


 なんてこった。

 もしも、昨日のあの瞬間、先輩の言うように全世界で電気がなくなっていれば、昨日だけで何万人もの人々が死んだのかもしれない。

 現実感に乏しいけど、想像できないことじゃない。

 今の文明の何もかもが電気があることを前提になっている。電気が使えない世界になってしまったのなら、非常持ち出し袋に懐中電灯やラジオが入っていてもなんの役にもたたない。


 それに、大学のある八王子から、ここ徳島の山中まで約500km以上あるはずだ。来るときはフェリーと車だったが、先輩の推理が事実なら、それを今度は歩いて帰らなければならない。

 しかも道中の安全の保証もない中を。途中での食料調達のあてもない。

 はっきりいって帰り着けれるかどうかも怪しい。

 なんだか昨日までの現実が足元から何もかも崩れていくようだ。


「それと昨日のライターの火な。一度目は驚いただけだったが、2度目にははっきりと見えたよ。炎の周りで踊る何かが。私のボキャブラリーで表現するなら精霊・・・かな」


「んっな・・・・」


 ばかなと続けかけた言葉をかろうじて飲み込んだ。

 話を聞いていて先輩の能力もその力だけ見るとファンタジーじみてると思ったが、その上精霊!?


「この森もそうだ。さっきからずっと精霊のような何かが飛び交っている。文字通り万物には魂が宿るだな」


 落ち着いてきたのか、先輩の声のトーンも柔らかくなっていた。

 普段に近い口調に戻ったのでそこはなんだかほっとする。女性の悩み相談なんかしたことないのだ。


「何が原因かは知らんが、そんな世界に今私たちはいるらしい。ありきたりな表現だと異世界転生みたいなものかもな」


 先輩が視線を動かして見つめている方向を追い、目を凝らしてみる。

 よく見ると、・・・いる!

 木々の枝に葉に。小さなたくさんの何かが。

 でも幽霊とか、お化けと言われるような恐怖や、おぞましさは感じない。

 たしかに精霊とでも呼ぶのが相応しい何かがいた。

 畏れというか、自然そのものを体現しているような、決してないがしろに扱ってはいけないイメージ。

 見渡すと、若い木には少なく、古い太い木のほうがよりたくさん飛び交っている。

 幻でもなんでもない。


「その様子だと、やはり少年にも見えたようだな」


 先輩がクスリと笑った。

 意識を集中すると、カメラがフォーカスを合わせたかのように次第にはっきりと見えてきた。

 新緑の鮮やかさを残す葉の陰に、古木のウロにも彼らはいた。

 足元の地面からは力強い生命を感じさせる脈動が。

 目の前の小川の水面にはしぶきとともに透き通った精霊がダンスを踊っているかのように飛び交っている。

 森の香りが濃厚な風のなかにも軽やかに舞う精霊たちがいた。


「こんな、ことが・・・」


 自分の目で見ても信じられない。


「白昼夢・・・?」


 そう。これはきっと夢。夢に違いない。


「だと良かったんだがな。・・・少年ならたぶん魔法も使えるぞ。夢のような悪夢の世界の始まりだ」


 魔法が使えるなんて夢みたいな話のはずなのに、悪夢って?それに・・・


「・・・僕になら?」


「そうだ。私には難しそうだな。見ているとなぜかそう分かってしまうんだ。呪文は必要ない。精霊、と呼ぶことにしようか。精霊と会話というか、イメージしてお願いするような感じがいいかな」


 イメージ。

 水面をを見つめると相変わらず水流に戯れているようにしか見えない小さな透き通った精霊たちが見える。

 いわゆるウンディーネっていうべきなのか?

 目を閉じて、噴水のように水面から立ち上がる水の柱を思い描き、小川を漂う精霊たちにそうして欲しいという気持ちをイメージしていく。

 意識を集中していくと理性ではなく感性が精霊たちとのつながりを感じ、心の奥深くで僕が思い描くイメージが精霊たちと共有されていくのが分かる。

 穏やかで、生命を育み慈しむ存在。それでいて、すべてのものを穿ち、いっぽうで荒々しく全てを押し流すこともある。

 生粋の水の本質そのものを表す、たしかに僕たちの言葉では精霊としか言いようのない霊的存在との魂の交感とでもいうかのような不思議な体験。

 岩を縫うように流れる清流の音が変わり、目を開くと水面から直径30センチほどもある1本の水の柱が力強く吹き上げている

 その高さは4mほどもあるだろうか、小川の上を覆う樹木の枝にまで届いていた。


「・・・」


 肩越しに水柱を見つめている先輩が目を丸くしている。

 うん、普通の視力の僕にも手に取るようにわかる。やってる当人はもっと驚いているのだから。


 水柱は10秒近くその形を維持し、その後四散すると、その直後には大量の水が僕たちの頭上に落ちてきた。

 バケツをひっくり返したどころではない。

 いきなり頭上に滝ができたようなものだ。


「かーじーうーらー」


 横から睨みつけてくる先輩の視線がつらい。

 とっさに庇ってみたけど、あまりの水量になんの役にもたっていないのは明らかだった。

 上から下までびしょ濡れだ


「ご、ごめんなさい」


 本気で怒っているのではないことは分かるが、米つきバッタのように謝るしかない。


「まさか本当にできるとはな・・・。風邪をひいてもつまらん、戻るぞ」


 たしかに山の早朝の気温は低く、肌寒い。

 先輩はもうコテージに向かって歩き始めているので慌てて追う。


「あーあと、ここで話した話はすべて口外禁止だ。お前の力も含めてな。・・・みんなにはおいおい私から伝える。あとさっきの賭けの権利は貸しだ。いいな」


「は、はい」



..ミーティング


 コテージに戻ったころには、何人かの部員が起き出してきていた。二人してずぶ濡れなのを怪しまれたが、沢を覗き込んでいた僕が足を滑らせて輩を巻き添えにして落ちた、と説明するとみんな納得していた。

 一般とは役割が男女逆なのが不本意だが、日ごろのことを考えると致し方ない。

 まいったのはお湯が使えないことだった。

 体が冷えたので、湯船につかるかせめて暖かいシャワーを浴びたいところなのだが、水道から出るのは冷たい山水だけだ。

 ともかく、体を拭いて持ってきた服の中から一番暖かそうな服を引っ張り出す。


「カジ、コテージ前の広場に集合だってさ、今後の予定についてミーティングだって」


 同学年の野村だ。僕のことを「少年」と呼ぶのは坂本先輩だけで、大抵苗字を縮めた呼ばれ方をすることが多い。

 この部では上級生がわけのわからないあだ名をつけることがあり、田端先輩は「ジョニー」だ。大抵それがそのままペンネームになり、そのままプロデビューした先輩も数多い。ちなみに野村は下の名前の修からとって「サム」、黒沢はなぜか「チャッキー」だ。


「すぐ行くって伝えといて」


 標高の高い山中だからと念のために持ってきてたダウンジャケットに慌てて袖を通す。

 ちらと見たリビングの掛け時計は相変わらず3時40分を指したままだ。まさか止まっていたとは思わなかった。

 僕が広場に顔を出した時にはもうみんな揃い、丸太をぶった切っただけの椅子に車座になってみんな座っている。

 坂本先輩もスウェットの上下から、長袖のウィンドブレーカーにジーパンに着替えて座っている。


「ちゅーもーく」


 部長が体格に見合った大きな声で部員の視線を集める。


「朝飯もまだなのに申し訳ない。昨日の夕方から予定外のトラブルが起きてるんで、改めて今後について相談したいと思います。まず、現状について赤松さんから」


 鶴崎先輩が隣に座っている赤松先輩を促す。


「えー、電気、ガス、車、通信関係がまったく使えないのは昨日と同じや。外部への連絡は取れてへん。3、4年の幹部会で結論が出てるわけやないけど、予定はすべて白紙の方向や」


 やっぱり、変わらずか。


「うかつに動かないほうがいいんじゃないかなぁ」


「警察とか、消防とか来てくれないのかなぁ」


「まさか、歩いて下山?」


「リアルサバイバル・・・」


「りーてらとばりたうるすありあろすばるねとりーる・・・」


 悲壮感が漂う意見を言う者、冗談を飛ばす者、呪文を唱える者、てんでバラバラだ。事態の受け止め方にはまだ温度差があるようだった。

 まだ現実感に乏しいのか、パニックになってないだけましなんだろう。

 坂本先輩は指を組んで顎を乗せ、思案顔で様子をうかがうばかりで一言もしゃべていない。


「近くの集落とかどうなってるんですかね?そこも電気使えないんでしょうか」


 僕もどこまで影響が出てるのか気になって鶴崎先輩に向かって聞いてみる。


「ふむ・・・近くの集落ってどこでしたっけ?」


「たしか国道戻って、車で10分ほどのトコに宿とキャンプ場があったやろ。峠のトンネルを越した先のとこ」


「ああ、来る途中にあったあれですね。あそこだったら管理人がいますね。ちょっと距離ありますけど歩いて行ってみますか?そこで連絡がつくかもしれないし。徒歩だと往復で3時間くらいでしょうか。赤松さん、それでいいですか?」


「ええよ、ワイも行く。」


「じゃぁ、言い出しっぺのカジと俺と赤松さんの3人で行ってみるということで」


 有言実行、自分が言ったことには責任を持つ。決めた締め切りは落とさない。この部の伝統だ。なので迂闊なことは口にできない。


「・・・はい」


 往復3時間か、覚悟を決めよう。


「気になるから、私も行こう」


 このミーティング中、ここまでまったく発言をしなかった坂本先輩が手を上げていた。




「おいおい・・・」


「まじか・・・」


「あちゃー・・・」


「・・・・」


 コテージはいわゆる酷道と揶揄される国道から未舗装の林道を6キロほど入った場所に位置している。

 僕たちが4者4様の反応を示したのは、その目的地の民家どころか国道に合流する少し手前でのことだった。

 目の前で道がなくなっていた。

 大規模な地滑りがあったらしく、道路をぶったぎったかのように山肌がえぐれている。崩落の幅は15mほどもあり、山側、谷側とも急斜面で、簡単には超えられそうにない。


「昨日の雨か?完全に孤立したな」


「洒落にならへんで」


「こりゃあ、渡れませんね」


「・・・」


 崩落した斜面を見つめる僕たち。自然の力のすさまじさに言葉もない。

 あまりの現実のひどさに僕は口に出さなかったが、この谷の名は絶望谷にしようと思った。


「下までいったん降りりゃ、行かれんこともないやろけど・・・」


 赤松先輩が新しくできた目の前の谷ではなく、もともとあった山の谷側を覗き込んでいる。


「いやいや一部の男子はともかく、女子は無理ですよ」


 鶴崎先輩の意見に僕も激しく首を縦に振る。

 高低差は20メートルほどもあるだろうか。急なだけでなく崩れたばかりの土砂はとても不安定そうで、あちこちに飛び出している大小さまざまな大きさの岩も尖った部分が多い上に水の量も多く激しい。

 寝ている間にいったいどれだけ降ったんだろうか。

 はっきり言って僕には越えるのは無理だと断言できる。

 結局、僕たちはそのまま、コテージにUターンするしかなかった。



「ちゅーもーく」


 朝と同じように鶴崎先輩の野太い声が響き渡る。

 そろそろ10時頃--時計がないので時刻がまったくわからない、だろうか。昨晩の土砂降りが嘘のような、雲一つない空が続いている。

 少し意識を振り向けるだけで、日差しのなか7月の風に舞う精霊たちの姿も見える。

 これも慣れなのか、精霊たちがだんだんと身近な存在に思えてきた。


「えー、まず、では、近くの民家に行くつもりだった件ですが、国道に出る手前で林道に大規模な崩落があって、林道がばっさりなくなっていました。というわけで、我々は現在完全に孤立した状態です」


 鶴崎先輩も動揺しているのか、日本語がやや怪しい。それでも意味は伝わっているので、みんながざわめき始める。


「それで、今後について相談したいと思います」


「林道を奥へ進んでう回するのはどう?この先の峠で国道に降りれたはずだけど」


「通ったことがないし、地図がないから道がまったくわからない」


 三島先輩の指摘に、鶴崎先輩が首を横に振る。そう、誰も紙の地図なんか持っていない。スマホやタブレットで当たり前に見れるはずだった。車にだってカーナビがついてる。

 僕たちの合宿はこのキャンプ場が目的地なので、この林道もここまでしか知らない。こんなこと誰も想定していない。


「わいは合宿中止、来た道を徒歩で下山。といいたいところやけど、おとなしく救助待つ以外ないやろ・・・」


「確かに。管理人が出勤してきたら崩落には気づくでしょう。遅くても明日の午後にはヘリかなにかでの救助は期待できますね」


「ちょっと、いいか?」


 ためらいがちな口調で挙手したのは坂本先輩だった。


「昨日から、電気がかかわるものが全て使えない。ただ単に電線が切れたとかの停電じゃない。おかしいと思わないか?」


 全員の表情を確認するように見渡している。


「A班はおそらく、コテージに戻ったころ。B班は下山途中。時刻は3時40分。たぶん、みんなおかしな体験をしたんじゃないか?」


 みんなが、お互い隣の部員たちと顔を見合わせている。

 一人だったら、白昼夢でも見ていたんじゃないかと思うような不思議な光景。夢でも見ていたんじゃないかと言われたら納得してしまう。

 それでもなんらかの自覚はあるのだ。ただあの現象は理解を超えていた。


「コテージの掛け時計、腕時計、すべて3時40分で止まっている。何かが起きているとしか思えない」


 先輩がさっきの腕時計を取り出して見せた。

 先輩にも何か意図があるんだろうけど、僕に説明したときよりもずいぶん曖昧な言い回し。


「何が起きたっちゅうねん」


 赤松先輩が不信そうに聞き返す。


「電離層とかの影響と言う可能性も十分考えることもできるし、それ以外の常識では考えられない何かかもしれない。スマホに車、懐中電灯なにからなにまで電気を使うものが使えなくなってる。私からの提案だが、待つというのは同じだが、状況がはっきりするまで当面このコテージへの無期限の滞在を提案する」


 電離層の影響と言う言葉でこの場は誤魔化すつもりかな?

 みんながさらにざわつき、明らかに先輩の発言の意図がつかめていないのがわかる。


「ちょっと静かに」


「坂本先輩続けてください」


 一層騒がしくなった部員を副部長でもある川本先輩が制し、神妙な面持ちの鶴崎先輩が続きを促す。


「普通ならここが孤立したことが伝わればなんらかの救助はくるだろう。だが、町も同じように電気が使えなくなっていた場合。救助がくるあてがない・・・」


「んな、アホな。どこのファンタジーや。いい年して厨二病か。ありえんやろ」


 赤松先輩が頑固なのは知ってたが、普段ふざけまくってるくせに、意外とこういう時は常識人だな。


「だから、電離層とかの影響と言う可能性もあるだろう。最悪のケースを言っているだけだ。明日か明後日にでも救助が来れば、笑い者にしてくれればいい。もし来なかった場合、救助がいつになるかわからない場合を想定しよう、そういっているだけだ。」


「いつになるかわからんっちゅうてもなぁ」


 食い下がる赤松先輩。

 簡単に納得、消化できれるような話でもないのは確かだ。


「仮定の話として・・・仮にここと同じように町で電気が使えなくなっていればどうなる?赤松」


「そらま、車が動かへんのやったら、救助はけぇへんわな。ついでに言えばここと同じようにライフライン、社会的インフラもみな止まってりゃ、ワイらの救助どころやない・・・」


 坂本先輩のいう可能性を否定しきれなくなって、普段バカ明るさが売りの赤松先輩の表情も言葉も沈んでいる。

 1年生たちはその二人のやりとりを不安そうに成り行きを見ている。


「そういうことだ。問題はこの現象の範囲が分からない。なので、明日明後日の救助をあてにするのではなく、当面の無期限の滞在になる可能性を提案した、とうわけだ」


 そうなのだ。この周辺限定のことならいいけど、その保証がない。

 再び部員全員がざわつくが、当然だろう。漠然と感じていた不安がより明確な形になってきている。

 坂本先輩の予想が当たっていれば、警察や消防、自衛隊といった自分たちを救助してくれるであろう組織--政府や自治体そのものもどうなっているかわからない。自分たちがこれまで属してきた社会基盤そのものすらも。

 否定したくてもその理由を誰も見つけることができない。

 僕だって事前に聞いていなければ、パニックになっていたかもしれない。


「そうなった場合、問題になるのは食べ物よね?でも、私たちだって滞在分しか持ってきてないよ?」


 全体のミーティングと言いながらもやはり発言するのは3、4年の幹部部員中心になってしまう。

 朝の例もあり、うかつに無責任なことは言えないので、普段は僕も考えがまとまっていることでない限り自分からはあまり発言しない。


「ここにいる限りは沢の水があるから飲料水の心配はないやろ。食べ物は山菜などである程度はしのげるやろし。その気になれば、シカやウサギを狩るかやな。素人にできるかどうかわからんが・・・」


 赤松先輩は難しい顔をして腕組みをしている。

 いきなりこんな話されてもきついよな。


「下山という選択肢はなし?」


 普段こういった場ではあまり発言しない秋山先輩だった。


「んー、あの崩落を越えるのは結構きびしいで。やってやれんことはないけど、安全は保証できひんな、救助が来る可能性がある以上、無理することはないやろ」


「では、坂本先輩のいうような可能性も否定しきれないから、それを踏まえて万が一の事態に備えて食べ物等を節約しつつ、明後日まで様子を見るというのでどうでしょう?町で何事もなければ遅くとも二日もあれば救助が来るでしょうから、明後日の昼までに救助が来なければ改めてミーティングということで」


「ま、妥当な落としどころやな」


「・・・」


 鶴崎先輩の提案に4年生の二人がうなずく。

 そのあと、基本的にコテージ周辺を離れないこと、単独行動は絶対しないことなどの注意事項と、救助が来た時に備えて日中は崩落現場に二年生以上の男性部員がペアで交代で立ち番をすることが決まり、解散した。

 そして、期待と退屈に満ちた二日間がすぎ、救助のヘリのローター音はおろか、国道を走る車両のエンジン音を崩落現場の立ち番が聞くこともなかった。



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