7月17日(晴れのちところにより雨) 2日目
7月17日(晴れのちところにより雨) 2日目
ややもすると滑りそうな斜面の登山道。
「あと少し、あと少し・・・」
僕--梶浦大和はぶつぶついいながら、自分の前を歩く1つ上の黒沢先輩の足元を見ながら一歩一歩慎重に歩く。
「梶浦先輩はさっきからそればっかりですね」
「しんどいんだから仕方ないだろ」
すぐ後ろから呆れたように声をかけてくる、1年の一ノ瀬玲奈を振り返る元気ももうない。
「漫研の合宿に登山が組み込まれてるとか、どう考えてもおかしいだろ・・・」
ぼやいて目線を上げると7月の日差しと、都市部では見ることのできない透き通った青い空が広がている。
すでに膝はガクガク、借り物の両手のステッキを付く腕のもへろへろ。
「締め切り間際の修羅場に耐えれる肉体作りも必要だということで受け継がれているありがたーい伝統だ。精進しろよお、はっはっは」
先頭を歩く、部長の鶴崎先輩の大きな笑い声はやまびこしそうなほどだ。
身長180cm近い身長とガッチリした体格。ともすればむさくるしい体育会男にしか見えないごつい男が、描く漫画は実は少女マンガ系というギャップが部内では受けていた。しかも、絵もストーリーも本格的で、ネットでアップしている作品の評価もなかなか高い。
「僕、漫画家志望じゃないのに。読んでるのが好きなだけなのに。うう」
僕はオタクというほどではないが、マンガを読むのが好きなだけだ。
大学に入って取り立ててサークル活動も深く考えていなかった時、たまたま勧誘活動の中に漫研を見つけて深く考えずに入部した。
だが、OBの中にはセミプロ級は数知れず、さらにプロデビューを果たしたものもいるという本気志向の人間が多いサークルということを知ったのは入部してからのことだ。先輩にイラストの描き方を教わって描いたりすることはあるが、もっぱら読むほうのウェイトが高い。
うちは体育会系漫画研究会を自認していて、活動内容は割とハードだ。将来、この手の業界に就職したらおおむねブラックだから、体力がないと務まらないという理由から運動も推奨されている。
本気の体育会のようなレベルではないにしろ、体力測定底辺グループ常連の僕にしてみるとこのイベントがものすごくハードなことには変わりない。
体力づくりの一環と言われ、去年もさんざん、しんどいだのつらいだのぼやきながら登った。
去年は周りの先輩が喉は乾いてないか、足はいたくないかと優しい声をかけてくれたのが懐かしい。今から思うとあれは折角入った新入生を辞めさせないためのサービス期間だったというのがよくわかる。
一ノ瀬の後ろに続く2人の1年、新入部員は上級生のヘタレっぷりに呆れているのか、自分たちもしんどいのかさっきから口を開いていない。
「まったく少年は運動不足が過ぎるんだよ。少しは体を動かすことも必要だぞ。背筋を伸ばせ。1年のほうがよほどしっかりしてるじゃないか。・・・ツル!悪いがペースをちょっと落としてくれ」
休憩じゃないのかとがっかりしながらも、僕のことを少年と呼ぶ最後尾の4年生坂本先輩の言葉が耳に痛い。
去年はペースが落ちがちな僕の手を引いてくれるほどだったのに、1年が経過した今となってはあの優しかった天使の笑顔はどこかへ行ってしまった。
「おっけー。でも、A班はもう遥か彼方ですよ」
僕や体力面で劣る女性を中心にしたB班に対して、比較的体力に自信のある連中を中心にしたA班は登り下りともいいペースで進んで、B班を完全に引き離している。
B班のペースを決定づけているのは、はなはだ不本意ながら僕だ。
「ってか、坂本先輩のほうがおかしいでしょ?なんで研究室にこもりっぱなしのヘビースモーカーのくせにそんな平気な顔してるんですか?」
僕にとって、理学部4年の坂本先輩のイメージは、すっぴん、眼鏡、白衣、酒豪、タバコ、研究、そして自他共に認める腐女子だ。
日ごろの行動に健康とか体力といった要素ははかけらもなのに、今回の登山でもスタスタと歩き、普段とまるで変わらない。
不健康というわけでもないがスラリとした長身で、スタイルもいいし、目鼻立ちも整っている。化粧と、服装をきちんとして、眼鏡もしゃれたデザインのものにするとか、コンタクトにでも変えればモデルでも行けるんじゃないかと僕は思ってる。なのに、おしゃれとか異性にはまったく興味がなく、趣味と研究に没頭しまっており、周囲からは「残念な女性」扱いになっている。
自分の考えを貫いて飾らない坂本先輩にはいろんな意味で憧れを感じているが、一方でいろんな意味で手の届かない高根の花だということも理解している。
「そりゃ、センパイは同人誌買うのも体力勝負ですもんねー」
同い年の黒沢の突っ込みに坂本先輩はふふんと受け流し、周囲は笑いに包まれた。
先頭の鶴崎先輩がペースを落としてくれたので、僕も少し周りを見る余裕ができた。あくまで少しだけど。
顔を上げると都市部では絶対に見ることのできない光景が広がっている。大学があるのは東京といっても田舎といわれる部類の地域だが、ここまでの雄大なパノラマとは比べ物にならない。
人の手の加わっていない豊かな自然を見ていると心の底から癒される。出身も田舎なので、町のごみごみした雰囲気より、こういった山の風景の方がしっくりくる。ネトゲとマンガとラノベに塗れた心が洗われていくようだ。
肉体的なしんどさがなければ、こういう自然に触れるのもはいいもんだと本気で思う。
壮大な自然は心は癒してくれても、下半身を中心に感じる疲労感とすでに始まっている筋肉痛、靴擦れの痛みまでは癒してくれない。
「ふぅ」
のそのそと足とステッキを動かしたその時、ゴウっと風がふいた。
「・・・虹色の風?」
そう。ほかに表現のしようがない。唐突に世界が、空気が、視界が、虹色の風に包まれていく。
さっきまで目にしていた風景とは異なる、鮮やかな色彩に満ちた世界。次第に身体全てが五感すべてが虹色の何かに溶けだし、再構成されてていくような不思議な感覚。不快でもなく、快感でもない。
どれほどの間、そうしていたのだろう。始まった時と同じように唐突にもとの風景に戻った。
夢でも見ていたかのような浮遊感。少し頭がぼーっとして、一瞬前の不可思議な体験の記憶が瞬く間に風化していき、はっきりと思い出せない。
今のは、幻・・・?
僕はそう思ったが、周りの部員も僕と同じように足が止まり、狐につままれたような顔をしているから、自分だけではなかったらしい。
今まで経験したことのない表現しようのない出来事に、みなキョロキョロしたり、首をひねっていた。
眼前の山の斜面は先ほどと同じ若草色に覆われ、2000m級の雄大な自然が文字通り美しいスカイラインを描いている。
さっきの現象はいったいなんだったのか?
その沈黙を破ったのはこの班の最年長でもある坂本先輩だった。
「ツル、ともかくコテージまで戻ろう」
虹色の風が吹いたあとは、驚きのあまり僕も疲労感を忘れ、泣き言を言うこともなく他のみなも黙々と足を動かした。
それでも合宿所でもある、コテージにたどり着いたのは予定時刻を30分以上過ぎていた。
「やっと着いた・・・」
いかにもログハウスといった喫茶店を兼ねた管理棟と2LDKのコテージが4棟立ち並ぶキャンプ場は漫研の毎年の合宿の定宿だ。
登山口にほど近いこともあり、登山客には人気らしいが、アクセスがお世辞にもいいとも言えない上、観光スポットからも外れているため、一般の観光客の利用は少ないそうだ。去年も合宿の際には、ほかの客を見たことがなかった。毎年合宿でここのコテージを男性用、女性用に分けて数棟借りていて、今年は15人なので男女2棟ずつ4棟、つまり貸し切り状態だ。
近くに民家もなく、管理人も少し離れた温泉旅館からやって来ていて、夜間は不在のためバカ騒ぎをしても苦情が来る心配もないのはありがたい話だった。ただ、近隣に店がないため追加の食料品などの買い出しができないのがネックだ。
東京のはずれに位置する大学の漫研がどうしてわざわざ四国くんだりまで合宿に訪れるのかは謎で、上級生に聞いても伝統の一点張りだった。前例主義は腐敗のきっかけだと誰かが言っていたのだが、そんなんでいいのだろうか?
ブナの原生林や小川に囲まれたこのコテージの風景は好きなんだよなぁ。この登山さえなければ。
陳腐な表現をするなら、まさにマイナスイオンたっぷりの癒しの風景だ。
周りを見渡すとB班の面々はようやく帰り着いた安堵感から思い思いにくつろぎ始めていた。
僕もコテージ前の広場の隅に置かれた丸太のベンチに腰かけ、バックパックから飲みかけのスポーツドリンクを取り出す。中身が半分ほどに減ったペットボトルが気圧差でへこんでいて面白い。
部内公認のカップルでもある、鶴崎先輩と川本先輩は同じベンチに腰掛け、風景がどうの、途中で見た花がどうのと楽しそうに話している。
リア充爆発しろ、とは誰が考えたのかしらないが、独り者の悲哀と妬みを端的に現した素晴らしい表現だ。
川本先輩は美人というよりも、小柄でふわっとしていてかわいいタイプだ。巨漢の鶴崎先輩と並ぶと身長ギャップがいつみてもすごい。
その隣のベンチでは、坂本先輩が、バックパックの中をごそごそと探っていた。
たぶん、タバコを探しているのだろう。いつものことだ。
僕の後ろでは初の登山の緊張感から解放された、1年生たちがわいわいと話し始めていた。
聞くとはなしに聞きながら、スポーツドリンクをもう一口飲みこむ。
疲れた体に染みわたる。
森の香りを運んでくる心地よい風と空気と合わせて細胞単位で活力が戻ってくるみたいだ。
どこか仕事で疲れたサラリーマンのようなことを考えながら、一息に飲み干した。
「梶浦少年は大丈夫かね」
ニヤニヤとしながら坂本先輩が火のついていないままのくわえタバコでこちらにくる。
「おかげさまで無事下山できました」
例の不思議な現象のあとは、感じていた疲労が嘘のように引いていた。
あれは一体何だったんだろう?
そういえば、筋肉痛も消えている。
僕は考え込みかけたが、タバコを持った先輩が近寄ってくるのはいつものことなので、自分のバックパックからライターを取り出す。
僕はタバコは吸わないが、酒席でのお酒のつぎかたや、ライターの用意などは後輩のマナーとして入部直後に徹底的に鍛えられた。
うちの大学の漫研は上下関係にもやたらとうるさく、それに嫌気がさした同級生の何人かは半年足らずで辞めてしまった。
「いつも気が利くね少年」
「諸先輩方のご指導の賜物です」
ちょっとわざとらしく受け答えして、100円ライターをすった。
ボッという音とともにライターから噴き出した炎が20センチ以上立ち上る。
「うわっ熱!」
慌ててライターを投げ捨てる僕に、飛びのく先輩。
「っせ、先輩大丈夫ですか!?」
「痛たた、なんだ少年。何か新手のいたずらか?」
尻もちをついた先輩が恨めしそうに僕を睨む。
「いえ、普通の100円ライターなんですけど・・・」
一体何なんだ?
落としたライターを拾って、恐る恐るもう一度すってみる。
再びボッと音を立てて一瞬で火柱といっていいような炎が現れ、投げ捨てた。
「あちちち」
やけどはしてないけど、指先はじんじん痛む。みっともないが目には涙が浮かんでそうだ。
「すいませんでした。やけどしてないですか?」
「ああ、問題ない・・・」
転んでもただでは起きないというのか、尻もちをついたままの坂本先輩は本来の目的は果たしたらしく口元には紫煙をくゆらすタバコが揺れていた。
実にうまそうに吸っている。
普段なら、一日に2箱は空けようかというスモーカーが、登山中は1本も吸ってなかったわけだからそれもそうだろう。
いい加減そうに見えて、そのあたりはキチンとけじめをつける人だ。
坂本先輩の幸せそうな様子についつい見とれてしまった。
「坂本ー、ツルー、すまんがちょいと非常事態や」
先に着いていたA班の引率役、4年の赤松先輩がコテージのリビングの窓から身を乗り出していて、コテージ前でくつろいでいた全員の視線が集まる。
「殺人事件でも起きましたか!?」
マンガを書くだけでなく読むのも好きな部長は真顔だった。
「アホゥ。どこに名探偵がおるっちゅうねん?コテージが停電しとんや」
僕並みに小柄だがパワフルで関西弁丸出しの赤松先輩。核弾頭とか暴走蒸気機関車みたいだと僕たち下級生は言っている
「ブレーカーが落ちてるとかじゃないのか」
坂本先輩も予想外のトラブルに顔をしかめている。
「いや、ブレーカーも確認してんけど、それも3棟ともあかんかった。戻ってへんかった坂本たちのコテージはまだ見とらん。けど、メーター回ってへんからたぶんあかんやろ。管理人さんは今日は休みの日でおらへんしな」
喫茶店は登山客や林道目当てのオフロードバイクでにぎわう週末以外は営業していない。なので、予約客のチェックインがあるときだけ管理人さんが来るが、今週は僕たち以外に客がいなかった。
「あとA班全員スマホの電池が切れててあかんかった」
「A班全員の?あらやだ、私のもだわ」
川本先輩は電源スイッチを繰り返し押しているが反応しないみたいだ。
不幸の連鎖が続くんだよなぁと僕も自分のスマホを取り出したが、こういう時の予感は当たるもので電源スイッチをいくら長押ししても、起動する気配はなかった。
「同じく、ダメです。」
結局、B班もスマホの電源が入ったのは誰もいなかった。
さらに分かったのはここまで乗ってきた4台の車のエンジンもかからなくなっているということだった。
車好きな田端先輩に言わせると、正確にはエンジンがかからないのではなく、セルモーターがピクリとも動かない。キーをアクセサリのポジションに入れてもなんの反応もない。バッテリが完全放電した状態らしい。それも4台ともに。
最初、田端先輩などは、バッテリを盗まれたんじゃないかと、ボンネットまで開けて確認していたが、どれもいたずらされた様子もなくバッテリーはあるべき位置に収まっていた。
おまけにガスも出なくなっているため、お風呂も沸かせなくなっており、女性陣をおおいに落胆させた。
3、4年を中心としたの役付きの部員--いわゆる幹部が途方にくれた顔を見合わせている。
7月とはいえ、さすがに太陽は山の稜線にかかり、周囲は薄暗くなってきていた。それに合わせるかのように黒い雲も広がってきている。
一雨来そうな感じだ。
想定外の事態にみんな不安を隠せていない。
無理もないよなぁ。
「電気がつかない。携帯も使えない。車もつかえない、っと。ついでに天気も怪しくなってきたな」
遠くからは、ゴロゴロという雷の音まで聞こえ始めた。
「わーっとるわ。いちいち言うなや」
確認するように呟く坂本先輩に、赤松先輩がいら立った声をぶつける。
車が使えないというのもあるが、ネットやスマホで常にどこかと繋がっていることに慣れてしまい、外部と連絡がつかないという状況は裸でいるようで、頼りなくもあり、心細くて落ち着かない。
部員の視線が自然と部長の鶴崎先輩に集まり、その鶴崎先輩はすぐ横の坂本先輩を見る。
ノリと勢い、即断即決がモットーの先代部長の赤松先輩も4年だが、ちょっとちゃらんぽらんなところがあるから、こういう時の判断は坂本先輩のほうが間違いないとひいき目なしに思う。
坂本先輩が部員の面々をながめ、また空を仰いだ。
「ヨシ!今日はもう寝るぞ!赤松、ツルそれでいいな」
「しゃーないな」
「そりゃ、まぁ」
「えー、ごはんはー?」
川本先輩が口を尖らせている。
「川本、そこはお風呂は?ちゃうんか」
赤松先輩の突っ込みにさらにぶーぶーと口を尖らせる川本先輩。
「腹が減ってるやつは適当に食ってくれ。まだおやつやつまみも残ってるだろ?それでごまかせ」
「そうですね。明かりがないんじゃ危ないし、土砂降りになる前にとっとと寝ますか」
「お、さすがまじめな梶浦少年。いいこと言うじゃないか。今日はもう禁酒禁煙だ。火炎放射ライターで焼かれたくなかったら全員さっさと寝ろよ。あとは稲光りしかないんだからな」
周囲から笑いがあがり、ニヤリと坂本先輩が僕を見る。
パンっ!と鶴崎先輩が手をたたいた。
「今日はそれしかないな。全員就寝~!」
本来なら、このあとはBBQから夜を徹しての飲み会に突入するはずだったし、それを楽しみにしていた部員も多かったがどうしようもない。
僕も下山からこっち、バタバタしていて空腹を忘れていた。いまでもごまかすほどの空腹感も感じない。
男女それぞれ、あらかじめ割り当てていた部屋へ三々五々分かれていき、タイミングをはかったかのように大粒の雨が降り始めた。
ここのキャンプ場のコテージは2LDKになっていて、ツインの部屋が一棟につき二部屋ついていた。僕たちの棟の割り当ては3年の先輩二人が1室を使い、新入部員の二人がもう一室を使う。
ラスボス的4年生、部の中核を担う3年生、入ってきたばかりでまだお客様扱いの1年生。一番割を食うのは中間管理職ともいえる僕ら2年生。くじ引きに負けた僕の寝床はリビングのソファだった。誰かと同室で気を使わなくていいというポジションはある意味楽だと開き直っている。
照明もなく何もできないので、コテージに入るなりお休みと言ってそれぞれ部屋に引き上げてしまった。
僕も慣れない山歩きで体はホコリっぽかったし風呂に入りたかったが、お湯も出ないのであきらめるしかない。
ソファに横になり、冬用の布団を首元まで引き上げる。夏でも山の夜の空気は毛布だけでは少し肌寒い。
疲れがたまっていたのか、やかましい雨音をBGMにそのまますぐに意識がなくなった。