第五章 終末(3)
変な気配がする。とても取り返しのつかないような大変なことになってしまう気が。自転車のペダルに自然と力がこもる。背筋に悪寒のようなものを感じる。俺は歯を食いしばりさらに強く踏み込む。
(間に合え、間に合え、間に合え…)
息が苦しい。いつもの道が今はとても長い距離に感じる。汗が大量に体から吹き出し、額にも汗が次々と現れては落ちていく。だが、俺はそんなことは一切気にせず一心不乱にこぎ続けた。
こいでこいでこいでこいでこぎ続けた。
そして、ついに自宅が視界の中に入る。
「ガッシャン」
俺は家に着くと自転車をそのまま乗り捨てドアを勢いよく開き、靴も脱ぎ捨て家の中に飛び込んだ。
すると、かすかにリビングの方から二人の女性が言い争う声が聞こえてきた。
みのりと麻衣の声だ。
「ま、麻衣さんどうしてっ!」
「フフ、あなたの心に聞いてみたら」
俺は二人の声がする部屋に飛び込んだ。
「…っ」
「哲人さん!」
「哲…」
俺は目の前の光景に息をのむ。
窓際の方に体をこわばらせながらこちらを見つめているみのりと、包丁を両手で持ち今にも切りかかろうとしている麻衣がいた。
「麻衣っ! 何してるんだ」
麻衣は俺が部屋に入ってきたことに気が付くと包丁を持った手をだらりと力なく下げながらこちらを向く。
「哲…。あはは、哲だぁ」
こちらに振り返った麻衣の瞳に光はなく、ただ俺だけを見つめてくる。まるで、俺以外何にも見えていないように。
「どうしたんだよ麻衣、お前はそんなことするやつじゃないだろ」
「どうもしないよ」
そういって麻衣は不敵な笑みを浮かべる。
「私はただ、ちょっと我慢ができなくなっちゃったんだ」
俺は麻衣の言っていることがよくわからず問い返す。
「どういう…、ことだ?」
「もう、分かっているくせに。そんなに私から言わせたいんだね。フフッ」
麻衣のその異常な雰囲気あてられ背中を嫌な汗が伝う。
「私は、哲。あなたが欲しいの。ずっと、ずぅっと昔から哲が欲しかった。大好きで大好きで、愛して
る。小さいころに離れ離れになっちゃったときは悲しく、悲しくて死んじゃおうかと思ったんだよ。でも、そうしたらもう哲に会えなくなっちゃうから、そんなの嫌だから踏みとどまったの。そして、大学に来てまた会うことができた」
やっぱりそうだったのか。いや、俺も心のどこかでは気付いていたんだ。でも、今の関係が壊れるのが怖くて、勘違いだと言い聞かせてきただけだったんだ。
「なのに、なのになのに、哲はほかの女を、みのりちゃんを家に連れ込んであまつさえ同棲なんかしちゃって。私はこんなにも愛しているのに。ねぇ、どうして? ねぇっ!」
「っ…」
俺は言葉が出なかった。いや、出せなかったというほうが正しいだろう。
麻衣がこんなことをしてしまった原因は、少なからず俺が無責任な態度をとってきたせいだ。機会はあった。二人でちゃんと話す機会も、みのりと麻衣どちらを選ぶかという機会も。
だが、黙ったままうつむいていた俺に麻衣は呼びかける。
「だけど、もう心配はしてない。だって、これからはずっと一緒にいられるもの」
そういって、包丁を顔の前まで持ち上げる。
俺はその姿を見た瞬間半歩後退ってしまう。
「っ…。麻衣、まさか」
「ウフフ。そうだよ哲。哲を殺して私も死ぬんだよ。一緒に死ねばもう離れることなんてないもんね」
そう麻衣は満面の笑みでいう。まるでこれからデートでも行くかのように。
「や、やめるんだ麻衣。そんなことしても何の意味もないし、一緒になんていられない」
俺は何とか麻衣を踏みとどまらせようとする。しかし、もう何もかもが遅すぎた。
「ううん。大丈夫だよ、哲。私を信じて…」
そういった次の瞬間、目の前に包丁が迫っていた。
「やっ…」
不意をつかれた俺は、回避することなど到底できないような体制だった。
(刺される)
そう思った俺は、襲ってくるだろうと思われる痛みに耐えるために目をつむって力を籠める。
だが、その痛みはいつまでたっても訪れなかった。ハッとなって目を開けると、そこには俺の体ぎりぎ
りでたまっている包丁の刀身と、それを持った麻衣を後ろから押さえつけているみのりの姿だった。
「っ…。また、あなたは私の邪魔をするの」
「もうやめてよ麻衣さん」
そのまま舞は必死にみのりを振りほどこうと、みのりは決して離しまいと抑えつけようとしもみ合いになる。
(まずい、このままではそのまま誤ってどちらかに刺さってしまうかもしれない)
そう思った俺はみのりが押さえつけてお粗末になっている舞の包丁を奪い取ろうと組みかかる。
「離しなさいっ」
「嫌ですっ」
いまだ舞をみのりが後ろから押さえつけたまま右へ左へと暴れている。
俺はどっちかに流れていったん止まるタイミングを見計らい…。
「今だっ」
動きが止まった瞬間に俺は包丁を奪いにかかった。
しかし、
「あれ…」
包丁を奪いに動いていた体はいったいどういうわけか止まっていた。そして、その理由はすぐにわかっ
た。
「て、哲人さんっ!」
みのりのその声で我に返る。そして、ある一点を見つめていることに端寝て気が付く。
俺は恐る恐るみのりの視線の先を追う。
そして、そこにあったものは赤いティーシャツ。いや、血だ。
「は、ハハハ…」
俺は刺された。その事実は奇妙に思えるほどスッと理解することができた。だが、その瞬間どんどん瞼が重くなっていき意識が遠のいていった。
最後に視界にうつったのは、俺が刺されたことにより正気を取り戻し顔を真っ青にした麻衣の姿だった。
初めての作品なので読んでいただけるだけで感謝です。




