第12話
朝日が水面を白銀に彩り、夏の気配を含んだ風がエルゼリンデの頬を撫でていく。
ゆったりと舟を漕ぐ音と心地よい揺れにエルゼリンデは欠伸を噛み殺した。
「昨日はよく眠れなかった?」
隣に座る兄が彼女の顔を覗き込みながら囁く。
「うん、まさかまた行くことになるなんて思ってなかったから、ちょっと緊張しちゃって」
エルゼリンデも小声でそう答えると肩を竦めた。
ヴィーラス将軍の訪問から3日後、彼女との約束通りエルゼリンデは王宮へ向かうこととなった。イゼリア家への訪問からここまであまりに急すぎて、果たしてこれからの進路をじっくり考える時間はあるだろうかという懸念がもたげるほどだ。ローゼンヴェルト侯爵が事前に知らせてくれていなかったらもっと混乱していたかもしれない。
王宮に向かうにあたっては、ルスティアーナより使いを寄越す打診をされたが丁重にお断りした。仰々しくなるのは避けたかったし、王都内とはいえ久々の遠出なので気を遣わずに出歩きたかったのだ。兄が一緒なのは、さすがに貴族の令嬢が単身で遠出をするのは宜しくないので、学校に行くついでに王宮近くまで付き添ってくれることになったからである。
王宮に向かうには3つのルートがある。騎乗して行く、馬車で行く、そして運河を使う。その中で一番利便性が良いのが舟で運河を行く方法なのだ。ちなみに一番速く着くのは騎乗して行くルートなのだが、急なことで馬を用意できなかったので諦めた。
王都ユーズには王都民の水源であるマリル湖支流からいくつか運河が引かれている。王都外郭に沿って環状に流れるツェルカ運河と、都市の中を東西と南北に流れるニーヴルト運河、フロース運河が有名だ。
兄妹は現在、ニーヴルト運河を東に向かう舟に揺られているところだった。
エルゼリンデは兄の横顔をちらりと窺う。ミルファークは膝に置いた本に目を落としている。妹より更に白い顔に、今のところ具合が悪そうな様相は見られないので安堵の息を吐く。昔から病気になるのが趣味と言わんばかりに体調を崩しやすい兄なので、エルゼリンデはいつの頃からか顔を見ただけで本人が気づくよりも早く、具合が悪くなりそうな気配を察知できるようになっていた。だがネフカリア遠征から戻ってきて以来、ミルファークの体調が大崩れする頻度は明らかに減った。この半年で寝込んだ回数は僅か一回しかない。それもこれも妹に扮しているときに「あのエルーが全然出歩かなくなるのは不自然だから」とミルファークを無理のない程度であちこち連れ回してくれた二人の親友のおかげだ。背が伸びて体格がしっかりしてきたことも相まって体力がついてきたので、こうして妹の遠出に付き合ってくれるまでになったのだから。
ふと、乗合い舟の向かいから視線を感じ、その方向にさりげなく目を移す。目線の先で向かいに座る二人の女性がちらちらと覗き見ていた。年齢と顔立ちからして若い娘とその母親だろうか。うっすら頬を染めている様子からして、ミルファークに見惚れているようだ。
エルゼリンデはもう一度兄の横顔を見た。透き通った白い肌に顎までの長さの亜麻色の真っ直ぐな髪、大きめの藍色の瞳、それを縁取る長い睫毛。よく似ていると言われるし初見だと双子だと思われるほどなのだが、エルゼリンデはミルファークが自分よりよほど綺麗な顔立ちだと認識していた。体が弱く線が細いことが儚げで繊細な印象を与えるからかもしれない。事実、今よりずっと子どもの頃はエルゼリンデが男、ミルファークが女だと誤認されることが多かった。
「……どうしたの、エルー?」
気づくと兄が訝しげな眼差しをこちらに向けていた。じろじろ見過ぎてしまったようだ。
「あ、えっと、兄さんと遠出するの久々だなーって思って」
まさか向かいの母娘の視線につられて兄の横顔を眺めてたとも言いづらく、とっさに別のことを口にする。と言ってもその感想も嘘ではない。こうしてミルファークとどこかへ出かけるなど何年ぶりだろうか。
「確かにそうだね」
妹の言葉にミルファークはにこりと微笑んだ。向かいの母娘が口に手を当てて身悶えているのを視界の隅に入れながらエルゼリンデも笑顔を返す。
「今回は……行き先がちょっと残念なんだけど、王都の外にも兄さんと一緒に行ってみたいな。兄さんは行きたいところとかある?」
「そうだね、フロヴィンシアとかウーヴァラとか色々あるけど、一番はロシュキスかな」
「ロシュキスってティニヤ叔母さんが住んでるところ?」
「そう。王国最北部の王室直轄領だよ」
エルゼリンデは小首を傾げつつ、兄から教わったことを思い出した。ティニヤ叔母さんは、母の妹だ。そして母はトゥオミ人だという。
「ロシュキスにはトゥオミ人が住んでるの?」
妹の質問をミルファークは首肯した。
「ロシュキスはトゥオミ人が住んでる地域と国境を接してるから。少し前にはトゥオミ人の入植事業が進められてたみたい。今はもう積極的な入植はないんだけど母さんとティニヤ叔母さんの一族もその時の子孫だよ」
「へえー」
「若い頃の父さんが各地を放浪していたときに、ロシュキスで母さんと知り合ったんだって。母さんの故郷だから一度は行ってみたいと思ってるんだ」
エルゼリンデは知られざる両親の馴れ初めを聞いて瞠目した。
「そ、そうだったの!?」
何とか声を抑えることはできた。小声で驚く妹に兄は肯いた。
「王都に移り住んだ頃、叔母さんが訪ねて来てくれたことがあったでしょ?その時に聞いたんだ」
そんな話をしているうちに目的地に到着したので、二人は舟を降りた。そこから少し離れたフロース運河の船着き場から北へ向かう舟に乗ると、終点の王宮前広場まで運んでくれるのだ。
フロース運河は王都の要地を辿ることもあり、行商や労働者が多いニーヴルト運河とは客層が異なる。舟も大きめだし乗客も身なりの良い人が多い。
「あ、フィアラ大聖堂が見えてきた」
ミルファークが前方を指差す。そこには陽光を受けて白亜に輝く建物が鎮座している。
「エルーは大聖堂の中に入ったことはないんだっけ?」
「うん」
外観もだが内装も美しいらしい。主に王族の婚姻、葬儀、戴冠式に利用されるが名門貴族の結婚式に使われることも多いという。フィアラ大聖堂で結婚式を挙げるのは貴族の令嬢にとって大きな夢のひとつ、という話を兄から聞いてエルゼリンデはへえ、と気の抜けた声を漏らした。
ミルファークは意外そうに妹の横顔を一瞥した。
「前はこういう話に目を輝かせてたと思うけど、あんまり興味なかった?」
兄に言われてエルゼリンデは確かに、と思った。少し前の自分ならこういう場所で結婚式をしてみたいと思ったかもしれない。が、今はあんまり結婚したくない気持ちもあってか憧れも薄くなってしまったようだ。
それを口にすると兄は少し寂しそうに笑った。ちょっと前にイングリッドも同じような顔をしていたなと、エルゼリンデはぼんやりと思った。
「兄さん、ありがとう。ここまでで大丈夫だから」
フロース運河の終点で舟を降りて広場に出ると、エルゼリンデは兄にそう告げる。王宮前広場から城門までは少なく見積もっても数十分は歩くので、ミルファークに往復させるわけにはいかない。ここまで辿り着くのにも二時間以上かかっているのだ。兄の顔にも少しばかり疲労の色が浮かんでいる。
ミルファークは心配そうに眉をひそめたが、これ以上は負担になることを自覚しているのか素直に頷いた。
「……わかった。エルー、気をつけてね」
「うん、兄さんも気をつけて。学校の友だちがこの辺まで迎えに来てくれるんでしょ?それまでゆっくり休んでて。あ、日陰でね」
兄は首を縦に振ったが、エルゼリンデは周囲を慌ただしく見回して休めそうな場所を探し始める。ちょうど広場手前の街路樹そばにベンチが並んでいたので、兄を半ば引っ張るように連れていきベンチに座らせた。
「お水もちゃんと飲んでね。足りなかったら私の分もあげるから」
「エルー、ありがとう。僕は大丈夫だから、エルーのほうこそ気をつけて行ってきて」
あれこれ世話を焼きたがる妹にミルファークは苦笑で返す。エルゼリンデはなおも心配そうな表情を崩さなかったが、時間に遅れるよと兄に促され渋々その場を後にして王宮に向かった。
広大な王宮前広場を早足で歩き切ると城門前に並ぶ門番に挨拶し、ルスティアーナからの紹介状を渡す。門番は不審な目つきを隠さずぞんざいに受け取ると、城門傍らの部屋にいる官吏に照会に行く。それをちょっと落ち着かない気分で眺めていると、しばらくして戻ってきた門番がこう告げる。
「馬車をご用意しますので、あちらの馬止めでお待ちください」
つい数分前とは別人のような恭しさだが、エルゼリンデは気にしていない素振りで一礼し、門をくぐった先にある馬止めへ足を運んだ。そしてそわそわしながら馬車を待つ。王宮に従者も付けていない女が一人で来るなど怪しさ全開である、というのに門番の態度でようやく思い至ったのだ。今までは王宮に用がある数少ない機会はすべてミルファークとしてだったから気にしていなかったが、あまりよろしくない行動だなとエルゼリンデは反省した。
そんなことを考えているうちに小型の馬車が到着し、御者に名前を確認されてから乗り込む。
走ること十数分、目的の建物前で馬車を降りると凛とした声に出迎えられた。
「よく来てくれた、エルー」
先触れがあったのだろうか、すでに待ち構えていたヴィーラス将軍がにこやかに笑いかける。
「お招きいただきありがとうございます」
エルゼリンデの礼を受けると、ルスティアーナは彼女を建物の中に案内した。
「疲れただろう、まずは少し休むといい。飲み物も用意してある」
「あ、ありがとうございます……」
エルゼリンデがおっかなびっくりな返答になってしまったのは、なぜかルスティアーナが周囲をきょろきょろと見回しているためだ。何か警戒すべき事柄があるのだろうか。彼女の怪訝な眼差しに気がついたのか、ルスティアーナはいささかわざとらしく咳払いをした。
「こほん、実は騎士団の見学の前にエルーに話があってな」
「お話、ですか」
「うん。それにぜひとも会ってほしい人もいるのだ」
「会ってほしい人、ですか」
建物内の廊下を真っ直ぐ進んでいく先に、ずらりと衛兵が立ち並ぶ光景が見えた。その数8人。随分と物々しい様子にエルゼリンデは僅かに身を竦ませてしまう。衛兵たちは一つの重厚な扉を守っているようで、ルスティアーナはその扉の前で立ち止まった。それを合図に衛兵の一人が静かに両開きの扉を押す。重たい音とともに扉が開き、ルスティアーナに促されてエルゼリンデがその扉をくぐる。
室内にはいかにも高級そうな調度品と応接用のソファが一対。そのソファには先客が座っていた。
黒い服を着た黒髪の男。その湖面のような蒼い瞳が自分のほうに向けられて、エルゼリンデは思わず目を見開いて固まってしまった。そこへ彼女の後ろからルスティアーナの声がかかる。
「ちゃんと連れてきたぞ、アスタール殿」
先客とは、この国の王弟であり黒翼騎士団の団長であり、なぜか顔見知りとなってしまった王弟殿下その人であった。