第10話
何とはなしに感傷に浸っていたエルゼリンデの耳に兄のおっとりした声が流れてくる。
「王室と宮廷貴族のことはだいたい分かってきた?」
ミルファークに問いかけられ、エルゼリンデは兄に向き直った。
「うーん、なんとなくだけど。確かに貴族って言えば王宮で優雅に振る舞ってる人たちって印象はあるかも。そういう人たちは宮廷貴族ってこと?」
「領地のある貴族でも王宮に出入りしてる人たちはいるから一概にそうとは言えないけど、まあイメージとしてはそうなるかな」
「じゃあ、宮廷貴族じゃない貴族はまた違う感じなの?」
小首を傾げる妹に兄は肯いた。
「そうだね。その貴族の代表格がローゼンヴェルト侯爵家だよ」
そこで一度言葉を切ると、ミルファークはまだ良く分かってなさそうなエルゼリンデにこんな質問をする。
「エルーは王国4大貴族って聞いたことある?」
全然聞いたことがなかったので、黙然と首を横に振る。
「建国当初、グスタフ大王に叙爵された貴族の中で今も存続している4家を指す言葉だよ。ローゼンヴェルト侯爵家、ヴィーラス侯爵家、ローデン伯爵家、アンリシュタイン伯爵家。この4家のことだね」
ローゼンヴェルト侯爵はそんなに有名な人だったんだ。エルゼリンデは素直に驚いたが、それにしては本人に会うまで全く聞いたことがなかったことにちょっとだけ落ち込んだ。あまりに貴族社会に疎すぎではないか。そんな妹の表情を見てミルファークは苦笑を漏らした。
「まあ、エルーが知らなかったのも無理はないかも。社交の場に出たことなかったし、ローゼンヴェルト侯爵家とアンリシュタイン伯爵家は昔から王室や宮廷とは距離を置いてるから。特にローゼンヴェルト侯爵家は建国から今に至るまで、4大貴族の中で唯一王室と姻戚関係を持ったことがない家だし」
「そうなの?でもマウリッツさんは王弟殿下の腹心って言われてたような」
「うん。今のローゼンヴェルト侯爵様が子どもの頃から王族と付き合いがあるのはすごく珍しいことみたい。何か特殊な事情があるんじゃないかって未だに囁かれてるくらいだし……まあでも、4大貴族の当主は一定期間、王室に出仕して職務を担うことを義務付けられているからそれも関係してるんじゃないかなあ」
しかも王室での職務は無給らしい。タダ働きという言葉にエルゼリンデは悲しい気持ちになってしまう。
「でも何で王室と距離を置いてるの?」
「詳しいことは僕も分からないけど、領地があって安定しているからじゃないかな」
なるほど、王室に頼らなくても何とかなってしまうということか。エルゼリンデは納得した様子で兄の次の言葉を待つ。ミルファークはお茶を飲んでひと息つくと、肩を竦めてこう続けた。
「実はローゼンヴェルト侯爵家については、僕も詳しい歴史や内情を知らないんだ。宮廷と関わりが少ない貴族だから、王室側の記録も少ないし。それでも王室と関わりのある部分だけ見ても概要は説明できるけど」
そう前置きをしてから兄はローゼンヴェルト侯爵家の成り立ちをざっと説明してくれた。
フラヴィア王国時代、北方の山岳地帯にトゥオミ人という遊牧と牧畜を生業にする集団があった。彼らは特定の国に属さずに暮らしていたのだが、王国末期になると山岳地帯と国境を接する辺境伯に帰属の圧力をかけられるようになっていた。そんな中、グスタフの蜂起に協力するトゥオミ人が現れる。オリアン兄弟の名で今日まで知られるトゥオミ人の兄弟は、豪胆さと卓越した騎馬技術をもってグスタフ大王のフラヴィア王国打倒に大いに貢献した。
軍事面での多大な貢献により、オリアン兄弟はグスタフ大王に叙爵され領地を賜った。これ以降、兄はローゼンヴェルト侯爵、弟はヴィーラス侯爵と称されることとなる。
「ヴァルト人じゃなかったんだ。しかもローゼンヴェルト侯爵家とヴィーラス侯爵家って元々は兄弟関係だったんだ」
話を聞いて思わず驚きの声を上げてしまう。ミルファークは浅く頷いた。
「今でも兄家、弟家って呼ばれることもあるみたいだね。兄弟ともども白皙の美男子だったって話も伝わってるし。ちなみに僕たちの母さんもトゥオミ人だよ」
エルゼリンデはまたもや瞠目した。父から北方の出身だと聞いていたがトゥオミ人というのは初めて耳にした。もしかしたら子どもの頃に聞いたことがあるかもしれないが、なにせ6歳くらいまでの記憶が曖昧だから忘れているのかもしれない。
「一説によるとオリアン兄弟、特に兄の方はライツェンヴァルト王国に臣従する気はなかったけど、山岳地帯のトゥオミ人に手を出さないことを条件に叙爵と改宗を受け入れて妻子と王国領内に移り住んだみたい」
もしかしたら王室と距離を置いているのもその時のことが理由なのかもしれない。ミルファークがそう続ける。
「でも王室に残っている記録だとグスタフ大王は諸侯の中でローゼンヴェルト侯爵を一番信頼していて、何かあるたびに王都に呼び寄せたり自分が領地に出向いたりしていたから、関係は悪くなかったんじゃないかな」
王都ユーズの中心に鎮座するフィアラ大聖堂は、グスタフ大王の早すぎる死を悼んだローゼンヴェルト侯爵により現在の壮麗な姿に改築されたと伝わっている。
だがそれ以降、4代国王ウィルヘルム1世の時代になるまでローゼンヴェルト侯爵家の名前は王室の歴史にほとんど登場しなくなる。通説ではローゼンヴェルト侯爵領の立て直しに注力していたとあるが、グスタフ大王が彼をあまりに重用しすぎたため、他の諸侯との力関係を考慮してアレクサンデル王に遠ざけられたとも言われている。
ローゼンヴェルト侯爵領は、王都の東側から南部の海に面した土地までを有し、王室直轄領を除けば王国内で最も広い領地である。今でこそ大穀倉地帯として有名だが、建国当初は度重なる戦乱や飢饉で荒れ果てた土地が多く、畑を耕す農民も他の地域に逃亡したりと散々な状況だったらしい。
「もともと出自が遊牧民族だし異民族だし農耕にも従事した経験なんてないだろうし、相当苦労したと思うよ。ただ領地に土着する有力者たちと良好な関係を築くことができたからなのか、アレクサンデル王の治世後半には王室に納める小麦の量が年々右肩上がりになってたみたいだね」
「なんか、領地を持ってる貴族のほうが苦労してる感じじゃない?」
「それはそうだね。領地や領民の管理に加えて、領内の治安維持と王国からの派兵要請に応えるために軍隊も維持しないといけないし、王室には税か労役も納めなきゃいけないしで。でもその分、王室に干渉されることがないから一国一城の主として自由にできるという利点はある。領地経営が上手くいっているところは王室への影響力も維持できたし」
ローゼンヴェルト侯爵家が再び王室の歴史に登場するのは、4代国王ウィルヘルム1世の東方進出期である。この頃、ライツェンヴァルト王国は本格的にネフカル人をはじめとする遊牧騎馬民族と対峙するようになり、剽悍な騎馬民族を相手に騎兵の質量ともに劣る王国側は苦戦を強いられていた。そこへ騎兵部隊を率いて参戦したのが当時のローゼンヴェルト侯爵である。元が遊牧民族であり初代当主も優秀な騎兵だったことから、ローゼンヴェルト侯爵家は代々騎兵と馬の育成に力を入れていた。3代国王から始まった東方進出において、いずれ騎兵が重視される時代が来ることを予見していたのかもしれない。
ローゼンヴェルト侯爵家は自ら騎兵を率いて騎馬民族を撃退する傍ら王室に騎馬技術と大量の名馬を提供し、王立騎士団の設立にも深く関わることになる。
「ローゼンヴェルト侯爵領は馬の産地としても有名なんだ。今も騎士団で使われている馬の半数以上は侯爵家から提供されてるって聞くしね。他国へも輸出してるし、歴代のローゼンヴェルト侯爵は名騎手ぞろいだよ」
「へえー」
「騎兵を運用するには技術以前に大量の馬が必要になるから、そこが弱点だった王国側にとってローゼンヴェルト侯爵家はまさに救国の英雄だったんじゃないかな。実際にマクシミリアン王はフロヴィンシアを征服後、侯爵家の長年の貢献に報いるためフロヴィンシア南のオアシス地帯を領地として下賜したくらいだし」
東西の交易の結節点であり肥沃なオアシス地帯を得たローゼンヴェルト侯爵家は、現地の商人を保護して貿易業にも進出することになる。領地の南端にあったさびれた漁港は、西方諸国や南方の国々との貿易で大いに発展し、今や王室直轄領ウーヴァラに次ぐ貿易港にまで成長した。
「オアシス地域から持ち込まれた香辛料や野菜、果物で料理も発展してるし、東方から齎された製紙と印刷技術で紙の本も領内で多く出回ってるし、貿易業を通じて王都やフロヴィンシアの商会、商人にも影響力を持っているし、それなのに目立ったお家騒動とかも聞かないし。4大貴族の中でも飛び抜けて優秀な家だよねえ」
「というか、もはや国なのでは?」
素直な感想が口をついて出てくる。エルゼリンデの感想をミルファークは首肯した。
「そうだよ。ローゼンヴェルト侯爵家がその気になればいつでも国として独立できるって言われてるし」
「ひええ」
マウリッツさん、凄まじくすごい家のご当主だった。エルゼリンデは慄いてしまった。気軽にマウリッツさん呼びをしてはいけない人なのでは?
「まあ、ローゼンヴェルト侯爵家やアンリシュタイン伯爵家のような王室から独立している大貴族がいることで、王権への抑止力になるから。そういう絶妙なバランスが国の安定に繋がってるんだろうなあって思うよ」
「はああ」
エルゼリンデはすっかり圧倒されてしまっていた。そういえばそんなすごい侯爵家に働きに来ないかってお誘いを受けていたような。ミルファークは妹の顔色を読み取ったのか、更にこんなことを教えてくれた。
「ちなみにローゼンヴェルト侯爵一家は領地のお城に住んでるよ」
「お城に住んでる」
つい真顔で復唱してしまった。
「アレンド=レリスタット城。同名の城下街も領内一の都市で有名だよ」
「つまりローゼンヴェルト侯爵家に本当に働きに行くことになったら、お城で働くという……」
「……そうなるね」
ミルファークは僅かに複雑そうな表情で応じる。
「今の侯爵様にはお姉さんが6人いるけど、一番上のお姉さんが城主代行として有名だよね。独身ですごく頭が良いって」
「お姉さんが6人」
またもや復唱してしまう。
「あれ、知らなかった?」
意外そうに目を瞠る兄に、妹はふるふると首を振る。6人のお姉様。なんか強そう。しかもローゼンヴェルト侯爵の容姿から察するに、きっとすごい美人揃いに違いない。6人勢揃いしたらエルゼリンデなんぞ簡単に吹き飛ばされてしまうのではないだろうか。
思わず身震いする。お城は見てみたいが、働きに行くのはちょっと怖いな……お城だからお化けも出るかもしれないし。そうミルファークに告げると、兄は肩を竦めて苦笑した。
「……お化けが出るかどうかは、あらかじめ侯爵様に聞いておくといいかもね」