第8話
「で、ほんとに結婚しないの?」
予想通り、出仕した父親と入れ替わるようにイゼリア家を訪ねてきたコージマが、真っ赤に熟した苺を頬張りながら首を傾げた。
「しないってば!だから、あれは用事があって訪ねてきてくれただけの知り合いの人なの」
エルゼリンデは半分むきになりながら否定すると、同じく苺を摘む。口に入れると甘酸っぱい味と香りが広がる。野生のものより味が濃くて美味しい。思わず頬を緩めるエルゼリンデに、友人は意味深長な眼差しを向ける。
「ほんとにー?手を繋いで歩いてたって聞いたけど」
「そ、それは……そう、きっと手を繋ぐのが趣味の人なの、たぶん。だから全然他意はないというか」
そんな趣味の人いるかな。傍らで二人の会話を聞いていたミルファークは心の中でツッコミを入れる。
「ふーん?それにしてはあんたの好きそうなもの差し入れてくれてるじゃない」
コージマは食卓に鎮座する果物の盛られた籠を見やる。今朝がた、昨日のお礼とお詫びと称してローゼンヴェルト侯爵家の使者が届けてくれたものだ。ひと抱えほどある籠の中には苺やチェリー、マルベリー、赤スグリといった季節の果物に加え、メロンというフロヴィンシア名産の果物、干し葡萄、干し杏、干しイチジクも盛り込まれている。ちなみに父宛にローゼンヴェルト侯爵からの手紙も届けられていた。父はそれをなぜか神妙な顔つきで見つめると、ため息とともに懐にしまい込んで仕事に出かけていった。
「果物は、嫌いな人のほうが少ないでしょ……」
エルゼリンデは取り分けた干し葡萄に手を伸ばしつつ反論する。
「もう、エルーってば分かってないんだから。それに、ほんとかどうかはともかく、あんたにはいい噂になるじゃない」
「いい噂って……どこがいい噂なの」
不服そうに唇を尖らせるエルゼリンデに、小柄な友人は少しだけ意地の悪そうな目つきで返した。
「……おてんばエルー、煙突掃除屋さんに憧れてパン焼き工房の屋根に登って大騒ぎになったり、剣の稽古でいじめっ子を泣かせたり、人攫いを助けに来た衛兵と一緒になってやっつけたり。あんたってば本当に女の子なの?っていうエピソードばっかり有名じゃない」
「うぐ」
唐突に忘れてほしい過去を語られ、干し葡萄を喉に詰まらせるところだった。
「それが、素敵な貴公子と結婚するかもっていう話が出てきたのよ?あんたも女の子だったのねーってイメージ回復につながるじゃないの!うちの母さんや近所のおばさんたちも、あんたに好い人が見つかって良かったって喜んでたんだから」
「噂を信じて喜ばれるとますます気まずいんだけど……結婚しないし……」
「ミルファークもそう思うでしょ?」
コージマはしぶとく抵抗を続けるエルゼリンデを無視して彼女の兄に問いかける。
「えっ、うーん、そうだね。まあ実害はなさそうな噂だし、放っておいてもいいんじゃないかな」
「兄さんまでそんなこと言う」
「やっぱそう思うわよね。それにエルーに言い寄ってる男どもも大人しくなるだろうし。フランクは、まあちょっと可哀想だったけど」
「え?フランクに何かあったの?」
首を傾げると、フランクはエルゼリンデが結婚する噂を聞いてショックで寝込んでしまったことを教えてくれた。コージマからそれを聞いたエルゼリンデは兄のほうにちらっと視線を向ける。兄さん、そんなにフランクを惚れさせるとは――そんな眼差しを受けて、ミルファークは生温い微笑を口元に刻んだ。妹は自分に扮した兄にフランクが惚れたと思っているが、実はそうではないのだ。フランクがずっと昔からエルゼリンデに好意を持っていたことは、彼と結婚する予定のコージマはもとより、一人を除いてこの街の住民全員が知る事実である。知らぬはエルゼリンデばかりなり。
「それと、言い寄ってる男って何のこと?別に何もない気がするんだけど」
エルゼリンデが訳が分からないと言いたげに眉根を寄せると、コージマはあからさまにため息をついて首を振った。
「ミルファーク。やっぱりこの子、早く結婚させたほうがいいわよ」
「ちょっと、コージマ?だから結婚しないって……」
なおも結婚という単語に抵抗するエルゼリンデに対し、コージマは食卓から身を乗り出して言い募った。
「エルー、あんたに結婚してほしいのはね――あたしたちの、心の平穏のためよっ!」
「……ということがあって」
ベールを受け取りにイングリッドの職場を訪ねたエルゼリンデは、赤毛の友人にコージマとの顛末を聞かせる。
「あはは。コージマらしい言い方ね。それだけあなたのことを心配してるのよ」
「心配してくれるのは嬉しいけど」
イングリッドに促されて店の外に置かれた木箱に腰掛けたエルゼリンデは、布に包まれたベールを抱え込んで嘆息する。
「でも実際のところどうなの?本当にただの知り合いなの?」
「イングリッドまでそういうこと聞くの」
思わず横に座る友人に恨めしげな眼差しを向けてしまう。イングリッドは灰色の目を眇め、どこか探るような口調で彼女の呟きに応えた。
「私も気になるもの。だって、話を聞くかぎり相手の人もあなたとそういう噂になってもいいって思ってそうじゃない」
その一言に、エルゼリンデは目を見開いて固まってしまった。なるほど、そういう見方もあるのか。イングリッドから齎された予想外の言葉に、じわじわと頬が熱くなるのを感じる。
「そっ、そんなこと向こうは考えてもないと思うし……」
「あら、どうして?」
「……身分だって違うし」
「同じ貴族なのに?それに身分違いって言うなら、今の王妃様だってそうでしょ」
「それは、そうだけど」
現国王シグノーク陛下の王妃マリアベルは、片田舎の男爵令嬢の出自だという。素晴らしい美貌の持ち主で、たまたま王都に立ち寄った際、たまたま当時王太子だった国王に見初められて結婚した――まるで夢物語のような王妃様の話は、市井の女性たちの間でもよく知られているし、語られてもいる。
イングリッドは頬を紅潮させてどことなく複雑そうな表情で俯くエルゼリンデの横顔を一瞥した。
「それで、あなたはどう思っているの、その人のこと」
「……えっ?」
まるで思ってもみなかったことを訊ねられたと言わんばかりに目を瞬かせる年少の友人に、イングリッドは苦笑を返す。
「こういうことは自分の気持ちが一番大事じゃない。あなたはただでさえ周りに振り回されやすいんだから」
「自分の気持ち……」
ふと、瞼の裏にエレンカーク隊長の顔が浮かんでくる。自分のことを考えろ。かつて隊長にそう忠告されたことも。
「うーん……優しくていい人だなって思ってる」
眉を顰めつつ思っていることを伝える。
「それだけ?」
「そ、それだけ?」
イングリッドは戸惑うエルゼリンデの顔を静かに見やり、かぶりを振った。
「まあ、今はいいか」
どうやらそれ以上の追及は諦めてくれたようだ。
「それはそうと、もうひとつの問題はどうするの?」
もうひとつの問題?小首を傾げるエルゼリンデに、イングリッドはやや呆れたような声音で続ける。
「騎士団にスカウトされたんでしょ?どうするの?」
「そ、そうだった」
肝心なことを忘れかけるところだった。
「とりあえず、ちゃんと話を聞いてから考えようかなって兄さんとも話してるんだけど」
「ふうん。まあ私は反対なんだけど」
「えっ、そうなの!?」
さらりと反対意見を告げられて、思わずイングリッドの横顔を凝視する。
「だって、騎士団なんて男ばっかりのところじゃない。エルーが変な男に引っかからないか心配で」
「へ、変な男?」
「そうよ。あなたはまだ知らないでしょうけど、世の中には信じられないようなクズだっているのよ」
珍しく吐き捨てるような物言いをする赤毛の友人に、エルゼリンデは瞠目してしまった。その表情に気づいたのか、イングリッドは取り繕うように肩を竦めてみせる。
「ま、これは半分冗談だけどね。エルーは何だかんだ言われても人を見る目はあるもの」
「……そんなに見る目あるかなあ?」
エルゼリンデはまた首を傾げる。周りの人にあれこれ言われたり心配されたりすることが多すぎて、あんまり自信がないのだ。
「あるわよ。だってあなた、大事にされてるもの。そういう人はね、自然と自分を一番大事にしてくれる人を選べるものよ」
「大事にしてくれる人……」
エルゼリンデは呟いた。いまいちピンと来ていないが、イングリッドが断言するのだからきっとそうなのだろうと思えてくる。
「私は騎士団に入るのは反対だけど、あなたが決めることだから。自分が何をしたいかを一番に考えるといいかもね」
「何をしたいか、かあ」
「結婚以外の選択肢があるなんて、幸運なことよ」
どこか寂しそうな声を零す友人の姿に、エルゼリンデは俯いた。
「そうだよね」
ベールを抱える腕に力がこもる。確かに自分は恵まれている。だからこそしっかり考えなければ、自分のことを。
「うん……ちゃんと考えるためにもやっぱり勉強も大切なのかなあ」
「あら、急にどうしたの?ミルファークみたいなこと言って」
「その兄さんから言われたの、今朝。私ももっと勉強しないとって」
そう。朝食後のお茶の時間、急に兄に切り出されたのだ。「エルー、今後のために勉強も頑張ろう。僕が教えるから」と。
「それで今日から兄さんが勉強を見てくれることになったの。しかも父さんまで家庭教師をつけようか、なんて考えてるみたいで」
「へえー」
まるで急に良家との結婚の決まった娘に慌てて教育を施そうとしているようにイングリッドには感じられたが、本人には言わないでおいた。
「エルーは身体は成長しても中身はまだお子ちゃまだから。一人前の淑女目指して頑張って」
「お子ちゃま……」
16にもなってお子ちゃまとは、と思うも反論する術も持たず、エルゼリンデは項垂れる。
「でもあなたが大人になっちゃったら、それはそれで寂しいかも。いつまでも可愛いままのエルーでいてほしい気持ちもあるのよ」
イングリッドの灰色の双眸には、昔日の名残を惜しむような光がある。その静謐さに見つめられたエルゼリンデは言葉を失ってしまい、ただその美しい瞳を見返すばかりだった。