第7話
また人間相手に剣や弓を向けることはできる?
エルゼリンデは兄の静かな声を頭の中で反芻していた。正直なところ、今は何の答えも持っていない。あれ以来剣も握っていないし、そういえば馬にも乗る機会がなかった。この半年ですっかり戦争に行く前の生活を取り戻せたと思っているが、再び馬に乗って剣を振るうことは、やろうと思えばやれる気はしている。一度それを体験しているのだから。だけど、本当にまたできるのかと問いかけてくる自分がいるのも事実。
エルゼリンデはそこまで考えてから食卓に向かい合って座る兄に視線を戻すと、なぜか遠い目をしていた。
「兄さん?」
声をかけつつ目の前でぱたぱたと片手を振る。ミルファークは彼女と同じ藍色の目を瞬かせた。
「……ああ、ごめん。どうしたの?」
複雑そうな眼差しを向ける兄を見て、エルゼリンデはちょっと眉根を寄せた。なんだか様子がおかしい気がする。
「えっと、今さっき兄さんが言ったことだけど。また剣を取れるかって」
「あ、うん」
ミルファークは居住まいを正した。真剣に耳を傾けようとする兄の姿に、エルゼリンデは若干申し訳ない心持ちになりつつ口を開いた。
「ええと、まだよく分からなくて……できるような気はするけど、やってみないと分からないかなって」
「……うん、そうだよね」
答えにすらなっていない曖昧な発言を、しかし兄は優しく肯定してくれる。
「僕としては心配な気持ちが強いけど、でもエルーにやりたいことがあるならそれを応援するよ」
「やりたいこと……」
ミルファークの言葉を受けてエルゼリンデは少し俯いた。
「働きに出たいなあと思ってたから、お給金が良いなら騎士団に入るのもありかなって」
「そっか。何かやりたいことがあるんだろうなと思っていたけど、働きに出たいんだね」
「……うん。まあ、社会勉強してみようかなあと」
兄には感づかれていたらしい。ただやっぱり兄にもお金を稼ぎたいからという目的は言いづらかった。
「あ、そうだ。その話をマウリッツさんにもしたら、うちで働かないかって言われたんだった」
「――ええっ!?」
「ええっ!?」
何気なく思い出して放った一言に兄が驚愕の声を上げる。妹もつられて驚き、同じような声を上げてしまった。ミルファークの顔を見返すと、明らかに動揺している様子だ。騎士団にスカウトされたことを話したときよりも数倍は驚いている。
「……侯爵様が、働きに来ないかって言ったの?」
動揺を隠しきれない声と表情で兄が訊ねてくる。その豹変ぶりを訝しみつつ、エルゼリンデは肯いた。
「領地のお屋敷で、お姉さんの話し相手と姪御さんの遊び相手になってほしいって」
「……お姉さんの話し相手と姪御さんの遊び相手」
ミルファークはやたら深刻そうな顔で復唱すると、こう続けた。
「えっと、侯爵様は侍女としてってはっきり言ってた?」
「え?」
エルゼリンデは小首を傾げた。
「侍女とは言ってなかったと思うけど、でもそれって侍女の仕事じゃないの?」
「……そっかあ」
ミルファークがまた遠い目をする。
「……それで返事はしたの?」
「してないよ。ゆっくり考えて良いって言ってたし」
「……そっかあ」
ミルファークは遠い目をしたまま呟く。兄の態度急変の理由がさっぱり分からず、エルゼリンデは眉根を寄せる。
「もしかして、うまい話には裏がある的なやつ?……確かにお給金はすっごく良さそうなんだけど」
声をひそめて訊いてみるも、ミルファークはため息を吐くばかりで直接答えてはくれなかった。
「……どのタイミングで伝えようかなあと迷ってたんだけど、そう悠長にしてられないのかも」
代わりに返ってきたのはそんな呟きだった。兄は妹の顔を改めて見直すと、おもむろに今の話の流れとは関係なさそうなことを告げる。
「エルー、子どもの頃に王弟殿下とローゼンヴェルト侯爵様に会ったことあるんだけど、その時のこと覚えてる?」
「……」
薄々予想していたことだが、やはり兄ではなく自分のほうと関わりがあったのか。それに驚いて目を丸くしつつも、騎士様以外のことをほとんど覚えてないのでかぶりを振る。
「そうだよねえ」
ミルファークは肩を落としてまた嘆息する。
「でも、私が会ったことあるなら兄さんも会ったことあるんじゃないの?」
「僕はその頃ほとんど臥せってた時間のほうが長かったから。何度か挨拶はしたけど、でもそれくらいしか面識はないんだ。父さんからはお二人がよくエルーと遊んでくれてたって聞いたけど、そこまで詳しく知らないとも言ってたし」
「そうだったんだ……」
正体がバレていたのも、ゼーランディアでやたらと良くしてくれたのも、エルゼリンデの子ども時代に会ったことがあることが理由のようだ。でもその程度であんな厚遇に繋がるだろうか?と疑問は残る。
「ちなみにこれも父さんから聞いた話だけど、エルーは侯爵様に懐いてたみたい」
「えっ!?」
思いもよらぬ一言に今度はエルゼリンデが驚愕の声を上げる。まあでも、一見怖そうでとっつきにくそうな王弟殿下より、見るからに優しそうなローゼンヴェルト侯爵のほうが子どもには懐かれやすそうではある。
「えっと、でも何で今その話を?」
もしもローゼンヴェルト侯爵家に働きに行くとなれば、過去のことを覚えていないと失礼に当たるからだろうか。エルゼリンデは兄に問いかけてみたが、ミルファークはまたしても別のことを口にした。
「……エルー、今日の一連の話は、僕から父さんに話しておくから」
「兄さんから?どうして?自分のことなんだから私から話してもいいと思うんだけど」
「エルーから直接話を聞いたら、父さんきっと衝撃のあまり寝込んじゃうよ。僕だってショックだったんだから」
「そ、そんなに?」
またエルゼリンデが騎士団に入るかもしれないことは、やっぱり父と兄からすれば複雑なのかもしれない。でも寝込むほどのことだろうか?なんとなく釈然としない思いを抱きつつも、エルゼリンデはミルファークの申し出に頷いたのだった。
今日は色んなことがありすぎた気がする。
エルゼリンデはベッドに身体を預けながら深いため息をついた。
父親の帰宅後、恙無く夕食を済ませると、エルゼリンデは兄から早々に休むよう自室に押し込められた。今頃は父と兄で今日のことを話しているに違いない。自分のことなのに、のけ者にされているようで胸中にモヤモヤが溜まっているものの、父に寝込まれても大変なのでとりあえず兄の言う通りにしておく。
ゆっくりと目を閉じる。今朝美味しいオムレツを食べたのが遠い昔のように感じられる。
まさか、ローゼンヴェルト侯爵が訪ねてくるなんて。貴族の多く住む中心街からだいぶ外れた、商人と庶民が多く住む街なのになんで家の場所が分かったんだろう。しかもあんな街中で遭遇するとは。
ん?……街中で?
「ああっ!!??」
エルゼリンデは血相を変えて起き上がった。
なんか、買い物に付き合ってもらってなかった?そして、手、繋いでなかった??
突然の遭遇にびっくりしていたし、あまりにも自然に手を取られたからすっかり流されてしまったが、良く考えなくても流されてはいけなかったのでは?ただでさえ人目を引く美青年なのに、そんな人と自分が一緒に歩いていたら……
「わあああぁぁぁ……」
文字通りベッドに倒れ込んで頭を抱える。
絶対に、絶対に街の人全員に知れ渡っている。あらぬ誤解として広まっている。これで街の子どもたちが出払っていなかったら3つ隣の街まで拡散されていたに違いない。それだけは唯一の救いだったが、空の皿に数粒の麦が供された程度の救いでしかない。速度が違うだけでどうせそのうち拡散されるのだ。
どうりで、コージマの家に火を貰いに行くのを兄が代わってくれたわけだ。火を貰いに行くだけなのにやけに帰りが遅かったし、どこか疲れていたのはそのせいだ。というか、コージマには明日さっそく突撃されるだろう。
侯爵様は親切心で来てくれたのだろうが、あまりにもタイミングが悪すぎた。いや、そのおかげで一番いいハムを買ってもらえたのであまり恨みたくないのだが、もうちょっとこう、控えめな感じでお願いしたかった。たとえば手を繋ぐとかそういうのは……
急に気恥ずかしさが襲ってきて、エルゼリンデはベッドの上でごろごろと左右に転がった。
マウリッツさんは、優しくて親切でいい人だ。遠征のときも色々と迷惑をかけてしまったのにとても親身に接してくれたし、トータルで見ればエレンカーク隊長の次くらいにお世話になっていた気がする。
だけど、不意に心臓に悪いことをしてくるのはなぜなのか。貴族とはそういうものなのだろうか。
エルゼリンデはこれまでの人生であまり貴族と接する機会がなかった。父がたまに友人を家に招くことはあるが、みな気のいいおじさんばかりなこともあって貴族らしい貴族とはどういう存在なのか、ぴんと来ていない。
枕をぎゅっと抱きしめ、ため息を漏らす。
そう、可愛らしいとか言われたのも貴族の社交辞令なのだ、きっと。そういえば王弟殿下に遭遇したときも似たようなことを言われたような。芋づる式に余計なことまで思い出してしまい、エルゼリンデは枕を抱きしめたまま、またゴロゴロと転がる。
そして、ふとあることに気づく。貴族はそんな社交辞令を言わなければならないというなら、まさか兄も将来そうなってしまうのではないだろうか。
「――だめだめだめだめっ!兄さんはそんなこと言わない!言わないんだからっ!!」
うっかり想像しかけ、思わず声を上げてしまった。
そんな兄さんなんて解釈違いだ。兄さんは素朴で優しい兄さんのままでいてほしい。お願いだから。決して不用意に可愛らしいとか言ってはダメなのだ。
エルゼリンデは悶々としたままベッドの上を転がり続け、なかなか寝つけないまま朝を迎えたのだった。