第6話
ミルファークは帰途を急いでいた。今日は課外授業があったのでいつもよりも帰りが遅くなってしまったからだ。
学校の友人に途中の大通りまで馬車で送ってもらい、人や荷馬車を避けながら大通りをするすると進んでいく。ここのところ雨が全然降らないので砂埃がひどい。なるべく埃を吸い込まないように顔の下半分を布で押さえながら、ひとつ横道にそれたところで歩く速度を緩め、ひと息つく。あまり体力を消耗するわけにはいかないが、家では妹が一人で留守番しているのだ。昼間は近所の目が行き届いているとはいえ、心配なものは心配だ。
横道を通り抜け次の大通りを横切る。これを2回繰り返せば自宅のある街にたどり着く。少し前まではこの距離ですら歩くのが厳しかったのに、と我ながら感心してしまう。半年ほど前まで妹として生活していたときに、さすがにずっと家に引きこもっているわけにもいかずイングリッドとコージマにあちこち連れ出されたおかげで少しは体力がついたらしい。体調を崩す頻度も減り、学校に通えるまでになったのも妹のおかげだ。
「ミルファーク!」
最後の大通りを横切って横道に入ったところで知った声に呼び止められる。
「フランク」
口に当てていた布を下ろして肩越しに振り返るとがっしりとした体格の若い男が横道に入ってくるところだった。
「今帰りか?」
「そう。フランクも街の外に出てたんだ。珍しいね」
「ああ、親父の使いでカペル商会までな」
並んで歩きながらとりとめもない会話を交わす。フランクは親子で家具職人を営んでいて、イゼリア家も普段遣いの家具はここで購入している。
「そうだ、そのカペル商会から今度契約書?ってやつが送られてくるんだ」
「契約書?大きな取引があったの?」
「そこまでじゃねえけど、ウチにとっちゃ実入りがいい依頼だな。で、そういう依頼はこれから契約書ってやつを作らなきゃいけないみたいでさ」
そもそも契約書ってなんだ?と首をひねるフランクに
「依頼とか取引の内容を文字で記録しておくためのものかな」
ミルファークは端的に説明する。
「でも今までは宮廷や貴族の取引以外にはなかったと思うけど、ルールが変わったのかな」
「カペルさんからは、紙が使えるようになってきたからって聞いた」
「ああ、なるほど」
「あんなすぐ破けるモンに約束事を書いたってあんま意味ないと思うけどなあ」
ここ最近は宮廷のみならず王都でも紙が普及してきているので、それほど重要じゃない取引にも紙の契約書を交わすようになってきているのだろう。口約束だとどうしてもトラブルや暴力沙汰に繋がることも多いので、良い傾向ではある。
「んで話を戻すとさ、その契約書ってモンが送られてきてもオレも親父も何書いてあるか読めないから、ミルファークが代わりに読んでくれないか?」
「もちろん」
ミルファークは街の人からこうした代読や代筆を頼まれることが多い。気安く請け負うと、フランクは少し照れくさそうに笑った。
「悪いな、助かる」
そんな話をしているうちに、街の入口に差し掛かっていた。と、視線の先に三人の女性の姿が見える。どこか落ち着かない様子で、誰かを待っているようだ。どうしたんだろうと訝りながら近づくと、女性たちがミルファークの姿に気づいて声をかけてくる。
「あっ、ミルファーク!」
彼女たちはいずれも近所の若奥様だ。なぜかミルファークを待っていたらしい。三人のご夫人がたは彼に駆け寄ってくるなり黄色い歓声を上げた。
「エルーってば、とうとう結婚するのね!!」
「……え?」
「はあっ!?」
ミルファークのか細い驚きの声は、フランクの野太い悲鳴にかき消されてしまった。
「もう、エルーもミルファークも黙ってるなんて水臭いんだから〜!」
「あんな美形の貴公子が旦那さんになるなんて羨ましいわ〜」
「うちの旦那と取り替えてほしいわ〜」
なぜか妹が結婚することが既定路線になっている。ミルファークは戸惑った。というか、美形の貴公子って何のことだろうか。
「あの、どうしてそんな話に?妹は今のところ結婚する予定もないのですが」
戸惑いつつもご夫人がたに訊ねてみる。
「やだ、そんなわけないじゃない!だってさっき手を繋いで仲良くお買い物してたのよ」
「手を繋いでお買い物?それって本当にエルーのことですか?」
「そうよ〜!エルーとすっごく格好良い貴公子が、お肉屋さんでハムを買ってたわ。しかも一番いいやつ」
「それで、そのままエルーの家に行って」
「ええっ!?」
ミルファークは思わず声を上擦らせてしまい、それに身体がびっくりしたのか軽く咳き込んだ。
エルゼリンデは世間知らずで鈍いところはあるが、初対面の男を誰もいない家に上げるような警戒心のない行動は取らない子だ。脅されたという可能性もあるが、それこそ彼女の性格なら近所の人に真っ先に助けを求めるはず。だが、実際に妹はその男を家に招いたらしい。とすると顔見知りには違いないだろうが、そんな美形の貴公子など知り合いにいただろうか――――いや、いた。
「そんなに長い時間お邪魔してなかったみたいだけど、家から出てきた時にエルーがいなかったのよね」
「そうそう。やっぱりそれって……ねえ〜」
「ねえ〜」
若奥様たちは顔を見合わせてにやにやしている。ミルファークが思い描く人物で当たっているなら妹に無体なことはしないだろうが、見送りに出てこなかったことは気になる。
「あの、帰ります。教えてくれてありがとう」
ミルファークはご夫人がたに会釈すると、慌ててその場を離れる。
「そんな……エルー……嘘だろ……」
その背中をフランクの悲痛な呟きが追いかけてきた。彼を案じてちらりと顧みると、フランクは真っ青な顔でへなへなと崩れ落ちている。
「きゃー!フランク、大丈夫?」
「もう、昔から叶わぬ恋だったじゃない。いい加減に諦めなさいよ〜」
「そうよ、コージマに失礼でしょ!」
可哀想なフランクのことはご夫人がたに任せ、自宅への道を小走りに急ぐ。途中ですれ違う街の人からもの言いたげな眼差しを向けられたが、言いたいことはご夫人がたと同じだろう。急いでいることを理由にミルファークは会釈だけで済ませる。
「エルー!ただいま!」
玄関に駆け込むと、自分でも驚くぐらいの声量で妹に呼びかけた。すると数秒も経たずに台所のほうからバタバタと大慌てを擬音化したような足音が近づいてくる。そして大混乱を絵に描いたような表情で妹は兄を出迎えた。
「ににににに兄さん!!ままままマウリッツさんが!!さっきまでうちに!!」
やっぱり。予想が当たってしまったことに心の中で嘆息しつつ、ミルファークは混乱のさなかにある妹を宥めにかかる。
「エルー、落ち着いて。大丈夫だから」
同じような高さにある両肩に手を置き、妹の顔を覗き込むように見つめる。兄の顔を見て、エルゼリンデは少し落ち着きを取り戻したようだった。そんな妹に対し、真っ先に心配していたことを訊ねる。
「……何か嫌なこととか、されなかった?」
エルゼリンデは兄を見つめ返し、目を何度か瞬かせると首を横に振った。妹の様子を見ても不審なところはないから、懸念していたことは何もなさそうだ。
ミルファークは安堵の息を吐き、気が緩んだのか自宅まで走ってきた反動が来たのか、思い切り咳き込んでしまった。
「に、兄さん、大丈夫!?あわわ、お水お水!」
エルゼリンデがあたふたと台所に戻っていく。咳き込みながら妹の成長した背中を見送ったミルファークは、なんだか大変なことになってきたなあと胸中で呟いた。
「そっか、騎士団に……」
ミルファークの咳が治まるのを待って食卓に移ると、向かいに座った妹はローゼンヴェルト侯爵来訪の目的を話して聞かせてくれた。
話を聞きながらミルファークは内心びっくりしていた。まさかイゼリア家の罪を不問にしてくれたばかりか、騎士団にスカウトまでされるとは。ずっと気になっていたのだが、妹は子どもの頃にいったい何をしたのだろうか。
「女性騎士か。目的は何だろうね」
その驚きは胸にしまい込んだまま、別の疑問を投げかける。
「目的?」
「ヴィーラス将軍が要望したって話だけど、なんで女性騎士を増やしたかったのかなって」
エルゼリンデは言われてみれば、という表情をした。
「マウリッツさんは詳しいことは言ってなかったけど、ヴィーラス将軍から説明があるのかも」
「そうかもね。エルー、もしヴィーラス将軍から何も言われなくてもちゃんと訊いてみるんだよ」
妹は素直に肯いたあとで、不意に眉を軽く顰めた。
「そういえばマウリッツさん、第7騎士団って言ったときに嫌そうな顔してた気がする」
「嫌そうな顔?」
「うん、気のせいかもしれないけど……」
ミルファークは顎に手を当てて考えを巡らせた。
「……第7騎士団って身分の高い貴族が多いんだっけ」
「え?うん、そう聞いてる」
「なんか、面倒くさそう」
ミルファークが肩を竦めると、エルゼリンデもはっと目を見開いた。
「た、確かに。戦いに行ったことがあるからとは言われたけど、周りの環境とか、そういうのも含めてよく考えろってことかなあ」
「……戦いに行ったことがあるから?」
妹の言葉の一部に引っかかりを覚えて訊き直す。エルゼリンデは軽く頷いた。
「私は戦いに行ったことがあるから、よく考えたほうがいいって」
なるほど。
ローゼンヴェルト侯爵の発言にミルファークは得心し、いまいち言葉の意図を理解していなそうな妹に向き直った。
「……エルー、また人間相手に剣や弓を向けることはできる?」
兄の静かな問いに、エルゼリンデは意表を突かれたように藍色の目を瞠る。そんな妹の顔を見て、ミルファークはそっと目を伏せた。
「侯爵様が憂慮しているのは、そういうことだと思うよ」
戦地から帰還した兵士や騎士が発狂したり自ら死を選んでしまう話は、争い事とは無縁のミルファークですら何度か耳にしたことがある。また、騎士団では3回戦地を経験して初めて騎士団員として認められる、という話も。一度目は何事もないように見えても二度目の戦地で心が耐えられなくなってしまう者も多いことが由来らしい。
ローゼンヴェルト侯爵は、王弟殿下とともに十代前半から幾度となく戦乱を経験している。そういった末路を辿る騎士や兵士も多く目にしているのだろう。
ミルファークは、思うところがあったのか黙り込んでしまった妹をそっと見つめる。
帰還してから、妹は教会への足が遠のきがちになった。馬にも乗らなくなった。本人に自覚があるのかはわからないが、心に傷が残っていてもおかしくはない。だから侯爵も心配して直々に伝えに来てくれたのだろう。
……それにしても。
そこまで考えてミルファークは遠い目をした。
ローゼンヴェルト侯爵のような大貴族の当主が、こんな王都の中心からだいぶ外れた街までわざわざ足を運んでくれたのは、妹への親切心からだけではないとミルファークは確信していた。仮に純粋な親切心だけだったら、急いでいたとはいえ未婚のエルゼリンデへの接触には配慮を徹底していたはずだ。それが人目のある街中を堂々と二人で、しかも手を繋いで歩き回るなどという、侯爵自身の評判にも差し障りかねない行動を取るとは。
――牽制なんだろうなあ。
最近のエルゼリンデには、貴族よりも近隣商人からの求婚のほうが多い。妹の耳に入っているかはさておき、フット氏などは執拗に父親にお見合いの連絡を入れている。今のところ直接会いに来る非礼はないが、放っておけば誘拐婚の暴挙に出かねない不安もあった。
それが、いかにも身分のありそうな貴公子と親密にしているという噂が広まれば、さすがのフット氏も手を出しにくくなる。ましてや相手がローゼンヴェルト侯爵だと知れれば求婚もぴたっと止むだろう。ローゼンヴェルト侯爵家は昔から商会、商人との繋がりが強い。そんな侯爵家に喧嘩を売る勇気のある商人はいないからだ。
なぜ妹の求婚状況を知っていて、どうして侯爵様ご本人がそんな牽制をするのか。ミルファークは深く考えることをやめた。