第5話
本題。「急ぎ伝えたいこと」だろう。エルゼリンデは居住まいを正した。
ローゼンヴェルト侯爵はそんな彼女を見て、少しだけ逡巡するように形の良い眉をひそめる。
「そうですね、まずはお伝えしたい内容からお話しましょうか」
そこで一度言葉を切り、グラスに口をつけてから改めてエルゼリンデに向き直った。
「近日中に、あなたのお父様を通してヴィーラス将軍から面会の連絡が行くかと思われます」
「…………え?」
数秒間の沈黙を消化して、ようやく藍色の目を瞠る。
近日中に、ヴィーラス将軍から面会の連絡が来る?胸中で復唱してみてもなかなかその事実を飲み込めない。
「ヴィーラス将軍が、面会、ですか?」
言葉に出してもう一度確認してみる。ローゼンヴェルトはあっさりとその質問を肯定した。
「はい。あなたにお会いしたいということで」
「わ、私にですか!?」
第7騎士団の団長であるヴィーラス将軍と自分とは全く面識がないはずだ……多分。ネフカリア遠征にも第7騎士団は参加していなかったし。いったいどうして無名の子爵令嬢に会いたいなどと言い出したのだろうか。
「順を追ってお話しますと」
エルゼリンデの表情からその疑問を的確に読み取ったのか、侯爵はやや事務的な口調で話し始めた。
「このたび王立騎士団では女性騎士の採用を始めました。といっても当面の間は試験的な運用となり、騎士身分以上のご息女かつ少人数に限られますが」
「じょ、女性騎士、ですか……」
不文律が過去のもの、という発言はここに繋がるようだった。
「以前からヴィーラス将軍の強い要望があり、ようやくそれに応えることができた、という次第です。それもあってヴィーラス将軍自ら見込みのありそうなご息女たちをスカウトしているのですが、まあ、少々難航しておりまして」
彼の発言の最後の方には苦笑が混ざっていた。確かに騎士をやってみたいなどという貴族の息女など物好きと言うほかない。
「ええと、つまり、ルスティアーナ様がスカウトに来るということでしょうか?」
ここまでの話の流れからさすがのエルゼリンデも、なぜヴィーラス将軍が自分に会いたいと言っているのかは察せられた。が、面識もないのにどこから聞きつけたのだろうか?
そのことを訊ねてみると、ローゼンヴェルトは不意にその表情を曇らせて嘆息した。
「実はアスタール様が、酒席でヴィーラス将軍にあなたのことを話したらしく」
なんですと?すぐに声を出すことができずに両目をぱちぱちと瞬かせる。
「で、殿下が、酒席で?」
さっきから侯爵様の言葉を繰り返しているだけな気がする。だがいちいち聞き直さないとこの展開について行けないのも事実。
王弟殿下の腹心として名高い侯爵様は、もう一度深くため息をついた。
「殿下とヴィーラス将軍は……そうですね、ともにお酒を愛好する同志といった間柄でして。アスタール様の話によると、昨夜の酒席で女性騎士探しが上手く行っていないことをヴィーラス将軍から相談されたので、あなたの話題を提供したと」
「私の話を」
何をどこまで話したんだろうか、あの殿下は。
「ヴィーラス将軍は女性の身でありながら兄の代わりに戦地へ赴いたあなたのことを聞き、いたく感激していたそうです。それですぐにでも会いたいと意気込んでおりまして」
全部話してた。
エルゼリンデはまたもや頭を抱えたくなったが、ぐっと堪えた。
「今朝その話を殿下からお聞きしたので、ヴィーラス将軍から連絡が行く前にあなたにお伝えしておこうと、こうしてお伺いさせていただきました」
ローゼンヴェルトは柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます。で、でもどうしてわざわざ」
こんな庶民が住む街まで訪ねてきてくれたのか。続く言葉は彼の琥珀色の瞳に見つめられたことでかき消えた。
思わず視線を逸らしてしまう。その瞳には見覚えがあった。なんだか左手だけじんわり熱くなってきた気がする。
「……何の前触れもなくヴィーラス将軍から連絡が来れば、きっと混乱されると思いまして」
返ってきたのは穏やかな声だった。再びその顔に視線を戻すと、声と同じ表情を浮かべていた。気のせいだったのかもしれない。
「それに、あなたには考える時間が必要だとも思ったのです」
「考える時間……」
エルゼリンデは小さく呟く。
「仮に騎士として入団するとなれば、ヴィーラス将軍直属となるため第7騎士団に配属されることになります」
第7騎士団、という名前を口にした瞬間に侯爵の顔が嫌そうに歪められた気がした。が、瞬きする間にもとの穏やかな顔に戻っていたのでこれも気のせいなのかもしれない。
「第7騎士団は警護職ですので原則として戦役に出兵することはないのですが、名目上は騎士団扱いなので。もう一度騎士団に、それも正式に入団するとなればご家族を含めよく考えたほうがよいでしょう。特にあなたは」
そこでローゼンヴェルトは言い淀むように口を閉ざす。気遣わしげな眼差しを少女に向けると、そっと声をひそめた。
「あなたは――戦いを経験しているので」
少しだけ身体を強張らせてしまったが、その理由は自分にも分からない。ローゼンヴェルト侯爵がとても心配してくれているように感じられて胸がざわざわしているせいなのかもしれない。
「……ありがとうございます、マウリッツさん」
変な緊張を逃がすようにもう一度お礼を言う。
「ちょうど働きに出ようかなと思っていたところだったので、ありがたいお話ではあるのですが……そうですね、ちゃんと考えてみます」
つい先ほど「男だったら騎士団に入ってたのに」とぼやいていたところだ。まさに願ってもないタイミングなのだが一にも二にもなく飛びつくのは、確かにちょっと軽率かもしれない。エルゼリンデはそう思い直してしっかりと肯く。
「働きに出る、ですか」
一方のローゼンヴェルトは彼女の言葉に軽く目を瞠った。
「あ、その……社会勉強にと思いまして」
お金を稼ぎたいからと正直に伝えるのも憚られ、ちょっと肩を竦めつつ答える。
「そうでしたか」
侯爵は相槌を打つと、ふと何かを考え込むように俯いた。しかしすぐに顔を上げるとエルゼリンデに対し晴れやかな笑顔を向け、こう言った。
「それでしたら、うちで働くのはいかがでしょう」
「……えっ!?」
予想外の一言に藍色の目を丸くする。
「ああ、うちといっても領地にある本邸のほうです。本邸には両親と姉二人、姪が一人いるのですが、すぐ上の姉がちょうど新しい話し相手がほしいと言っていたこともあり、良い機会だと思いまして」
「お姉さまの話し相手……」
「姪の遊び相手にもなっていただけると家族も喜びます」
なるほど。侯爵のお姉さまの話し相手だけだと「それは働くと言えるのだろうか」と気が引けてしまうが、子どもの遊び相手も追加されるのならお金を貰う後ろめたさも減る。
「ただ王都から領地までは馬車で三日半かかるので、住み込みになってしまいますが。給金のほうも姉と家令に相談が必要にはなりますが、相場だとだいたい――」
さらりと告げられた金額にエルゼリンデは飛び上がるところだった。
と、父さんの貰っているお給金の倍以上ある……!思わず「ぜひ働かせてください」と口走りそうになってしまうほど好条件である。しかも未経験なのに。侯爵家だけあってお金持ちなんだなあとエルゼリンデは感心してしまった。
「もちろんすぐに結論を出す必要はありません。ゆっくりと考えてみてください」
お金持ちの侯爵様はお金持ちらしく鷹揚に頷く。
「わ、私にはもったいないほどのお話で……ありがとうございます」
恐縮しながら頭を下げると、ローゼンヴェルトは整った顔に苦笑の色をのせた。
「私に対してそんなに畏まる必要はないのですが」
そうは言われましても。困ったように眉を下げる少女に侯爵様は琥珀色の双眸を悪戯っぽく細めた。
「以前シュトフとカルステンスも言っていましたが、私はさして人格者ではないですよ?」
「そ、そうですか?そんなことないと思いますけど。それに、侯爵様だし……」
「貴族か平民かの区分で言えば、あなたも同じ貴族ではないですか」
それはそうなのだが。返答に窮しているとローゼンヴェルトはまた苦笑した。
「困らせてしまったようですみません。ですが、あなたにはあまり宮廷の価値観に囚われてほしくないと思っていることだけはお分かりください」
「……?は、はい」
発言自体はよく分からなかったのだが、とりあえず自分にあまり畏まってもらいたくないらしいことだけは分かった。
「さて、お伝えしたいこともお知らせできましたし、長居をするのも申し訳ないのでこれで失礼させていただきます」
「あ!ま、待ってください」
ソファから立ち上がろうとした侯爵を慌てた声で制止する。実は、彼が自宅を訪ねたときからずっとタイミングを窺っていたのだ――ローゼンヴェルト侯爵から預かっていたお守りを返すタイミングを。
王都に帰還したら返しに行くとは言ったものの、ローゼンヴェルト侯爵に連絡を取る手段がなく困っていたのだ。父親経由で連絡を取ってもらう方法もあったのだが、お守りを渡された一連の経緯を思い出してしまいどうしても切り出せなかった。それがまさか向こうから来てくれるなんて。
「お返ししたいものがあるので取ってきます。すみませんが少しだけお待ちいただけますか」
エルゼリンデは一息に捲し立てるとソファから勢いよく立ち上がった。自室へ向かおうと彼に背を向けて走り出そうとしたところで――片腕を掴まれる。
「エルー」
「ひえっ、は、ははははい」
突然腕を掴まれて愛称を呼ばれ、思考と動作が停止してしまう。音もなく立ち上がっていたローゼンヴェルトは、彼女の身体をくるりと反転させて自分に向き直させると、腕を解放する代わりにその左手を取った。
わざとだ。絶対にわざとだ。そう確信したものの勝手に上がっていく心拍数と熱くなっていく顔を制御できない。
「約束、しましたよね」
侯爵様はそれはそれは素敵な笑顔を彼女に向ける。
「あなたが私の許へ返しに来てくれる、と」
――自分は今、陸に打ち上げられた魚になっている。エルゼリンデは自覚していた。声を出せずに口を虚しく開閉させた後、観念したようにゆっくりと肯いた。彼女の返事を見届けたローゼンヴェルトはそれ以上何もせず、左手をするりと解き、玄関に足を向ける。
さすがにお客さま自らに玄関の扉を開けさせるわけにはいかない。エルゼリンデはその使命感だけでぎくしゃくと足を動かしてその広い背中を追う。
ところが玄関前でようやく追いつこうかというところで急にローゼンヴェルトの足が止まったので、もう少しで背中にぶつかるところだった。
おや?と思う間もなく侯爵はエルゼリンデを振り返る。
「イゼリア嬢」
困ったような笑顔で見下ろされると同時に、熱くなったままの頬にひやりとした感触を感じる。
彼は頬の熱を確かめるように片手の甲を添え、静かにささやいた。
「今のあなたはとても可愛らしい顔をしているので……しばらく外に出ないほうがよろしいかと」
そうしてそっと彼女から離れると、お父様とお兄様によろしくお伝えください、という挨拶を残してイゼリア家を辞した。
エルゼリンデは茫然と立ち竦んだまま、その後姿を見送るしかなかった。




