第4話
「あらあらまあまあ、お嬢さんのお知り合い?」
一瞬の静寂を破ったのは上擦った声だった。
「ええ、彼女が子どもの頃からの知り合いです」
「あらまあ、あのおてんばお嬢さんにこんないい人がいたなんて。お嬢さんも隅に置けないねえ」
興奮を隠しきれない様子の店主にも優美な笑顔を向けるローゼンヴェルトに、ヘルガおばさんはまた感嘆の声をあげる。なんだかとんでもない誤解が起きているようだが、それを訂正できるほどエルゼリンデは驚きから回復できていない。
「ところで、このカボチャをふたつ頂けますか?」
「まあ、ありがとうございます……お嬢さん、人参も買おうか迷ってたみたいですけれど」
「では人参も」
「どうもどうも。ありがとうございます」
茫然と固まるエルゼリンデをよそに買い物はつつがなく進んでいき、いつの間にか腕の中から消えていた籠にカボチャや人参、エンドウ豆が詰め込まれていく。
「他に買うものは?」
「あ、ハムです……」
琥珀色の瞳が再び自分に向けられ、エルゼリンデは反射的にそう答える。
「わかりました。では行きましょうか」
侯爵は流れるような所作でエルゼリンデの手を取ると歩き出した。傍から見るとまるで舞踏会にでも行くかような足取りだが、片手には野菜の入った籠を持っているし、これから向かう先はお肉屋さんである。
そのお肉屋さんで青果店とほぼ同じ反応を受けながらもそつなくハムをお買い上げしたところで、エルゼリンデはようやく我に返ることができた。
「はっ、お金は」
どちらの店もローゼンヴェルト侯爵が支払ってくれたらしい。
「いえ、お気になさらず。連絡もなしにお伺いしてしまったささやかなお詫びとして受け取ってください」
慌てて財布を出そうとするもにこやかに制止される。でも、と言葉を続けようとしたがそれを封じるように再び手を取られてしまった。
「買うものはこれで全部ですか?」
「は、はい」
エルゼリンデが肯くのを見て、ローゼンヴェルトは彼女の手を引いてまた歩き始める。方向からしてイゼリア家に向かっているようだ。
「マ、マウリッツさん、どうしてここに?」
頭の上にいくつも疑問符が浮かんでいる状態ではあったが、どうにかこうにか言葉を発することができた。最初に口をついて出た疑問にローゼンヴェルトは足を止めないまま答えた。
「突然のご訪問となってしまい申し訳ありません。急ぎあなたにお伝えしたいことがありまして」
「お、お伝えしたいこと、ですか」
なんとなく不吉な予感がして思わず身体と顔を強張らせてしまう。その緊張が片手越しに伝わったのだろうか、柔らかな笑みを向けながらこう続ける。
「あなたにとって悪い知らせではないと思いますよ――おそらく」
おそらく、という単語に引っかかりを覚えたものの、不吉な予感が外れてほっと力を抜く。
「お家にお伺いする途中で姿を見かけまして。ちょうど良かったので後を追わせていただきました」
「ちょうど良かった?」
ローゼンヴェルトの説明にどことなく違和感を覚え、エルゼリンデは首を傾げる。だが彼は笑顔を崩さぬまま、別のことを口にした。
「少しお見かけしないうちに、ずいぶんと背が伸びましたね」
侯爵のこちらを見る目には少しの驚きが含まれている。長身のローゼンヴェルト侯爵の顔を見るにはまだ首を上向ける必要はあるが、確かに首の角度にはゆとりが生まれている。
「は、はい。おかげさまで……」
エルゼリンデはそこではたと気づいた。あまりにもローゼンヴェルトが普通に接してくるので失念していたが、自分は今スカートを履いているし、お店の人たちにはお嬢さんと呼ばれていたし、つまりどう見ても「ミルファークでない」のだ。
さあっと顔から血の気が引いていく。ここまで来るともはや誤魔化せる域を超えている。やはり悪い知らせを伝えに来たのではあるまいか。
そんな少女の動揺を察したのか、侯爵は落ち着かせるように握る手に力を込めた。
「大丈夫です。あなたが心配するようなことは何も起こりませんので」
優しくささやかれたことで、これはもしかしなくても結構前からバレていたのでは?と確信めいた思いが胸を過ぎる。それを肯定するかのようにローゼンヴェルトはこう続けた。
「そうですね。そのことも含めてお話させていただければ」
買い物に出る前に掃除しておいて良かった。エルゼリンデは午前中の自分に心から感謝していた。
そもそも貴族にしては質素すぎる家だ。ローゼンヴェルト侯爵のような大貴族のかたを招くのは気後れしてしまうのだが、その上部屋まで汚かったら目も当てられない。
「あの、何もない家ですが……」
玄関先で恐縮しきりのエルゼリンデに対し、ローゼンヴェルトはゆったりと首を振った。
「不躾なことをしたのはこちらですから、どうかお構いなく」
どこまでも優しい侯爵様の腕には野菜とハムの入った籠が抱えられたままなのに気づき、慌てて手を伸ばす。
「すみません、荷物まで持たせてしまい」
「いいですよ。どこに運びましょうか」
正直、その辺に置いていただいても全然問題ないのだが、そんな雑なことを告げるわけにもいかない。とりあえず台所近くの棚に置いてもらおうと先導する。籠を置いてもらったところで、ふと侯爵の顔から笑顔が消えた。
「もしかしてお一人でしたか?」
「あ、普段は家政婦さんがいるんですが、娘さんの出産のお手伝いでお休み中なんです」
使用人ひとりも雇えない経済状況なのだと誤解されるのも悲しいので、とりあえず家政婦さんがいるアピールはしておく。が、ローゼンヴェルトは微妙な表情を崩さずにエルゼリンデを一瞥する。
「……まさに今お邪魔している私が言うことではないのですが、今後はお一人の時は家に他人を上げては駄目ですよ」
「は、はい」
彼の表情が変わったのは防犯上の懸念を呈してのことだったようだ。エルゼリンデは生真面目に肯きつつ、ローゼンヴェルト侯爵を応接間に案内し、お茶を出そうと台所へ向かったところでかまどの火がないことを思い出した。お昼は一人だったし、夜はコージマの家から火を分けてもらおうと思っていたから消してしまっていたのだ。
「うーん」
今から火を起こしてお湯を沸かすとなると結構な時間がかかってしまう。お構いなくとは言われたものの、さすがに何も出さないのは気が引ける。どうしたものか、と腕組みして首をひねったところで。
「良かったら火を起こしましょうか?」
「わあっ」
穏やかな声に背中を叩かれてエルゼリンデはおっかなびっくり振り返る。そこには応接間にお通ししたはずの侯爵が立っていた。
「なかなか戻ってこないので、何かされているのではないかと」
ローゼンヴェルトは肩を竦めると、そのままかまどの方へ足を向ける。本当に火を起こしてくれるつもりなのだろうか。
「あわわ、マウリッツさん、そこまでしていただかなくても。お気持ちだけありがたくいただきます」
まさか侯爵様に下働きをさせるわけにもいかない。エルゼリンデはあたふたと後を追う。なんとなくだが、お湯を沸かす以外の代替案を出さない限り本気で実行しそうな雰囲気だ。
「あの……お水でもよろしいでしょうか……」
仕方なく代替案を告げる。もちろん彼が快諾したのは言うまでもない。
「そういえば、お兄様はお出かけですか?」
グラスを乗せた盆をさりげなくエルゼリンデから取り上げながらローゼンヴェルトが問いかける。
「ああ、すみません。ええと、兄は最近学校に通ってるんです」
お客さまにグラスまで運ばせることになってしまい、またまた恐縮しながら返答する。
「そうでしたか。学校に通えるほどお元気になられたようで何よりです」
普通に兄ミルファークのことも知っている様子だ。というか、兄妹ともども知られていたことに恐れ慄いてしまう。
「えーと、その……いつからご存知で……?」
応接間のソファに腰掛けると、向かいに座る侯爵様におそるおそる訊ねる。彼は柔和な笑みを崩さずに口を開いた。
「アスタール様は割と早くから気づいていました。当初は本当のお兄様なのか、あなたなのかは半信半疑だったようですが」
王弟殿下の名前を出され、思わず身を竦めてしまう。ローゼンヴェルト侯爵に気づかれているなら王弟殿下にも気づかれているのは自明の理であろう。
「私は先の遠征では先遣隊を率いていたので、フロヴィンシアで合流してからですね」
「そ、そうでしたか」
「私も最初にあなたを見かけた時はお兄様のほうかと思いましたが、その後アスタール様に伺ったところあなただ、と断言されまして」
つまりフロヴィンシアで会った時点で殿下にはミルファークではなく妹のほうだとバレていたということだ。頭を抱えたくなる気持ちを抑え、エルゼリンデは覚悟を決めて目の前の端整な顔を見据えた。
「その、今回のことは私が勝手にやったことなので、罰するなら私一人で……!」
「イゼリア嬢」
対するローゼンヴェルト侯爵の声は落ち着いていた。
「先ほども言ったはずです、大丈夫だと。そもそもあなたは何の罪で罰せられるのでしょうか?」
「へ?」
何の罪?エルゼリンデは藍色の目を瞬かせた。
「ええと、女は剣を取ってはいけないという……」
「それは不文律と言われていますよね?」
「は、はい」
エルゼリンデが肯くとローゼンヴェルトは爽やかな笑顔で言い放った。
「明文化されていない法で、何が裁けると言うのでしょう」
「……」
「それに、戦地に赴く際の貴族の成り代わりも昔からよくあることです」
「そうなんですか!?」
思わず驚きの声を上げる。
「大半はその貴族の従者か金で雇った傭兵ですが。それであなたを罰しようとするなら、少なくない数の貴族も罰しなければなりませんね」
この場にローゼンヴェルト侯爵がいなかったら、エルゼリンデはふにゃふにゃに崩れ落ちてるところだった。ものすごく深刻に捉えていたことが実際にはそこまで大事にならない問題だったとは。ほっとしたような、それでいてどこか釈然としないような。
「まあ、だからと言って大っぴらに公言するものでもないですが」
ローゼンヴェルトはそう付言して半ば放心状態の少女を見つめた。
「あなたが気にしていた、女が剣を取ってはならないという不文律もヴィーラス将軍という前例がありますし」
「……ヴィーラス将軍は前例というより特例のような気がしますが」
「そんなことはありません。というより、その不文律自体がすでに過去のものなのです」
どういうことだろう?眉根を寄せるエルゼリンデに向けて侯爵は少しだけ声のトーンを落とした。
「では、本題に入りましょうか」