第3話
結婚かあ。
自宅に戻り、昼食にもまだ早い時間だったので先に部屋の掃除をしながら、エルゼリンデは友人たちとの会話を思い返していた。コージマの結婚が近いせいか、自分もとばっちりを受けている気がする。
エルゼリンデ扮するミルファークが遠征に参加し、ちょっとした戦功を上げたらしいという話は貴族社会の一部に流れているようで、兄妹ともども他の貴族からお見合い話がちらほら舞い込んできているのは確かだ。もっとも、ふたりとも詳しい話を聞いたことはない。兄は「今は勉学に集中したいから」というしっかりした理由で、自分は「今はまだ考えられない」というふんわりした理由で、父に断りを入れているからだ。父は無理強いする気もないようで、ここのところ数日に一回は丁寧に断りの返事を書いている。
そんな父マヌエスの背中を見ながら、申し訳ないなとエルゼリンデは思っていた。本当は良い縁談があれば、さっさと結婚してしまったほうがイゼリア家のためなのだ。ただでさえ領地もなく裕福でもない、それでも一定の体面は保たなければならない貴族の家。娘を他家に嫁がせて食い扶持を減らすというのは、家を維持していくのに実に現実的な手段なのである。今はエルゼリンデが戦争で得たお金で余裕が出ているが、それも一時的なものだ。しかも父はこのお金にあまり手を付けたくないようで「エルーが頑張って得たお金なんだから、自分のために使いなさい」と優しく諭されてしまっている。
やっぱり、働きに出るか。
玄関と部屋の掃き掃除をささっと終えて、次に窓拭きに取り掛かりながら考える。
兄にも誰にも言っていないが、エルゼリンデにはすぐに結婚したくない理由が一つだけあった。
それは「ゼーランディア城を再訪する」という目的のためだ。あの、遥か草原の先にある地にはエレンカーク隊長と従騎士ナスカをはじめ、遠征中に世話になった人々が眠っている。あの日エレンカーク隊長の墓前で誓ったことを叶えたいという思いが、エルゼリンデの胸の中にずっと灯っている。
だが、遠征でもなく個人でゼーランディア城まで赴くのがいかに大変かも知っている。フロヴィンシアまでは交易に使う道路も整備されているので何とかなるが、その先の草原を越えるには現地の信頼できる案内人が必須だし、天候が荒れれば遭難する可能性だってある。そもそもフロヴィンシアで伝手もない中で信頼できて、かつ言葉が通じる案内人が見つかるとも限らない。考えれば考えるほど障害がわんさか出てくるのだが、そういう障害を乗り越えるためには何より先立つものが必要だ――つまり、お金が。
片道だけでふた月近くかかる長旅だ。護衛を雇ったり食費やら馬具やらといった必需品を揃えたり案内人を探したりするにもお金がかかる。仮にエルゼリンデが手にした報奨金を使ったとしても全然足りる気がしない。そうすると働いてお金を貯めないといけない。
結婚して夫に融通してもらう、という考えはエルゼリンデになかった。もしも理解のある夫ができてお金を出して貰ってゼーランディア城に行けたとしても、絶対にエレンカーク隊長にもナスカにも呆れられてしまう。隊長には「ここは観光に来る場所じゃねえ」と思いっきり叱られそうだ。
だから自力で稼ぎたいのだが、ここで問題になってくるのがこの国の貴族女性の選択肢の少なさだ。仕事をするといっても、例えばイングリッドが従事しているお針子のような、平民と同じ仕事に就くことは忌避される。頭が良ければ家庭教師に、それなりの身分や後ろ盾があれば女官という道もあるが、エルゼリンデのようなしがない子爵令嬢クラスだとメイド一択になってしまう。
メイドと一口に言っても色々な職種があるが、貴族の令嬢がメイドとして働く場合はその家の夫人やご息女に仕える侍女ポジションが宛てがわれる。しかも行儀見習いとみなされてしまうため給金も控えめなのだ。少し前にメイドとして働いてみたいな、とさりげなく父親に聞いてみたらそう教えてくれた。あんまり稼ぐのに向いてない仕事であることは間違いない。
「あーあ、私も男だったらなあー」
窓を拭きながら大きなため息とともについつい声に出してぼやいてしまう。男だったら騎士団に入ってお金を貯めつつ鍛錬で強くなることもできる。今のエルゼリンデにとっては良いことづくしな環境だ。
……騎士団か。
窓を拭く手を止め、ぼんやり映る自分の姿を見つめる。
遠征から帰還した後、エルゼリンデの身体には2つの大きな変化が起きていた。
ひとつは、身長が伸びたこと。遠征前はコージマとほぼ同じ背丈の、女性でも小柄な部類だったエルゼリンデだが遠征中にも背が伸びていたのか、王都に帰ってきたらコージマの背丈を抜いて平均的な身長のイングリッドに近づいていたのだ。遠征中は自分より身体の大きな男たちに囲まれていたから気づかなかったが、そういえばセルリアンにも「背が伸びた」と言われたことを思い出す。
そこからおよそ半年の間に、更に縦に成長していき、ついにイングリッドを上回り女性の中でも背の高い部類への仲間入りを果たしてしまった。ちなみに自分と背格好の似ている兄もほぼ似たような成長を辿り、今なお似たような背格好の兄妹を保っている。
エレンカーク隊長と同じくらいの背丈になってしまったのでは?とコージマとの身長差から思うこともある。背が高くなった分、棚から物を取るときなどいちいち踏み台を使わなくても良くなったのはありがたいが、なんとなく複雑な面持ちになってしまうエルゼリンデだった。一方の父親は兄妹の成長を手放しに喜んでくれて、ますます母に似てきたと嬉しそうに目を細めていた。母親の家系はライツェンヴァルト王国よりも北方の出身だったようで、母親含め色白で背の高い人が多いそうだ。記憶にある母も、父とそんなに背丈が変わらなかったような。
そしてもうひとつの変化。16歳になる少し前にエルゼリンデは初潮を迎えた。だからといって胸やお尻が大きくなっている実感はないのだが、どことなく少年に見間違われる雰囲気ではなくなってきている。背が伸びたことも関係しているのか、顔立ちから幼さが薄まったのもあるのかもしれない。
遠征中、肩までに切り揃えていた髪は背中のあたりまで伸びた。日常生活の邪魔なのでだいたい簡単に編み込んで一つに纏めているが、髪をまた短くしたところで、やはり男と偽るのは難しいだろう。
また男として騎士団に入ってお金を貯める、もはや荒唐無稽すぎる空想を追い払うように頭を振る。
「……もう一度父さんにメイドのこと言ってみようかな」
そう呟いたところでお腹の虫が昼食の時間を告げたので、エルゼリンデは手早く残りの窓を拭き上げると、昼食の用意のため台所へと向かった。
昼食をパンとチーズで済ませ、少し早いが夕食の買い物のため市場へ出かけることにした。
今日の夕食は何にしようか。ハムを切らしていたからハムを買って、あとは市場で安く売ってる野菜を買って煮物にしようかな。市場への道を歩きながらつらつらと考えていると。
「あっ、エルー!ちょっとこっち来て」
目先の家の軒先で、若いご夫人がたに手招きされる。彼女らの表情を見るに、なにやら楽しそうな話題に花を咲かせているらしい。
「こんにちは。どうしたんですか?」
挨拶しながら近づくと、ご夫人がたの一人が興味に目を輝かせながら話しかけてきた。
「今さっきね、この近くですっごく格好良い人を見かけたの!」
「は、はあ」
「もうね、すらっと背が高くて綺麗な横顔で、この辺じゃぜったい、ぜったいにお目にかかれないような美形だったの〜」
「いいなー」
「私も見たいー」
他のご夫人がたも追随して黄色い歓声を上げる。
「ええと……」
フィーバーぶりにいまいちついていけないエルゼリンデは、恐る恐る口を挟む。
「その人がどうかしたんですか?」
「身なりは派手じゃなかったけど絶対にどこぞの貴公子に違いないわ。だから、エルーのところのお客さんじゃないかと思って」
確かにこの街に貴族はイゼリア家しかいないから、そんな貴公子が訪ねてくるならまずエルゼリンデのところが思い浮かぶのだろう。
「うーん、今日はうちにお客さんは来ないはずですが」
今朝兄からもそんな話はなかったし、そもそも来客があるなら父も兄も出かけずに家にいるだろう。何よりそんな貴公子が訪ねてくるとしたら家中大騒ぎになっているはずだ。
「そうなの?エルーの家のお客さんだったら覗きに行こうと思ったのに」
「の、のぞきに」
「いいじゃない、目の保養も大事よ〜」
「そうよそうよ!」
若干引き気味のエルゼリンデにご夫人がたが力説する。
「でも、エルーの家じゃないとすると、どこかの商人のお宅かしら?」
「それともお忍びで来た、とか?」
「お忍びでこんな何もない街に来る?」
謎の貴公子について熱心に語るご夫人がたに、エルゼリンデはまたも恐る恐る声をかけた。
「えーと、じゃあ私はこのへんで」
「あら、呼び止めちゃってごめんね。これからお買い物?」
「はい」
「今日はね、いいカボチャが入ってるってヘルガおばさんが言ってたわよ」
「ありがとうございます。見に行ってみます」
今日の耳寄り情報を教えてもらった礼を言って、そそくさとその場を離れる。あの会話、旦那さんがたが聞いてたらショックを受けるんじゃ。そんなことを思いながら、カボチャを目指して市場の青果店へ向かうことにした。
市場は珍しく閑散としていて、エルゼリンデは思わず首を傾げてしまった。夕食の買い物には早い時間だが、普段通りなら買い物客のほかに遊びに来ていたり店番している子供たちで賑わっているのだが。
青果の露店を出しているヘルガおばさんに訊ねてみると、隣の街に旅芸人の一座が来ており、皆足を伸ばして観に行っているのだと教えてくれた。
「今日は久々にカボチャを仕入れられたのよ。保存も効くし沢山買っていってちょうだい」
「本当だ、美味しそう」
緑色につやつや輝くカボチャたちにエルゼリンデの目も輝く。すぐに値段をチラ見してしまったので、その輝きは一瞬だったけれども。
「……とりあえずエンドウ豆をこの袋分で」
籠から取り出した小袋をヘルガおばさんに差し出す。カボチャ、どうするかな。確かにとても美味しそうなのだがその分値段もちょっと厳しい。今日は隣に並ぶ人参のほうがお買い得なのだ。
カボチャにするか、人参にするか。
「人参ふたつで、カボチャの値段、まけたげるよ」
「えっ」
エルゼリンデの迷いを目ざとく察知したヘルガおばさんの言葉に心が揺れる。人参も日持ちするのでふたつ買っても困らないし、たまには食卓にカボチャもほしい。今日買う予定だったハムを諦めてカボチャにするか……
ふと自分の右側に影が被った。真剣に悩んでいるうちに他のお客さんが来たようだ。カボチャは諦めて人参にしよう。あまり居座っていると邪魔になるので悲しい結論を告げるためヘルガおばさんの方を見て、眉をひそめた。
ヘルガおばさんは目も口も丸くして一点を見つめている。不審に思ったエルゼリンデが口を開きかけ――
「美味しそうなカボチャですね。形も良いし重みもある。ポタージュにしてもいいですが、お菓子にも使えそうですね」
少し低めの穏やかな声に、思わず口を噤んでしまった。隣に来た客の声だが、エルゼリンデには聞き覚えがあった。むしろ聞き覚えがありすぎるくらいなのだが、こんな庶民が集う市場で聞いていい声ではない。こんな風にカボチャを品評していい声でもないのでは?
きっと人違い、いや声違いだろう。
エルゼリンデは希望的観測をいだきつつ、一応確認のため隣の客を見上げて、ヘルガおばさんと同じ――もっと驚きを貼り付けた表情で固まった。
琥珀色の髪に端整な顔立ち。簡素な服を着ていても隠しきれない貴公子然とした佇まい。当たってほしくなかった予想通りの人物が、そこにいた。
「お久しぶりです、イゼリア嬢」
マウリッツ・ヴァン・ローゼンヴェルト侯爵は、カボチャを手にしたまま穏やかに微笑んだ。いや、カボチャを手にしたまま浮かべる笑顔ではないのでは?