第2話
コージマの家はイゼリア家の3軒隣にある。一家が王都へ引っ越してきたときからご近所付き合いが続いており、エルゼリンデにとってコージマは大切な友人の一人であった。
「ごめんくださーい」
手土産の杏の入った籠を抱えて、友人宅の前で挨拶の声を上げる。すると間を置かずにコージマがドアを開けて出迎えてくれた。エルゼリンデと同い年の友人は、そばかすの残る顔に快活な笑みを浮かべた。
「エルー、いらっしゃい。どうしたの?」
「うん、今朝の卵のお礼に。これ、良かったらみんなで食べて」
「わあ、杏だ。しかも生のやつ!ありがとう。気を遣わなくてもよかったのに」
エルゼリンデの差し出した籠を、コージマは目を輝かせて受け取った。
「上がってく?せっかくだし一緒に食べようよ」
せっかくのお誘いだが、エルゼリンデは心の底から残念そうにうなだれた。
「杏はとっても食べたい……食べたいけど!今日はこのあとイングリッドと約束してるの。それにコージマも結婚式の準備で忙しいでしょ」
結婚式。その単語にコージマは頬を緩めてドアを後ろ手に閉めた。
「ふふ、あたしはそんなにやることないけどね。むしろフランクのご両親のほうが張り切ってて。主役は何にもしないで結婚式までゆっくりしてなさいって言うのよ」
だからお言葉に甘えてるの。そう話す未来の花嫁は誰の目から見ても幸せそうだ。つられてエルゼリンデも頬を緩める。
「コージマが幸せそうで私も嬉しい」
「ありがと、エルー。でもあたしはあんたのほうが先に結婚すると思ってたのよ」
「えっ」
意外な一言に固まるエルゼリンデをよそに、友人は続ける。
「母さんも言ってたもん。エルーちゃんはきっと成人したらすぐに結婚して、この土地を離れちゃうのよって」
「ははは……」
特に結婚の予定もない当人は、乾いた笑い声を発することしかできない。だが確かにコージマの母の言う通り、エルゼリンデのようなお金のない貴族の娘は成人年齢である15歳か16歳ごろには結婚している場合が多い。
「結婚かあ」
「あんた、お見合いとかの予定もないわけ?」
「うーん、今は考えられないかなあ……」
思わず酸っぱい杏を食べてしまったときのような顔をするエルゼリンデに、コージマはずいっと近寄りその渋い顔を見上げ、声をひそめた。
「それとも、男ばっかりに囲まれてたから幻滅しちゃった?」
エルゼリンデは目をぱちくりとさせて友人の顔を見返した。どこで、までは明言しなかったが「騎士団で」を敢えて省略したことは伝わった。
「そういうわけじゃないけど」
同じように小声で返すと、コージマはどことなくほっとしたようだった。
「それならいいけど。もう、あんたってば本当に大胆なことするんだから。心配するこっちの身にもなってほしいわ」
――実はコージマとイングリッドだけは、兄の代わりにエルゼリンデが出征したことを知っているのだ。妹になりすますに際して女性の観察眼を欺くのは相当難しいと読んだミルファークが、早々に妹の親友二人に打ち明けていたのだった。ふたりとも相当に驚いたようだったが「あの子ならやりかねない」と納得し、ミルファークの偽装工作に大いに協力してくれたのだ。
ちなみに、コージマの夫となるフランクがエルゼリンデ――正確にはエルゼリンデに扮したミルファークに懸想してしまう騒動もあったのだが、それがきっかけでコージマが長年片思いしていたフランクと結婚まで漕ぎ着けられたのだから、まあ兄妹の偽装工作が友人にとっては良い結果に転がって何よりの結果にはなっている。たぶん。
「さすがにもうあんな無茶はしないよ」
「ほんとかなあ」
そう言って肩を竦めたが、コージマは半信半疑だった。
「ほんとほんと。あっ、そろそろイングリッドとの約束の時間だー」
エルゼリンデは態とらしく話を切り上げ、それ以上の追及を躱すことにした。
「まったくもう……そうだ、イングリッドに会うなら帰りにうちに寄ってもらうよう伝えて。あの子の分も卵の取り置きしてあるから」
「わかった、伝えておくね」
エルゼリンデは頷き、手を振って友人宅を辞した。
華やかな祝祭歌が聞こえてくる。
イングリッドと会うために街の教会を訪れたエルゼリンデは、そっと中の様子を窺う。イングリッドはまだ合唱団の練習中のようだった。少し早く着いちゃったかな、と所在なげに佇んでいると、顔見知りの修道女が教会内から手招きした。座って待っていなさいと告げられ、エルゼリンデは一番後ろの椅子にそっと腰掛けた。
祝祭歌は、結婚式でよく歌われる種類のものだった。コージマの結婚式に向けての練習であろう。
エルゼリンデは目を閉じた。教会にほんの僅かな居心地の悪さを覚えるようになったのは、遠征から帰ってきた後からなのは自覚していた。
――戦争で人を殺してしまっても、天国へ行けるのかな。
ふと、瞼の裏に浮かぶ光景がある。草原の丘、馬に乗り立派な兜を被った一騎の影。
エルゼリンデはそこで目を開けた。歌はいつの間にか止み、こちらへ向かって歩いてくる赤毛の友人の姿が視界に映る。
「お待たせ、エルー。暇すぎて寝ちゃってた?」
イングリッドは灰色の綺麗な目を眇めるように笑った。
「ね、寝てないってば。ついさっき来たとこだし」
エルゼリンデはふるふると首を振る。
「あはは、冗談」
朗らかに笑う年長の友人に促され、教会から外に出る。ちょうど建物の陰になっている場所にベンチがあり、二人はそこに並んで腰を下ろした。
「ベール、明日にはあなたに渡せると思う」
「すごい!さすがイングリッド」
エルゼリンデは手を叩いた。二人はまもなく結婚するコージマのために、結婚式で被るベールを贈る計画を立てている。コージマ本人にはまだ内緒だ。イングリッドはお針子の仕事をしているので、ベール縁の飾り縫いは彼女にお願いしていた。エルゼリンデの仕事は、ベールの生地を買うことと、小花を模した飾りをベールに取り付けることだ。決して、裁縫が苦手だからというわけではない。プロにお任せするのが最良と判断しただけだ。そこだけは一言添えておきたい。
「褒めても何も出ないよ」
イングリッドは呆れ顔で呟く。
「お世辞じゃなくて本当のことだもん」
「はいはい、ありがと。あなたが結婚するときも作ってあげるわ」
「気持ちは嬉しいけど……結婚かあ」
なんだかコージマのときと同じ流れになってきたぞ。エルゼリンデは肩を竦めてつぶやいた。
「あら、あんまり乗り気じゃないの?」
「今のところは」
「ふうん。男に苦手意識でもできちゃった?」
「それ、コージマにもおんなじこと言われた。そういうわけじゃないけど、今は考えられないというか」
「……ふうん」
イングリッドは意味ありげな眼差しで年少の友人を見やる。
「な、なに?」
エルゼリンデはちょっと身構えた。彼女のような人目を引く美人に見つめられるとどぎまぎしてしまう。
「エルーは知らないと思うけど、あなた、近所の人からお見合い申し込まれてるのよ」
近所の人?お見合い自体はともかく、自分にそれを申し込んでくるような近所の人なんているだろうか。
「……だ、誰から!?」
「フットさんとこの息子さん。ほら、去年の秋にこの街に越してきた商人の」
「フットさんの?会ったことないけど……」
去年の秋は王都から遥かに離れた東のネフカリア地方にいたし、戻ってきてからも面識を持つ機会はなかったはずだ。
「そう、エルーはね」
その一言でエルゼリンデは察した。
「……もしかしなくても、兄さんのほう?」
「当たり。っていっても、ミルファークも引越しの挨拶でしか面識ないって言ってたけど。挨拶のときに一目惚れしたみたい。お淑やかな可憐な娘だって」
エルゼリンデは深く長いため息をついた。
「フランクといいフットさんの息子さんといい、まさか兄さんに、男の人をたぶらかす才能があったなんて……」
本人が耳にしたら不名誉な、と抗議を受けそうな台詞が口をついて出てしまった。
「あはは。でも、エルーのお父さんにのらりくらりと躱されてるって聞いたから、あなたが知らないってことは受ける気なさそうだけど」
「そうだったんだ。まあ、父さんも私じゃなくて兄さんが惚れられてるって分かってるから、そりゃ受けられないよね」
女装した兄のほうがお淑やかで可憐だと思われるのは、いまいち釈然としないが、それは胸の裡にしまっておいて別のことをイングリッドに問いかける。
「ていうか、どこで聞いたの、その話」
「この前、仕事場のおかみさんに。フットさんの商会と取引してる関係でね」
「なるほど」
「何度躱されても諦めずお願いしてるみたい。熱心ね。コージマだったら会うだけ会ってみたら?って言いそうだけど、あなた会う気はないんでしょ」
「もちろんないよ。ないんだけど、向こうが『本物の』私を見たら、お淑やかでも可憐でもないって諦めてくれそうな気もしてる」
「どうだろうね、エルーは前に比べたらおてんば度が下がってるんじゃない?」
「おてんば度……」
「まあ、その気がないなら会わないほうがいいわよ。相手に変な期待持たせるのも気の毒だもの」
「そうだよねえ」
エルーは歎息した。しかし一目惚れとは。ひと目見ただけで人を好きになれるものなのだろうか。そう考えて、ふと長い金髪の優美な騎士の姿を思い出す。そうしてもう一度歎息する。エルゼリンデには、やっぱりまだ恋というものがよく分からない。
「さて、そろそろ仕事に行かなくちゃ」
イングリッドは勢いをつけてベンチから立ち上がる。
「ベールは明日エルーのとこに持っていこうか?」
「あ、取りに行くからいいよ」
エルゼリンデも立ち上がりながら答える。
「そう?じゃあ明日は朝から仕事だから、お昼くらいに来て」
「わかった。あと、今日は仕事終わったらコージマの家に寄って。美味しい卵が待ってるから!」
そんな会話を交わしながら友人と別れ、エルゼリンデは自宅への帰路をたどる。
初夏特有の、わずかな熱を含む乾いた風に頬を撫でられながら道端に咲くラベンダーを眺める。ふと、そろそろザイオンが王都へ戻って来る頃だなあと、そんなことを思った。