序
その日の空も透き通るような青い色が拡がっていて、小さなエルゼリンデの心を奮い立たせてくれていた。
そろそろと木立の間をすり抜け、視界が開けた先、なだらかな小丘を木々に沿って小走りに登っていく。周りを見渡すと、昨日とはうって変わって人も馬もまばらだった。どこかへ出かけているのだろうか。エルゼリンデはあまり目立たない場所でぴたりと立ち止まった。
ーーあんまり騎士の皆様の邪魔をしてはいけないよ。
父の声が脳裏に蘇る。昨日、あの素敵な騎士様に家まで送ってもらったあと、「またいつでもおいで」と微笑む騎士様に対してひたすら恐縮しきりだった父親に、優しく諭されたばかりだった。
でも、今日はやらなくてはいけないことが二つあるのだ。
ひとつは、あの騎士様にお礼を言うこと。そしてもう一つは、
「ーー懲りもせずまたうろついてるのか」
またもや急に上から威圧的な声が降ってきて、びくりと肩を震わせる。だが怯んでなどいられない。むしろ探す手間が省けて好都合だ。エルゼリンデは決然と声の主を見上げた。
やはり昨日と同じ若い男が立っていた。鎧を着ていないだけで、こちらを見下ろす冷ややかな眼差しも変わっていない。臆することなくきりっと睨みつける少女の視線を、男は小馬鹿にした笑いで受け流した。
「ガキというよりネズミみたいだな」
また馬鹿にされてむっと頬を膨らませたが、エルゼリンデはぐっとこらえて「やらなくてはいけないこと」を優先させることにした。さっさと済ませてこの嫌な感じの男から離れたい思いのほうが強かったのだ。
「あの」
声をかけられた男が眉根を寄せる。エルゼリンデは彼の表情の変化に構わずぺこりと頭を下げた。
「昨日は、顔をけってしまってごめんなさい」
「……」
まさか素直に謝られるとは思っていなかったのか、男は一瞬ぽかんとした表情を浮かべるも、すぐに嘲笑へと切り替える。
「……何だ、俺に謝罪できるだけの知能はあったんだな」
父親にでも怒られたか。尊大な態度で少女からの謝罪を受ける男を、エルゼリンデはもう一度きりっと見据えた。
「あなたも、あやまって」
「……は?」
あからさまに不審な声をぶつけられる。
「あなたも、昨日とさっきと、わたしに失礼なこと言ったの、あやまって」
「なんだと?」
少女の言葉の意味を把握して、男の顔が不機嫌に染まっていく。エルゼリンデは自分よりも年上の男から高圧的に睨みつけられて怯みそうになる心を必死に叱咤した。
「ひとに悪いことをしたら、ちゃんとあやまりなさいってお父さまから教わりました。わたしはあやまったから、あなたもあやまって」
「田舎のガキ風情が何を……」
再度そう告げるエルゼリンデに、男はあからさまな侮蔑の視線を投げつける。
「ーーその子の言うとおりです、殿下」
彼が口を開くよりも、第三者のよく通る声が割り込むほうが早かった。デンカと呼ばれた男がエルゼリンデから目を離し、肩越しに振り返る。いつの間にかデンカの後ろに若い男が立っていた。騎士様でないことにちょっとだけがっかりしたが、少女のすぐ傍らにやってきたもう一人の男を不思議そうに見上げる。エルゼリンデの視線の先で彼は呆れたように嘆息すると、
「こんな幼い子に大人気ない真似をして、人として恥ずかしくないんですか」
咎めだてる口調で言い放つ。
「お前までそのガキの肩を持つ気か」
デンカの不機嫌さを隠そうともしない声には応えず、彼は騎士様と同じように彼女の前に膝をつく。エルゼリンデは急な仕草におっかなびっくりしてしまったが、彼女に向けられた物柔らかな笑顔を見て、安心したように肩の力を抜いた。この人は騎士様と同じで自分に危害を加えない人だと本能的に察する。
「あなたが、ミクラウス閣下の仰っていたお嬢さんですか」
彼女は藍色の目をぱちぱちと瞬かせ、優しげな声の男を見返した。琥珀色の柔らかそうな髪に同じ色の瞳をした彼はとってもキラキラしていて、まるでお伽噺に出てくるようなーー
「王子様みたい」
「はあ!?」
思わず口をついて出た感想に反応したのは、忌々しげに二人を見下ろす感じ悪い男のほうだった。彼女に王子のようだと称された男のほうは、琥珀色の目を僅かに瞠ったが、すぐにもとの柔らかな表情に戻す。そして「失礼しますね」と断りを入れてからエルゼリンデを軽々と抱き上げて立ち上がった。
急に目線が高くなったのと素敵な王子様に抱きかかえられ、頬を薔薇色に染めて感嘆の声をあげる少女に彼は笑いかけた。
「どうして私のことを王子様だと思ったんですか?」
楽しそうな声につられてエルゼリンデも笑顔を返した。
「だって、やさしくて格好良くて、とってもキラキラしてるから!」
「それはそれは。ありがとうございます」
彼はそれこそ王子のような完璧な笑顔で幼い少女に礼を述べ、それから意味ありげにデンカのほうに目を向ける。
「他人に失礼な発言をしたり見下したり、悪いことをしても謝らないような人は王子様とは呼べないですよね」
「うん!」
そんな人はお伽噺の中では悪い人だ。エルゼリンデが素直に肯いたのを見て、彼は苦虫を思いっきり噛み潰した表情で立ち尽くす男にこう続けたのだ。
「――だそうですよ、王子様」
…………
ええっ!?こんな人が王子様なの??