第83話
「ミルファークは王都に戻ったらどうするんだ?」
アルフレッドにそんなことを聞かれたのは、レークト城市を抜けて、いよいよ王都ユーズへの帰還を目前にした頃だった。
昼食のパンを食べる手を止めたエルゼリンデは隣に座るローデン伯爵家の令息を見やる。彼は思いのほか真剣な眼差しを向けていた。
「どう、ですか……」
しばしの逡巡の後、
「ええと、父の跡をついで役人になるための勉強に戻る予定ですが」
本当のミルファークが選ぶであろう将来を告げる。彼女の返答を聞くとアルフレッドは僅かに肩を落とした。
「そうか、君の家は文官の家系だもんな。やっぱり騎士団には入らないのか……」
「というと、アルフレッド様は騎士団に?」
「きっとそうなるんだろうな」
彼にしては迂遠な言い回しだ。てっきりそうだと断言するのかと思っていたエルゼリンデが小首を傾げる。
「いわゆる親の期待というものさ」
アルフレッドは彼女の様子を横目で確認して、少しだけ気まずげな微笑を口元に刻んだ。大貴族の子息ともなれば、なかなか本人の自由にできないことも多いのだろう。
「だから君も騎士団に入ってくれれば心強かったんだけど」
エルゼリンデは今度は驚きに軽く目を瞠った。友人のザイオンを除いて、今まで出会ったあらゆる方々から頼りないとのお墨付きを貰っていた自分が、まさか心強いなど言われる日が来るとは。
「そ、そうですか? ありがとうございます」
頼りがいがあるとかそういった意味の「心強い」ではないことは理解していたが、それでも良く言われて悪い気はしない。素直に礼を述べてから、ふと思い出したことを告げる。
「ザイオンも帰還したら騎士団に入るって言っていましたから、きっとアルフレッド様のお力になってくれるはずです」
「そうか、ザイオンもか。確かに彼は進んで入団しそうだな」
アルフレッドの表情から曇りが取れたのに安心しつつエルゼリンデは再びパンに齧りついて、
「君も王都住まいだから会おうと思えばいつでも会えるか」
彼の思いもよらない発言に再びパンを食べる手が止まってしまう。
どうしたものか、と努めて表情には出さず困惑する。遠征の間だけミルファークとして振る舞っていれば良いと思っていて、その後のことをあまり真剣に考えていなかった迂闊さを呪ったが時すでに遅し、である。言い訳をするならば、しがない弱小貴族ゆえにまさかこんな名門貴族の方と親しくなるなんて想定もしていなかったのだ。しかも元々武門には無縁の家系だ。遠征が終われば騎士団の方々と顔を合わせる機会もなくなるし、そうやって彼らの記憶からフェードアウトしていくのだろうと。
そ、そうですね。曖昧な微笑で応えたエルゼリンデは困惑を隠すようにパンを齧る。とにかく話題を変えなければ、と焦るエルゼリンデをよそに、アルフレッドはじっと彼女を凝視している。
どうしよう、とても気まずい。いかにも「パン食べるのに集中しています」感を醸し出し、彼の視線に気が付かないふりを続けていたが、そろそろパンの残量と心の限界が近そうだ。
「君は変なやつだな」
とりあえず無難に天気の話でも、と彼女が口を開くよりも早く、アルフレッドがエルゼリンデから視線を外さずに呟いた。
「へ、変ですか……」
唐突に変な人呼ばわりされ、思わず変な顔をしてしまった。おそらく彼に悪意はないのだろうけど……多分。
アルフレッドは彼女の言を肯定するように頷いた。
「君のような立場ならさ、何とかうちと懇意になれるようにあれこれ働きかけてくるのが普通なんじゃないのか?」
「そ、そうですね……」
確かに言われてみればそのとおりで、エルゼリンデは言葉に詰まった。家門の地位向上を目指してより有力な家にお近づきになるのはわりかし一般的なことなのだろう。だがイゼリア家は事情が事情なだけに、あまり偉い人に目をつけられたくなかったし、無事に帰還できたら全力で遠ざかりたいのが本音である。そもそも父も兄も出世とか成り上がりとかの野心から正反対の場所にいる人たちだ。
彼女が言い淀んだのを別の意味に解釈したのか、アルフレッドは少しだけ申し訳なさそうな表情を覗かせる。
「別に君を責めたりするつもりで言ったわけじゃないから、そこは誤解しないでほしい。むしろそうやって媚を売ってこないところが好ましいと思っているくらいだ」
「は、はい、ありがとうございます」
思いがけずお褒めの言葉をいただいてしまい、恐縮さから居住まいを正してしまう。
「まあ、君が騎士団に入らなくても僕の友人であることは変わらないわけだし、困ったことがあれば何でも相談してほしい」
「あ、ありがとうございます……」
アルフレッドにそう続けられて、エルゼリンデは感謝を口にしながらも胸が痛むのを自覚していた。あと少しの辛抱とはいえども、やはり騙しているのは心苦しい。ことアルフレッドが何の衒いもなく友人として接してくれるので余計に申し訳なさが募っていく。
いっそ打ち明けてしまおうか。そんなふうに考えたりもするが、ザイオンと違って彼は名門中の名門であるローデン伯爵家の子息だ。たとえ彼自身が事実を受け入れてくれたとしても、彼の立場が許さないかもしれない。
懊悩するエルゼリンデの心の裡を知ってか知らずか、そういえば、とアルフレッドは何かを思い出したように言葉を続けた。
「もう一つ君に話しておきたいことがあったんだけど」
「な、何でしょうか?」
今までの話の流れで、少しだけ身構えてしまう。
「君の出身地のことだよ」
「私の出身地……ですか?」
「前にリートランドの出身だって話してくれただろう」
そう言われて、ゼーランディアで彼女の故郷の話をしたことを思い出した。ちらっとしか話題に出てこなかったはずだが、どうやら覚えていてくれたらしい。
「リートランドってハンスから聞いたことがあったんだ」
「ハンスさんから?」
エルゼリンデの中でハンスさんは情報通になりつつある。アルフレッドは軽く首肯して続けた。
「ハンスの母方のお祖父様がかのミクラウス伯なんだけど、10年前に西方戦争があっただろう? 彼がその帰途にあの近辺に立ち寄ったってことをハンスに話しててーー何でもハンスに婚約者がどうの、って話題だったようなーーつまり僕はそれをハンスから聞いて何となく覚えてたというわけだ」
「ミクラウス伯……」
小さくその名を呟きながら、いつかのアスタール殿下の言葉を思い出す。ハンスは自分の恩師ーーミクラウス将軍の孫だと。
ハンスの、下がり気味の目尻が印象的な顔が脳裏を過ぎる。
「もしかしたら、ミルファークも見たことがあったかもな」
記憶の中にある「騎士様」はミクラウス将軍のことなのだろうか。
視界に映り込んできた城門を見晴かしながら、エルゼリンデはアルフレッドと交わした会話を思い返していた。
雪がちらつき、吐く息が白い。
あいにくの悪天候だが、周囲の騎士たちからは安堵の空気が色濃く漂っている。
ついに長かった遠征を終え、王都に戻ってきたのだ。
ユーズ周辺はすっかり冬の気配を纏い、農作業に勤しむ農夫たちの姿もなく静まり返っている。まるで風景画の中に閉じ込められてしまったかのような錯覚すら覚えるほど。
だが一足早く入城した、王弟殿下率いる黒翼騎士団の本隊は熱狂とともに迎え入れられているはずだ。
ようやく終わった、いや、終わってしまった。エルゼリンデは改めて近づいてくる城門を眺めた。出立してから1年と経っていないがひどく懐かしい風景だと感じる。そもそもこんなに長く家族と離れて過ごすのも、彼女にとっては初めての経験だった。
よく生きて帰ってくることができたなあ。思い返すと何度か冗談抜きに窮地に陥っていたから、人生の半分くらいの運をここで消費してしまった気すらしてくるーーだが、自分の幸運だけではなくて、その都度助けてくれた人がいたからこそ。
この遠征で出会った様々な人たちの顔を思い浮かべ、そうしてエレンカーク隊長のことを想う。あの厳しくも優しい隊長がいてくれたから、エルゼリンデは戦い抜くことができたのだ。もう姿を見ることも、声を聞くこともできなくなってしまっても、きっと生涯忘れることはない。忘れられるはずなんてない。
視界が潤んできたのを、瞬きをしてやり過ごす。
あの城門をくぐったら、感傷に浸る余韻もなく戦後処理や解任の手続きに追われることだろう。家族のことや自分の将来を考えたり、エレンカーク隊長やあの騎士様のことに思いを馳せたりするのはその後だ。
冷たい空気の中に、熱を帯びた群衆の声が混じり始める。
とにかく、自分はいま生きていて、これからも生き続けなければならない。
エルゼリンデはひとつ息を吐きだして、背筋を伸ばした。
第1幕 完