第82話
着いたぞ。ファルクが立ち止まった場所を見て、エルゼリンデは藍色の双眸を瞠った。
迷路のような路地を抜けた先に佇む小さな店。彼女にはその店構えに見覚えがあった。
「すまないが今日は貸切ーーなんだ、ファルクかい」
扉を開けるなりかかってきた店主の声にも憶えがある。やはり、脱走事件の後でエレンカーク隊長に連れてきてもらった酒場だ。騎士団上がりだという壮年の店主は、あの夜と同じようにカウンターでグラスを磨いていた。
「客に向かってなんだとは何だ」
ファルクは口では文句を言っているが、口調からするに怒ってはいなさそうだ。彼の後をついて店内に入ると、店主の厳つい風貌がエルゼリンデに向けられる。
「おや、いつぞやのめんこい坊やも一緒かい」
「……お久しぶりです」
エルゼリンデは店主に微笑を返す。上手く笑えているかどうか自分では分からなかったが。
「今日貸切なのか? 昼間からは珍しいな」
店内はがらんとして薄暗い。酒場だし昼間は営業していないのかとも思ったが、ファルクの台詞から普段は開いているらしい。
「今日は上客が来るっていうからなあ。そういう日は他の客が来なくても稼げるんでな、楽でいいさね」
「上客……嫌な予感しかしねえな。あれだろ、酒豪の会だろきっと」
そんならまた出直すか、とあっさり引き返そうとするファルクを店主の低い声が呼び止める。
「昼過ぎごろ来るらしいからまだ時間はあるさね。わざわざ来てくれたんだ、昼メシぐらいサービスしてやらあ。無事に戻ってきた祝いも兼ねてな」
「おっ、今日のオッサンは気前がいいな」
ファルクは声を弾ませ、手近なカウンターの席に腰掛ける。
「おれはいつだってサービス精神旺盛よ。ほら、そっちの坊やもな」
「あ、ありがとうございます」
礼を言ってファルクの隣席に座ったエルゼリンデの前にグラスが置かれる。薄紅色のそれはこの前とおなじ柘榴を搾った果実水だろう。
「ファルクは何か飲むのか?」
「昼間っから酒は飲みたくねえな。そいつと同じもんでいい」
彼は常緑色の双眸をちらりとエルゼリンデに向ける。
「ミルファークもここに来たことあったのか」
「は、はい……エレンカーク隊長に連れてきてもらって」
「ああ、なるほどな」
躊躇いがちに答えると、質問した当人は少しだけ気まずそうに頭を掻いた。
「そういや、昨夜カルステンスが来てな」
重たい沈黙が流れそうになるのをとどめたのは、酒場の店主のひと言だった。
「カルステンスが? 一人でか?」
「おう。そんなに長居はしなかったがなーーだから聞いたよ、エレンカーク隊長さんとシュトフのことはな」
「……そうか、あいつに先を越されちまってたか」
その呟きは微量の苦味を帯びていた。ファルクの「用事」は、彼らの訃報を馴染みの店主に伝えることだったのだろう。
「まさかあの二人がねえ。カルステンスもさすが落ち込むわけだわな。それに平民出身の有望株が二人ともとなると、アスタール殿下にとっても相当の痛手だろうしな」
やっぱ、戦争はいいもんじゃねえな。店主はそう呟きながら傍の籠から何かの野菜を取り出し、手際よく刻んでいく。
しばらく野菜を刻む音だけが店内を支配する。
初めてここに来た時のことを、否応なく思い出してしまう。エレンカーク隊長が珍しく上機嫌だったこと、「自分のことをもっと考えろ」と怒られたこと、隊長の尊敬していた先輩騎士のこと。まるでつい昨日のことのように、記憶はどんどん溢れ出してくる。
エルゼリンデが感傷に溺れてしまいかけたその時、それまで黙って果実水のグラスを傾けていたファルクが口を開いた。
「……カルステンスの奴、まだ腑抜けてんのか」
「腑抜けてるってよりは、どっか思い詰めてるような感じだったがね」
昼食を作る手は止めずに店主が応じる。
「ここにはシュトフと二人で来てくれてたからなあ。奴さん一人だと変な感じだわな」
やっぱりシュトフとカルステンスは仲が良かったんだな。エルゼリンデは改めてそう思って、ふと、かねてからの疑問を思い返した。
「あの、シュトフさんってどんな人だったんですか?」
それは以前ゼーランディアで、本人に直接訊いたほうが良いとカルステンスに言われたことだった。本人に尋ねる機会を永遠に失ってしまったその問いをファルクに向けたのは、カルステンスよりも答えてくれそうだから、という思いも少しだけある。
ファルクは唐突な質問を放ったエルゼリンデのほうをちらりと見やり、次いで店主にその視線を移す。
「あいつのことだったら、俺よりもこっちのオッサンに訊いたほうがいいんじゃねえか?」
「え?」
どういうことだろう。エルゼリンデは首を傾げる。
「シュトフはこの辺の出身って話だからな」
「奴さんはな、赤子の頃にフロヴィンシアを拠点にする隊商に拾われて、そこで育てられたのさ」
ここいらでは珍しい話でもなし、と店主が続ける。
「フロヴィンシアで」
意外な答えにエルゼリンデは目を瞠った。
「だからシュトフさんは現地の言葉が話せたんですね」
彼とザイオンの三人で馬具を買いに行った時にシュトフは現地語で会話をしていたし、フロヴィンシアの街に詳しかったのは、元々の出身地だったからなのか。
「その隊商の商人たちの話だと、シュトフは頭が良くて色んな地方の言葉を喋れたらしいな。むしろヴァルト語が一番苦手みてえなことも言ってたっけな。商才もあったからてっきりそのまま商人になるのかと思いきや、急に王都に行って騎士になるって言われた時はえれえ驚いたと。それもまだ12かそこらで王都に行っちまってなあ」
「あー、そういや騎士のほうが安定して金を稼げる商売だって言ってたことがあったな」
「げ、現実的だったんですね」
でもシュトフらしいと口元に小さく笑みを浮かべたところで、店主が昼食を出してくれた。小麦粉を薄く焼いた生地と数種類の野菜、炙った羊肉が皿に載っている。生地に具を包んで食べるらしい。
「ま、でも奴さんについておれが知ってるのはそれくらいだな」
あとはフロヴィンシアで誑かした女の数くらいか。店主は葉巻に火を点けながら笑った。
「あいつは口から先に生まれてきたような奴だったくせに、自分のことはほとんど話さなかったからな」
ファルクが面白くなさそうに鼻を鳴らす。
「死に様も晒さねえってのはいかにもシュトフらしいけどな」
「……」
エルゼリンデは彼の横顔を見やり、それから申し訳なさそうに目を伏せた。
「……すみません、変なことを聞いてしまって」
「べつに話したくなきゃ話さねえし、気ぃ遣ってんじゃねえよ」
そう言って彼女の頭を小突くと、ファルクは昼食に手をつけ始めた。
「そういやファルク、そのシュトフから聞いたんだが、お前さん親衛隊員になったんだってな」
またも店主が話題と空気を変えてくれる。
「その口と態度の悪さで大丈夫なんかね」
それは密かにエルゼリンデも気になっていたことだった。親衛隊員といえば実力はもちろんのこと、品行方正であることが求められる身分ではないか。彼が言うには今回の会戦は親衛隊員として参加していないらしいが、それにしても「品行方正とは?」と首を傾げたくなってしまう。
二人から似たような視線を向けられて、ファルクは憮然とした。
「言っとくけどな、俺が自分から志願したわけじゃなねえからな。閣下がな、俺の態度があまりにも悪すぎるからちょっくら勉強して来いっつって強制的に異動になったのであって」
「ははあ、ローゼンヴェルト将軍の親心ってやつかい」
「どうだか。体良く厄介払いしたんじゃねえのか」
「まさか。今さらそんな回りくどいことするなら、とうの昔に見限ってらあ。なあ、問題児さんよ」
「おいオッサン、今は上に元、がつくからな」
も、問題児? 騎士と元騎士二人の会話を聞きながら目を丸くするエルゼリンデに気づき、店主の方が含み笑いをしつつ補足してくれた。
「ファルクはな、子どもながら鳴り物入りの問題児で騎士団入りした逸材でな。入団当初からずっとローゼンヴェルト将軍が教育係で面倒見てたってわけよ」
「な、鳴り物入り……」
「おれが話に聞くだけでも、あの侯爵様じゃないと手に負えねえわってくらい酷かったってなあ」
「……まあ、確かにあの頃の俺は言い訳しようのねえクソガキだったな」
元問題児は顔を顰めながら首肯した。店主の話によると、しょっちゅうローゼンヴェルト閣下や他の先輩騎士のみならずアスタール殿下にまで反抗したり、誰彼構わず喧嘩を売ったり訓練をサボったり脱走したり等々、それはそれは見事な問題児ぶりを発揮していたようだ。そしてその度に教育係にボコボコにされていたと。
「まったくな、アスタール殿下ですらよく飽きないなって感心するくらい、毎回毎回ボコられてたからな」
「ぼ、ボコボコ……」
あのローゼンヴェルト将軍が? 普段の柔らかな物腰と結びつかない不穏な単語にエルゼリンデは唖然としてしまった。そんな彼女を横目で一瞥したファルクが意味ありげにニヤリとする。
「ローゼンヴェルト閣下はな、それはそれは怖ーい人だぞ。なんせ騎士団内で魔王なんて渾名が付いてるくらいだからな」
「ま、魔王……」
勢い余ってこちらに向き直ったファルクの物言いに気圧されて、背中を反らしながら呟く。前にザイオンから戦場では人が変わるらしいとの噂を聞いたことはあったが、そこまで凄いのだろうか。
「侯爵家の家庭教育の賜物で女と子ども相手にはご立派な紳士様だから、お子様扱いされてるお前にはピンと来ないかもしれねえが。団内じゃ笑顔を向けられただけで恐怖のあまり失神した奴もいたし、殿下との殴り合いの喧嘩でも勝ち越してるって噂もーー」
「おっと、この問題児の言うことを真に受けちゃあいかんよ、坊や」
エルゼリンデの顔色が変わっていくのを見た店主が苦笑しながら割って入る。
「普段は見たまんま、優しくて穏やかな御方だよ。ただ仕事となると厳しいだけさね」
「は、はあ……」
というか、アスタール殿下と殴り合いがどうのこうのって衝撃的な話が聞こえたような……エルゼリンデはファルクを見上げたが、何となく聞かなかったことにしておきたかった。今日は衝撃の事実が多すぎて、これ以上詰め込まれたら熱を出しかねない。
「厳しすぎる、が正解だけどな。訓練であれだけ地獄を見せることができるのは一種の才能だよなあ……いつか絶対、あのスカしたツラに一発お見舞いしてやるって気合いだけで乗り越えたようなもんだ」
「ほお。そんで、その一発はお見舞いできたのかい?」
「……それは聞かないお約束だぞ、クソジジイ」
ファルクがじとりと睨みつけてくるのを、騎士団上がりの店主はあっさり笑い飛ばした。
「何にせよ親衛隊に入れるまでに更生できたってえのは良いことじゃねえか。さすがは王弟殿下の右腕と言われる御方だけあるな」
「閣下の評判を高めるダシにされちまったようで気に食わねえけどな」
声こそ不満気だが表情を見るからに満更でもなさそうだ。表現の発露こそ違えどザイオンとエレンカーク隊長みたいな関係だな。訓練で幾度となくエレンカーク隊長に鋭く打ち込まれても厳しい言葉をかけられてもめげずに向かっていったザイオンと似ている気がしたのだ。それに思い至って、そうして不意に隊長の顔が瞼の裏に甦ってしまい、エルゼリンデは僅かな胸の痛みを感じて俯いた。
「あんまこの話してると、噂をすれば何とやらでご本人が登場しかねないな」
そろそろ出るか、と立ち上がるファルクを見てエルゼリンデもはっと顔を上げて席を立つ。
「ご馳走さん。またこっちに来ることがあれば邪魔するぜ」
「おう、道中気をつけてな」
彼女もご馳走さまでした、と頭を下げて彼にならって踵を返そうとしたところで、ふと店主に呼び止められた。
「坊や、ミルファークと言ったか」
「は、はい」
店主は葉巻の火を消して、厳つい顔を彼女の方に向ける。その両目が容貌よりもずっと穏やかなことが少しだけ意外にエルゼリンデの目には映った。
「……隊長さんのことは、残念だったなあ」
視線と同じ声音でエレンカーク隊長の話題を出され、どきりとしてしまう。
「だがな、人間はいつか必ず死ぬもんだ。あの人もそれは重々分かってただろうさ。なのにお前さんがいつまでもそんな顔をしてたら、隊長さんもおちおち眠っちゃいられねえだろ」
「……」
なるべく表情に出すまいと頑張っていたが、筒抜けだったようだ。
「ま、すぐには難しいし爺の戯言と思って聞き流してくれていいがな、しっかり食ってデカくなって、隊長さんを安心させてやりな」
「安心させる……」
「おうよ。エレンカーク隊長さんみてえに後ろ暗いところのない大人になりゃ、当人もひと安心ってもんよ」
大人になる。エルゼリンデは胸中で反駁した。大人になれば、エレンカーク隊長が見ていた世界に近づけるだろうか。
「んで、大人になった暁にはウチに酒でも飲みに来てくれりゃあ言うことなしだ」
「結局営業かよ」
黙って聞いていたファルクが小声で突っ込んでくる横で、エルゼリンデは目元に力を込めながら頭を下げた。
「……ありがとうございます。必ずまた来ます」
お酒が飲めるようになってるかは分からないですけど、と顔を上げて肩を竦める彼女に、店主は静かに微笑んだ。